言うまでも無く私の専門は社會が抱える問題を炙り出すことと文學や哲學の上での人間の理解に関し述べることだ。
だが私はさう云うのが實は嫌いである。
何故なら我がもっともっと感じて居たいこととは自然なのであり人間のことでは無い。
さうした人間のゴタゴタが兎に角嫌いである。
つまるところわたくしは生まれつきそんな潔癖な心性を持っておりつまりは人間嫌いなのだ。
「“ノアの箱舟”をつくる人」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK
さて先程此の番組の再放送を視たが其処から強く感銘を受けた。
[こころの時代] 札幌市円山動物園 動物専門員 本田直也さんが語る生命観 | “ノアの箱舟”をつくる人 | NHK - YouTube
こんな番組は民放の何処も創れやしないと云う意味でNHKに視聴料を払う意義が確實にある。
此の本田と云う飼育員が其の自然観を語る形での番組構成なのだが彼の所謂自然に対する見識の高さには正直驚かされた。
また最初のところが視られなかったので判然とはしないのだが独逸の生物学者ユクスキュルの思想が番組中に織り込まれて居りまさに其処から大きくインスパイア―された次第である。
さて其の”ノアの箱舟”と云うことだが確かに動物園や植物園は今や其の任を担う場となりつつあるのやもしれぬ。
が、逆に考えれば動物園や植物園を創って居るやうな人間共が居るからこそ自然破壊を進めて居るのだとも言えやう。
ちなみに我は屡動物園や植物園を訪れる。
特に植物園などは弐箇月に壱度位は、特に五拾歳位からは屡其処を訪れるやうになった。
と云うのも人間を見て居るより其の方が心が休まるからなのだ。
人間と云う此の罪深くしかも愚かしい現象を眺め心を痛めて居るよりは自然を眺めて居ることの方が我に取り余程有意義なのだ。
と言っても其れは自然其のものでは無く人間が創った疑似自然としての世界である。
だから我はかって動物園や植物園などまるで好きではなかった。
参拾代の頃私はむしろ原生林としての山奥の大木の世界だの汚れ無き流れとしての渓流の遡行だの兎に角そんなところにだけ興味がありむしろ人工物を頑なに拒んで居たのだった。
ところが体力が落ちて来れば自然と動物園や植物園ともお友達となる。
また好んで私が訪れる東山動植物園 (city.nagoya.jp)は広大な丘陵地に様々な施設が点在して居りおそらく広さと云う点では日本壱なのではなからうか。植物園の見どころ情報|植物園|東山動植物園 (city.nagoya.jp)
要するに山の中にある植物園なのだ。
だから此れ等の展示施設をむしろ避け山中の道を選び園内を歩くことさえもが可能なのだ。
で其の観覧の仕方をすれば野の花花の観賞や石拾いさえをもすることが出来る。
なのでさうした部分こそがおそらくは東京や大阪には無いことだらう自然的植物園としての魅力である。
また植物園自体が嫌いな人間嫌いの度が酷い人は東山公園壱万歩コースを行けば其の種の観光とは無縁の山歩きが樂しめる。
名古屋の東山公園一万歩コースをウォーキング。動物園と植物園をぐるっと周って東山動植物園に寄って帰りました - ほどほど (okomotot.com)
また其れもイヤで独りだけで山に籠りたい方などはみんなが歩かぬ孤独な地にて飯を食ったり悩んで居たりすることが出来る。
しかも其処では立小便をすることさえもが可能だ。
で、此処では自殺もまたあるとのことだが個人的にはさうして死んだ人間を見たことなどは無い。
さて問題は其の”ノアの箱舟”である。
人類のせいで「動植物100万種が絶滅危機」=国連主催会合 - BBCニュース
世界で加速する「種の絶滅」 9つの衝撃的な事実 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)
「私たちが自然を大切にすれば、自然も私たちを大切にしてくれる」
逆に申せば「私達が自然を大切にして来て居ないので自然は牙を剥いて我我に襲い来る」訳だ。
實際にかうして地震は起きる。
だから「進歩」だなどと浮かれて居る暇などは無い筈だ。
だが人間の認識が曇ってー腐ってー仕舞って居るので其の認識自體を正すことが出来ない。
では何処がどうイケナイのか?
