目覚めよ!

文明批判と心の探求と

虚としての近代的価値を離れ今を咲き競うたった壱つの🌸の価値に気付くこと

46.身近にあるほんたうの価値に気付かんが為に我我個が精神的に為すべきこと

 

 

 

 

さてさうして我は優雅な引退生活をして居るやうに見えて實は其れ程精神的には樂では無い。

むしろ其の精神的苦闘を支えて呉れるものが山歩きであり物欲なのだと言えやう。

 

されど現存在の精神的な苦しみは其れこそ時代や場所を超越する普遍的なものなのでありであるからこそ其処に宗教的な態度もまた涵養されるのであらう。

逆に其の種の精神的な苦しみには縁が薄い人間もまた居やうがさう云うのは其れでまた別の次元での悩みのやうなものがまたあるのであらう。

 

 

さて最近は意外と夜に冷え込むので朝になると何か温かいものが食いたくなる。

其れでもって本日は「おでん飯」を作ることとしてみた。

 

1.カップ弐杯の水を鍋に入れ其れを沸騰させる

2.以前従妹が持って来て呉れた田舎のおでん を鍋にブチまけ煮込む

3.さらにおしゃぶり梅昆布ー何処のものでも可ーを鍋にブチまけ煮込む

4.パック御飯×弐をまた其処にブチ込み煮込む

 

すると大好きな梅昆布味が効いた「おでん飯」が其処に完成する。

其れを食ってみるとまさに其の辺で買って来る🍱よりも味が上品で食事としても上だ。

 

其れをまずは半分食う。

ところが何やら肉が食いたくなっても来た。

 

ならば其処に「🐖角煮」ー何処のものでも可ーでも入れてさらに煮込めば良い。

左様に何でも鍋にブチ込めば良いのだ。

 

尚本日の夕飯はまさに其の「🐖角煮おでん飯」を食ったが其れはむしろ「おでん飯」よりもグレードアップされた味が醸し出されて居り滅茶苦茶に美味かった。

 

 

また小松菜などを其処にブチ込んでも良いのやもしれぬ。

兎に角飯は何でも煮るのと焼くのが基本である。

 

ちなみにドラッグストアやスーパーで売ってる壱番安いちくわ、此れをフライパンにてじっくりと焼くと實は味が頗る高級な「ローストちくわ」に変身するのである。

此れがまたクソ美味い!

其れが半年程前に初めて「ローストちくわ」を作り口にした時の我が感想である。

 

此の辺の工夫の仕方は我独特のものでおそらくは其の辺の主婦が真似出来ぬ世界をすでに持って居るものと考えられる。

兎に角其のやうに朝からうみゃーおでん飯であったことよ。

 

 

ちなみに我は田舎の物とは大抵の場合相性が良い。

つまりは文明化されぬ物とむしろ相性が良いのだと思う。

 

されど昔は田舎の物は大抵の場合洗練度が低くつまりは田舎臭いものでしか無かった。

だが今は田舎にせよいやむしろ田舎の方が所謂見識、意識が高くある場合があり其れでもって田舎の物も次第に洗練度を増して来て居るものと思う。

 

まさに其処は中國製の万年筆などとも同じやうな現象であり其の中國製の万年筆がもはや馬鹿には出来ぬことと同じやうに田舎の物も格段に良くなって居たりするものである。

逆に最近は都會の文物の化けの皮が剝がれて来て居り要するに其の薄ぺらで洗脳度の高い価値観の部分が馬脚を現して来ても居る訳だ。

 

さて其の都會の価値観の馬鹿の部分はしかしながら治りやうが無いやうにわたくしは思う。

我は都會の奉ずる価値をさうして「馬鹿」の壱言で断ずる訳であり其れも「クソ垂れ」だとも同時に思って居り故に都會の価値とは「クソ垂れの馬鹿」以外の何者でも無く要するに其れは「今すぐに肥溜めにでも落ちよ!」と云うこととなる。

 

 

CNN.co.jp : 空き家があふれる日本、定住希望者には「家をあげます」

実体験:無料で家あげます、地方にある「0円空き家」の真相と現実 | 空き家活用ラボ (aki-katsu.co.jp)

