目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

樂園への遁走ーⅡ さうして「アタラクシア」を求めしゴーガンの繪画ー

繪画3

 

 

 

さて其のゴーガンによる樂園の希求は眞の意味での天國の発見には繋がらなかった訳です。

が、其れは藝術的な意味での樂園の定義にはしかと成功して居たのではなかったか。

 

即ち其れは社會が齎し得る「幸福」の定義のやうなものを個がし直したと云うことだ。

つまりゴーガンは藝術的欲求によりまさに其のことを模索したのだと言える。

 

藝術的欲求とはむしろ本能の方により近いものですが其れが社會的放棄を含むものでもまたあるが故に其の文明の価値観とは全く別の面から「幸福」の意味を探り其処に再定義することさえもがさうして可能だ。

 

ですが文明内で汲汲としつつ生きる文明人には哀しい哉其のことがついぞ見えては来ぬものだ。

尤もそりゃあ当たり前のことです。

 

 

其れも學校だの會社だの妻だの子だのにさうして日々雁字搦めにされて居りましてはそんなデカいことが見えて来る筈も御座りません。

故に其れを意識的にESCAPEして行かねばなりません。

 

但し其れは藝術家か又は宗教家だけがと云うことです。

まあ哲學者などもまたある意味ではESCAPEをして居りませうが彼等は彼等で本を出したり大學へ勤めたりして居る訳ですので其の社會とは縁が切れぬと云うジレンマをも抱えて居ることだらう。

 

だから其処は詩人の方が、其の貧乏詩人の方がよりESCAPEをし易くたとえば宇宙の果てまで逃げて行くことさえもが實際に可能であらう。

第壱現代詩人の訳の分からぬ現代詩などを読んで居るともはやこいつらは違う宇宙に住んで居るのだなと思うことなどもまた屡です。

 

ですので現代詩人の其のぶっ飛び方は百年前の画家なんてものじゃあ基本的に無い。

ですが其処をやりますともう意味不明な言葉ばかりを叫び続ける=ほぼ狂気の世界か?と必然としてなりませうからソコをぐっと抑えて何とかまともなことを述べて行くのが其の詩人としての仕事なのでせう。

 

 

で、藝術家の本能からさうしてESCAPEしてみました。

其れも南國の樂園へと飛んでみました。

 

すると其処には美しい自然と素朴な👩共が居た。

 

ところがゴーガンは何より性欲が強くありさらに周囲と衝突をすることが何せ得意ですので次第に其の生活自體が追い詰められて行く。

其れでも他にやることが無いので絵だけを描いて居りましたところ其処に「人類とは何か?」と云うまさに哲學的で且つ宗教的な究極としての課題に突き当たって仕舞う。

 

即ち其れこそがかのゴッホにも決して訪れなかったことであらう人間社會としての究極の命題であり課題のことです。

だからと言って其のゴッホゴッホでもってもっともっと人間的且つ切實な課題を抱えて居たことだらう。

ゴッホゴッホでもって其の人間とより誠實に向き合い其れとの軋轢に懊悩して居たことだったらう。

 

ですが、ゴーガンに限ればそも社會が嫌いなのです。

そもゴーガンは西欧近代文明を「馬鹿」だとさう思って居るので頑なに其れを心底からバカにし認めても居ません。

 

さても其処は何処ぞの方と何だかとても良く似て居るやうな気も致しますが…。

さうですね、或は僕の御先祖様だったのやもしれませんね。

 

 

ゴーガンの隠し子が南洋の國の何処かに居て其れの子孫が日本へと渡りわたくしの祖先となった可能性もまた御座りまするが故に。

 

第壱ゴーガンはゴッホのやうに「人の役に立ちたい」などとは金輪際思って居ません。

また僕も「人の役に立ちたい」などとは金輪際思って居ません。

 

さうか、其の自己中心的で身勝手で且つ社會をバカにするところこそがかうしてソックリなんだ。

 

でもそんな困った人間であるゴーガンがやったことで最も価値あることがさうして妻子を捨て南海の楽園へと逃げたことでした。

其れも其の文明放棄を弐度も企てたのですから彼の文明批判はまさに筋金入りのものだったのです。

 

さうして藝術を為すと云うことは壱般的価値とは違う道を歩むことなので当然彼がやることもまた違って見えて来る訳だ。

つまり世間と同じやうな価値に生き「まあ、コレいいわねえ、きれいだわ。」などと言って居る位では其れは眞の藝術では無くまるでウンコ藝術のやうなものです。

 

 

なので、ほんたうの藝術と云うものは實存が死に向かい歩み寄って行く其の過程をこそ述べるものだ。

もうそんな戦前の藝術の価値観などは今は通用しない筈ですよ?

