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文明批判と美と心の探求と

養老 孟司先生の思考から再度學ぶー+人類が歩む弐つの世界の動画のことー

養老 孟司先生の思考から再度學ぶー+人類が歩む弐つの世界の動画のことー

 

 

 

 

ーせめて自分が相手を誤解しないようにしよう。相手をよく理解しよう。でも、相手だって変わっていきます。常に同じ正解があるわけじゃない。

だとしたら、理屈や論理でわかるはずがありません。理屈や論理は、いつも「同じ」であるものしか扱えないからです。ー

ー物事にはタイミングがあり、いい時機かどうかはその都度気づくしかない。その方法は、人から教えてはもらえないし、教えようがありません。

人によって、時間によって、場所によって、すべて状況が違うわけですから、一般化ができないのです。ー養老孟司「それは誤解」と説明しても、相手は相手で「自分が正解」と思っているからたいてい無駄。誤解は放っておいて自然に消えるのを待つべし (msn.com)より

 

かうして養老先生は「考えの深い」タイプの方ですがどうやら其のことは幼少時よりさうであったやうです。

でもって「考えても分からぬ」部分が此の世にはあることをかうして屡論じられて居る。

 

「虫」が好きだ、しかも其れが並外れて好きだ、と云うことは所謂「社會性」が無いか又は少ないのであり其のことはまさに自分も同じでであるからかうして飽きもせずに石のことばかりを述べて居ります。

「社會性」が無いか又は少ないと何故か其のやうに「考える」人間になり易い訳で其処は無論のこと不思議と言えば不思議なことだ。

 

考え=思考はそも大脳新皮質の方が其れを考えるのでありまさに其れが現存在が獲得した特殊な能力です。

考えることは例えば現存在に近い🐵だの🐶だの🐱だのでも少しは其の能力があると思われるが其れとは質的に違うのが其の「考える葦」としての現存在のあり方でせう。

 

で、問題は養老先生が此処で所謂「認識論」に就いて本質的な面を語られて居ることです。

其れは現存在に於ける「認識」其のものが「同質的概念性」の部分に傾き過ぎて居り謂わば「概念的なバイアス」に基づき価値判断をして仕舞う「癖」のことに就き述べられて居るのでせう。

 

實際に「理屈や論理」=「同質性」にて自然界が回って居ると云うことはありません。

自然界は大きな枠組みとして合理化されては居ても訳の分からん展開にて回りつまりは其れが論理以前での感覚的世界として其処に展開されて居る。

 

よって自然界に於ける部分での事象は非合理的なものなのでもまたある。

要するに自然界は「理屈や論理」=「同質性」にて規定出来ぬまさに「諸行非常」での現象其のものです。

 

 

其の現象其のものは至極不安定なもので例えば昨日生きて居た🐵だの🐶だの🐱だのが今日はすでに死んで居たりもまたするものです。

ー🐶と🐱は自然界の現象とは厳密には違うがとりあえずは彼等は文明世界の価値観に従い生きる訳では無いー

 

だから🐵だの🐶だの🐱だのは別に「長生き」をしたいなどとは強く望んでは居ない筈だ。

ですが何故現存在は決まって「長生き」をしたいのかと言えば其の「同質性」の部分を強く生に對し求めて居るからでせう。 

 

また現存在は「子孫の繁栄」を望み「財産」を此の世に遺さうなどともする。

ですが🐵だの🐶だの🐱だのは「今の自分の範囲での繁栄」を望むだけのことで別に種の繁栄だの未來の繁栄だのそんな観念的な望みを抱いて居る訳では無い。

 

要するに現存在は其の「具象的限定性」を常に解除したがって居る。

要するに其れは「抽象的非限定性」の部分をこそ生きて居るのです。ー此の部分は我が考えー

 

「抽象的非限定性」の部分をあえて宗教的に言い表せば「煩悩と罪にまみれ分を弁えぬバカ共」と云うことと必然的にならう。

ですので實は「考えること」其のものが其の種の「バカ」の巣窟でもまたあるのです。

 

ですので禅宗などは其のおバカだけは兎に角辞めやうと大変な努力を積みもうお坊さんなどは時に拾時間も禅定を組んだり致しますのです。

 

 

さて其の養老先生が仰るところでの「概念による壱般化の不可能性」との部分は至極興味深いところです。

「概念による壱般化の不可能性」とは「科学的原理原則による壱般化の不可能性」のことでもまたある訳です。

 

要するに其れは「科学的原理原則による自然の理解の不可能性」を指し示すことなのでもまたある。

謂わば其の種の分析手法にて自然を理解しやうとすれば何処かで限界に突き当たりまさに其れが「概念的限界」であると云うことなのだらう。

 