 

 

ー久しぶりに故郷で生活をして感じたことを綴ります。

 

まず、交通の圧倒的な不便さです。自家用車なしでの生活は無理だと考えておいた方がいいでしょう。

 

また、自然の中での暮らしに憧れて地方移住を考える人も多いと思いますが、虫嫌いな人には少々ストレスフルな環境です。都心とは、虫への遭遇率が大幅に違います。蜂やムカデ等の危険な害虫もよくいます。それだけでなく、蛇や蛙、イモリにヤモリ、トカゲなどの生物も目にします。

  家庭菜園をしたり自然を存分に感じる事ができるのはメリット。  

朝日や夕日、草花や木々の香りは素晴らしいです。筆者の暮らす島原半島の凪の海は本当に心が癒されます。田舎暮らしを心から楽しみたい人にはオススメです。

 

物価も安く、ご近所付き合いのお裾分け文化もあるので、生活コストは抑えられます。

 

過疎地のような集落には、その土地土地の習慣やご近所付き合いなど、都会では感じないコミュニティーが形成されています。そのようなコミュニケーションを煩わしく思わず、地元の方との適度な関わりを大切にしながら、生活していく事が重要です。ー実体験:無料で家あげます、地方にある「0円空き家」の真相と現実 | 空き家活用ラボ - パート 3 (aki-katsu.co.jp)より

 

 

さて其の田舎暮らしであるが、無論のこと我も大金さえあれば其れを是非したいところながら現實的には様々なハードルがあり結局出来ないと云うのが正直なところだ。

其処で何故大金が必要となるかと言えば、

 

1.リフォーム代が随分とかかることー思ったやうに家を仕立て上げることには随分と金がかかるー

2.我はまめに動いて家庭菜園などをするタイプでは無いことーむしろ野菜は宅配して頂きたいー

3.其のコミュニティーにてコミュニケーションを取るのが嫌いであるーさうして基本的に人間が好きでは無いー

 

との点より田舎の集落へは行けずよって別荘地暮らしが理想だが其れにも確かに色色と金がかからう。

 

なので最終的にはむしろ「今こそがサイコーだ」とさう思うべきなのではなからうか。

但し此処半年程は股関節だの歯の病の方に振り回されて居り余り自然とは戯れて居ないからおそらくはストレスが溜まって居ることかと思う。

 

 

ー実は、あなたの家のある100メートル四方にも、あなたの行っていない知らない場所は無数にある。地球上全ての国に行くことは難しいが、あなたの住む緑町3丁目のすべての道を歩くことも結構難しい。

自分が育った街なら、子どもというのは(少なくとも昭和の子どもは)そこら中走り回って大人の知らない空き地とかわずかに残された林とか、そういう秘密の場所を見つけて、悪がき連の遊び場にしているものだ。だが、大人になって住んだ街では、そんな探索はしていない。毎日、通勤で駅まで同じ道を通って歩いている。実は、一つ別の街路に外れるだけで、知らない光景が開けている。へえ、こんな所があったのか、と感動する。-そういう経験を、コロナ禍の自宅幽閉生活の中でたくさんすることになった。

 

だが、これは私にとって福音で、自宅周辺の素晴らしい自然、そしてゆったりした街並みの光景をじっくり堪能する機会を得ることができた。どんな街でも、自分の周囲をとくと見つめると心躍る風景、敢えて言えば「観光資源」がごろごろ転がっている。コロナ時代のレジャー、身近な自然と身近な街並みを体験する極上の「行楽」にすっかりはまりこんでしまった。

横丁のアスファルト道路に芽を吹いた雑草にも感動するが、そこまで身近にしなくても、体験した中の極上お勧め、名古屋市東部の身近ハイキングコースを下記に紹介する。ー名古屋東部・裏山めぐり ー東山公園の裏に深い森が広がる | 岡部の海外情報

より

 

此の方は可成に世界を巡られたやうだが最終的に身近な自然の持つ魅力にかうして捉えられた訳だ。

さうして實は其れこそが認識の転換のことである。

人間は普通遠いところにパラダイスがありまさに其処にてより高級な謂わば酒池肉林の世界が繰り広げられて居るとさう信じ込みがちだ。

 

