繪画2
かうして世の中にはまた樂しいこともまたある訳ですのでそちらの方を向いて生きることもまた大事なことです。
が、個人的には行けそうもないので壱度紅葉の様だけは観て来たいものだ。
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さて此のドラマを視ましたが視て何とも言えぬ気分となりました。
まさに其のゴーガンにとっての若き現地妻の浮気が晩年のゴーガンにとって厳し過ぎる現實です。
ですが、其れがほんたうのことだったのかどうかは分かりません。ゴーギャン タヒチ、楽園への旅 - Wikipedia
楽園をめざしたゴーギャンの創作の歓びと愛の悲劇 「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」1月27日公開 - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)
ポール・ゴーギャン 『テフラ(テハーマナ)』1891-93年。オルセー美術館。 - Wikipedia
其の若き現地妻とされて居る人がこちらです。
要するに未開人の少女なのでせうか?
ー1890年までには、ゴーギャンは次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立てが成功し、旅行資金ができた[29]。この売立ての成功は、ゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーが好意的な批評を書いたことによるものであった。コペンハーゲンに妻子のもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した[30]。その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった[31]。とはいえ、彼はこれまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった[32]。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。レジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパペアリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、『ファタタ・テ・ミティ(海辺で)』や、『イア・オラナ・マリア』といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている[33]。ーポール・ゴーギャン最初のタヒチ滞在- Wikipediaより
かうして所帯を持ちしかも五人も子が居るのにゴーガンは己のほんたうにやりたいことが抑え切れぬ訳です。
つまり藝術家に取り現實はむしろどーでも宜しいことなのでありむしろ壱番大事なのは己の疑問や興味に誠實つまり正直なことです。
なので別に金が有らうが無からうが其のやりたいことをやる為に突き進む訳だ。
要するに其の浪漫の方こそが常に眞實ですので逆に其の浪漫以外の部分はあくまで虚構として捉えられる訳だ。
で、僕なども以前から「山へ逃げて行きたい」とさう述べて来て居ります。
其れは多分に文明嫌いであるからだ。
まあ👩嫌いもまたありませうが其れ以上に文明が嫌いなのです。
ですから文明を批判せよとさう仰るならば其れはもう何処までも其れをやって行く自信位は御座ります。
ですが其の文明を批判した部分ばかりが残りますと其れは余りにも哀しいことでは御座りませぬか。
さうして欧羅巴の文明が嫌いなゴーガンはおそらく心眼にて其の文明の有様を見詰めて居たことでせう。
其の心の働きこそが特殊なもので、謂わば其れは類稀なる感度と批判精神との賜物でもあったことだらう。
其れでもって何故藝術家はさうして文明を批判的に見詰め逆に俗物は文明を喜んで受け容れむしろ其れを享受するのかと云う根本的な疑問が其処に生ずる訳ですが壱言で言って其れは個としての心のあり方が壱般とは違うことに尽きるのだと思う。
兎に角其の心が向いて居る方向性がそも百八拾度程違う訳です。
でもって藝術家は主に自然に対する感度に優れ逆に人工物に対する不信感を抱き易いものだと思う。
なのでまずはソコが違うのです。
ですので藝術家は恰好良いなどと思うのは其れは誤りで藝術家程苦しんで居る者は無く其ればかりかほとんど皆金欠状態にて飯も食わずに黙って作品を仕上げて居ります。
其の割にゴーガンの如くに性欲の強い人もまた居る訳で然し其処で良く考えてみまするに其の女好きと文明嫌いとは普通両立し難い訳だ。
なのである意味ではゴーガンは意外と分裂した藝術家としての素養を持って居たのでせう。
ですがほんたうにキチガイになったのはむしろゴッホの方で他方ゴーガンは気がふれなかったのですから其処はより現實派だったのやもしれません。
ゴーガンは近代欧羅巴人としておそらくは最初に南洋の文化文明と関わりを持ち其れを肯定的に見詰めた人でした。
ですが、壱般的にはあくまで近代文明から見詰めた南洋の文化文物など所詮「未開」に属するものなのです。
其の「未開」の文化、文物とは「文明化」されて居ないものとして同じ人間の文明では無くあくまでより低次の何か迷信の如きものと見られて居た訳です。
でもってかの黑船もまた日本へ来て其れも未開人かと思い来てみたら案外抵抗するので此れはもう違う文明圏の人達だとようやくさう気付いたことでせう。
だから日本の場合は其の未開と文明の対立軸では無く結局は東洋文明と西洋文明の対立が基軸ともなって居た訳だ。
元より其の文明の対立、文化の違いと云うことが文明の衝突としてまずは考えられる訳だ。
で、何故文明の衝突が起こるのかと言えば其れは西洋文明の普遍化と云う近代としての根本での命題へと行き着く訳だ。
だがそも何故西洋文明を普遍化せねばならぬのでせうか?
