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自分に取りなくてはならぬ万年筆としての「プラチナ18」ー個人的に愛好してやまぬ「プラチナ・ポケット」と「プラチナ18」ー

自分に取りなくてはならぬ万年筆としての「プラチナ18」ー個人的に愛好してやまぬ「プラチナ・ポケット」と「プラチナ18」ー

 

 

 

 

honto店舗情報 - 2024年3月6日(水)発売! 丸善創業155周年記念「ONOTOマグナ ヘリテージ万年筆ナイトブルー、マホガニー」  Launched on Wednesday, March 6, 2024! ONOTO Magna Heritage Fountain Pen Night Blue, Mahogany" in commemoration of Maruzen's 155th anniversary.

 

此の度此の万年筆が売られますよと丸善からハガキが届き「さうか」と思いましたが無論のこと其れは要りません。

個人的に現代の万年筆に興味は無くして居ることと言えば過去に集めた🖋の「整理整頓」であり且つ「改造」です。

 

でもさう丸善からハガキが届くと「さうかもう春だなあ」とは思います。

我は意外と情緒派であり其の種の「季節の移ろい」のやうなものを常に大事に致すのです。

 

ですが壱言言わせて頂きますれば其のオノト・マグナの復刻版ですが其の値段は資本主義が末期に至ったことを如実に示しては居りませんでせうか。

「税込み14萬3千円」

 

でも何ですかソレ?

14萬3千円と言えば昔の原付バイクの値段でせう。

 

確か学生の頃にヤマハの原付モトクロス・バイクを求め其れでもって猿投山へ行き山の中を走り回って居たが其れは最終的に家庭教師としての生徒さんである親戚の坊主に譲りでもって彼は関東の大学へ行きおそらくは其のバイクでもって通学して居たのでせう。

 

彼は今横浜でもって壱家を構え東京へと通勤して居るやうです。

さうして其の彼の名前はマー君です。

 

 

いずれにせよ現代の万年筆の価格はズバリ申して「變」です。

と云うことはおそらく万年筆の世界に異變が起こり何時の間にかさうなって仕舞ったとさう言えることなのだらう。

 

其の「異變」の始まりがすでに90年代の限定万年筆ブームより引き起こされて居たと見るべきだらう。

90年代にはさうして万年筆メーカーがこぞって高額な限定万年筆を発売し其れを涎を垂らしたボクみたいな愛好家がこぞって求め且つ其れをナデナデして居たのでした。

 

ですが当時はまだしもまともな部分が残って居り故に90年代の限定万年筆が全部ダメだとのことでは決して無いとさうわたくしは先に述べても居たのでした。

が、現行の万年筆の世界に限れば其れはほぼ「狂って」居ます。

 

其れも万年筆の「本質」部をあえて見詰めないとの「ふしだらさ」の上でまさか容認出來ぬ風潮其のものです。

でもまあそんな「本質主義」は時代遅れなのだらう。

 

だが其れは其れこそ不義密通して置いて其の重罪を認め刑に処されない参議院の👩代議士の如くにまた平気で脱税して置いて其れを誤魔化し國會の場で熟睡するジミントーの派閥の幹部の如くに其れはすでに腐り切って居るのです。

 

尚現代に蘇ったOnotoからは例えば2005年にオノト・マグナを復刻した銀製モデルが出されて居ります。

其れに丸善の店頭でも触れてみましたが無茶苦茶に重くてまさか使えるやうな物では無かった記憶が御座ります。

 

1606limited_maruzen_onoto_silver ONOTO the Centenary Pen Sterling Silver

 

ですが今思えば其れもまた惡くはなかったのかもしれません。

 

 

蘇る現代のオノト万年筆「オノト ヘリテイジ SV925 オーバーレイ ヘンリー・シンポール」レビュー | ホシイモノガ=アリス・ギル (shigawakibara.com)

 

まあコレなどが個人的に好きです。

まさに其のオーヴァーレイ装飾の🖋こそが万年筆の世界では最高のものとなる。

 

ですが此のデザイン其れ自體は廿世紀初頭のものとなる。

要するにアール・ヌーヴォーアール・デコ期のものとなる。

 

であるならば考えればすぐに分かるのですがあくまで現代に其れを復活するにせよ其れは「模倣品」にしかならないのである。

また金ペン先は製作法其のものが大きく合理化されて居ると考えられ要するに戦前の金ペン先のやうな「強さ」が出ない。

 

よってそんなもんに拾萬以上も払うんですか?

