こんな非常時ーパンデミックの拡大時ーにあえて筆筆記具ー竹筆記具ーと遊び戯れて居る我
玉川徹「安倍元首相への評価はまだ分かれている」 「国葬」めぐり疑問提示 (msn.com)
おい、ちょっと待て。
安倍が死んでむしろ大喜びの人もまた居るのだからそんな下らぬことに関して拘る必要などは何処にも無い。
左様に認識の方がオカシイと現存在は不幸になるが故に変な認識は是非止めた方が良い。
其れと政治に対してはむしろ「慈悲」の心でもってして接した方が良い。
政治とは社會の矛盾を何とか平衝化せんとする試みのことだが基本的に現存在の手には余るものでありつまりはどんなに優秀な人間がしたにせよ上手くは出来ないものなのだ。
何でかと申せばスケールがデカくなればなる程に現存在が社會的に被る矛盾の度がより酷くなるのでまさに個としては解決不可能な命題が其処に生じて仕舞うからなのだ。
よって空想科学的には其れこそ👽だとか又は神か又は佛で無ければ其れが解決不可能なこととなるのである。
だからほんたうのほんたうは、
政治家さん、ありがたう。
と云うこととなる。
あえて現存在がやれぬものをやる政治家さん方は其の最もイヤなものを引き受けてやって下さるのであるから、
政治家の皆様、どうも、どうも、ありがたう。
と是非「感謝」して置かねばなるまい。
但し誤った政治のあり方に対してはもうしつこい程に批判して置かねばなるまい。
で、其のやうに本心より感謝の思いを捧げつつ他面ではスッカリ馬鹿にして居ても良いのである。
尊敬する⇔馬鹿にする
即ち其れを同時にやれば宜しい。
さてかうして我は家事に追われる毎日を送って居るが要するに其れはやらねば回らぬことなのでさうして居るだけのことである。
だが我は基本的に其の家事が嫌いでは無い。
我は神経が兎に角細かく出来て居るので所謂完璧主義の主婦と似て居て完全に冷蔵庫の中を整理したりまた完璧に掃除機をかけたりすることで其処に喜びを感ずる方なのだ。
尚其の神経の細かさは兎に角我の場合並では無いことだけは確かである。
例えば我は電車や🚇の吊革を壱切使用せずドアノブだの公園の蛇口だのはティッシュで包んで触ることに昔からして来て居る。
つまりは潔癖症と云うことなのだが其れも社會生活をするうちにこれでも可成に変わった方で特に幼い頃などは人が触り呉れたコップには壱切口をつけなんだ。
多分其の頃はまさに掃除が大好きな禅宗の僧並に潔癖症だったことであらう。
我の物理的に潔癖な部分は大人になると同時にむしろ其れが精神化して行ったのだと思われる。
即ち其処で人文學的に潔癖となったのであり其れと同時に物理的に潔癖な部分は少しずつ常識化されて行った。
其れでも根本的には可成の潔癖度を持ち合わせて居ることだけはほぼ間違い無い。
だから故に諸の批判を為すことが基本的に得意である訳だ。
まあ其の批判に関してはまた何時でも出来る訳でかうして根拠の無い自己の批判力への自信だけは持ち合わせて居るのでまさに其の点では誰にも負けやうが無く要するにまた特別に困った奴である。
だがさうした大口を叩く面の裏に嗚呼まるで少女の如き可憐で壊れ易い心を持ち合わせて居るのでポキッと急に心が折れ再起不能に陥って居たりもまたする。
でも其の再起不能でも何でも現實を回さないとならないので其の鬱状態に鞭打ちお買い物にまた掃除洗濯にと奮闘するうちに其の鬱なのをも忘れて仕舞う訳だ。
どだい鬱と言えば人生其のものが其の鬱其のものであるのであえて鬱だと言わずともむしろ全部が鬱だとさう思って置けば気が樂になると云うものだ。
逆にヤル気壱杯の人には是非お尋ねしたいのだが2100年まで地球の生態系が持たぬ可能性が高いと云うのに何でまた其処で其の変なヤル気を出して御座るのだ?
