合理主義文明が放逐しつつあるもののひとつにたとへば読書による物事を考える能力の錬磨と云う事があらう。
読書しない、其れも大衆向けの週刊誌などは読んでも純文學は読まない、さらに宗教や思想関係の本など尚殊更に読まない。
然し人間の心に於ける錬磨はむしろ其処でこそ成らう。
元より欲望には知的な領域のものと本能領域のものがある。
だが此の知的な領域のものに常に縁して居る人の絶対数は残念ながら少ない。
大抵は本能的に生き其処で全てを済ませて居る。
だが逆に知的に生き過ぎると此の世は極めて生きにくくなっていく。
ややこしいことに其の知的な領域にも実はバカと利口の区別がある。
大体に於いて文明の奉ずる進歩思想に対して肯定的なのが知的バカの典型的な資質だ。
このやうにインテリだからと言って常に利口だとは限らないから其処は注意が必要だ。
良く云われるが如くに知恵と知識は違い知恵なきインテリは文明の主義主張に迎合して逆に偉い人だと思われて居たりする。
脳減る賞を取って其れでもって文明を進めたとすると其のインテリバカ共の為に世界が滅ぼされかねない。
現代文明はさうして限りなく精神の均衡を失いつつあることだらう。
何故なら其れは欲望を中心に据えた文明なのだから。
だが古来より文明は其の通りに欲望を追い求め推進されて来た。
つまるところ人間にとっての生の目的とは其の欲望の成就以外にない。
然し必然的に其れは行き詰まる。
限定即ち歯止め=抑制と云う要素が無ければ其の試みは自滅に至るほかない。
だから近いうちに文明は自滅するとわたくしは判断する。
其れは百年以内にさうならざるを得なくなるのだ。
そして合理主義はあらゆる分野で欲望を解放していく。
其れは知による制御ではなく逆に知による欲望の解放である。
自由主義と云う名の元での欲望の解放であり平等と云う名の元での欲望の解放である。
其の解放こそがやがては知をも破壊する。
抑制と云う限度を失いし文明、自らを律することの出来ぬ知性の流れが根本から其の知を抹殺するのだ。
そして何にでもバランスと云うものがあらう。
言うまでもなく本は読み過ぎれば悲観的になり易い。
即ち理性による抑制が効き過ぎて仕舞う。
然し本を読み過ぎないのもまた問題だ。
尚確かにわたくしはこれまでに多くの本を読んで来た。
だがそれも學者ほどの読書量ではない。
わたくしには幾つかの趣味があり、其れ等に時間が必要なので元よりそう大したものではない。
然し悩みだけは多かった。
だからわたくしの読書は常に其の悩みと連動する形で行われて来た。
其の悩みとの共鳴かまたは慰めであるか、さうまさにわたくしにとっての読書とは其の慰めそのものだった。
二十歳までには、太宰の本の数々と芥川全集を読破した。
四十歳までには、宮澤 賢治全集を読破して居る。
また三十歳までにSF文學を文庫本であらかた読んでも居る。
しかも若い頃は理系の本にまで手を出して居た。
さらに宇宙論に興味があり其の種の本を十冊位は読んだ。
また実は専門的な本にも手を出して居た。
正文館や丸善にて詩の専門書を買ったり詩集を取り寄せて貰ったりして居たものだった。
だから当時の読書量はまさに並のレヴェルではなかった。
むしろ三十五歳位から本を読まなくなり其れが五十歳位まで続いた。
そして再び読み始め、今は文明や社会に対して批判的な内容を含むものを中心に読んで居る。
其れも次第に読む本の数が増えて来て居る。
だが今の読書は目が弱くなり少しだけ辛い。
でも若い頃から目は悪いのでメガネ男であるのは昔から変わらぬ。
メガネ男は普通知的に見えやうがわたくしはまるで知的には見えない。
誰がどう見ても体育会系の体であろうが無論のこと其の中身はなかなかの読書家である。
さういうのをもう隠したりはしないのだ。
アホじゃない、アホじゃ、むしろ知性のカタマリだ。
宗教に関する書物は矢張り三十五歳位までに多くを読んで居る。
わたくしはとある宗教団体での人を教えることの出来る資格も持って居る。
