目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

認識論の上での現代文明のリスクに就いてーみんなでもって渡る赤信号のリスクとは?ー

9.みんなでもって渡る赤信号のリスクとは?

 

 

 

 

前澤友作氏 死ぬまでにやりたいこと「地球上からお金をなくしたい」ワケ (msn.com)

全く仰る通りで、其のあくまで抽象的に規定される価値其れ自體が生じさせる矛盾にて諸の破壊が促進されて行く訳です。

故に最終的には社會的価値と云うこと其れ自體がむしろ矛盾を最大限に加速させて行くことだらう危険極まりない価値とならざるを得ない。

よって其処からはむしろ努めて距離を取るべきです。

 

ところが壱般的な認識に於いてはむしろ其れとは別に社會の価値観こそが大事であるとさう捉えられて居る。

従ってまさに其れこそが精神の自立性が失われた状態即ち洗脳され切った状況でもある訳だ。

 

社會がどんな状態であれ大衆的思考ー凡夫による価値判断ーとは常にそんなものです。

謂わば其れが🐵山のボス🐵には従わねばならぬとさう本能的に規定するところでのお🐒サン並の思考なのだ。

 

 

ですが僕に限りそんなケモノで居ることにはガマンがならない。

何故なら僕はかうして文人なのだしどうしてもみんなとは違う。

 

兎に角僕はそんなケモノじゃ無い。

そんな本能モロダシには絶対になりたくない。

 

ところがもはやみんなはむしろ自分等の方こそが高級な人間でありあんな自己中心詩人こそがウソ野郎だとさう思って居るのです。

 

でも其れでも良いのですかねえ?

其れではイケナイのではないですかねえ。

 

 

さて本日久し振りにサンデーモーニングを視て居たところ寺島 実郎 - Wikipedia氏が現状で社會又は人間に危機感が薄いこと其れ自體が問題だとの鋭い意見を展開されて居ましたがまさに其の通りでせう。

此の方が矢張り早稲田大を出て居られ常に筋の通ったことを述べられる非常に頭の良い方なのだと拝察致します。

 

ぢちらかと申せばわたくしもまた現代社會が抱えるリスクの最大のものは其の大衆社會が生み出す本能モロダシでの反知性主義の部分にこそあるとさう考えて来て居ります。

故にこそかうして其の大衆の意識改革の壱環としての認識上の転換を訴え其れを實行すべくかうして書き綴って来て居る訳だ。

 

また生命學者の中村 圭子氏がリアルな世界と架空の世界との間に横たわるケジメの無さのやうなものに就き述べられて居り此の部分もまた大いに参考となりました。中村桂子プロフィール | JT生命誌研究館 (brh.co.jp)

まさに謂わば其れが具象的に齎される価値と抽象的に規定される価値との齟齬であり剥離の問題なのやもしれません。

 

 

以前にも申しましたが人間は世界を抽象的に見詰めることの出来る唯壱の現象です。

まさに其の能力こそが🐵などとは違う知性的価値なのです。

 

ですが其の知性的価値には正と負の側面が必然として生ずる。

また具象的自然的な価値の方にもまた正と負の側面が必然として生ずる。

 

ところが具象的自然的な価値の方では其の負の価値即ちリスク其れ自體が自然界の内側でのリスクであるに他ならない。

だが人間界でのリスクは元元自然と対立したものであるより他は無い。

 

何故かと申せば其れは人間の欲望はたとえ其れが正当なものであれ抽象的に構築される社會システムに従う限り其れが無制限なものー自然と云う限界を超えるものーと成らざるを得ないからなのだ。

つまりは其の抽象性其れ自體ー人間の大脳新皮質が可能ならしめた進歩と発展と云う抽象的価値ーにより逆に具象性ー自然が齎す現象ーは破壊されて行かざるを得ない。

 

ですので文明が進めば進む程につまりは此の歴史過程が過ぎ去れば過ぎ去る程に其の抽象性の齎す自己矛盾はより増幅され最終的には全的破壊を生じ文明は自滅に至りませう。

其れを具体的に申せば、

 

1.環境破壊=物理的な人為的破壊

2.ー核ー戦争=抽象的な人為的破壊

3.人類の阿呆化、馬鹿化=精神の人為的破壊

 

の参点に絞ることが出来る。

 

 

ところが今まさに此の参要件が共に危ない段階へと進みつつあることを知る者はおそらくは全人類の壱割にも満たぬことでせう。

 

でもって1.及び2.は結局社會ー文明ーが仕出かすことですので我我個は究極的には何も出来ないこととなる。

故に3.の人類の阿呆化、馬鹿化つまりは精神の崩壊を何とか食い止めませうと云うのがまさにわたくしの論理であり提言の内容です。

 

また要するに其れが人類にとっての認識論的な転換を迫られて居ると云うまさに其の切迫した状況なのだ。

 

 

但しむしろ此処から私の言うことを良く聞いて下され。

確かにかうしてわたくしはたった今世界が危ないことをかうして声高に叫んで居ります。

 

でも其れは社會のあり方が悪いからさうなって居ることに過ぎません。

では常に其れにかかりきり悩んで居る必要があるのでせうか?

