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文明批判と美と心の探求と

灯油の巡回販売のオジサンより學んだことー我が守り抜くべき實存の内容ー

2.灯油の巡回販売のオジサンより學んだことー我が守り抜くべき實存の内容ー

 

 

 

 

さて僕の悩みとは昔からかうして壱種観念的なもので其れは所謂世間的な意味での具體的な悩みとは傾向の異なるものでもありました。

 

其の本を読むのはすでに小学生の時分からのことで従ってもう半世紀以上に亘りそんなことを続けて来た訳です。

なのですがひとつ小説でも書いて賞でも取ったらうだとかさうした建設的な文學的見地に立って居る訳でも無く實はもっと根源的な問題を此の頭の中でグルグルと弄繰り回して居る訳です。

 

其れもまあ本気になればある程度はイケるのやもしれませんが僕の場合はもっと詩的な問題即ち哲學や宗教からインスパイア―される部分をこそかうして考え込んで来て居る訳だ。

但し其の観念的なものに特化した悩みのあり方は今むしろ社會のあり方の根本課題として普遍化されて来て居るかのやうで、ソコがむしろわたくし自身にとってはやっと世間が自分の悩みの方に近づいたのかな?などと思うこと頻りであります。

 

 

で、其の世間的な意味での具體的な悩みと哲學的、宗教的な悩みとの間には實は本質的な差異など無いのです。

其のことを教えて居るのがまさに佛法であり、また其の佛法にも色々とありませうが釈迦による原初の教えと其の後の変質した大乗佛法をも全てひっくるめて佛法の教えであるとさう捉えて置く方が良いことでせう。

 

哲學的、宗教的な悩みー抽象的精神的で高尚な悩みー⇔世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みー

 

まあ下賤とは申しましたが其れもほんたうは下賤なのでは無くまた精神的なものが高尚であるとは必ずしも言い切れない。

但し精神的なものこそが人間自身の歩むべき道筋を指し示して呉れることでせう。

 

其の意味では其れを是非大事にして置かねばならない。

ところで僕の悩みとはむしろ世間には其の精神の場を大事にする感覚が欠けて居たことです。

 

故に僕は悩みを悩んで居るのでは無く世間の無知に対しもう長いこと悩まされて来た。

対して僕自身は自分の認識には自信がありむしろずっと其れを信じても来て居た。

 

 

さうかうと相変らず屁理窟をこねて居りましたら昼過ぎに灯油の巡回販売のオジサンがまたやって来た。

其のオジサンが兎に角面白い人なので拾分程も話し込んで仕舞いました。

 

オジサン、ところで京都には帰ったのですか?

 

其れが雪も降りまたどうたらかうたらで結局元日に帰りまたすぐにこちらへと戻りましたところです。

京都の神社へは行きましたか?

 

どうもそんな余裕は無かったやうだ。

私は元元電気工事士で冬場の閑散期に此の仕事をやって居るのです。

 

エッ?蟹屋ではなかったのですか?

蟹屋蟹屋で電気工事は電気工事です。

 

今日は何時まで働くのですか?

七時頃までは。

 

 

此の寒いと云うのに大変ですね。

いえ此の灯油を皆さんが待って居るので…。

 

だから灯油缶をマンションの四階や五階まで持って行くのだから。

 

うわっ、其れは厳しい。

 

 

でも女房子供を食わさないといけませんので。

ところでアンタ幾つですか?

 

五十七です。

何だワタシの方が五つも上じゃねえか。

 

でもオジサンは丈夫でいいなあ。

ワタシなどはもうボロボロでまた余計に精神の方も使う性質ですのですでに引退して居ます。

 

アレッ、でも頭が黒いから若いですよ。

ー其の爺は何せ頭が白いので確かに七拾歳位にしか見えないー

 

 

要するに労働とは常に厳しいものだ。

 

労働はさうして普通人間を本質的に規定するものなのだ。

また妻子があれば我のやうに観念を生きることなどはとても出来ない。

つまりは世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みーをこそ生きて行かざるを得ぬ。

 

哲學的、宗教的な悩みー抽象的精神的で高尚な悩みー⇔世間的な意味での具體的な悩みー具體的肉體的で下賤な悩みー

 

すでに此処に於いて其の高尚と下賤の価値分別は崩れ去らざるを得ない。

僕は観念を生きるんです、と云う其の我が価値観は其の京都の出稼ぎジジイの生のあがきによる圧倒的な迫力に押されほぼ死にかけて居る。

 

 

つまるところ労働とは観念には非ず。

まさに其れは肉體によるあがきである。

 

肉體には飯がどうしても必要でまさに其れを得んが為にかうして四苦八苦しつつ世間の人人は働いて御座る。

尤も我も亦其の轍を踏んでは来て居る。

 

確かに其の労働こそが我に取り究極的な試練でもあった。

だがもはや適当に其れを終わらせて仕舞った。

 

で、うまい具合にさうなった途端あちこち體が壊れて来た。

 

 

さても京都の何処の人ですか?