其の理由をもしこじつけるのであれば、人類が繁栄し其の数が増えつつあったので近代システムを採用せねばそも社會が維持出来なくなると云うことなのだらう。
ですが、實際には西洋文明を普遍化して行ったことによりむしろ人類が増え過ぎもはやにっちもさっちも行かなくなりつつあると云うのが今の實情です。
即ち西洋文明が普遍化されなかった方がより安定的にむしろ多様な文化文明が形作られて居たことだらう。
すると西洋文明の普遍化こそが悪の行いだったのですか?
おそらくゴーガンはさう考えて居たことでせう。
其れは彼が西洋文明の腐敗振り、其の利己主義振りにすでに嫌気がさして居たからでのことでせう。
なのではあるが、事實上西洋文明はさうして世界中を席巻して行った訳である。
さて重要なことは、ゴーガンが生きた所謂世紀末の時代にはまだまださうして未開拓の精神の場があった訳だ。
いや、實際にはすでに南洋の國國も植民地化されて居りよってゴーガンが見たタヒチとはまさに其の仏蘭西領としてのタヒチの文化であり文物である。フランス領ポリネシア - Wikipedia
ところがあくまで現在よりは古い習俗や慣習が保存されて居たものと見られやう。
其の中でゴーガンは矢張り理想の文明、理想の社會のあり方に就きあくまで内面的に模索して居たのやもしれぬ。
いやさうでは無く単に逃げて行き現地を樂しく観て回りたかったのやもしれぬ。
もう兎に角西洋文明からは逃げたいばかりであった可能性もまた高くある。
さて私はゴーガンの静物画が好きで、特にかうして南國の果實を描いた繪画などが好きです。
どだい私は南國の果物がとても好きだ。
いや南國の果物ばかりでは無く南國の貝殻だの南國の星空だのまたアノ白い砂浜だの靑い海の色などには限りなく惹かれて仕舞う。
其の南國の果物では果たして何がお好きなので?
矢張りマンゴーで、其れも宮崎産でせうね。
ちなみに其のゴーガンのドラマでもゴーガンがマンゴーを貪り食う様が描かれて居ました。
Paul_Gauguin_071.jpg (2536×3324) (wikimedia.org)『イア・オラナ・マリア(我マリアを拝する)』1891年
樂園振りが色濃く出たゴーガンの最高傑作とされる繪画です。
ポール・ゴーギャン(ポール・ゴーガン)-イア・オラナ・マリア(アヴェ・マリア、マリア礼賛)-(画像・壁紙) (salvastyle.com)
ーイア・オラナ・マリア(アヴェ・マリア、マリア礼賛)ー
あえて其のマリア礼賛とは関係無く此の繪から感ぜられる樂園の様が兎に角好きです。
かうして自然と共に暮らし其処から幸を得澄んだ靑い空や紺碧の海と戯れること其れ自體が人間のとっての樂園の暮らしです。
ー其れもゴーガンでは無くかってゴッホがまさにそんなことを述べて居たものですがー
対して人間の暮らしとは差別されたり搾取されたり挙句の果てには國家や外國のイデオロギーの奴隷と化しこきつかわれるやうなことに何故か終始して居るものだ。
だから今の日本を此の状態へ持って行けるかと言えばとてもイケません。
つまるところ其れが日本の社會の哀しみの様だらう。
ー「パリは貧しい男にとっては砂漠だ。私はエネルギーを取り戻す必要がある。現地人のような生活をしにパナマへ行こう」そう決意したゴーギャンは、何とか運賃をかき集めて1887年パナマへ渡ります。そこで当時建設中だったパナマ運河の建設現場で働きました。
しかし数週間で熱病に罹ってパナマを諦め、フランス領西インド諸島のマルティニック島へと渡ります。ここでも熱病と貧困に苦しみながらも制作をしています。この時に描いた作品が、パリに戻った際にヴァン・ゴッホの弟で画商をしていたテオの目に留まり、彼の勤めるグーピル商会で展示されたことから兄のヴァン・ゴッホとも知り合い親交を結ぶことになります。
「ここは依然としてヨーロッパだ。私が逃げ出してきたはずのものが、植民地の俗物根性によってさらに悪くなってここにある」と書いています。