 

實はむしろ其れは其の必要の無いことです。

何故なら其れはあくまで社會が悪いが為のことなのであり我我自身が悪いのでは無いのだから。

 

でも人間はあくまで社會的動物です。

ですので其の社會と完全に縁を切り生きて行く訳には行かぬ。

 

 

まあ尤も其れは田舎の壱軒家の生活者や仙人画家や隠棲詩人などにはある程度可能なのやもしれない。

ですが其れはまさに夢みたいなことであるに過ぎません。

 

我我はさうしてむしろ社會的に規定されざるを得ないまさに🐜の如き現象である。

なのだが我我は🐜である前にまた🐒である前に人間である。

 

人間とは何かと申せば其れは「考える現象」のことだ。

其の考える能力だけがむしろ突出した現象である。

 

 

其れが何で🐜の群れになどなって居ますか?

何でまた🐵の群れになどなって居ますか?

 

アンタら其れでも人間の積もりなのかい?

アンタら其れでもちゃんとした理性の持ち主なのかい?

 

だから其の理性と云うものはまさに僕が此処にて示して居るやうな其の御勉強に対する態度、其の學びへの不屈の闘志其のもののことですよ。

つまりはさうして何度倒されても立ち上がるまるで「明日のジョー」の如き闘魂のことだ。

 

或は「巨人の★」の★飛雄馬の如き不屈の闘志のことだ。

 

イキナリまたそんなアニメの話になど振って仕舞って良いのですか?

其れも眞面目な文明の御話でせう?

 

いやだから其処は至極眞面目なのだ、僕自身はかうしてもうぶっ倒れさうになる程兎に角眞面目だ。

 

 

むしろ不眞面目なのは君等の方だ。

君等は「社會は偉い」と常にさう信じ込んで居やう。

 

だからまずは其れが間違いだ。

 

故にまずは利口になる為に認識上の価値転換を為して行かねばならぬ。

なので其の社會より与えられて居るであらう価値を須らく疑わねばならぬ。

 

もしや其れが眞の意味での「考える」と云うことなのですか?

さうだ、「考える」と云うことはそも疑うことで、疑うことこそが其の「考える」ことだ。

 

 

するともはや現代人に其の自立的な思考其のものが欠けて居るとさう仰るので?

さうだ、自立的な思考其のものが欠けて居るのでさうして社會の出来事に壱喜壱憂し振り回されておる。

 

其の洗脳状態から★ 飛雄馬かまた矢吹 丈の如き根性にて其れを解き其れこそ自分の考えでもって立ち上がれとさう言って居るのですね?

…良くぞ我が言わんとするところを理解したな。

 

つまりは3.の状態からは早う脱せよとさう述べて居るのである。

さすれば己自身の価値観を其処に築くことが出来其の地点より社會現象を包括的に捉えられるやうにもならう。

 

 

其れが出来るやうになればむしろシメたものよ。

つまりは其処にこそ我我にとっての認識上の転換が図られるのだ。

 

うーん、でも何だか抽象的な御話ですね。

だから何度も言って居るやうにまさに其の抽象的な能力を持て余すが故に人類ー文明ーは次第に苦境へと陥って行く訳だ。

 

其の抽象的に齎される苦境を打開するには弐つの方法しか無いこととならう。

 

1.抽象に抽象を重ね自己矛盾を圧し切る=より人間らしく解決を図る

2.自己矛盾する抽象性其れ自體を放逐する=人間であることを辞める

 

 

わたくしが述べて居るのはあくまで其の1.のやり方の方である。

対して2.のやり方の方こそがお釈迦様やキリスト様が説かれて居たことの方である。

 

 

さうして其の自立的な思考能力を確立することこそが1.での解決法のことである。

より具體的には、

 

a.科学技術の進歩をさらに加速させ社會的に社會的自己矛盾領域を圧し切る

b.人文、社會科学の知を総動員し個として社會的自己矛盾領域を圧し切る

 

となるであらう。

 

無論のこと自然科学の立場はa.であり対するわたくしの立場はb.である

また言うまでも無くb.の立場とは認識論上の転換を自律的に行うと云うことだ。

 

a.の場合は文明の継続の為のより抜本的な対策であるが成功の可能性は今ですら五拾パーセント以下である。

其れが拾年経過すれば四拾パーセント、弐拾年経てば参拾パーセント位と次第次第に落ちて来やう。

 