山科です。

 

其れも京都では弐度程死にかけた。

 

エエッ?

其れは壱體どうしたと云うのだ?

 

壱度は自転車で走行中に車に跳ね飛ばされて右の尻の方から地面に叩きつけられ死にさうになった。

また歯が悪くて其処から黴菌が入り其れで首を手術し入院する羽目となり危なかった。ーさう言いつつ首の大きな傷跡を見せるー

 

 

うわー、凄いネタだ。

是非ソレを使わせて下さい。

 

ネットでもって逐壱ソレを書きますので。

其れでは灯油の巡回販売の京都山科在住の57歳のオジサンがかって経験した災難と云うことで宜しいのですね?

 

嬉しいな、是非書いて下さい。

では書いてるソコを教えて!

 

いや、ソコはね、主に旧仮名でもって書かれしかも内容が堅過ぎて壱般人が視るやうなところではまるで無いのです。

よってもう少し壱般的なものにしてからお伝えすることにします。

 

 

まあ僕も色色と此れ迄にありましたのですがむしろさうした具體的な災難の類では無く大きいのはむしろ精神的な苦しみの方でした。

ー但し我にも色々と災難がかって降りかかった。1.学生の頃に山の中で狂走しカーヴを曲がり切れず車を潰したこと2.15年程前に赤信号無視ー運転者は高齢の🚺ドライヴァーーの🚙に突っ込まれ車が大破したことー

 

個人的には精神的な苦しみの方がより御上品だとはまさか思えず逆にグオー、ギャオーなのはソチラの方ではなからうかと屡思ったりも致します。

逆に其の闘争の範囲、悩みを齎すものの範囲が具象的である分現實的な悩みの方が救われて居るだらう気さえもが致します。

 

精神的な悩み苦しみはまさに其の意味ではよりタチが悪い訳です。

ですから其の精神の追求者であったかっての文豪連中が何故か情けない死に方を選んで居たりもまたする訳だ。

 

 

其れに現代では其の精神的な悩み苦しみを和らげて貰おうとしてカウンセリングへ通ったりすれば其処で火を点けられて悶え死ぬ虞さえもがまたあるのです。

 

しかしながら庶民は皆さうして頑張って生きて居ります。

其処ではまさに観念もクソも無く善も悪も無いのであります。

 

要するに全てが生きんが為、飯を食わんが為の闘い其のものなのだ。

 

 

さて悩みにはさうして抽象的に齎されるものと具象的に齎されるものとがある訳だ。

抽象的⇔具象的

 

本質的には其の価値としての優劣は其処に無く相互に入り組んだ悩み又は苦を其処から生じさせて居るのであらう。

だが抽象的な悩みに係ううちに具象的な悩みの重みをしかと思い知らされる瞬間と云うものが人生には屡出て来るものだ。

 

逆に具象的な悩みに係ううちに抽象的な悩みの重みをしかと思い知らされる瞬間と云うものも人生には屡出て来るものなのだらう。

即ち抽象的な事柄=観念には具體性ー現實味ーが欠けて居り具象的な事柄=生活には抽象性ー観念性ーが欠けて居るのである。

 

其のどちらかの優劣を其処に競うべきでは無くむしろ其れをありのままに見、其れを己としての性質にあえて取り込んで行くことこそが事の全体性を回復する為の壱手段なのではなからうか。

即ち、

抽象的に生きる者には現實味が無く、

逆に、

具象的に生きる者には観念性が欠けて居る。

 

無論のこと個人的には前者の世界をもう長いこと生きて来た。

であるが故に今の私は何でも述べることが出来る。-何に就いても語ることが出来る-

 

しかしながら其の世界には多分に「待った無しでの生へのあがき」のやうなものが欠けて居るのやもしれぬ。

だがわたくしは今日其のことをまさに彼京都のオジサンから學んだ。

 

 

尚私は其の事を家に居据わる🐈共からも學びつつある。

言うまでも無く猫共の生に観念などは無い。

 

勿論感情はあるが彼等はまさか観念では生きて居ない。

其の打算無き生はされど壱面では美しい。

 

さうして運命に従い生まれ且つ死んで行く彼等の生は我が實存に対し何ら劣るところが無い。

 

我我人間の生にとっての眞の意味での目的とは其の観念性の齎す波と具象性の齎す波との双方に身を委ねてみることではないのか。

さうだ、おそらくはさうなのであらう。

 

 

故にどちらかに偏ると魔道へと堕ちるのであらう。

とは言え我にはそんな重い灯油缶を四階、五階のマンションまで運ぶ體力などもはや無い。

 

さうか、では矢張り観念的な意味での世直し=価値観を正すこと、もはや其れしか無い!