との御話となる。

 

其れもまあ否定は致しませんが自分はあくまで要りませんので呉れると言われれば勿論貰いますが其れはすぐに売り払って仕舞うことでせう。

ではそんな御仁がどんな万年筆を使って居るかとのことですが例えばコレです。

 

プラチナ ポケット 18KWG中字

 

別にJinhaoのみでは無くコレなども使います。

コレは何かと言えばタダの「プラチナ・ポケット」です。

 

現在でも大體参千円程でヤフオクにて売られて居る物だ。

ですが實はコレが名作です。

 

1.個體的に完璧

2.軽いアルミ軸

3.18KWGのMペン先の書き心地が〇

 

もう廿年位は使いましたでせうか?

ところが余りに丁寧に使うのでいまだピカピカなのです。

 

 

では其れでもって書いてみませう。

 

 

緻密な論理

壊れた万年筆界

 

我が國の政治上の腐敗

ネコまみれ

ついに読んだぞアノ方丈記

 

 

うーん、素晴らしい。

兎に角物凄く良い書き心地です。

 

でもって此の際言って置きますが万年筆趣味では澤山良い🖋を集める必要なんぞそも無いのです。

万年筆趣味では心より気に入った万年筆が弐、参本あれば必ずや其れにて完遂されるものなのだから。

 

4.評価でも値段でも本数でも無い

5.個體差の方がより重要

6.其れが自分に合うか合わぬかのみ

 

との極めてパーソナルな評価であることこそがむしろ万年筆道の上での極意なのだ。

 

よって其れこそブランドでも無く権威でも無くまた過去でも未來でも無いのです。

要するに現在其の手に握られ「絶好調」となって居るだらう万年筆こそが「實存の友」たり得る筆となる。

 

 

ですが個人的には「過去」の物を追求して行って居ります。

其れも最近は70年代物に魅力を感じ其れを使うやうにして來て居る。

 

70年代物は其のプラチナに限らず例えばモンブランペリカンなどでも概して評価が低かった訳です。

其のことは70年代物の🖋には「本格性」が欠けて居りつまりは「合理化」の度が進み過ぎペン先などもちっこいものが多かった訳なのでした。

 

ところが其の70年代中頃より万年筆を使い始めた我我還暦世代にしてみれば万年筆とはまず其の70年代物なんです。

要するに其の「プラチナ・ポケット」なのだ。

 

そんなプラチナ・ポケットやプラチナ・シープを自分は高校時代に事實使って居りましたものです。

よって其のやうな🖋こそが壱種「ソウル・ペン」化してさえも居りますのです。

 

「ソウル・ペン」とは其の年代にのみ発生するであらう物と實存に於ける替え難い関係性を示す概念となる。

また「ソウル・フード」なるものが何処にでもあり其れに對し實存はむしろ大きく影響を受けつつ生きて居る。

 

要するに「時」と「場」としての具象性のことなのでありまずは其れが實存に取り常に大事だとのことです。

 

 

さて60年代後半~70年代前半にかけて世に出回ったプラチナの銀製太軸のもので参拾年程保管した物を今年より使い始めインクが出なくてホトホト困って居たとの御話を以前に致して居ります。

 

では其の個體はたった今どうなったかと云うにほぼ普通に使えて居ます。

但しペン芯の機能に問題が有ることは明らかです。

 

ですが其れを「念力」にて直したとのことダケです。

書き込んだ訳でもペン先の調整をした訳でも無くさう「信念」のみで直って呉れた稀有なケースである。

 

其の種の「超能力」のことをみんなは信じませんが逆にわたくしはみんなが「超能力」を信じること無く普通に疑問無く暮らすこと自體が疑問でなりません。

そんな訳でわたくしもまたついに高齢者の域へと突入しつつあり其処ではむしろ非常に幻惑的で且つ非合理的な何らかの展開が待ち受けて居るやうに思われてならない。

 

 

ところで六拾年代~七拾年代の初め頃にプラチナには「P-300」と云うモデルがあり其れがむしろ学生時代には知らなんだモノだった故に25歳位から🖋を集め出して以降はむしろ其れを徹底的に集めるなどして行ったものでした。

其のP-300には年代による形状の變化及びペン先のヴァリエーションがあり其れを逐次集めて行くのはなかなかに面白かった。

 

プラチナ P-300 細軟

 

PLATINUM プラチナ万年筆P-300

 

特に太字系のペン先は其れこそミュージック・ニブから所謂コース系のニブ迄もがあり現在も其れを保管はして居るが實は使ってみたことが無い物がほとんどである。

其のP-300は拾年位前迄はヤフオクの方でも流通して居たが近頃はめっきり数が減ったやうです。

 

60年代のプラチナ

 

