目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

養老 孟司論並びにモノ創り論ー今後の🗾國の指標並びに希望に就いてー

養老 孟司論並びにモノ創り論ー今後の🗾國の指標並びに希望に就いてー

 

 

 

 

「静かな人」の脳内で活発化しているすごい能力 実験で内向型の人の能力が科学的に証明された (msn.com)

 

さう内向型の人の方がむしろ精神的には優れて居ます。

「思考力」や「危機への予知能力」などに優れ且つ基本的に「静か」です。

 

「静か」な心であることはニンゲンに於けるむしろ最大の美徳でせう。

逆に外向バカの方は常にウルサく兎に角煩わしいったらありゃしない。

 

実はラーメンは「栄養満点の食事」だった…がんで死ぬ国・日本の中高年にとって重要な“あるもの”が摂取できるラーメンのすすめ (msn.com)

 

和田先生は常に所謂「常識」とは逆のことを述べられますが常に正しいことを述べて居られる。

例えばガン予防には脂肪だのコレステロールだのと云う類のものがおそらくは壱番効きます。

 

またズバリ肉食こそが老人の體には壱番効く。

よって金がある場合に限り毎日🥩を食うべきだ。

 

尤も金の無い場合は牛丼やハンバーグ🍱などが良い。

またビッグマックなどはむしろ年寄りの為のファスト・フードでせう。

 

逆に若い時は食わんでも死にゃあしない。

要するに毎日カップ麺だけでもどうってこたあねえ。

 

また腹が出ているからこそむしろ長生きするのだ。

ソコを芸能人のやうに見た目ばかり気にしてダイエットなどをしますと六拾代、七拾代でもってドンドン死にませう。

 

イザ還暦を過ぎてそんな半死人の癖にまたなんで「見た目」などを気にしますか?

さうでは無くイザ還暦を過ぎれば半分腐っとる位で丁度エエのです。

 

元より半分腐っとる老人がガツガツとさうビッグマックを喰らう其の姿程美しい有様は他に此の世に御座りません。

 

 

天才とは発達障害のことだった?「自閉スペクトラム症」と「ADHD」の特性を考える (msn.com)

 

まず天才とは💎のことだ。

どうのかうのでは無く数が極めて少ないことだらう言わば認識上の超能力者のことです。

 

個人的に自分もまた半分位は「天才」のうちの壱人だとさう考える。

ですが同時にまた其れが「半分」しか無いので残りの半分が常に其の「天才」的気質の邪魔をして居る感じだらうか。

 

また自分は男性の気持ちと女性の気持ちをほぼ同時に理解出來る。

またどちらの方へも気分や考えをシフトすることが可能だ。

 

また個人的に「天才はキチ外と紙壱重」との言葉は当たって居るのだと思う。

即ち天才の多くはキチ外にむしろ壱番近くある。

 

さらに天才は必ずしも高IQ者では無く例えば高EQ者などの感度面で優れた天才などもまた居られることかとさう思われる。

 

 

(1)情緒的な交流が難しく、他者への近づき方が異常だったり、会話が不自然だったりする。興味や感情をなかなか共有してくれない。

(2)非言語のコミュニケーションが難しく、視線を合わせられなかったり、顔の表情が異様。身振りが独特だったり、皆無だったりする。

(3)人間関係を発展させたり、維持したりするのに劣る。他者理解を欠き、想像を共有する遊びが不得意で、友人をなかなか作れず、仲間に興味がない。

天才とは発達障害のことだった?「自閉スペクトラム症」と「ADHD」の特性を考える (msn.com)より

 

(1)及び(2)は本來ならばさうなのかもしれないが半世紀以上に亘り社會生活をした御陰で此れ等の要素はなりを潜めるに及んだ。

但し(3)の要素は今でも有ることかと思う。

 

(1)おもちゃを一列に並べたがる、物をしつこく叩きたがるなどの常同行動。オウム返しや独特な言いまわしを操る。

(2)毎日同じ道を歩くことにこだわったり、同じものばかり食べたがったりと、決まった習慣に頑固にしがみついて、変化を嫌い、儀式めいて見えるほどだ。

(3)一般的ではない対象への強い愛着を示したり、没頭したりし、異常ですらある。

(4)光、動き、音、手触り、味、匂いなど特定の感覚に対して、ふつうの人よりも過敏だったり鈍感だったりする。

つまり「こだわり」が度を越してすごいということだ。

天才とは発達障害のことだった?「自閉スペクトラム症」と「ADHD」の特性を考える (msn.com)より

 

