目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ショーペンハウアーと共に考えるー参ー


カントは現象と物自体を分ける二元論を構築したがショーペンハウアーは現象は意志の仮現であるとして其の二元論を引き継いで居る。

其の物自体とは理性の限界領域を表すものでもある。

何故なら物自体を認識することは出来ないからだ。



然し物自体を意志とすることである程度まで理性の限度の解除を行ったことがショーペンハウアーの論理の多分に文學的でもあるところだ。

事実ショーペンハウアーの母親は小説家でありそこからしショーペンハウアーが文學から諸の影響を受けて居たであらうことは否めない。

さうした意味でのショーペンハウアーの哲學からは何となく実利には傾かない藝術性のやうなものを感ずる。



尤も其処が我慢のならない人などは飛躍が多いなどとして否定される向きもまたある。

が、わたくしに限れはむしろすんなりと受け入れられた。

そして重要なことはショーペンハウアーの主張は所謂生の哲學に分類される点である。




生の哲学(せいのてつがく、: Lebensphilosophie: philosophie de la vie: philosophy of life)は、デカルト心身二元論的な知性や理性に限定された我々の存在を超克、それより先んじて非合理的な我々の生そのものへとアプローチしていく精神史の思潮のひとつ。

生の哲学は哲学のひとつの立場ともいうが、当初この動向は、ニーチェキルケゴールなどの文学的な体裁を借りた思想的エッセイとして現れ、彼らは生前中ほとんど正当な哲学者としてはみなされておらず[1]ヴィルヘルム・ディルタイの『体験と詩作』(1905)やゲオルグ・ジンメルの数多くの哲学的エッセイなどにその影響を残すにとどまっていた。
キルケゴールは、カール・ヤスパースカール・バルトパウル・テリッヒマルティン・ハイデッガーらの評価によって初めて、そうした哲学の立場があったものとして20世紀に至ってようやく広く承認を受けるに至ったのであり、その点の事情は、ニーチェも同様である。したがって、生の哲学の歴史は、時系列で並んでいるものではないといえる。以上より引用



近代はデカルト的な合理的思考から始まるが其の合理主義は我我を真の幸福へは導けない。

今や誰もが行き過ぎた金儲けだの成果主義だの進歩思想が誤りの思想であること位身に沁みる形で分かって来ていやう。

ところが其の間違いを間違いだと素直に認められないおバカな人類が今此処に居る訳である。



其のおバカは何故おバカなのかと云うと結局合理主義が自分のことを利口だと勘違いして居るからにほかならぬ。

其れもほとんどキチ外級のおバカなので地球は壊すわ神は殺すわ性的逸脱に耽溺するわで即ち其処でやって居ることはまるで犯罪者並の非理性的領域である。


なのに自分は利口でカッコイイなどと思ひ込んで居る。

ほんたうはおまへこそが最低のバカでしかも永遠に救われぬマヌケな存在だ。


宇宙一厄介で極悪非道な犯罪者であるとこれまでに我が何度も言って来て居やう。

だから人間が悪いのではなく其のデカルトヘーゲルのアホに傾いた人間の心のあり方の方が最悪じゃ。



尚其のヘーゲルのライヴァルがショーペンハウアーであったが、其のヘーゲルの講義はとても人気があり対するショーペンハウアーの講義は閑古鳥が鳴いて居たそうな。

どだいショーペンハウアーのこんな仏教みたく暗い話を当時の欧羅巴の学生がまともに聞いて居られる筈などもない。

当時の欧羅巴の知性にとってはショーペンハウアーはもうほとんど異常者であり、おまけに女の敵なので結局女にはモテないわ、おまけに母ちゃんは掃除をしないわでただし裕福な家の出だったので否定はされても生き抜いていけた。



ところがショーペンハウアーの厭世思想は後の多くの思想家に決定的な影響を与える。

特にかのニーチェの文學的哲學の形成には大きく寄与するに至る。



ショーペンハウアーの主張を読むと何処かしら優しい、生に対してあたたかく包む感じがするのは全く不思議なことである。

其れはショーペンハウアーが究極の世捨てを目指して居たこととも無関係ではあるまい。



ショーペンハウアーは生に対して最もあたたかな眼差しを持つがゆえにこそ悲観を勧めたのだ。

其のやうに文學的哲學は其れを行う余裕=人文としての知性があるとわたくしはさう見る。


さう文學の力とは死を死で終わらせない力のことだ。



ところが合理主義に毒された社会は死が死でそのままに終わる社会のことだ。



非合理的なものをあへて引き受ける知恵、謂わば其れが文學の知恵である。

してからに文學の知恵とは菩薩の知恵にも等しいものだ。


第一慈悲とは、ただ表面的に優しいと云う事ではない。


内面的にまさに死ぬか生きるかと云う所まで悩みに悩んだ其の時に其の菩薩の側から投げかけられし憐憫の情にようやく気付くことが出来やう。


元より慈悲とは愛ではなく蔑みのことだ。

我我欲望の徒に対する蔑みのことである。



どうも最近はキリスト教と仏教が一緒くたになって仕舞って居り其れでカン違いして居る向きがあるやうだが慈悲とはある意味で我我にとってのとても冷たい見方のことなのだ。


だが其処まで行って初めて菩薩の慈悲や神の愛を理解することも出来やう。



ショーペンハウアーは生の価値として藝術を最大限に持ち上げても居た。

特に音楽などはベタ褒めである。

ショーペンハウアーの主張はまさにエッセイを読むかの如くに話の流れがありそして決していかめしくはなくむしろ慈愛に充ちて居る。




ただ女性をあれほど攻撃して居るのは矢張り女性の本質を見据えた上での意見だったのだらう。

どだい少なくとも現代のやうには女性を合理的に割り切れるものではないことだらう。

本質として女性は生を開闢させる聖なるものであると同時に苦の坩堝へ命を投げ入れる悪魔そのもののことだ。



だから結果的に女性の欲望が世界を滅ぼすことともならう。

其の邪な欲でもってして地球の生態系を攪乱しかつ破壊し人間を百億にまで膨張させ自滅させるのはほかならぬ女のせいである。

だから兎に角反省が必要だとあれほど何遍も言って来て居るではないか!