 

さに非ず。

お前の如き下賤の者には其れが分からぬだけの話だ。

 

昔はな、藝術家は総じて「精神の貴族」だったのだ。

だからゴッホもまたゴーガンも其の「精神の貴族」だ。

 

其れも其の藝術家の逃げ、つまりは遁走こそがな、其処に不滅の価値を生むのだおお其の価値こそが藝術の不滅であらう。

つまるところ人間の営為や財産は其れはあくまで現世利益でのもので其れは本質的には虚的価値ですが藝術的価値や哲學的、宗教的眞理は基本的に其の永遠性を対象とする上での価値です。

 

 

其の永続的な価値、非現世利益的な価値に対し現代人は概ね弱くなって来て居る。

むしろ其の進歩の概念によりまさにソコが曇らされ酷く感度が落ちて来て居ることだらう。

 

其のやうに人間や文明に於ける大きな捉え方、より本質的でより根本的な問題に就きもほや考えられなくなりつまりはさう文明に洗脳され続けて来て居る。

 

すると彼ゴーガンは其の樂園希求に就き破れたかに見えまさに其のことを成し遂げたのですね?

さう其れはすでに其処に成就されたのだ。

 

彼は其の抽象的拡張主義を批判し具象的樂土へと至ったのだ。

どんなに見た目には惨めでしかも孤独のうちに死んだにせよすでに其れは為し遂げられても居やう。

 

此の世にはさうして目には見えない価値がある。

其の目には見えぬ価値はあくまで個としての心が組み上げるものだ。

 

 

其の藝術や哲學的思考、また宗教的眞理に於いて重要とされるものこそが其の功利性を離れた思考であり価値の醸成のことである。

時を超越する思考、時を超越する価値とは其れ即ちそんなものにこそよるものだ。

 

まさに其れは進歩主義なる唯物的でしかも瞬間的な便益の最大化のことなのでは無い。

逆に其の進歩を滅し初めて其処に見えて来ることだらうまさに永遠なる幸福の園であり価値の群れのことだ。

 

するとゴーガンは👪を捨ててまでして其の永遠なる浄福を求めて止まなかったのか?

事實として彼はキリストやマリアを屡描いて居た。

 

 

彼には何よりさうして信仰の思いがあった。

だが文明もまた教會をも結果的に大批判することとなる。

 

さうしてつい批判が過ぎて裁判をも抱え現實的には正妻にもまた現地妻にも逃げられ次第に體が死んで行く方へと向かって行かざるを得ぬ。

でも彼は結局其の自然の内側にて死んで行った。

 

文明や妻の内側では無く己が希求せし樂園のさ中にさうして往生したのである。

 

さても其れ程幸せなことが他にあらうか?

君等なぞ所詮は畳の上で死ぬることを乞い願うばかりなのであらうが彼の場合は南海のあばら家での孤独死なのだぞよ。

 

嗚呼、何て素晴らしい死に様なのだらう。

まさに其れは詩人や画家にとり如何にも相応しい死に方だとしか言えぬではないか。

 

 

ゴーガンが其の樂園の希求に就き苦しんだのはおそらく神の不在では無く別の神が其処にしかと存して居たことではなかったか?

 

かのキリスト教が現世としての樂園を認めない。

まさに其のことは正しい。

されど欧羅巴の文明はむしろ其の現世としての樂園をむしろ壊し続けて来て居る。

 

其の矛盾にこそ苦しんだ彼ゴーガンはまさに己の死を賭して文明を諫めやうとでもしたのか?

さには非ず。

 

何故なら藝術はあくまで社會を直す為のものには非ずして。

では何を其処に成し遂げたのだ?