うーむ、まあ、根本のところでの認識上の誤謬ですのでまず其れを治すことはまず難しい。
だから逆に今我我が出来ることは出来得る限りでの生物種の保全であり「破壊」しない限りでの心性の確立でせう。
ところが政治の世界では其れこそ自民党が日本を破壊せんとし其の他あらゆるものが崩壊の危機にあると言って良いことだらう。
だからまずは其の認識の地点から防御を考えて行かねばなるまい。
むしろ壱番の問題点が大衆に其の「破壊」への認識が欠落して居ることだ。
24 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
25 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。創世記(口語訳) - Wikisourceより
其の全知全能の神はしかしながら人間に対し自然を治めよとさう宣うただけで其れを破壊せよとは壱言も述べられては居らぬ。
治めよ即ち管理し其れがシステムとして拾全に機能すべくとり図らえとさう宣うただけで其れを喰らい尽せとは壱言も述べられては居らぬ。
其れを管理するには元より智慧が居る。
自然を理解し其れと共に生きる為の知恵と決意とが居る。
さうして其の選択こそが即ち理性的な選択こそが人間の意味と価値とを形作る。
逆に其れを絶滅へと追いやる者は選択を誤りし者でありまさに其れは神に祝福された者では無くまた自然界の壱員としてあるべき人間の姿には非ずだ。
左様にあくまで人間は管理者としての人間であり獣其のものでは無くしかも神其のものでは無いと神は仰せられた。
尚此の旧約聖書の創世記に於ける世界観は所謂人間中心主義であり東洋の神話的世界観とは異なると云う評価が壱般的なのだらうがわたくしはさうでは無いと思う。
何故なら東洋の神話的世界観もまた人間中心主義を離れるものでは無く充分に自然をやっつけていくー痛めつけていくー思想さえをも持つことだらう。
結局文明とはむしろさうしたことなのだ。
其れこそハラリ氏が述べられるが如くに農耕文明の成立其れ自體が自然からの収奪であり破壊の歴史其のものなのだ。
但し東洋文明の方がより穏やかな収奪の歴史と必然的にならう。
其のやうに人間はむしろ文明と云う単位に於いて破壊を生じさせざるを得ないのが實情なのだ。
であるからこそ是非其れは否定的に捉えて置くべきものなのだ。
尚自然は時に残酷で無慈悲ですらある。
むしろ自然の其の無慈悲な部分と正面切って闘って来たのが近代的価値観なのだ。
但し其処で良く考えてみればすぐに分かることながら其の自然とは闘わぬ価値観もまた選択出来た訳だ。
其のあえて自然と闘わぬ価値観とは主に東洋の価値観である。
但し其の価値観では結局近代を乗り越えられなかった訳だ。
近代は急激に人類を繁栄に導き其の数を増やし全てを進歩へと導いた。
だが其の繁栄はそも神の意に沿うて居たのだったか?
よもや自然を破壊してまで人間が繁栄することを神は望んでは居られなんだのではなかったか。
11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
14 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。
15 その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、
16 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。
17 わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。
18 ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。
19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。
20 すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。
21 また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。
22 ノアはすべて神の命じられたようにした。創世記(口語訳) - Wikisourceより
其のやうに汚れた心でもって世を進めると世は乱れやう。
其処で神は世を滅ぼさうとさう決心された。
おまえらなどみな死ねー、だっておまえらなどみんな悪い奴だ。
おまえらは悪人でしかもウンコまみれだぞよ。
21 地の上に動くすべて肉なるものは、鳥も家畜も獣も、地に群がるすべての這うものも、すべての人もみな滅びた。
22 すなわち鼻に命の息のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。
23 地のおもてにいたすべての生き物は、人も家畜も、這うものも、空の鳥もみな地からぬぐい去られて、ただノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。
24 水は百五十日のあいだ地上にみなぎった。創世記(口語訳) - Wikisourceより
其の世を滅ぼす神は東洋の神とは違うと云う論点もまたあらうかと思うのだけれど例えば日本の神々もまた怒り狂い人間を滅ぼす恐ろしい面をしかと持って居た。
だから「神の怒り」とはむしろ普遍的な物語なのだ。
問題は「神の怒り」を忘れ何でも意の侭に出来るとさう過信した近代以降の文明の進歩病と其の進歩を支えることだらう合理化全能主義にこそある。
20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。
21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。
22 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。創世記(口語訳) - Wikisourceより
其の壱神教の神は何ともう弐度と全ての生き物を滅ぼさぬとさう宣われたのだった。
すると今の生物種の絶滅を引き起こしたのは其れは壱體全體誰の責任なのだ?