其処にて正しくはかの高村 光太郎氏や加島 祥造先生の如くに田舎にて独居隠棲しおおまさに其処にて文人として生き詩集の壱冊でも世に遺す位のことがむしろ壱番其の状況に似つかわしい生き方であらう。
即ち其の鬱もまた精神としての正常での範囲内でのことだ。
対してほんたうに気が狂うとまさに見た感じでもってほんたうにオカシイものなので藝術の面やインテリジェンスの上での逸脱の仕方はまた其れとは別物だと見て置く方が良い。
例えば昔父方の親類に分裂病の🚺が居て其の人は我が小学生の高学年の頃に電車に飛び込み死んで居る。
また母には兄が居たが其の子供だった頃の母の兄が星崎と云う駅で電車に跳ねられ死んだのだった。
其れも祖母の目の前で跳ねられ死んだのである。
其のやうに此の世の中のことはまさに色色とあり其れこそ理性だけでは捉えることの出来ぬ不条理だの不幸だのの連続だと見て置く方が良い。
個人的にはそちらの方ー實存としての苦ーをこそ観察して置くのが文學の役割だと考えて居りよって安倍の業績がどうのかうのと云うことなどはむしろどーでも良い話なのだ。
人生はまさに其の不条理だの不幸だの矛盾だのがゴタ混ぜでの壱つのステージだ。
そんな猥雑で且つ信用のならない所である。
逆に言えばそんな信用がならぬステージであるが故に考え方なり心の持ち方を整えて行かねばならぬのだらう。
まさに其れがわたくし流の心の面での合理化なのだ。
さて本日は買い物を済ませてからまた洗濯や🐈のエサやりとまた忙しい限りである。
おまけに筆筒の洗浄をして多くの筆筆記具をも同時に洗った。
其の筆筒にはカヴァーが付いて居ないので弐、参箇月で筆記具が汚れて仕舞う。
尤も其れ程汚い訳では無いのだがあくまでわたくしの感覚からすれば其れは汚いのである。
我はかうして何でも洗うクセがあり其れこそ日頃使うナップザックや腕時計、さらに靴に至るまで兎に角定期的に洗って居る。
其処では主にミューズ石鹸か其れに類する物にて洗うことが多い。
尚炊事用の洗剤などは界面活性剤が使われて居り其れが家庭から排出された後に環境を汚染する虞が高くあるが故に我の場合基本的に使わない。
さりとて石鹸でもエコ石鹸でも無い限りは余り環境に取り良いものではなからうがまさかソコまでは潔癖な我にせよ対応など出来ぬ。
またシャンプーなども我は使わない。
シャンプーもまた環境を汚染する可能性が高くあるが故に参拾歳位の頃から使うのを止めた。
そんな訳で元元潔癖に生まれついて居る人は自然とさうなって行くものなのである。
おそらく我は左翼の田舎暮らし派の人人と比してもおそらくは負けない程に潔癖であることだらう。
またつまりは余り常識には捉われずに自分でもって此れは〇、或は✖だとさう判断して行く人間なのである。
其の辺りのことを壱言で評せば要するに考える対象として判断する価値が世間にはまるで流されて居ない訳だ。
尚其の筆筆記具の類とは拾年程前から自分でもって拵え日頃から愛用して居る謂わばオリジナル筆記具である。
其れも壱言で言えば筆の軸にペン先ユニットやボールペンの芯を組み込んだものだ。
筆の軸は普通竹であり故に竹製の軸であることが多いがたまに木や樹脂製の軸のことなどもまたある。
例えば、
くれ竹 スペアーインキ式シリーズ|商品ラインアップ|くれ竹筆ぺん - 株式会社呉竹 (fude-pen.com)
こんな軸を使うのである。
また拾年程前ダイソーには天然竹の筆が其れこそ何処にでも置いてあったが残念ながら今は無いやうだ。
故に当時買った其の天然竹の軸にペン先ユニットやボールペンの芯を組み込んだものが其の筆筆記具のメインでの物となる。
尚所謂書道で使う筆は概して高価なものである。
だが我は其れには基本的に手を出さない。
つまりは其の百円筆でもって充分なのだ。
其の代わりに当時は店舗を幾つも回りしかも時間をかけ吟味しつつ其の筆を選んで来て居る。
ところがたとえ百円筆でも天然物なので非常に多様性がある。
同じ百円筆でも色合いや形が其れこそ千差万別である。
ところが筆に興味が無い人からすればそんなダイソーの百円筆の多様性のことなどまさにどーでも良いことなのだ。
然し我に取りむしろ其れは大事なことだったのだ。
其の筆筆記具が今や五拾本位はある。
また筆の侭で弄って居ない物もおそらく五拾本はあることだらう。
筆筆記具のコンセプトとしてはまさに和と洋の筆記の合體である。
西洋のペン先やまたボールポイントと中國産ーが多いのではないかと思われるのだが他の國の可能性もまたあるので亜細亜産ーの竹の軸との合體である。
其れも其のことを金をかけずにやるのである。
こんなに高い物では元より無い。
当時は何処のダイソーでも百円でもって売られて居た物だ。