 

樂園の記録をこそ其処に描き留めた。

まさに樂園の記憶をさうして其処に描き留めたのだった。

かように藝術とは其の作品が全てなのである。

 

 

むしろ批判もまた愛も悪夢も全てが其処にある。

彼ゴーガンは樂園としての藝術を其処に完遂させ還暦よりも少し前に死んで居る。

 

藝術とはまさにさうしたもので、其れは哲學でも宗教でも無く只作品なのである。

 

 

尚此の度わたくしは多くのゴーガンの作品をネット上に多く観ることとなった。

其の感想を述べれば其れは「地上の樂園への敬意」であり「土地の記憶への崇拝」である。

 

其処に於いて彼の眼差しには些かも尊大なまた利己的な部分が認められぬ。

さう此れは眞實を見詰めた者のみが描き得る内面的平和のことであり其の静けさと調和の様なのだ。

 

彼はもしや其の心の安らぎを「限定」することでこそ見出して行ったのやもしれぬ。

欧羅巴と云う文明世界を否定し南海の國國へと彼の価値観其のものを「限定」することで。

 

 

さらに妻を捨て愛の対象を現地妻へと「限定」することで。

然し所詮其処では👩の性が暴れ出し彼はまた独りとなる。

 

だがおそらく彼の目には確かに映じて居た筈である。

神が与えし此の世の美が、其の南海の自然が用意せし安らぎの場が。

 

さうして其れは現世利益としての美には非ず。

まさに其れは永遠化されし彼だけの美なのである。

 

 

ポール・ゴーギャンの作品一覧 - Wikipedia

 

特にこちらからはまた新たに多くを學んだやうな気がして居る。

ちなみに此処でもわたくしが壱番好むのが果物を描いた静物画である。

『果物のある静物』 1888 Paul_Gauguin_119.jpg (2520×1896) (wikimedia.org)

 

さらに人物画でも果物を持って居るのが個人的には良いのである。

『マンゴーを持つ女(ヴィヒネ・ノ・テ・ヴィ)』1892 Paul_Gauguin_126.jpg (2193×3570) (wikimedia.org)

『果実を持つ女(エウ・ハエレ・イア・オエ)』1893 Paul_Gauguin_128.jpg (2602×3304) (wikimedia.org)

 

『白い馬』 1898 Paul_Gauguin_034.jpg (2024×3153) (wikimedia.org)

以前から好きな繪なのだが何故かは知らぬが此の白い馬には死のイメージが重なるとされても居るやうだ。

『白い馬』 ゴーギャン | ネット美術館「アートまとめん」 (artmatome.com)

なる程、かうしてゴーガンが自決に失敗した後に描いた作品でもあった訳だ。

 

ゴーガンの作品は年月を経るにつけ洗練の度が増して行き後期の作品、とりわけ晩年のものはとても良くなる。

其のことが今回初めて了解されたのであった。

 

 

ちなみにゴッホの場合は人物画が特に良いと思われるがしかしながら其れに負けず劣らずゴーガンの人物画の方もまた良い。

其のゴッホの場合は人の為に生きたいと云う犠牲精神か又は布施思考が其処に刻まれて居るのだがゴーガンの場合は其れとは違い欧羅巴の文明や人を批判的に見詰めて居る分其れを取り戻さうとして未開人への愛を其処に発揮して居るのであらう。

 

ゴッホは気が狂う程に眞面目だがゴーガンとひとつ違うのが其の批判精神の有無なのであらう。

ゴーガンは文明社會を懐疑的に見詰めて居る分、より変わり者でより反体制で即ち社會的にはより苦しかった訳だがゴッホはまた其れよりも自分の精神其のものが兎に角苦しかった。

 

で、わたくしがどちらにより似て居るかと云う点が大問題ながらたとえば其れは彼等を足して弐で割ると丁度こんなかなあとさう思うと同時に矢張りと言うべきか其の批判と云う面では明らかにゴーガンに似た部分の方がより大きいのやもしれぬ。

 

 

『二人のタヒチ女 』1899 Paul_Gauguin_145.jpg (2024×2597) (wikimedia.org)

『母性I』 1899 Paul_Gauguin_090.jpg (2536×3338) (wikimedia.org)

 

それに付けてもこんなにも優しくしかも敬意に満ちた眼差しで現地の女達を描けるものなのだらうか?