大體半世紀後で可能性は零つまりは文明の全的崩壊へと至ることであらう。

 

 

b.の場合むしろ文明の継続は前提としないまさに知的な意味でのカタストロフィの乗り切り方のことだ。

つまりは「社會は治しやうが無いので其れを自分で見切り自分の知を完成させるべく生きて行く」為の認識の仕方のことである。

 

「たとえ社會が滅ぼうがどうしやうが認識としての我が道を行く」

 

とのことである。

なのでコチラの方では必然的に御勉強が中心の生き方となる。

 

従ってまずは本代がかさみさらに独善的になり易いので融通が利かずで結局社會からは見放されやう。

だが場合により其処には作家や大學教授となる可能性が常に残されることであらう。

 

が、コノ道こそが例えば宗教に入り全財産をお布施したりすること無く至極理性的に生きて行かれるほとんど唯壱の道なのだ。

だが無論のこと其処には知の∞地獄へと堕ちる可能性が無いでも無い。

 

其の場合はヒラリと身をかわしむしろ宗教へと救いを求めて行くべきことだらう。

まさにわたくし自身の精神的スタンスがさうしたところにこそある訳だ。

 

 

要するにa.の状況を壱種冷ややかに眺めつつb.の方向性をこそ突き進めて行くのである。

其れがやれて居れば、其の3.人類の阿呆化、馬鹿化=精神の破壊からは逃れられやうから今度また生まれなおす時には🐵や🐜にはならずに済む可能性さえもが高くあらう。

 

なる程、まさに其れがアナタのリスク管理だと云うことなのですね?

まさにさうなのだ、だから僕にとって文明が生じさせて居る大リスクの数数などむしろ屁でも無いのだ。

 

逆に苦しいのは「人類の阿呆化、馬鹿化=精神の破壊」の體制其のものに自身が組み込まれて仕舞うことなのだから。

以上にてわたくし自身が考えるところでのリスク管理としての認識上の立場に就き述べさせて頂きました。

 

 

さて昨日我はかかりつけのクリニックへ行きましたが今はお医者さん方も大変で私が診察を待つ間にもコロナ感染の疑いのある患者が来て其の人はクリニックの駐車場に造られたビニール貼りの救急診察室に入るのですが先生ー中学の先輩ーもまた完全防備の姿に変わり其の都度診察を行う訳です。

其の後スーパーへも行き「スペースアポロ」を早速買い占めて来たのだったがスーパーへ行くと兎に角体調が悪くなります。

 

そんな折に効くのはマスク内にアルコールでベトベトにしたキッチンペーパーを仕込み壱時間程其の侭で呼吸して居ることです。

さらに柑橘類も良いやうで、わたくしの場合は檸檬を丸ごと水や炭酸水に浸け込み其れを常に飲んで居ります。

 

其の檸檬水を飲みつつ「スペースアポロ」を食ってみたら其れがまた異常に美味かったものです。

 

さうした具體的な話とはまた別に現代文明に今突き付けられて居ることが抽象的にもありまさに其れが個としての認識上の転換であらうとわたくしは考えます。

初めに述べましたやうに「抽象的に規定される価値其れ自體が生じさせる矛盾にて諸の破壊が促進されて行く」状況とは結局認識上の問題であるとしか申せません。

 

 

ですので壱見具象的被害其のものであるやうに見えるコロナ禍であるにせよまさに本質的には其の認識上の狂いが引き金となり引き起こされて居るものと見て置くべきだらう。

まさに其れが行き過ぎた資本の論理の蔓延でありまさに社會的な価値の洗脳なのではなからうか。

 

其の社會的洗脳とは要らないものばかりをむしろ最大限に追い求めて行かうとする誤った進歩思想による社會の破壊であり人間の破壊のことです。

其の社會の破壊であり人間の破壊をたった今も押し進めて行くであらう理性的誤謬に対する宣戦布告としてわたくしはかうして己が認識を語り続けて行く他は無い。

 

まさに其れがわたくしにとっての理性的闘争其のものなのだ。

其れも人文、社會科学の知を総動員した上での個としての理性的闘争です。

 

ですが我が肉體がもしもコロナにやられればまた其れも成り立たたなくなる訳ですのでかうして檸檬水を飲み「スペースアポロ」を食いつつ闘うのですが實はあくまで社會に対し観念的に闘って居るのです、其れもわたくしの場合はどうしてもさうなる。

 

文明の倒錯度は今最大限に加速されより罪深いものとなりつつある。

そんな認識論の上で大きくリスクを抱える文明を扱うのは此の世でもって最も辛いことなのやもしれません。