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個人的には此の木の軸でもって是非万年筆化してみたいところだ。ー軸の形が面白い、要するに玄人好みであるー
尚筆の穂の部分は鋏やカッターで切れば勿論取れる。
筆の内部の毛も何とか取り除けば後はペン先ユニットを付ければ付けペンや万年筆化することが出来またJS芯を組み込み最新の書き味としてのボールペン化することなども可能である。
さて竹の軸は超軽量なので長大な軸とならうとも所謂筆記バランスは崩れぬのである。
極端な話25センチ位の竹の軸とならうとも基本的には普通に筆記出来る。
其の竹の軸の筆記具を使うことは、特に夏場に其れを使う事はまさに涼やかであり最高の気分である。
画像にて是非お見せしたいところながらまだ写眞が撮れぬので其のうちには是非ともと思う。
筆筆記具で特に相性の良いのがむしろボールペン化することだ。
何故ならボールペンは元元筆記角度が高いものなのだから。
また其の運筆の方も結局角度が高くある。
要するに筆の軸を寝かせ書くのでは無くむしろ筆の軸を立てて扱い運筆するのが書道による書き方なのだ。
要するに我は西洋流の硬筆筆記の中にも東洋に於ける筆記の要素を是非組み込んでみたかったのだった。
我が万年筆のことを書いて居た弐拾年~拾年前の頃はだがまさかそんなことを言ったりやったりする人はほぼ居なかったやうに思う。
其れでも我はかうして其れをやり続けて来たのであり、でもって其の試みは確かに我に取りー自分に取りー最高の試みだった。
つまりは其の竹軸のボールペンこそが現代の工業製品であるボールペンなどよりもずっと趣があり良い物なのだ。
とは言え画像を付けぬと分からぬことかと思うのだけど、其れは日本の文化で言えば例えば茶杓のやうなもので其れこそ非常に奥深い世界の物なのでもまたある。
筆記具はさうして「自己化」することさえもが可能だ。
まさにソコが筆記具に於ける長所であらう。
例えばもしも我が今わの際に筆記具を壱本選ぶのだとしたらおそらく其処ではそんな自製の竹軸のペンを壱本選ぶこととならう。
其処からしても現代の筆記具にしかと設えられた価値ヒエラルキー其れ自體が我に取りもはや意味の無いことなのである。
さて其れで今世間ではまたパンデミックの急拡大が起きもはやエライこととなって居るがわたくし個人としてはほぼ無視して居るに近い状態である。
そんな我は壱回もワクチンなど打って居ないが今もかうして至って元気である。
其れは何故かと申せば世間と違う価値観にこそ生き此の非常時によりにより竹筆記具と戯れて居るからなのだ。
但し精神の方は何時もの如くにモヤモヤとはして居るがあくまで其のモヤモヤも其のやうにモヤモヤを生じさせる文明の方が悪いのであり僕自身としてはむしろ正常な反応をして居ると常にさう考えて居るので世間の動向には本質的に振り回されぬ生き方をして居るのである。
だからパンデミックは確かに大変さうだがあくまで我自身としては「ああ、さうでしたか、其れは結構大変ですね。」なのである。
なのであくまで僕自身は今日其の筆筆記具を使う喜びにむしろ満たされまくっておるのだった。
さて今日はコノミヤで盆用品としての「松明」=松系の材の木片が売れられて居て勿論其れを買って来た。
だが其れを御盆に使うと云うのでは實は無く単に燃やして遊ぶ為に其れを毎年買って居るのだ。
もはや僕はこんな具合にまるで子供の如くに遊ぶ壱老人なので酒だの女だの金だの車だのギャンブルだのにはまるで興味が無いのである。
いやあー、まさに此れぞ寒山であり拾得の境地であるか。寒山拾得圖 - 每日頭條 (kknews.cc)
つまりは其の遊ぶことで全ての憂さを晴らして居るのである。
は、御勉強の方?
勿論其れもして居りますのですよ。
其れも難解な現代思想の解説本を今丹念に読み込んで居ります。『現代思想入門』(千葉 雅也):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
全くのところ此れは素晴らしい本だ。
但し現代社會の抱える問題とはすでに其の思想云云以前での具象的ー物理的ー破壊の側面でせう。
要するに思想以前に人が倒れたりまた戦争により大勢の人が死んだりまた気候変動で凶作となったりする問題の方でもはや社會が思想をシフトするにせよ其の破壊には間に合わぬ可能性が高くある。
だからむしろかうして個として適当に遊んで置きませう。
結局かうして現代社會には気付きの力が無く目覚められなんだのですから。
兎に角個としてはあくまでデカいストレスを溜め込むこと無くなるべく樂しく生きて居る方が良い。
但し悩みの方もまた壱方では必要だ。ー精神の進化(深化)には悩むことが是非必要であるが故にー
尤も其れはあくまで文明を悩む悩みの形であり自分を悩む悩みの形のものではありません。