 

其の優しさはほとんど愛でありまさに其れはキリスト教の教義としての概念であらう。

だから彼ゴーガンは其の隣人愛をまさにやらうとした藝術家だったのではなかったか?

 

其の愛にも偽善的な愛もあれば惰性としてのものもまた世にはあらう。

だが此の彼の眼差しのみは眞實の愛でありまさしく普遍化されし愛である。

 

 

『叫び声』1902 Paul_Gauguin_033.jpg (2536×3792) (wikimedia.org)

『叫び声』 ゴーギャン | ネット美術館「アートまとめん」 (artmatome.com)

 

こちらも個人的に昔から好きな作品ですが、どうもタヒチでの思い出を元に描いたものであるらしい。

 

兎に角ピンクが目立つ繪であり其のピンクこそがまさに南國の色なのであり温帯地域では自然としてはまず感ぜられぬ色でもある訳だ。

かく言うわたくしもまた其のピンクを意外と好む。

 

尤も其れはピンク映画が好きなのでは無く靑や緑と云った寒色を好むので其の対義的な色彩である赤やピンクや黄をもまた何故か好むのだ。

たとえば今年初めて我はドラゴンフルーツ - Wikipediaなるものを食したのだったが其の果皮の色がまさに其の鮮やかなピンクであった。

是非其の色を保存したいと思い乾かして居たが腐ったのか結局其れも捨てて仕舞った。

 

かやうに自然は特に生ものは保存することが出来ない。

故にナマモノである人生や👩の美などもまた保存することなど出来ない。

 

 

『野蛮人の詩』1896 Paul_Gauguin_096.jpg (4726×6374) (wikimedia.org)

 

此れは何処か宗教性のやうなものを感じさせて呉れる繪画である。

 

尚わたくしは壱時期文化人類学の方にも凝って居たことがありしが結局其れは所謂構造主義をはじめとする學問的なまた哲學的な要素と云うよりは只南海の樂園へのあくがれがあったので単に其れに接してみただけのことであるに過ぎない。

要するにわたくしにとり南海の樂園とはあくまで色の樂園のことでありまさに其れは生命としての多様性の場、生命の爆発の場だと云うことに尽きて居る訳なのだ。

 

其の南國の生命の豊饒さは画家や詩人の感度でもって實際何処までをも推し測ることが可能である。

だから何処に居やうと其の生の豊饒さに彼等はアクセスすることが出来る。

 

だが其れはあくまで感性としての豊かさが齎すものであり客観的な現象とは異なる訳だ。

なので画家や詩人が南洋の國國へ實際に出向けば其処に自ずと繪画や詩が生まれ謂わば完成形の作品となすことが出来るのだ。

 

 

画家や詩人は生まれ持った感度が並外れて居るので大抵は其の分を余計に苦しまねばならない。

わたくしの生の苦しみは半分はまさに其れであったのだが複雑なわたくしはまた半分が學術的なものでもある訳でそちらの方で心底から政治がイヤになりかうして次第に藝術の側へと逃げて来た訳だ。

 

だからわたくしは詩人オンリーなのでは無く所謂理窟人間なので兎に角論の方も好きだがまた同時にピンクものがまた大好きなのだ。

するともしやエロキチ外なので?

 

さうでは無い。

其れはタダの色のキチ外なのだ。ー其れも共感覚者としてのー

 

 

ゴーガンはさうして家庭=👪であり生活を大事には出来なかったが藝術に対しては至極誠實に生きた。

即ち生活と藝術はそも違うものなのだ。

 

普通生活を重視することで高い感度は失われて行き易く逆に本質の追求ー藝術や観念や宗教に生きるーを行うと逆に生活の感度が乱れ易くなる。

其れをあえてやらざるを得ぬ立場に追い込まれた者がまさに其れをやらざるを得ぬのである。

 

 

尚個人的に其の南國へは壱度訪れて居り其れはグアムの際にあるロタ島と云うところである。

其のロタ島は何せ蒸し暑いところだったがゴルフなども出来る樂しい観光地であった。

 