ゴーギャンはそんなタヒチの首都・パペーテを避け、まだ素朴な暮らしが残る農村地帯のマタイエアに移り住み、そこで彼の望んでいた平和と一緒に住む娘を見つけます。
そこは昔ながらの自給自足の家族共同体であり、都会から来たゴーギャンは魚を捕るすべも、畑を耕すこともできず、結局はヨーロッパから輸入された高価な缶詰などに頼らざるを得ませんでした。そしてそれらを買う蓄えが尽きるとたちまち生活は困窮し、フランスに帰らざるを得なくなったのです。
ゴーギャンは、パリで画家仲間からも孤立し、またタヒチへの思いが捨てきれず1895年7月再びタヒチへと向かいます。
そして以降は再びフランスに戻ることはありませんでした。
今回のタヒチ滞在は、ゴーギャンの芸術にとって大変重要な時期ではりましたが、健康状態は次第に悪化して入退院を繰り返しています。また生活は苦しくなり、絶望的に貧しく悲惨なものになっていきます。
1897年には自らが集大成とする『我々は何者か?~』を制作した後、服毒自殺を図りますが失敗に終わります
その後ようやくパリで作品が売れはじめ金が届くようになります。そのおかげで絵の制作に打ち込むことができるようになり1901年タヒチを去って、1300キロも離れたマルキーズ諸島のアツオナ村に移住しました。そこでゴーギャンは「快楽の家」と名付けた住居を建てて住み着きます。
一方で植民地行政府やカトリック教会への強烈な批判をしたために「名誉棄損」で3か月の禁固刑を宣告されますが、ゴーギャンはそれに従わず上告します。しかし1903年5月8日その上告の結果を聞く前に、ヒヴァ・オア島で看取るものもなく孤独のうちに亡くなりました。享年54歳。ー波乱万丈の人生!ポール・ゴーギャンの生涯を詳しくご紹介します! | 白いキャンバス (art-whitecanvas.com)より
まずはかうしてゴーガンは文明が根っから嫌いです。
何故嫌いなのかと言えば其れはおそらく彼の心性が潔癖だからなのだらう。
近現代文明とは其のやうに心性が潔癖な人に取りむしろ地獄のやうな世の中です。
ところが心性が潔癖では無い人々に取り其れはあくまで時を経るに従い「良くなり」しかも「欲を叶えて呉れる」魔法の杖の如き社會なのだ。
ですが、あくまで心性が潔癖な人に取り其れは「欲を充たす」ことに汲汲とする「悪い」文明の形でしか無い。
ですので別に彼の其の評価が間違って居る訳でも何でも無くむしろ其れが「正しい」のです。
ところが近現代文明とはさうしてみんなでもって「悪い」文明をやり続けて行くこと其のものなので何時かは破綻するつまりは破滅へと進んで行かざるを得ないものです。
では其の「良い」と「悪い」の基準は壱體何処で決めて居るのだと疑問に思われる方はおそらくはすでに文明に洗脳されて居りませう。
ですからあくまで其れは個としての理性的判断に基ずく限りは「悪い」のです。
尤も個だけでは心細いのでしたら、原始佛教や原始キリスト教の教えを其処に照らし合わせても良い。
尤も其処では近現代社會の如き欲望文明、強欲文明のあり方など端から否定されて居るに決まって居ます。
ですから、ゴーガンの其の「文明嫌い」の様は彼の頭がオカシイからなのでは無くむしろ彼の頭のあり方が正しかったからこそさう見えて居たのです。
其れもわたくしのやうに今其れがイヤだ、イヤだ、とさう言って居るのでは無く世紀末にすでにさうだったのですから彼の感度こそがまさに世界の壱級品であった訳だ。
わたくしのやうに今其れがイヤだ、イヤだ、とさう言って居る人は今余計に其の人数が増えつつあり或は弐拾パーセント程にもしや増えて来て居るのではなからうか。
其れが2050年ともなればおそらくは地球の全人口の半数がイヤだ、イヤだ、となり、2080年程にもなれば八拾パーセント程もの人が文明を全否定して行くこととなりませう。