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文明批判と心の探求と

今あえて見据えてみたい「スロー建築」としての高い価値の實現ー建築家 伊東 豊雄氏のスローな思想に學ぶー

今あえて見据えてみたい「スロー建築」としての高い価値の實現ー建築家 伊東 豊雄氏のスローな思想に學ぶー

 

 

ー 日本では、宗教法人は「収益事業」以外は非課税です。

 まともなお寺や神社は日本の文化を支えています。でも、神社仏閣の修繕費すら出せない状況です。一方で、カルト宗教までも非課税なのはおかしい。まともな宗教とカルト宗教で扱いを変えるべきだと思います。

 

 現状の社会は、お金を稼ぐスキルのない人は、社会に参加することが難しい状況になっています。社会としてできることがあるとしたら、地域の清掃や整備、部活動の手伝いや勉強の補助などを広く住民から募集して多少の手当を支払うなど、お金を稼ぐほどのスキルがなくても社会に貢献して人間関係が作れるような仕組みを作っていくことが大事な気がしています。


 でも、金融緩和による円安は一部の輸出産業にメリットがあるだけで、日本全体としてイノベーションが起きる環境にはなりませんでした。それは未来を考えて新しいことを推進していくよりも今が良ければいいという、安倍政権以前からの動きでもあるとは思います。消費税を上げたのも失敗だったと思いますし、アベノミクスが間違いだったというのが認められない状況を作り続けているのはよくないと思います。ひろゆきが直言「安倍氏の死を嘆くのに、カルトを規制しない自民党に怒らない人はアホ」 (msn.com)より

 

本質的には日本社會は「守る」社會であり其れはつまり👪や企業や郷土、其れに天皇制を守らんが為の社會なので其の守らんが為の価値観が近代的合理性とはそぐわずつまりは矛盾化して居ります。

でもって其の自民党壱党支配の政治によりむしろ緒矛盾は加速し行われて来無論のこと其のアベノミクスは世紀の愚策でしたが日本國民の頭の中身其のものが安倍=善の統治者とさう洗脳され切って居るが故にもはや其の政策の是非すらもが分からなくなって居るのです。

 

其れも見識が高くある其れこそひろゆき氏や我やまた此処の読者の方方以外は。

また日銀の黑田などもまた其の安倍のバカ壱派です。

だからほぼキチガイの如くに其の金融緩和に固執しおおまさに今日本の中間層以下の暮らしを破壊しやうとさえして居ます。

 

だが其の守らんが為の封建社會にはそも限界がある。

其れも近代に於いて封建體制が矛盾すると云う至上の命題である。

 

逆に鎖國し自給自足にてまた徳川が幕藩體制を布くやうでしたら日本は助かる可能性も御座ります。

つまりは新たな幕府を開かねばなりません。

勿論其の場合には近代的先進國家であることを自ら放棄しまた江戸時代へと戻るのです。

 

またまさに其の「今」を守るのが封建國家のやり方です。

ところが「今」を守るのは近代國家では通用しません。

仰るやうに技術革新を目指し未来を担って行くのが近現代社會としての基本テーゼです。

 

ですので此の侭ですと其れこそほんたうに日本は沈没して行く虞がある。

よっていっそのこと脱近代化し先進國であることをもはや止める手などがあるのやもしれぬ。

 

其の選択での壱つに江戸時代へと戻り鎖國化する手がある訳だ。

また今壱つには独逸と伊太利亜との同盟関係を新日独伊参國同盟として復活せしめあくまで體制的には戦前へと戻すと云う手がまたあらう。

但し其処にて軍國主義をまたやる訳では無く其れこそ独逸の如くに理性的で且つ環境や社會的救済重視の政策を取り入れまた伊太利亜からは藝術的に生きることの素晴らしさをしかと學ぶことが可能である。

 

尚此の場合には近代的先進國としてのパートナーを変えると云う御話だけですのでより現實的な選択ともなりませう。

 

よって其の場合には勿論日米安全保障の関係を破棄する必要が御座ります。

要するに全ては日本と云う國が實はとんでも無い矛盾の國であったと云う其れこそ日本の近代化の頃より引き摺られて来て居たデカい問題点があったが為に其れがたった今顕在化したことであるに過ぎません。

 