さて此処で眞ん中のP-300がミュージック・ニブ付きであり其の上のペンはより古い型のP-300ながら金キャップは他の物に付け替えて居る状態です。

ミュージック・ニブ付きのP-300はどうも以前はかうして使っても居たのでした。

 

其処で問題は壱番下の金キャップの「プラチナ18」です。

おそらく60年代後半製の物と思われ其の18金ペン先がP-300モデルの18金ペン先よりも壱まわり程大きいのです。

 

其れも良く観察してみないとほとんど分からないことかと思いますが實は全然別物なのです。

でもって「プラチナ18」の18金ペン先には「アヤメの紋章」が刻印されて居る。

 

フルール・ド・リス - Wikipedia

 

其れが此の紋章のことでかうして西欧でかって用いられし紋章で例えばボーイスカウトなどもコレを用いて居るのです。

ー小学生の頃我はカブスカウトでもってナゴヤ第参拾壱団の組長をして居たのであるー

 

尚かって拾年程前までは此の「プラチナ18」の情報がネット上には有りましたのですが其れも現在ではほぼ出て來なくなりました。

 

壱言で申せば此の60年代後半製と目される「プラチナ18」こそが此の種の「爪ニブ」物のプラチナ万年筆の中では最高の品となるものです。

ところが其の「プラチナ18」のことを自分はまるで知りませんでした。

 

何故なら60年代後半の頃はまだ小学低学年生であり万年筆も何も無くむしろ学校から帰ると書道塾とかへ行かされ日日懸命に墨を摺っておったのでした。

だから万年筆なんぞは大人が使うモノであり我我小学生に取りどーでもエエモノでしか無かったのです。

 

が、其の頃に限りかうして良い御品が出されて居たとのことなのです。

 

 

そんな「プラチナ18」のことを知って以降は必死コイて其れを探し回りようやく其の「プラチナ18」をヤフオクにて得たのが五拾歳位のことでした。

と申すと至極カンタンな話のやうにさう思うでせう?

 

ところが實際にはそんな甘いものじゃまるで御座りません。

兎に角毎日必死でもってヤフオクばかりを探して居たのです。

 

でもってもしも出て居たにせよ下手をすればすぐに誰かに取られて仕舞います。

なので兎に角早く手を出し「オレはどうしてもコレが欲しいのだ!」とさうアピールして置かないと本当に欲しいものはほぼ得られません。

 

そんな訳でついについに其の「プラチナ18」を得たのであります。

でもって此処からがむしろ問題でした。

 

どう問題だったのかと言えばペン先が曲がって居て見苦しかったのだった。

おまけにインクの出方が變です。

 

無論のことわたくしは其れをプラチナに送り返してやりましたのです。

其れも何故か松坂屋の🖋売り場から其れをプラチナへ修理品として送り返してやった。

 

其の折に後日プラチナより返事があり「こんな古い物はなかなかペン先調整する人間が居りませんが如何致しませう?」との回答を得たのであります。

無論のことわたくしは「兎に角やれい!」の壱言なので御座ります。

 

何故なら其れを得んが為に万年筆人生の全てを懸けまたプライヴェートの時間の全てを其処に費やしやっとのことで得た其の御寶をプラチナ御前が自分でやれんと言っとってはそもアカンだらう?

だから死んでも其れをやれい。

 

むしろ社の総力を挙げ是非其れをやるべきだ。

其のやうにコアなプラチナの御客様を大事にせずしてどうする?

 

其れも遠いナゴヤの壱愛好家を大事にせずしてどうする?

 

そんな訳で結果弐ヵ月位かかりましたが「プラチナ18」は戻って参りました。

確かそんなに修理代はかからなかった筈です。

 

 

要するに全ては「押し」の壱手です。

其の情熱と執着こそが物の世界に於いてはむしろ壱番大事なことである。

 

其れと機會はさうさう訪れるものでは無い。

むしろ「壱期壱會」なのが物とのまた人との出合いなのだ。

 

尤も其の弐年後位にまたヤフオクにてもう壱本の「プラチナ18」を得る機會が訪れた。

されど其れは装飾軸の女性仕様版の方なのだった。

 

たとえ装飾軸の女性仕様版ではあれ首軸及びペン先は確かに「プラチナ18」の物なのだが。

ープラチナの女性仕様版をかって熱心に集める時期が自分にはまたあったー

 

 

戻った「プラチナ18」で書いてみるとちゃんと普通に書ける。

流石はプラチナ万年筆だ。

 

ほれみよ、必死コイてやれば實際なんでもやれんことはない。

其れでは今ココへ其の「プラチナ18」を出してみやう。

 

うーん、コレか。

まずは全體がとても良い、流線型でもってキレイだ。

 

其れもおお壱年位インクを入れてないのに何故か書けるぞ。

 

 

アヤメか百合か

TOYOTAのよりデカい儲け

ハコスカGTR

自閉症スペクトラム

みつけ屋

春になったら御花を観に東山植物園へ早う行きたいものだ

 

 

いや冗談では無く凄い!!

