環境問題に関して最近のわたくしは其処でむしろ人間の心のあり方を考えるやうにして来て居る。
何故なら人間にとっての環境とは常に人間の心と自然の関係性でしかあり得ないからだ。
人間が生きるのは自然そのものではなく其の心と自然の関係性のみである。
即ち環境とは其の関係性のことを云うのだ。
すると環境が壊れつつあるのならばまさに心も壊れつつあるのである。
自然を破壊するのであればさういう心の領域に人間自身を縛り付けて仕舞ふからさうなる。
元をただせばつまりは心が悪いのである。
人間の心が悪いから環境も悪くなっていく。
さういうのは合理主義の考へではない訳だ。
合理主義とは其の合理化を推し進めて居る人間の心が悪いとは言わぬいや言えぬ立場のことを云う。
だから合理主義にとっては環境破壊が悪いのではなくましてや地球温暖化が悪い訳でもないのだ。
合理主義にとってはたとへ環境破壊や地球温暖化により文明が滅ぼうとも其れはタダ結果的にさうなっただけー謂わば運が悪かっただけーのことであくまで科学的な方法論自体が誤って居たのではない。
然し其れこそが誤りだ。
其の考えと云うか観念そのものが誤りであり悪魔であり地獄へ堕ちるべき唯一のものだ。
だから詩人は何故ここまで合理主義文明をクソミソに貶して居るのか?
無論其れは合理主義文明が腐って居るからだ。
腐っては居るがわたくしもゴルフはやりたいしカレーも食ひたいわであと十年ばかりは滅亡するなとさう願ふばかりだ。
腐っては居るが我もまた適度に腐って居るがゆえにどうか死ぬまでは生かして呉れと、即ち其処で生きて居る間ばかりは食いたひものを食ひやりたいことをやらせて欲しひ。
ま、あと十年程はまだ何とかなるのではないか。
ただし其の間に文明の期待値と環境との間に大きな隔たりが生じて来やう。
平たく言えば文明はまだまだこれからドンドン行きたい訳だが自然が壊れて来る分さうした妄想願望のやうなものが屡阻止されるに至ることだらう。
要するに欲だけは減らないのだが其の欲が物理的に封印されて仕舞ふ。
だがそんなものはまだ序の口で四、五十年後にはおそらく文明は崩壊するに至ることだらう。
だから我我は其の崩壊への序章をただひた走りに走って居る。
では何故だ?
何故そうなる?
其れは人間の心が常にドス黒く欲望に汚れて居るからだ。
第一君は家族が大事だらう。
しかも女に触りたひだらう。
其れはおまへもさうだらう!
違ふ。
今我はただひたすらに何かを食ひたひ。
そしてただひたすらに球を打ちたひ。
金属製の杖でもってアノ小さなゴルフボールをただ一日中打って居たひ。
何処がそんなに良いのだ、そんなたかがゴルフの練習が。
君にはそんなこと伝へられない!
どんなに気持ち良いことか。
其の会心の当たりの気持ちよさが。
ちなみに有料レッスンは今丁度受け付けて居ります。
生徒さんは三名までで年収によってレッスン料が異なります。
もし年収二千万円の方でしたらレッスン料は税込み月廿万程でまさに手取り足取りでもって教えてしんぜやう。
だから其の欲望は抑えられぬ。
人間は欲望を抑えられない性悪な生きものです。
性悪でしかも頭が悪ひのです。
何故ここまで頭が悪ひのだらう。
其れはわたくしにも皆目分からない。
ですが、頭は悪くても実は構わないのです。
心が悪ひのがいけない。
頭が悪くて心が悪ひと最悪ですが往往にして其れはあり得ます。
であるから心を正しませう。
なんとなれば世はまさに依正不二である。
では環境保護の為にゴルフを捨てられるのか?
大好きなカレーライスをたとへば週に一食に限定出来るのか?
出来ます。
いや出来ません。
だから女を断って居ります。
其の代わりにバクバク食ひポンポン球を打って居ります。
どだい人類の論理とは所詮はさういうことです。
今まさにドンドン豊かになることでドンドン自然を破壊して居りませう。
でも絶ったと言って居ります。
世界大戦を絶ち前近代に於ける迷信をそして病気を絶った。
でも逆に欲望が肥大化致しました。
止めろと言って居るのに止められません。
止めよ!