が、グアムよりもより自然が満喫出来るところなのでもまたある。

其のロタ島の色を今思い返すと其れは白であり深い靑でありさうして熱帯の緑でありピンクなのでは無い。

 

さらに現地人の少女の顔は皆浅黑い。

で、壱番凄かったのは其の砂浜の白と島の裏側まで🚙で行き見た紺靑の海の色であった。

 

砂浜の白はサンゴの死骸が降り積もり其のやうになって居る。

其のサンゴの死骸を無論のこと持ち帰り其れを屡眺めたりもして居る。

 

結果として其れがわたくしにとっての唯一の南國での体験となった。

其の頃わたくしはまだ参拾代の後半で今よりも明らかにバカだったが元気だけはあった。

 

 

ところが先週TVにて「旅サラダ」と云うレポーターが海外旅行へ好んで行く番組を視て居たところ其処でグアムの自然スポットの紹介をして居たのである。

まさに其の折に「グアムの秘境の様はロタ島にソックリだ。」とさう思った。

 

グアム政府観光局Webサイトにて、プレスリリース「ユナイテッド航空、人気旅行番組「旅サラダ」(テレビ朝日)にてグアムを特集」を公開しました。 - グアム政府観光局のプレスリリース (value-press.com)

海外の旅|朝だ!生です旅サラダ|朝日放送テレビ (asahi.co.jp)

 

つまりは其れは土地としての記憶がほとんど同じなのであらう。

 

もしや其のロタ島に移住でもしたいので?

いや飯が兎に角マズい其れも高級リゾートホテルの飯でも最低なのでまるで住みたくは無い。

 

でもって二日目からは夜は町へと出向き中華料理を好んで食した訳です。

其れが日本人がやってるー当時ー唯一の中華料理店なのだ。

 

でも当時はこんなにピンク色では無かったのだと思う。ロタ島の東京苑

其れにロタ島では美味いと言っても其れは他のものがマズ過ぎる訳なのでありあくまで当時は普通の中華屋でした。

 

其れでもって町でハンバーガーでも喫茶店でもって頼むと兎に角クソデカい肉まんじゅうみたいなのがドーンと出て来ますが余りにも其れが大味で誰も其れを食い切れなかったのであります。

 

 

『我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか』 ゴーギャン | ネット美術館「アートまとめん」 (artmatome.com)

 

さてゴーガンは其の自決未遂以降より根源的な問いを問うて行くやうになったのやもしれません。

南國の豊饒な自然も結局はさうしてよりハッキリと其の生死の対比を孕んでも居りませう。ーさうして色がハッキリして居る分おそらくは其の生死の境もハッキリして居ることだらうー

 

其れは最終的には地球上いや宇宙の中で何処に居やうが生命に取り襲い来るであらう本質的命題です。

ですが其れと向き合うにはまた其々の時もありませう。

 

但し現在の此の社會の様はまた其れとも違う他ならぬ社會が其れと向き合わねばならぬ時なのだらう。

其処ではあくまで其の社會が反省を求められて居るのですから其れをある程度まで遮断し自らの課題と向き合った方が良いとわたくしは思う。

 

其れは社會の仕出かした責任は社會でもって取ると云う当たり前のことです。

だから其れに対し余り眞剣に向き合わずあっけらかんとして南國巡りでもして居たら或は最高なのでせう。ー最近其のやうに考えが変わったー

 

尚わたくしが最高の夜景を見たのは其のロタ島から帰る飛行機の中で名古屋の夜景を見た時のことでした。

其れは其れまでについぞ観たことの無い七色の光の大洪水だった。

 

 

文明と云うものもかやうに見方が変わるとまるで💎の如くに感じられたりもするものだ。

ですが日頃其処に浸り切って居ると結局イヤにならざるを得ない。

 

ですが藝術は其の否も是も飛び越えて其の己の感じ方を普遍化しさらに永遠化する試みのことだ。

其の意味では確かに藝術は宗教にも繋がって居ます。

 

但し藝術とはあくまで自己救済なのだと思われる。

故に藝術では藝術家の死が問題となるのでは無く其の作品の有無、作品の評価こそが其の自己救済を可能とする要件なのでせう。