また壱つには其れこそ中國の属國となる御話ですが此れには拒否感を感ずる人がまた多いやうなので世界が革命されぬ限りはさうはならぬことなのやもしれません。

まあ要するに自民党による壱党支配體制によりほぼ日本國はダメ化されて来ても居ります。

 

其の宗教と政治の癒着の問題にせよ其れは自民党による意思決定がそも反共壱本でありまさに其れがイヤだから邪教ともくっついちゃったと云うことですので其れは左翼の問題なのでは無くまさに體制の側での大問題=守る側の大矛盾です。

さらに言えば安倍はそんな國規模でのおかしなことに巻き込まれ死んだのだとも言えるがでも其れは結局自業自得でのことだったのです。

但し思えば安倍もあれほど頑張ったにも関わらず最期は暗殺ですから確かに其れは酷い話でありまさに其れは現實の恐ろしさを如實に示す話だらう。

 

まあ左様に日本の政治家は今皆可哀想です。

また日銀の黑田にせよ「してはならぬことをせねばならぬ」と云う自己矛盾の世界へと完全に陥って仕舞って居ます。

 

日銀の黑田もまたおそらくは金持ちなのだらうが我我貧乏人の方がそんな精神の地獄を生きずに済む分だけまだしも幸せと云うものだらう。

尚前前から申して居りますのですが所謂現存在に取っての「幸福」とは、

 

1.精神的な意味での幸福

2.物理的な意味での幸福

とがあり、まずは1.の方が問題ですので其の1.の無い2.の充足者はむしろ不幸へと陥るのです。

 

逆に2.を限定した場合には1.が得られ易くなります。

とりあえずは暮らしを何とか回して行ける限りに於いては其れこそ安倍や黑田などよりも貧乏人の我我の方がむしろ幸福感は得られ易くもなる。

 

つまりは地位や名声に恵まれさらに金持ちの連中は幸せにはむしろなりにくいのだ。

何故ならデカい矛盾がおおまさに彼等には容赦なく降りかかって来るからだ。

 

尚其の安倍の全てが馬鹿だったと見抜いて居る人は知識層でもまた少数派なのだと思われます。

其のことをかうしてハッキリ仰ったひろゆき氏の勇気には是非拍手を送らせて頂きたい気分です。

 

其のやうに此の國ー日本國ーの意思決定は基本的に合理性の部分にあるのでは無く須らくがむしろ前近代的に構築されて居ると見て置いても良いことだらう。

其れと宗教其れも邪教が蔓延ることに関してはまた非常に難しい問題であり課題です。

 

またよりにより其の極めて難しい問題を孕む政治と宗教が癒着して居るのでさらにややこしい話となり変な言い方ですが此のわたくしにもどーしたら良いかがまるで分からぬ程である。

 

 

 

 

さて本日は午前中にEテレにて高校講座「美術」を視て居たところ其処でまた新たな學びがありました。

 

【住まいの未来】土に近づき風が抜ける、 自然と人に触れる暮らしを|朝日新聞デジタル (asahi.com)

 

其の伊東 豊雄と云う高名な建築家の作品にいたく感銘を受けました。

此処での「被災地が教えてくれた、ともにあることの大切さ」と云う文章の中に其の感銘に於ける全ての内容が込められて居ます。

 

自然から乖離した都市型の建築→地域と共に歩むみんなの為の家

東日本大震災を経験した伊東氏は都市型の見せんが為の建築が此処日本に限り實質的な価値を生み出すものでは無いことに気付かれたのだと思う。

 

 

どだい日本の家屋と云うものは例えば家の母屋ー昭和初期の家ーの方がまさにさうなのだが、壱言で評して「自然と同居」する家のことです。

故に大きく縁側が取られて居て其処にはガラス戸乃至は網戸が設えられて居るので庭の様が全部見える訳だ。

 

家の其の縁側ももはや古くなりあちこちが痛み陥没と申すか歩くと僅かに下に下がることさえもがあるのですが其れでも其の縁側に佇むだけで何処か心が休まります。

丁度壱箇月程前に其の少し危ない縁側に靑畳を四畳分程縦に入れたので其処に寝転がるとまさに良き塩梅にて庭を眺めつつ本などを読むことが出来る。

 

また家の庭には常に庭師を入れては居らずよって様々な雑草や蔓植物だのが繁茂し其れが網戸を伝い美しい弧の模様を描いて居たりもまたする。

ー要するにまさに其れはアール・ヌーヴォーの曲線美の世界でありしかも自然が織り成す本物としての美の世界でのものだー

 