此処での(2)と(3)と(4)が個人的に該当して居る。

何せ其の「拘り」が強いので現實を離れがちな点は其れこそ拾代の頃よりまさにさうであった。

 

また感覚は自分の場合あくまで「過敏」である。

其れが過敏であるが故に集団生活ー社會生活ーには基本的に馴染めない。

 

されどやらねばならんと思い若い頃に無理やりに社會化したのでむしろ其れが良いとは言えなかったのではないかと最近になりさう思ったりもする。

ーさうやりたいやうにやって居れば今頃は藝術家の壱人として世に立って居る可能性がまた高くあるが故にー

 

 

自閉スペクトラム症者は同じような言動を執拗に反復したり、創作をすれば同じような作風のものを無際限に作りたがったりする。収集癖を発揮することが多く、コレクションはマニアックなものになりがちだ。

感覚の解像度が高く、周囲の五感的情報に揺さぶられたり、キラキラチカチカしたもの、水や光や夜空などに魅了されたりしやすい。

対人関係の困難があるから、自然との一体感に救済を求める自閉スペクトラム症者は多い。

天才とは発達障害のことだった?「自閉スペクトラム症」と「ADHD」の特性を考える (msn.com)より

 

確かにワタシのコレクションは極めて「マニアック」なものとなる。

また感覚が鋭いが故に其の水にも光にもさらに石にも夜空にもまた夕焼け空や月や兎に角何にでも強く反応したりもする。

 

またニンゲンは嫌いなので其の分「自然」には兎に角のめり込む。

其れもニンゲン其のものと云うよりも所謂「社會関係」が嫌いなのである。

 

そもニンゲンが徒党を組みなんぞやるとロクなことにならずむしろ「自然」を壊し最終的には「宇宙」の破壊者となる可能性がたった今67パーセント程にも高まって來た。

なので近頃は主に其の事實とこそ闘って居て他のこととはまるで違うのである。

 

 

感覚世界が独特なので、じぶんが感じているものはほかの人にはわからないと考えがちで、頑固な印象を与える。さまざまなものから連想が飛躍的に発生し、些細なことがフラッシュバックしやすい。

じぶんの疲れない感覚世界に憧れて、依存性の高い物質や行為に嗜癖したり、超感覚的世界に憧れたりすることが多い。

世の中に「こだわり」が強い人はいくらでもいる、と思うかもしれないけれども、それは結局のところ、自閉スペクトラム症の特性が強いということだ。

天才とは発達障害のことだった?「自閉スペクトラム症」と「ADHD」の特性を考える (msn.com)より

 

其の感覚世界がそも独特なので其れを其の侭に外部へ出すと???と云うことになり易い。

だからイチイチ加工して出すこととなり其の分抑圧されたり多大なストレスなどにもみまわれたりする。

 

ところが自分の持ってる「世界」はあくまでほんたうのものなのでさうウソをこく必要などは本來無いのである。

ところがつまるところ周りがバカで其れが分からんのでもう其れをやるしか無い。

 

また逆に周りとの関係をある程度断つことをしないとむしろ自分が壊されちゃう。

まあわたくしもまた確かに石や🖊に耽溺しまた哲學だの宗教の分野に凝り挙句には周りのバカー無理解ーを攻撃するに至るのであった。

 

 

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【養老孟司】今の人は無理をして余計なことをしています。 養老先生がやめることの必要性について解説します。

 

さて今回は先に書いた部分を踏まえ養老 孟司先生の認識に就き総評させて頂きます。

ちなみに自分には医学部へ行く程の頭の良さはありません。

 

むしろ有るのだとすれば並外れて居ることであらう藝術的直感の方でありまた宗教で語られるところでの直観の力の方でせう。

つまりは高IQ型では無く高EQ型でのニンゲンでせう。

 

1.自閉スペクトラム認識

2.科学的認識

3.非大衆的認識

 

養老 孟司先生の認識の主調はズバリ其の「自閉スペクトラム認識」にこそ有る。

但し其ればかりでは無く「科学的認識」の方を同時的ー両義的ーに働かせて居られると目される。

 

尚個人的には養老 孟司先生の認識が好きであり屡動画にて其れをチェックしたりもして居ります。

でもって其の仰ることはほぼ理解される。

 

さて結果的に養老 孟司先生の仰ることは「非大衆的認識」とならざるを得ない。

故に基本として誰もが分かるやうなことはまるで述べては居られない。

 