例えば我が國の近代化はさうした西洋文明を壱種神格化してまさに其れを信じ込み其の神と壱心同體にならうとする試み其のものであった。

だが西洋文明はそも矛盾的推進の産物でしか無いものなのですでに廿世紀末には其れが行き詰まり綻びを見せ始めても居た。

 

要するに其れは其のやうに人間としての認識の問題に尽きて居る。

さうして世界中を見て回った挙句に人間は身近なところつまりは「今其処にある場」の眞の意味での価値に気付くのだ。

 

 

曰く、「日本を今壱度 せんたく致し候」名言:日本を今一度 せんたくいたし候 | 坂本龍馬、名言の意味を考えるより

アホか、此の田舎者めが。

 

尚僕は最近近代明治を築きし偉い田舎者共のことをほぼ全否定的に見詰めて居るのである。

 

 

要するに其の西洋近代に対するあくがれ其れ自體が壱種の洗脳であったと云う話のオチである。

でもって僕が今奉じて居る価値であり認識であるものがまさに其の「身近なものの眞の価値に気付く」ことである。

 

其の身近なものとは實存に対し与えられたたった壱つの生の場である。

つまりは其れが現存在に取っての本来的な生のステージなのだ。

 

ところが馬鹿共に限りむしろ其れとは違うステージに焦がれ且つ其処に上がる☆ースタアーが歌う歌なりパフォーマンスなりに熱狂する始末だ。

でもほんたうは其れが虚の価値の世界のことであり眞の価値とは今まさにアナタ自身が生のステージに上がり歌って居る最中だと云うことである。

 

だからまずは其の唯壱無弐である価値、即ち實存としての生の非互換性にこそ気付かねばならない。

ところが近代的に毒された多くの現代人はまさに其のことに気付けずに居る。

 

 

まさに其れが洗脳状態なのだ。

おい、君、ソコをしかと気付け!

 

つまりはアナタ様こそが其のスタア様なのだ。

ゆえに何者も其の生の尊厳を損ねたりは出来ぬ。

 

もしも國家が其れを損なうのであればそんな國家などもう根本から否定してかかるべきだ。

其の現存在の価値の非互換性を価値ヒエラルキーの上部構造ー例えば権力構造ーが剥奪などしては基本的にならない。

ー浸し難い其の個に於ける本来的価値を國家が踏みにじっても良いとする法などは今や何処にも無いが故にー

 

されど現世に於いては「秩序」が人間界=文明を駆動させる原理なので勿論全否定的に其れを扱うことは出来ぬ。

だが極力其れは個として排除して行かねばなるまい。

其れも思想的にと云うよりも本来的な自己を守らんが為にさうして行くより他は無くならう。

 

さて今少し具體的に話をすれば、むしろパラダイスは個としての現存在の身近なところにこそ有る。

其れは無いのでは無くあくまで有る。

 

何故ならさう人が認識する限り其れは有るのである。

逆に申せばさう認識出来ぬ限り其れは無い。

 

 

其の場合はまさに世間の人人の如くに近代的な価値に踊らされ、つまりは永遠に「海の向かうのパラダイス」だの、また虚としてのステージの上のスタアだのに熱狂しつまるところは壱番大切にすべき価値を反故にしてつまりはさうして社會的自我に踊らされ振り回されおおまさに今に満足すること無く虚的な価値に洗脳され生きて行かざるを得ぬ。

 

従って人間の生の目的とはむしろ其の洗脳を解き如何に本来的な自己としての価値を取り戻すかと云う点にこそ尽きて居らう。

まさに左様な観点より我は現存在としての個の今を生きる。

よって飯を食うこともまた山歩きをすることも全ては其の我が哲學を完遂せんが為の修行であり實行の様である。

 

元より世界は不思議なことに満ちて居り其れは多くのことが理論的には解明されぬ矛盾にこそ苛まれて居る。

だが其の矛盾に苛まれし世界こそが眞の意味で美しいものなのだ。

 

さても其の美しいものとは外側に有るものでは無くむしろ自己の内側にこそさうしてしかと有るものだ。

其処からしても所謂パラダイム・シフトー価値認識上の転換ーとは外側に取り必要な訳では無くむしろ我我個としての心のあり方の転換にこそ掛かって居るのである。

 

 

さうか、では何処へも行かずとも良いのですね?