そりゃ我我人間共の仕業だよ。
うわあー、またとんでも無いことをやらかしたな。
おまえらは便利な其の近代的生活の為に👿にでも心を売ったのか!
我我は元々👿だよ。
だからこそ神や佛が是非必要だったのさ。
さうか、するとヤッパリ人類は自滅するのだらうね。
かうして自然をブチ壊し其れの尻拭いが結局出来ずみんながさうしてヘラヘラと笑いながら地獄へと堕ちて行く訳だ。
おおおー、神よ、佛よ。
どうかどうか御赦し下され。
我等はどうにもならん程のタワケでした、バカでアホでしかもクソ垂れ人間共でした。
助けません。
エッ、今何と仰りましたか?
「助けません。」
さうして自滅するならしてみなさい。
其の後に🐵が進化して行くので別に人間など要りません。
でも其の🐵がまた人間と同じ轍を踏むのですぞ。
いや其の場合には🐈や🐕がまだ居ます。
ネコ人間やイヌ人間が必ずや進歩して行くので🐒系などもう要りません。
うわあーやってもうたー、ついに宇宙から🐒系が締め出されましたー。
ーすべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているー環世界 - Wikipediaより
番組中では飼育員の本田氏が影響を受けた思想なのだらうか、「環世界」と云う概念が屡登場する。
其の動物により認識して居る世界が違うと云うことはしかしながら可成に重要な視点なのだと思われる。
其の中でも人間の認識は相当に異質で且つ抽象的な側面に振れたものであることだらう。
ーユクスキュルの生物学はA.ポルトマン やコンラート・ローレンツなどいちぶ動物行動学者には影響を与えたものの、動物学者にはあまり影響を与えなかった。ユクスキュルの影響は、1920年以降、むしろ哲学方面にあった。エルンスト・カッシーラーがユクスキュルを高く評価したほか、マックス・シェーラー、ヘルムート・プレスナー、アルノルト・ゲーレンらの哲学的人間学に影響を与えた[2][3]当時の西欧知識人の人間観に多大な影響を与え、「新しい生物学の開拓者」と呼ばれた。ユクスキュルの哲学への影響を論じたものに秋澤雅男[4]などがある。ーヤーコプ・フォン・ユクスキュル - Wikipediaより
ー環世界と機能環をで構成されるユクスキュルの理論は、その後、生物記号学(biosemiotics)という学問分野を生み出した。ー
ーカレビ・クル(en:Kalevi Kull) は、Hoffmeyer (1996) を引用して、生物記号学の目標を次のようなものとしている[9]。( ) 内は、Hoffmeyer (1996) のページを示す。
- 情報の概念を再定式化する。
- 心と物質の二元論(心身問題)を克服する (69,94,124) 。
- 人文諸学と自然科学の両立不可能性を解消する (94) 。
- 歴史と自然史/誌とを結合する (95) 。
- 自然の中に人間を位置づける (94) 。ーヤーコプ・フォン・ユクスキュル - Wikipediaより
ー科学が発達するほど、真の現実世界のうち、私たちの感覚でとらえられていると思える部分の割合が小さくなっていく。私たちの感覚の能力は、自分の生態系のなかで生きていくのには十分なものである。しかし、その感覚が描き出す世界は、真の世界の概観にすらなっていないことは理解すべきだろう。ー私たちの誰もが世界を正しく知覚できない | 天才科学者はこう考える | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)より
此の環世界と云う考え方は壱種哲學的で自然科学的なものの捉え方では無いかのやうに見受けられる。
どちらかと言えば観念論的であり同時に人間の認識に関し限定的な論理である。
其の点では如何にも独逸的な思考なのでもある。
かうして感覚的世界が非常に限定され同時に主観的に構築される幻のやうなものなのであれば其処では同時に客体的現象の非實在性が描き出されても来やう。
また其れは人間の感覚や其れに基づく思考には人間的なバイアスが強くかかって居ると云う事でもあり従って我我は極狭い範囲で感覚し且つ思考し他のほとんどのことはまるで見えては来ないと云うことなのでもまたあらう。
いずれにせよ壱種難しい論題なのでまた次回にでも此の「環世界」と云う概念に就きより深く考えてみたい。