 

18金ペン先を鉱物ルーペにて観察するとまさしく其処には美しいアヤメの紋章が!

またペン先が兎に角デカい。

 

其のポケットタイプのペン先と比べると倍程も有る。

其れ即ち金の含有量なども多い。

 

字幅は中字であらう。

ポケットタイプとはまた異質の書き心地がする。

 

即ちほぼ最高級の書き心地がする。

 

また胴軸の方の刻印を見ると何と「P-600」となって居る。

すると「プラチナ18」とはまさに其の「P-600」のことなのか?

 

さらに其の胴軸が尻の部分で絞ってあるが其の形状は何と正方形となる。

 

もう此の辺り迄來ると不思議過ぎて訳が分からん。

つまり古い物は基本的にまず不思議なのでありさらに其の不思議さが良い方の不思議さとなることが何故か多いと來てる。

 

 

アレ、待てよ、おい。

ひょっとすると此の「プラチナ18」には例の大容量カートリッジが挿してあるのではないか?

 

はい、まさに其れが挿してありました。

其の「大容量カートリッジ」もまたかって文具店を巡り自ら発掘したものだ。

 

嗚呼さうか、だから壱年もインクが持つのだな。

ちなみに「大容量カートリッジ」は太いタイプの銀製軸などにも使えますがポケットタイプの方には使えません。

 

でもって所謂「モノが良い」と云うことは結局かうしたことなのではなからうか。

其れは「値段」でも「世間の評価」でも無く結果自らでもって拘り抜く其の姿勢にこそ生じる「価値」なのではないか。

 

従ってたった今わたくしに取りオノト・マグナの復刻版はまるで要らんのですが此の「プラチナ18」ダケはどうしても要る🖋なのであり其れは丸善の売り上げがどうならうが知ったことでは無く兎に角此の實存と云う「場」と「時」に於いて最高のパフォーマンスを発揮する筆を自らの手に攫むことでしか無いのであります。

 

また自分の場合は何故か其の種での筆記具が多いとのことこそが其の筆記具趣味としてユニークな点なのだらう。

 

 

さて「文學としての物語り」とはまるで関係無く此の「プラチナ18」の筆記感は優れて居ます。

また其れは現代には復刻し得ぬ類での筆記感の良さともなる。

 

また基本的にちっこい爪形状の金ペン先ながらペン先が「強く」も感ぜられる。

ペン先が強いと速筆する場合に「シャリシャリ」と云う高周波音が出ます。

 

さらに戦前の金ペン先やまた鍛金された兜木金ペン先やまた石川金ペン先などでもまた其の「シャリシャリ」と云う高周波音を樂しむことが可能となる。

まさにさうしたことこそが万年筆の「本質」部であり其れは外観上の形だけを眞似て新たな限定万年筆を作ったにせよついぞ復刻し得ない部分であることをこそ眞の意味での万年筆愛好家の方方は今こそ知って置かねばなりません。

 

尚70年代の18KWGペン先ですがあくまで個人的には書き心地が良いとさう感ぜられて居ます。

またパイロットやセーラーの18KWGペン先であれ惡くはありません。

 

確かに厳密には「14K」ペン先がベストですが「18K」位迄なら使うことは可能となる。

但し問題はあくまで「鍛金」の仕方であり同時に其れが「強い」ニブかどうかである。

 

また其の現代のオノトの装飾軸の限定品の方ですがヤッパリ其れも要らないです。

ええかうしてなんだかダンダン偏屈になりつつもあり…。

 

そんなカネがあればやっぱりかのニシムラ氏の店などでアンティークのペンをこそ買いたい。

 

でもってカネが無ければ庭の木でもってペンの軸を作り其処に適当に金ペンを付ける。

むしろ其れがサイコーの🖋で無くて何であらう?

 

 

いずれにせよ物の評価は絶對視することが出來ない。

故にこそむしろ個別化して行くべきなのだ。

 

さう個別化すればする程に価値ヒエラルキーは解體されるに及ぶ。

だからアナタが今手に握る其の筆こそが世界壱の實存的価値の物となり得やう。

 

されど其の他人の評価もまた自分に取りあくまで関係が無いのである。

故に最終的に自分の万年筆観を述べることこそが価値其のものと化す。

 

尤も其れは多分に信仰であり且つ信念でもあらうがまさに其のことが物にもまた人にも乗り移るだらうことを決して忘れてはならない。