だから近代と云うものはまさに其の女の欲を成就させる為の男の仕事じゃった。

本来ならば男はもう少し違うことを考えて居らうがつひレデーファーストで来て仕舞ったことがまさに悔やんでも悔やみきれない部分である。



其れで其の欲望、コレが意志であるとのことだ。

盲目的な生への意志=性への意志=女の欲がまさに罪深き生を開闢せしめ衆生に諸の苦を与え給う。


其の苦である、と云う部分こそがショーペンハウアーが印度哲學から学んだ最も大事なことであった。




「現象の根底にあるものは盲目的な生きようとする強い意志である。意志であるが、それは欲望と同じように解釈され、永遠に満たされない欲望を追いかける故に、人生は苦悩に満ちている。」
   

何故苦しいのかと云うに、其れが欲望に基づいた意志だからこそ苦しひのだ。

ところが欲望の無い意志と云うものがそも現象世界にはない。


無論物自体の世界へ行けば欲望は無い。

ですが其処では現象ですら起きて居ない。



完全にひとつでしかも無限。

有限の現象界とはそも異なるので欲望など無い。


ところが生きることとは性欲と食欲なのでズバリ其処は低級だ。

其処では低級地獄へ堕ちて居ると言えぬこともない。



ちなみに女の欲の醜さとは性欲と食欲をつひ高級化したがることだ。

其れでもって高級な料理屋などへまた仏蘭西料理店などへ兎に角行きたがる。

そして其処で背の高いハンサムな男に口説かれたひなどとも思って居る。



さういう高級こそが実は低級なのである。


だから近代の高級とされる価値は皆低級なのであーる。



第一おまへはそんな虚の白雪姫になどまだなりたひのか!

そんな有害な夢など見ずまずは女中奉公へ行き早うかの星 明子にでもしかとなるべきだ。

まあたとへやり逃げされても其の子を立派な宗教家にでも育て上げなさい。



科学は女の快適を世に実現する為に拵えられしもので謂わば堕落の象徴である。


このやうに欲望の本質には女が絡んで居り実は男性の欲望はそれほどのものではなくただ女を常に組み伏せていたいと云うことのみである。



なので近代の欲望こそが女の欲望そのものである。




さてこのやうに意志とは欲望である。

で、本来は女の方がより罪深き欲望を有して居らう。

と云う事は其の意志が強いと云う事じゃ。


とんでもなく強い意志があり其はまるで石のやうな意志じゃ。

其の意志がほぼ間違いなく女の子宮の奥の暗闇と繋がって居らう。

いや、其れそのもの、子宮の奥の暗闇=盲目的な生への意志である。



まさにまさに盲目的な其のひとつの意志が、石をも貫く其の生への強欲な意志が此の世界を主なのか客なのかもはや分からぬやうな欲にまみれし有様の世界を生み出しても居らう。


其の通りに産んだ。

さう、たった今産んだ。

おぎゃあと生まれて苦の牢獄へと其の永遠に続くかのやうな苦の階梯へと全てを引き摺り込みつつ生まれた。



嗚呼ー、もう汚らわしいことこの上ない。

欲があるから意志があり、意志があるから子宮化する。


全部が子宮で全部が欲だ。

嗚呼ー、早う逃げ出したい。

一刻も早う此の世界から逃げ出したい。



ところが意志は滅びることがない、つまりは無限で、と云う事は其れは物自体なのだ。


「現象は意志としての世界である。意志は世界最深の本質である。意志とは、もともと衝動や欲求であり、タンタルス的な悩みが意志であり、充たされることは永久にありえない。」
   

充たされない意志=充たされない欲の成就の為にあへて其の為にこそ人間は今を生きて居る。


前近代は主に衣食住に於ける其の意志を貫き其れを達成して来た。

近代は人間としての主体性の確立を目指し同時により豊かになると云う過分なる意志を貫こうとして来た。

しかるに現代はニヒリズムと云う意志を生きて居るのである。



虚の意志、まさに虚無の世界に狂ひ咲く意志、其の成就の為に他の全てをかなぐり捨ててやって来た。

そうだ、つひにやっちまった。

やってはイカンことをやり切って仕舞った。



君は過分な意志を其処にやっちまって良いのかどうか一度でも考えたことがあったか?

いえ、イチイチ考えてなど居りません。

第一意志は盲目的なので理性なんぞ其処には働いて居りません。

もうまるで子宮の奥の暗闇そのもののことです。



なので、そんなもん、もうどうしやうもありまへんがな。

性欲や食欲ともうまるで同じことでんがな。


だから女はイカンとあれほど云うておっただらう。

たとへどんなに利口に見えても子宮の奥の暗闇は決まって皆同じ構造である。



そして子宮の奥の暗闇と意志は共に滅びることがない。

其れは物自体であり謂わば不滅の欲望なのだ。


ただしあくまで其れはショーペンハウアーの考えでわたくしの考えはまた少し違う。

わたくしは意志は分解=分離だと捉える。

意志そのものが分解であり分離である。


そして分解であり分離であること自体が物自体に対する犯罪である。

だから我我は皆等しく犯罪者である。

尤も其の中ではズバ抜けて極悪犯罪者なのがかの小泉 純一郎と竹中 平蔵である。