左様に「みんなが同じ」であり其の望むところも同じである筈は無い。

ですが文明とはまた教育とはまさに其の「みんなが同じ」になることを強いるものでせう。

 

其の「人間のみんなが同じ」ですと「人間以外のみんなは違う」となり易く其れでもって人類は地球を破壊し尽くして行くのでせう。

ですのでまずは其の「同質性」だけを求める相対分別=「抽象的非限定性」の部分を逆向きに解除しませんと人間らしくも自然らしくも生きられぬこととなりませう。

 

であれば、「具象的限定性」=「具象的非壱般性」=「具象的非概念性」の部分へと無理やりにでもシフトして行く必要が生ずる。

また其れを具体的に述べれば、

 

 

1.文明に疑問を持ちなるべく其処を離れる

2.常に自然に親しみ🐵だの🐶だの🐱だのと戯れる

3.常に自然に親しみ植物ー虫ーを愛する

 

との要するに「人間界をあえて意図的に離れてみる」感覚にもまた繋がる訳だ。

 

其の「具象的非概念性」の世界とは所謂「感覚」の世界でのことでせう。

無論のこと其の「感覚」中心に生きて居るのがむしろ🐵だの🐶だの🐱だのである訳だ。

 

すると此の偉い人間様の分別よりも其の便所にも行かない🐵だの🐶だの🐱だのの無分別知の方が上なので?

いや上も下も無く其れー感覚知=直感知ーを現存在の場合には「半分」持って居ないと正しい認識には至れません。

 

其れが何故「半分」なので?

だって現存在は大脳新皮質と大脳旧皮質の複合體ですので其れを半半持って居ないとバランスが崩れるつまりは壊れちゃう。

 

するとですよ、するともしも文明に疑問を持たず此の侭文明人ダケをやって行くとなると最終的にはどうなりますか?

まあ至極ヤバくなることだけは間違い無い。

 

 

でもさうかなあ、ほんたうにさうなのか?

何だか螽斯詩人の言ってることはオカシイですよ。

 

じゃあ何処がおかしい?

エッ?

 

じゃあ何処がおかしい?

お前の其の頭の中身こそがオカシイ。

 

其れみよ、君と詩人の頭の中身はそも別物だ。

さう云うのをな、例えば「クオリア」の問題として此の世では捉えられて居る。

 

例えば君が常に見る「赤色」と詩人が常に見る「赤色」が同質の色であることを哲學的には証明することが出来ぬ。

其れは要するに認識其のものに関する基準が同質性を保ち得ないからなのだ。

 

要するに半分は「直感的認識」の世界を生きる現存在は現象界の全てを「理屈や論理」=「同質性」にて規定することが出来ない。

問題は都市生活で其の「直感的認識」の力が著しく鈍って仕舞って居ることである。

 

であるからこそ養老先生は其の事象の異質さに気付きなるべく都會での生活から距離を置けとさう述べて居られるのだ。

 

 

ーそこで、一貫した「自分・自己」を固定する。つまり、「自分・自己」はヒトの脳のはたらきによって生まれたものなのだ。ー

「自分らしさ・個性」というと心の話のような気がするが、養老さんは「心に個性はない」「心とは共通性のこと」だと言うのだ。

私たちは一人ひとり違う、個性ある身体を持っている。それなのに心の「個性」を欲しがるのは、現代人が「情報化社会」に生きているからだと養老さんは説く。名前をはじめとした、いつも変わらない「自分・自己」は、情報だ。いまや社会は情報で成り立っていて、身体や自然など、刻一刻と変わり脳で扱いづらいものは「ない」ことにされる。でも、情報=心だけだとみんな「同じ」になってしまい、一人ひとりの価値がないように感じる。だから、心に「個性」を求めてしまうのだ。「わかった気」になっていませんか? 養老孟司が説く、本当の「わかる」ということ (msn.com)より

 

考えてみれば其の🐵だの🐶だの🐱だのに「自己」なる概念は無いが其の代わりに「自我」のやうな本能的なものがあり其れが主張するからこそ自然界は所謂「畜生道」の世界と化しまさか成佛出来ぬこととなるのである。

ではあれ自然界は現存在による行いのやうに世界に「破壊」を齎したりはしない、いや其れがそも出来ない。

 

其れと云うのも近代以降現存在は「抽象的概念」の實現こそが幸福の具現化だとさう信じて疑わぬやうになった。

其れは「抽象的非限定的概念」即ち「理屈や論理」=「同質性」のみで此の世界の価値を縛り付けて行ったのだと言える。

 

従って養老先生が仰るやうに其れに見合わぬ価値の方ー「具象的限定性」=「具象的非壱般性」=「具象的非概念性」ーの部分は「無いものとされる」=「圧殺」されて行く訳だ。