と言われても止められません。
だから宗教は止めよ!と常に諭しますが実際には止まらない。
性悪で悪魔そのものである人間とは所詮はさういうものであるに過ぎぬ。
やめられないーとまらないーかあっぱえびせん♪
ちなみにかっぱえびせんをもう十年程も食って居なひ。
環境を修復したいのならまず心を治しませう。
其の心の治し方に就いてわたくしは多くの時間を割き述べて来て居た筈です。
人文主義に立つ立場上さう述べて来て居ります。
然しあくまで合理的には、科学的または科学技術的に破壊を阻止する他はない。
丁度高度経済成長の頃の公害を科学技術的に制御していったことと同じやうに何らかの温暖化対策を講じなければならない。
ま、其れも所詮無理でしょうがね。
重要なことは環境と内面は一体不可分の関係にあると云う事です。
しかも其れが個と社会の領域に於いて共に成り立つのです。
ただし仏法に於いて規定するところでの内面の浄化は個の領域に於けるものです。
何故そうなのかと云うと、所詮は個が環境を生じさせて居ると仏法では考えるからです。
だから世界が悪いのではなく、其の悪い世界に縛り付けて居る自分の心が悪いのです。
さういう真理と云うか世のカラクリが分かると人間は其処で初めて無明を脱し明知を得るのです。
心の浄化の階梯に於いて最終的には其の悪い世界に対する縁=執着を悉く断ち切っていきます。
ですから酒でも女でもギャンブルでも皆同じやうな煩悩として捉へひとつひとつ消していく訳です。
オイオイ、女と酒だのギャンブルだのは別物だらう。
第一女は愛だらう、しかも母ちゃんは決まって女だ。
いや、同じです。
事実釈迦やキリストは女なんて人間だとは思って居ませんでした。
むしろ悪ひもの、此の世に命を齎す何かとても悪いものとしての認識であり扱ひでした。
だから女もゴルフもカレーライスも皆一緒です。
初期のキリスト教は肉体を忌み嫌い女を足蹴?にするまさにカルト宗教の如くです。
愛、コレは確かに愛を語る詩人としては是非おさえておかなければならない部分ですが最近はもう面倒臭いのでとりあえず女から愛は取り除いて考えておきますね。
其の環境と云うか世界のあり方が時の経過と共に悪くなることに実は普遍性があります。
と云う事は多分どこでもさうなんです。
物理学の方では多世界解釈だの、多元宇宙だの世界がひとつではない解釈の方がむしろ現実味を帯びて来て居りますがどうも其れは多様なあり方の世界ではなく皆同じやうに悪くなる世界のやうだ。
ひとつの説として宇宙人が居ないのは皆同じやうに進化して自滅し地球にやって来られないからだと云う考え方すらあります。
炭素型生命であろうとそうでなかろうと皆同じように文明の末期に於いて自然と対決ー戦争ーをして滅びて仕舞うのだそうな。
どうも其れがほんたうのところではないかとわたくしには思われてならない。
其の世の劣化はむしろ進化=進歩により引き起こされて居るものだ。
即ち一見良くなる訳ですが宗教は逆に其れを悪くなると捉えて居るフシがあります。
なので釈迦は心を浄化することで世界から消滅する=解脱することを説きました。
キリストは此の世を悪魔の仕業の世であるとし心を浄化して神の世界へいくべきだと説きました。
どうでしょう?
世の捉え方自体はほぼ同じです。
そのままでは悪魔化せざるを得ない世界=環境であることこそが真理領域に於ける世界解釈なのです。
あくまで人文主義的にはさうです。
ですが合理主義の誤りとは、逆に世界はドンドン良くなっていくなどとも言って来て居ります。
でもおかしいでせう、其れは!
良くなってないですよ、第一自然は壊れるわ地球は温暖化するわでどう見てもまともじゃないですよ、こんなものは。
なので頭がおかしいと言うほかないでせう。
もしや気がお狂ひなのではありませんですか?
とでも申すしか無い。
とのことで、所謂依正不二とは申しましても、実際には其処に深くしかも微妙な問題が含まれて居ります。
どちらかと申せば合理的には其の負の過程としての生のステージであることは変えやうのない真実であり、其処で心を変へて環境を変へるだの何だのと云う事は余り意味の無いこととあくまでならう。
即ち散逸過程としての人間の営為=文明は行きつくところまで行くほかはなく自滅を防ぐまたは先延ばしにするには其の高度な文明力でもってして其れを行うほかはない。
ですが心理的にはあくまで改変が可能である。
其の世界の劣化乃至は破壊過程を押し止めることは出来なひが自ら心を変えることにより人間自身がそんな物質的世界の呪縛を離れることも可能だ。
依正不二とはこちらの方での原理のことを述べて居る訳なのでして、だからこそ其れは合理的な世界解釈ではない部分から齎されるところでの滅亡回避のシナリオなのです。
なので女を断つ、いや、まさにコレは素晴らしいことです。
ですがカレーライスとゴルフは断てませぬ。
さて皆様は何を絶ち、そして何を奉ずるのか。
文明は何を絶ち、そして何を奉ずるのか。
いや文明は何も絶ちません。
今まで通りにブオーンと車を走らせキィーンと飛行機を飛ばしもはやウルサイことこの上なし。
そして文明が奉じて居るのは明日はきっと良くなる!と云ふ原理的な間違ひそのもののことです。
実際良くなってません、何も。
むしろ心は冷え込んで来て居りませう。
暑ひ!だが冷えて居る。
と云ったところでせうか。
ところで女は何故文明が好きなのでせうか。
うーむ、其処こそが最大の謎だ。
或いは此の世の究極の問題なのやもしれぬ。