其のやうな美をかっての日本人はむしろ普段から愛でつつ暮らして居たことでせう。

我はかうした壱種気難しい人間なので人生と申しますか社會に対しては常に文句タラタラなのですが、唯壱心底より感謝して居るのはまさに此の家でもって生の大半の時間を過ごせたことだった。

 

 

震災の復興計画の中で伊東先生が造られた家は大都會での先生の作品などとはまるで違う「みんなのー為のー家」だった。

其れは基本的に木造の壱見何と云うことも無いやうな家です。

 

ですが此の木造の家にこそ日本の自然環境に向けられた明確なコンセプトが込められて居る。

まさに其れが「自然と共に生きる」家であることだ。

 

逆に申せば此の日本の自然環境の中で幾ら都市型の近代的住居を造ったにせよ其れは壱時的な価値にしかなり得ません。

其処ではデザインのみが遊離し藝術作品と化して仕舞うのみで人間の生活自體がむしろ見えなくなって仕舞う。

 

 

建築家伊東豊雄の建築作品10選ー代表作から初期の作品までご紹介 | 建築LIFE (takearch1894.com)

 

かっての伊東先生の作品にもかうしてまさにそんな部分が如実に表れて居たやうだ。

ですが震災以降は作品を創る際の考え方が大きく変わったとさう番組中で述べられて居た。

 

要するに藝術作品として評価される部分が大事なのでは無く人間の生活に即した住宅であり壱つ壱つの住宅の要素であることが最も重要です。

つまりは所謂「用の美」が備わりしかも其処に自然の光と風を感じ取れるやうな家こそが眞に人間に取り求められて居る建築なのだ。

 

伊東先生が仰るやうに「自然に近く」、また「開かれた」家こそが所謂古民家としての日本の住宅のあり方でした。

其れこそ昭和初期に造られた我が家の母屋はまさにそんな家です。

 

ところがもはや古い家ですので其れこそ網戸は傾いで締まりは悪く其の少し開いた部分から藪蚊が幾らでも侵入して来る訳だ。

故に常にキンチョウの蚊取り線香を焚いて置かねばならぬ。

 

ですが此のところは雨降りの日が続き涼しかったこともあり其の靑畳の布かれた縁側に寝そべり蚊取り線香を焚きつつ難解な本を読んで居たり致しますともはや其れは壱つの隠遁の世界其のものと化す風情であり、しかも其処にスナック菓子と氷飲料などを持ち込みますればもはや其れは極楽の世界と化しおそらくはどんな高級別荘地にも劣らぬ精神的価値さえもが其処に現成されて居ることだらう。

 

 

嗚呼、藪蚊よ、まさに良い夏の壱日だねえ。

お前等を退治しやうとして庭の石臼の中に洗濯の洗剤を撒いたことをどうかどうか許してお呉れ。

 

ですが其の数日後に今度は蚤が大発生し故に其れを根本的に退治してからまた其の風流をやって行くこととなります。

 

また「豊かさとは何か?」と云うことに就き根本的な発想の転換が必要だと伊東先生は仰る。

實は豊かさとは其の縁側での寝そべりでありまた網戸の向こうの庭から吹き込む風を直に感じ取ることでありまた藪蚊にもあえてさうして刺されることなのだ。

 

其れとは眞逆の発想なのが主に大都會に展開される大きな建築物群が表すであらう緒価値です。ー高層ビルだの高層タワー群ー

即ち都會での価値は外界ー自然ーと人間の居住空間を遮断しまさに合理化された住環境に徹しやうとする。

 

ところが其ればかりをやって居ると逆に何が大事な価値であるのかと云うことさえもが分からなくなるのだった。

即ち其の種の人工環境、人為的な住環境の中には何かかう本質的な価値上の誤謬さえもが潜んで居る。

 

 

尚わたくしがそんな人工環境、人為的な住環境から離れいま少し静かなところで自らの思考や感度をより研ぎ澄ませて行きたいとさう常に願って居るのは畢竟其れも我が文人気質であり所謂普通の方方よりは生に対する見識がより高くあるが故でのことでせう。

 

幸か不幸かそんな心の性質を生まれ持った我はまさに其のことをこそ此の世で追い求めつつ生きて行かざるを得ない。

其れでもとりあえずはかうして自己に取り出来得る範囲でのことでやって来ては居る訳だ。

 