…良い。

まずは己の心のあり方を総括ー総点検ーせよ。

 

では田舎に移住せずとも良いのですね?

いやむしろ我に限り出来れば移住をしたい。

でも金が無いのでかうして常に地元での自転車暮らしである。

 

ではTVに出て来る綺麗な姉ちゃんや海外旅行などに憧れを持つことは愚かなことなので?

むしろ君の傍に居るであらう爺ちゃんや婆ちゃんから昔の話などを是非聞いて置きなされ。

 

其れから寺や教會を訪れ御坊様や神父様、牧師様などに君の疑問などをぶつけてみるのもまた良いことだ。

ならば盗撮などをしてはイケナイ?

 

…金輪際してはイケません。

さらに配偶者を持つことなども出来れば止めて置くべきです。

 

 

おや、こんなところに小さな御🌸が咲いて居ます。

ドレドレ、うはあー、どうも可憐な御🌸だね。

 

其れに🐜の群れなども出て来て居るね。

 

認識が清いこと、其れを清く保つと云うことはまさにさうしたことなのだ。

其れはむしろ+思考による近代的洗脳からあえて離れると云うことである。

 

其れを可能たらしめるものこそが人文理性の力である。

さう宗教的な認識以前に個に取り是非必要とされる力がまさに其の種の全体論としての人文的認識のあり方なのだ。

 

其のやうに常に意識を高く保ち人文理性としての力を磨くことだけに専念せよ。

でも詩人さん、アナタの意識の高さはどうも世間での「意識が高い田舎暮らしの元都會人」の其れとは異なるやうですが…。

 

いやね、我はこんな哲學詩人ですので「恰好=外面的なものだけ意識が高い」系の方方とはまた別者なのです。

故に實際何処に居やうがまるで東京タワー並に意識が高い。

つまりはもはや何処に居てもすでに哲學者である。

 

ちなみに其の東京タワーよりも名古屋の名古屋テレビ塔の方が早く出来て居たと云うことを皆様は御存じでしたか?

 

 

尚文明生活への精神的な依存度は此の消費生活やネット環境への依存度として推し測ることもまた可能です。

ですが我にせよかうした壱種高邁なことを申す割に消費生活やネット環境にはすでに深く浸食されて居ると見て置くべきでせう。

 

されどさうした實態に対抗するだけの理念なり哲學なりは常に持って居る積もりで居ります。

先に引用させて頂いた部分から申せばあくまで其の気付きの部分による認識上の転換こそが大事であり同じ消費依存、ネット依存にせよ其の認識上の転換が有るか無いかで本質的にはまさに別者となると云うことをだけは是非お伝えして置きたい。

 

つまるところ眞理とは其の認識上の転換とは外から齎されるものでは無く心の内側よりむしろ齎されるものだ。

其れも身近なものをなるべく細かく見て行って下され。

 

つまりは全ては其処にありまさに其れが天國であり極楽としての此の世の様なのだ。

ところが其の様は自らの価値観をあえて限定して行かずば見えては来ない。

 

即ち大志を抱くのでは無くむしろ小志に甘んじさらに其の小宇宙の中にこそ己が幸福を見出して行くべきだ。

まさに世の熱狂や大問題とは関係無く常に其れは我我の實存的価値として今其処に咲き競う壱輪の🌸としての幸いです。

 

 

其れってもしや「世界にひとつだけの花」のこと?