尚読書に関しても合理主義は進んで居るのだと言えやう。
1.書店へ行かずアマゾンで本を買う
2.ゆえに書店及び古本屋が経営困難となり閉じられる
3.PC及びスマフォでもって本を読まない人間が増える
4.考える力の無い人間が世間に溢れる
合理主義がダメだと云うのは、このやうに知識の直接摂取ばかりに傾き考えない人間=アホ人間=飼育される人間=生きて居る価値の無い人間が続々と生み出されて仕舞うことにこそある。
生きて居る価値の無い人間とはまた酷いことを言うやうだがとりあへず今ここではさう言わせておいて下さい。
ズバリ其れは理性の無いバカ人間だと云う事じゃ。
理性と云うものは、其れも真の理性と云うものは自力でのお勉強でしか決して得られることのないものだ。
わたくしの場合は確かに学校でのお勉強もまた塾の先生としてのお勉強もかってはそれなりにこなして来て居る。
だが真のお勉強は以上に示したが如くに全部自分でやったことのみじゃった。
真のお勉強はまず本屋へ行きもしくは図書館へ行き兎に角半日くらいは時間をかけて立ち読み乃至は本の閲覧をする。
そしてなりふりかまわず読書に没入する。
其処ではもはや女もクソもない。
女にどう思われやうがまるで構わぬ。
さうではなく君の心が本を選び君の心が本から慰められる。
ただしエロ本の類は読むな。
金輪際エロを選んではならぬ。
エロ=女は排泄や食事と一緒で精神の涵養にはまるでならないものである。
そんなものと早く縁すればする程に君の脳内が其のやうな次元に統一され下品なことこの上ない人間に成り下がるほかない。
其のやうな理性にとっての危険な領域に決して与することなくまずは哲學書、コレをこそ読むべきじゃ。
兎に角哲學は面白いぞよ。
わけても相当に頭が良い感じがするのがベルグソンである。
それとハイデッガーも或は少し利口かもしれない。
実は今も一冊レヴィ=ストロースの専門書を一冊抱え込んで居るがまだ読めて居ない。
其のレヴィ=ストロースの専門書は専門店ではなく実は家の近くの本屋さんで買って来た。
其の本屋はいつもお客が居ないので自由に立ち読み出来てまことによろしい。
思想や哲學に強い本屋なのでいつも閑古鳥が鳴いて御座る。
エロはVHSだけあるが今さら誰が買うかそんなもん。
先日はNHKの方でのカミュのテキストを此処で買い込んで来た。
嗚呼、それにしても全く不条理な世の中である。
カミュも最高に不条理な死に方をしたが我が人生もいつまで経ってもとっても不条理だ。
レジにオバサンが居ておそらく其の人が経営者の妻なのだろう。
何だか昔の知り合いー塾の経営者の妻の方ーに似た感じで昔は良く居た少し知的な感じのメガネおばさんである。
其のおばさんに我は述べた。
確かにアマゾンでは本を買います、でもこのやうに哲學思想関係の本が置いてある町の書店は超レアーな存在だ。
もう、こんな文哲など、しかも趣味の文具箱など、そんなマニアックな世界でやって居る本屋はまさにオタクだけだ。
文明の飼育する即物人間にならぬやうこのやうな本の世界、其れも暗ーく独りで本を読む世界に引き籠らないとやがて理性は崩壊します。
わたくしは自称の詩人でかっては正文館や丸善にとっての御贔屓様でした。
もう本など食べる?位に読みましたが世界の真相はまだ何一つ解明出来て居りません。
しかも本屋が次々と潰れましょう。
アノ三丁目の本屋、存外アレが良かったのですがとっくになくなりました。
またほれ、オタクの横の古書店、あれもなくなりましたがおそらく百回は通って居たことだらう。
ちなみに古本は大層好きである。
兎に角全集が多くて困る。
其れも昔の岩波の奴とかが好きなので兎に角かさむ。
尚エロVHSは其れ以上にかさむので早う全部捨てた方がよろしい。
人生に於いて全集のひとつやふたつ位読破しなくて一体何のための人生だ?
わたくしなんぞは二十歳までにはすでに芥川全集を読み切って居た。
と云う自慢が兎に角したかっただけだ。