さうしてたとえ何が起きやうとも動じない認識力を自ら得るのではなかったか。

 

でもそんなお前が世直しなんぞ出来る柄か、此の悪たれ詩人めが!

さうでした、世直しなどでは金輪際無く其の悪たれ詩人の心の改造こそが是非必要なのでした。

 

其の「生へのあがき」こそがまさに具象的な意味での人生の眞實だ。

だが我は其れを見据えた上で是非認識論に於ける是正をこそ展開してみたい。

 

まさに其れが生活力と観念力の相剋であり相即を図ることなのだ。

さうして結局は其のどちらもが大事だと云うことなのでもまたある。

 

 

生に対し眞摯であればある程にさうして労働に対しまた思考に対し眞剣になって行かざるを得ない。

だがどうなのだらうか?

今此の世では其処まで眞剣では無くとも大金を稼いだりして居るケースなどもまたある訳だ。

 

むしろほんたうの意味で正されねばならぬこととは其の種の不公平であり不平等なのではなからうか。

また労働のあり方に関しても普通に働けば普通に食えるやうな社會を築き上げることこそがむしろ当たり前のことだらう。

 

 

ちゃんと飯を食って働いて下さいな。

いや飯なんぞ食ってる余裕は無いですよ。

 

朝もまた昼も忙しく食えないのだし夜に少し食うだけのことでして…。

 

さても何と云う厳しい労働なのであらうか。

まさに我が甘ちゃん振りこそが何処ぞ間違って居たのではなかったか。

 

 

わたくしが陥った其の甘ちゃん振りには確かに生活力即ち妻子を養うだけの肉體力が欠けて居る。

いつしかさうして我は観念を生きる者となって仕舞って居る。

 

だが今の私にはもはや其れしか取柄が無い。

わたくしはわたくしなりにかうして観念を生き何かを世に問うて行く他に道は無い。

 

 

観念もクソも無く善も悪も無い生きんが為、飯を食わんが為の闘いとはまさにさうしたことであった。

また多くの人人がまさに其のやうなギリギリでの闘いを強いられて居る訳だ。

 

其の實存としての闘いに口を挟む余地などどんな藝術にもまたどんな哲學にも其れは無い。

まさに其の生きんが為の闘いこそが其の侭に文學であり且つ宗教ですらある。

 

そんな訳で我は今日其の灯油の巡回販売の京都人のオジサンから多くを學んだ。

其れは私に取り眩しく感ぜられるやうな👪を守る為の労働の尊さであった。

 

 

さらに所詮は其れが出来ぬわたくし自身の不甲斐無さでありまた其れを覆う観念の檻の根深さに気付かされた訳だ。

 

まあさう深刻に捉えるな。

所詮お前には守るものなど無いのだから…。

 

そんな余計に落ち込むやうなことを言うな!

僕ちゃんにも守るものならちゃーんとあるわい。

 

例えば🐈でしょ、其れに石でしょ、其れに本でしょ、さらに万年筆でしょ。

そんなもんは守るやうなものではないぞよ、あくまで常識的には。

 

 

うわあー、結局やってもうたのかな。

もう守るものさえ我には無いのだ。

 

だからもうそんなに深刻に悩むな。

ほうれほれ、美味しい納谷橋饅頭だよ、其れに新春特製海老天丼だぞ。

 

「納屋橋まんじゅう」の製造・販売が終了 名古屋名物に開店前から約100人が列「30個買いました」(メ〜テレ(名古屋テレビ)) - Yahoo!ニュース

 

とのことで、其の納谷橋饅頭は今後無くなります。

納谷橋饅頭は炭焼きをしますとウソみたく美味くなりましたものです。

 

 

だが生の上での闘いとは具體的肉體的に語られるものばかりなのではあるまい。

我はかうしてひとつの精神の道を歩むのだから。

さう決めたのだ、いやいつしかさうなって仕舞ったのであるから。

 

抽象的精神的でしか成し得ない道をあえて選んで生きて行くこと、まさに其れこそが我が守り抜くべき實存の内容其のものなのだ。