其れが具體的には「個性ある身體」だと先生はまた仰る。

 

すると「個性ある身體」や同質性の無い「場の體験」や「個個としての死」などが全て其の「同化社會」に取っての敵となる訳だ。

 

 

尚其の「個性ある身體」にはそんなスタースポーツ選手の優れた肉體と同時に其れこそマイナスの面での不具性などが組み込まれて居ざるを得ない。

要は「具象的體験」としての非概念的なものー感覚的體験ーの部分には必ずや正負の要素が混在するのである。

 

だけれども其れもイザ「抽象的非限定的概念」=「理屈や論理」=「同質性」の方では其のやうな差異があっては都合が悪くよって「具象的體験」としての非概念的なものー感覚的體験ー其のものを抹消しにかかるのだらう。

 

なので都會ではションベンを小便器の中で行わねばならぬ訳だ。

また死人は道端に転がって居たりしては困りよって葬儀社などが何処にでも澤山あり其処にて隠して仕舞う。

 

さらに都會では🐶だの🐱だのもまた家の中で飼うのださうだ。ー家は其れをまるでやって居ないがまさにさうするのださうだー

其のやうに都會では兎に角其の「抽象的非限定的概念」=「理屈や論理」=「同質性」の力が強く働き逆に自らに取って都合の悪いものとしての「具象的非概念性」=「直感」=「差異性」の部分を兎に角排斥し隠蔽するに及ぶのである。

 

現代文明がこぞって目指す其の「抽象的概念」の實現は左様にむしろ誤った體験、誤った経験値の蓄積をこそ生むのであらう。

 

さて其の「心が同じ」だと言われると?ともまた思うのであるが確かに壱面ではさうなのやもしれない。

だがたとえ心が同じにせよ考え方や其れこそ価値観の方は千差万別で例えばわたくしなどもまさに「考える葦」なのですが自分に限り樂しいことは「虫捕り」などでは無くあくまで「石採り」の方です。

 

ですので其処は確かに心のあり方が違って居ります。

 

尚個人的に現代文明が抱える根本的な問題の壱つには其の「現存在としての抽象的思考が欲する幸福のあり方」と「自然界としての具象的感覚が欲する望み」との間に大き過ぎる溝=大きく乖離の部分があることなのだと思う。

 

どだい「幸福」と云う抽象的概念にせよまことに疑わしい概念である。

「現存在は幸福にならねばならぬ」訳では無く例えばとある詩人などがアッチを向いて「ああー、こんな不幸こそがサイコーだ!」などと思って居るとしてみませう。

 

其れはまんま其の詩人の幸福の世界なのであり何も御節介にワザワザ其の幸せな様を壊し「かうせねばならぬ」だとか「かくあらねばならぬ」だとかそんなもんは全部が余計な「オモテナシ」にてハッキリ御断り致して置きます。

 

 

左様に養老先生の場合は所謂「自然派」の方ですが細かいところでは無論のことわたくしの思考内容とはまた異なることを述べられて居る。

ではあれ其の著書からは正直大きく影響を受けて來て居ります。

 

其れでまた其の哲學的思考方法が何より好きなのです。

ですが最近は動画の方を視て居ないので早速少し視てみませう。

 

養老孟司 - Bing video

 

【養老孟司】正直頭が悪い人は見れないかもしれません。養老先生が語る超高度な話【ラジオ/ながら聞き推奨】 - Bing video

【公式】養老孟司 時間と空間① 〜脳から見た概念〜 - Bing video

 

此れ等は其の内容が何より哲學的であり兎に角大層面白い。

丁度今其の「人類が抱える弐つの世界」のことに就き我は思い至って居る最中です。

 

其れは例の「ハルマゲドン」にも関連するだらう最重要での哲學的命題です。

また其のことをとある書籍がしかと解説して居て呉れた。

 

自分が考え続けて來た其の命題に就き言わば「答え」を出して呉れた訳だ。

尚其のことに就きまた近く書く積もりである。

 

【公式】養老孟司 腸内環境と遺伝子 〜客観的な基準はない。個人の体が決めること〜 - Bing video

【養老孟司】高血圧は心配いりません。その理由を養老先生が解説します。 - Bing video

 

此の種の医師としての御意見の方なども大變勉強になる。

 

【公式】養老孟司 〜元気をもらいに行く所〜 - Bing video

 

養老先生は其の「観念」に優れる方ですがかうしてアウトドアーの方での価値を特に重視されて居る。

そも人間には相性と云うものがありますが自分に限ればまさにピッタリなのが其の養老先生が世に示される考え方であり哲學の部分です。