むしろ「何を言ってんだ、コイツ?」とさう思われ易いやうなことばかりをまたクドクドと述べて居られる。

だけれども何故か「村八分」とならないのが不思議なところです。

 

つまりは其れが解剖学的な知見に支えられて居る=科学的知識がおありである、との部分より醸成されるだらう説得力の部分なのだらう。

 

 

でもって個人的に常に感ぜられることが常に文明の外側から文明のことを論じられて居るやうに思われることです。

また其のことは所謂右左でのイデオロギーの違いや宗教的な立場などを超越した地点より述べられて居るやうに思われてならない。

 

さて当の養老先生は「自然」が御好きで逆に「世間」が嫌いだと其の著作の中で屡述べられて居ます。

また「🐈」が御好きで「文明」に對し常に懐疑的で居らっしゃる。

 

故にか要するに「ニンゲン中心」の認識にはなって居ない訳なのだ。

「ニンゲン中心」ではそも無いのだから其処には「全體主義」もまた「洗脳」も無い。

 

逆に申せば「都會」と云う人工的環境下では「全體主義」もまた「洗脳」も生じ易い。

其処からあえて認識を離すとのことであれば要するに其れは「観念中心主義」でのニンゲンの認識を壱時的に遮断しむしろ「感覚中心主義」へと転換して行くと云うことなのではないか。

 

本來生きて行くことは「仕様が無いこと」ながら樂しい。

其れは「意味」を離れた形でさう生命に對し提示される「本來」の姿である。

 

「本來」の姿はさう「意味化」されるものでは無い。

 

「意味化」されるものでは無い「本來」の生の姿をあえて加工し「意味化」するのが「文明」の意義である。

「文明」はさう全てを「意味化」したがる。

 

「意味化」したがるが故にあえて「破壊」して行かざるを得ない。

さう「自己矛盾」の縛りに雁字搦めとならざるを得ぬ。

 

そんな「意味化」を突き詰めて行かんとする意識の世界から出て風通しを良くして置かないとすでに其処は「全體主義」と「洗脳」の巣窟と化さう。

 

 

意味化⇔無意味

合理化⇔非合理

 

現實の世界と概念ー観念ーの世界は違うと養老先生は仰る。

「文明」とはあくまで「概念ー観念ーの世界」での構築物であり其の「意味化」であり「合理化」の世界だとさう述べられる。

 

養老先生が抱いて居られる「文明」への危機感とは其のやうな意味でのニンゲンの認識と自然界との乖離のことなのであらう。

だが個人的に其の「乖離」の部分はすでに如何ともし難いことなのだらうと思う。

 

また其のことはおそらく何をやらうが變わりはしない部分である。

「文明」とはさうした意味での暴走列車の如きものなのだらう。

 

即ちブレーキがそも効かんので止まりやうが無く且つ止めやうが無い。

もう「止めよ!」。

 

と叫ぶ哲学者ー中島氏ーも居れば詩人もまた居るがそんなものは「馬の耳に念佛」でありまさか其れが有り難い教えの御言葉だとは思えず「やっちゃえ!」との壱本槍にて突き進むものですからかうして草木は枯れ海川は汚れさらに動植物は絶滅するわ地球を火の玉に變えるわでやってることにそも節操が無く嗚呼ソコには罪も煩悩も何も無い。

 

「止めよ!!」

…止められない、止まらない。

 

「止めよ!!!」

…止まらない、止められない。

 

 

養老孟司 #趣味- Wikipedia

 

個人的に其の養老先生とはニンゲンとしての傾向が似ている部分が多い。

其の「自然」と基本的に親和性を持つことなども同様である。

 

また愛煙家である点などもまた同じだ。

 

養老孟司 #思想・社會事象の分析- Wikipedia

 

🏥や健康診断が嫌いとのことなどもまた同じ。

何故なら病院や健康診断に頼る其の前に免疫機能を高め樂しく生きることが可能だとさう信じて居るからです。

 

またワクチンはまるで打たずともインフルエンザやコロナには罹りません。

何故ならワクチンを打てば打つ程に體が痛めつけられるので逆に危険な状態を招いて仕舞うこととなる。

 

つまるところは所謂「常識」には振り回されることなく「自分」軸でもって生きて行くべきだと云うのがむしろ自分の考え方なのだ。

 

 

【養老孟司】不安から逃げていませんか? 不安とは一体何か? 養老先生がその答えを説明します。 ~日本のモノづくりと不安の関係~

 

さてこちらは今の自分に取り非常に為になる面白い内容の動画となりました。

 