 

歌:SMAP

作詞:槇原敬之

作曲:槇原敬之

「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい※

困ったように笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔

名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように

そうさ 僕らも
(※くり返し)

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

 

SMAP 世界に一つだけの花 歌詞 より

 

其の槇原 敬之は薬物依存を繰り返し結局表舞台からは姿を消しましたが此の歌詞が語るところでの思想は常に重要なものとなることでせう。

其の価値ヒエラルキーをあえて設定し其処での上部価値を目指すと云う考え方は壱つの秩序維持としての保守的論理ではあるが最終的にはまさに其の思想こそが國家間での対立までをも引き起こして仕舞う。

 

ですがあくまで現存在としての本来的価値は其のよりデカい価値を誰もが目指すこととはまるで別の処にある。

むしろ誰もが個としてさうして其処で咲き競って居る。

故に其のオンリーワンの価値にむしろ気付けぬことこそが無知であり蒙昧な様でもまたある訳だ。

 

まさに其の比較であり競争こそが近代に於ける価値ヒエラルキーの強化の様でせう。

封建時代は逆に身分秩序の上で価値ヒエラルキーが強固に築かれて居たが近代以降は其れを解体する代わりに人間を評価する形にて其処により強固な差別的価値ヒエラルキーを築くに至ったのだと言えやう。

要するに其れは人間の序列化であり命の序列化でせう。

 

従って本質的には封建時代よりもさらに不平等となりつつあるのが近代社會に於ける本質的な社會構造です。

其の近代的価値に対し自衛するにはさうして誰もが其処でもってたった壱つきりの命の🌸を咲かせて居る事實をかうして提示して行くより他は無い。

 

 

さうして常に熱狂しつつも兎に角全的にNo.1となることを目指さうとする近代的価値観は大元にてむしろ間違って居ます。

故に其れにくれぐれも洗脳されることの無きやう、我我個は常に精神の帆を張りさらに其れを高く掲げつつ歩んで行かねばなりません。

 

まずは身近な価値とは其のオンリーワンの価値其のものであることに我我個は是非気付いて行くべきです。

つまりは其れが抽象的に定義される近代的価値では無く具象的に實存として其処に纏められしほんたうの意味での生の価値其のものなのだ。

 

もっともっと平たく申せば其の種の虚の価値には踊らされずに足元に拡がる唯壱で且つ永遠なる価値をこそ見詰めよと云うことでもある。

近代的価値は我我個に取り常に恩恵を齎す価値其のものですが他面ではさうして我我個を本質的に搾取し続けて居るものだらう。

 

 

完全に蛇足ながら我は今「紅ショウガ天」なるものに凝って居る。

 

80g 紅ショウガ天|おせんべい、あられ、おかきの岩塚製菓株式会社 (iwatsukaseika.co.jp)

そも此れをコノミヤで買って来て食ったところ変なものながら兎に角癖になるやうな美味さがある。

 

店舗情報 | スーパーマーケット | コノミヤ (konomiya.jp)

あれ、関東には其の「コノミヤ」がそも無い!

 

関西人の「もったいない」精神が生んだ紅ショウガ天|NIKKEI STYLE

そんな訳で牛蒡だの山葵だの木耳だの変なものに限り好きな我は其の生姜なども實は大好き♡なのだ。

 

其の変なものに対する耽溺振りが我の場合関西人並にどうやらクドくある。

 

関西ではなぜおでんを「関東煮」と呼ぶのか?|NIKKEI STYLE

父方の祖父はおでんとは言わずいつも関東煮と言っていたものだった。

 

大阪人はなぜカレー好きなのか|NIKKEI STYLE

其の「サンマルコ」は名古屋にも店舗があり昔は屡母が買って来たがまさに独特の味がして居たものだった。

さてもこんなに🍛が好きだと云うことはもしや我は関西系の味覚の持ち主なのだらうか。

またたこ焼きー但したこは食べないーとお好み焼きが可成に好きである。

また🍛にはコーミソースをかけて屡食う。

 

関西人はなぜ関東に比べてマグロを食べないのか|NIKKEI STYLE

 

其のマグロを實は我もほとんど食わぬ。

そもアレはそんなに高級な魚だとは思って居らず大トロなどもさう美味い物だとは思えずで。

 

だとすると我は矢張り関西系の味覚の持ち主なのだらうか。

だが結局我はナゴヤメシが壱番好きなのであらう。

實存的眞實とはまさにさうしたものなのであり其れは「場によって規定されし」唯壱性即ちオンリーワンでの組み合わせを其処に實現し続けるものなのだらう。