さうしてむしろ其のことに至って満足して居るのだとも言える。

さうしてイザ価値を限定すれば今でもって充分に幸せである。

 

 

また仰るやうに窓や網戸、またベランダやテラスなどこそが住環境としての自然環境との接点です。

ですのでわたくしはかうして窓だの網戸だのに常に拘りまたバルコニーでの日光浴にこそ生きる喜びを感じて来ても居る。

 

ところが最近家の近所の家が新築となると何故か皆窓が極端に小さく如何にも風通しが悪さうな家ばかりとなるのです。

まずは其の住環境としての思想のあり方其のものが違うのではなからうか。

 

尚窓が小さいと冷暖房のみに頼る室内環境となることだらうが例えばわたくしの部屋の南側面は参分の壱程が大きなガラス戸となって居り故に昼間など電灯は要りません。

また其の大きなガラス戸を開ければバルコニーにもなって居る訳だ。

 

故に其れを締め切るのでは無く夏でも冬でもまたエアコンをかけては居てもガラス戸を開け庭から吹き込む風を感じたりもまたして居ります。

此のやうにどうも日本の住居其れ自體もむしろ昔の物の方が良かったと云う感じがしてなりません。

 

 

ー伊東氏はこれを、台中国家歌劇院の場合と同様、10 年にわたるプロセスだと考えている。「スローフード」ならぬ「スロー建築」であり、現地調達の材料や素材を使用し、地元にある手段を用いて何かを作り出すのだ。ー伊東豊雄氏の次なる建築人生: 大三島の活性化 (autodesk.co.jp)より

 

其の「スロー建築」は「スローフード」や「スローライフ」と同じくして何か特別なことをするのでは無く只価値認識を進歩壱遍倒にはせず過去の良さをも見詰めた上で行う言わば限定的なものなのだと思われる。

よってむしろ近代的な意味での進歩主義=合理化の部分から必要無き合理化の部分を削ぎ落として行くことでもまたある。ー壱種の逆合理化ー

 

謂わば近代化が齎す要らぬ進歩的価値の部分を慎重に取り去り其処にあえてシンプルで且つベーシックな価値を組み込むと云う作業のことなのだらう。

元來其れは難しいことでは無かった筈なのだが近代化と云う進歩主義があえて其れを現在には復刻が難しいものとして規定して行った訳だ。-さうして過去の価値として切り捨てて来た-

 

さうして近代化は常に何か新たなものを欲して止まぬ訳だが其の新しいものの集積の果てに人間としての眞の意味での幸福が宿って居るかと云えば其れはさうでは無いやうに思えて来てならない。

個人的にはあくまでさうして「限定」されることでこそ眞の意味での人間に取っての幸福の形が見えて来ることと思う。

 

人間に取っての幸福のあり方とはかうして基本的にシンプルで且スローに設定されるべきものであるやうに思う。

即ち「求め過ぎない」価値こそが持続可能性のあるしかも快適な価値である筈なのだ。

 

其の逆に常に「求め過ぎる」現代文明は其の持続可能性どころか何時の間にか自然の破壊者となりて地球の未来をも蹂躙しつつある。

よって地球の未来や文明の未来を見据える「求め過ぎぬ」価値の醸成こそが文明のさうして現存在に取っての長持ちの秘訣なのである。

ー「求め過ぎぬ」価値=あえて立ち止まり過去を振り向くことであり或は地域や人間の特殊性の部分に価値観をあえて限定することー

 

 

尚本日は夕方庭に出ると蠟梅の枝からつる植物が垂れ下がって居り、其れが地面にまで達して居ました。

丁度其処へアゲハ蝶の番が樂しさうに舞い降り其れの眞ん中辺りで抱き合わせて止まりまるでアゲハのモニュメントのやうな様を形作って居た。

 

かように自然があれば其処に必ずや美は生じ、また何処からともなく生命が来たりて其処に生の歓びを語るのです。

其のことが分からぬ現代人はしかしながら不幸である。

 

故に現代人が欲すべきものは社會ー文明ーでは無く美ー自然ーです。

また其のことも分からぬ現代人はしかしながら不幸である。

 

 

尚詩人は最近書き疲れて居ますので壱週間程夏休みを取りますが木曜日にはまた出て参ります。

何故か木曜日の夜にのみ此処は物凄く人気があるので無論のこと其れは読者へのサーヴィスの積もりです。