其処に曰く「現場はウソをつかない」。

また不安を打ち消すが為のある種の「安心さ」が戦後の🗾のモノ創りを支えて來た。

 

其の「安心さ」とはまさに「具象的にソコに有るもの」とのことでせう。

まさに其れが解剖学が対象とする「モノとしての死體」と同じことです。

 

其の「モノとしての死體」は安心が出來るとさう養老先生は述べられる。

さう其の「モノとしての何か」はウソをつかず常に「不安」を解消に導く。

 

そんな「不安」も「社會の目標」も全ては「観念的創作物」です。

ですが生きて今有ることの本質部とは「具象的にソコに有るもの」としての克己努力のみなのでせう。

 

 

戦後の🗾のモノ創りはまさにそんな部分にこそ培われて居たことでせう。

要するに極めて現實的な意味での「物」との格闘であった訳だ。

 

また其の「物」との格闘の面こそが伝統的にかの國に築かれて來し「具象的限定」の様なのです。

要するにイザさうして「具象的限定」をし其処にて「良い物」を創り上げて行くことこそが此処🗾に於ける生活の基盤でありむしろ生活の意義の「全て」なのだ。

 

元より其れは「思想」でも「宗教」でさえも無く生活の上での単なる「知恵」のことである。

ですが「知恵」は常に「安心」出來且つ裏切ること無くまた常に確實なのだ。

 

其れは「技術」が地に足を着ける形にて磨かれて行くとのことである。

また鑑定団風にあえて言えば其処にて常に「良い仕事」をするとのことであらう。

 

現在わたくしは此の種の「🗾的な現世利益的推進力」のやうなものを是非見直すべきだとさう考えて居る。

また其のことは國際的な「先進的技術的競争」や「経済成長の指標」とはむしろ無関係に推進されるべきだともまた考える。

 

 

例えば此処🗾では「自律型のAIの開発」や「火星移住の為の準備」などをあえてやる必要など無いのではないか。

 

其れはおそらくそのうちに何処かの國がやることとならう。

だが我が國がやらねばならんのはもっともっとずっと具象的で且つ具體的な御話なのだ。

 

例えば其れが「第壱次産業に於ける持続可能性」であり「稀有な🗾の森林の維持管理」であり「経済格差の是正」などとならう。

さうした諸課題を解決せんが為に再度其れ等の分野にて「🗾の知恵」に培われたところでの「良い仕事」をして行く必要がある。

 

逆に申せば其のことは諸外國との縁を壱度断つことで其処に新たな目標を掲げねばならぬことともならう。

其の目標をおバカな欧米諸國に合わせるのではなくしてちゃんと御利口の🗾人として考えた上でやらねばならんのである。

 

また御勧めなのが利口の独逸及びゲージツの伊太利亜との同盟関係の復活である。

 

「モノ創り大國」

さう其れが我我🗾人に課せられし使命であり宿命なのだ。

 

でもってジミントーはむしろ其れには要らんのやもしれん。

ジミントーはだから跡形も無く潰れても良い。

 

また総理大臣は是非モノに詳しい石破にこそ任せるべきなのだ。

 

 

「モノ創り県」

 

またソニーの盛田とかさう云うのも元は知多半島の出の人でまた大TOYOTAなども三河の織機屋だった。

なのでモノを創る大メーカーはそも何でも此処愛知県から出て居る。

 

さう愛知県とは實は🗾壱の「モノ創り県」なのだ。

またつまりはモノの扱いが上手いし其れに就き良く知っても居る。

 

だから其の部分こそが此処愛知が東京や大阪や他のところとは本質的に違うところなのだ。

要するに「モノを創ってナンボ」での土地柄となる。

 

また自分なども何故かこんなモノ・コレクターなのでした。

 

「モノはウソをつかない」

 

さう、まさに其れだけなんだ。

ジミントーも官僚もまた日銀も所詮は大嘘コキだがモノだけは決してウソをつきません。

 

でもって僕が個人的に信じるのも實は其れダケなのだ。

例えば自分は宗教や藝術をむしろ信じないが「石」ダケは信じて居る。

 

嗚呼綺麗な其の石…。

また例えば自分はイデオロギーや組織をむしろ信じないが「万年筆」ダケは信じて居る。

 

嗚呼書き易い其の万年筆…。

さう我はウソをつかない其の石と🖊とダケを信ずる。

 

そんなあくまで限定された上での具象的な推進力のみが今後かの國の希望であり且つ指標となり得ることであらう。