「戦争」もまた「大衆社會」も「全體主義」として機能する「惡」の壱形態であるー「戦争」及び「大衆社會」と無関係に生きんが為の理性的選択とは?ー
NHKオンデマンド 戦争関連無料番組 (nhk-ondemand.jp)
かう云う番組をこそ是非今視て頂きたいものだ。
だがわたくしは黙って居てもかう云う番組をつい視て仕舞う。
さてでは何故戦争が起きるのか?
戦争はイカンとみんながさう言って居るのに何故其の戦争が起きるのか?
其れは社會科的に言えばまさに「全體主義」の成せる業である。
また宗教的に言えばまさに「エゴイズム」の成せる業である。
ではどうすればむしろ其れと無縁で居られるのか?
其れに對する自分の回答とは「非社會的」な自我をどう形成するかと云う部分へと集約されて來た訳だ。
「非社會的」な自我、むしろ其れは世間では壱番イケない価値なのであらう。
だが今のわたくしはむしろ其処にこそ光明を見出して居る。
但し「非社會的」なことと所謂「反社會的」なこととはまた違うことのやうに思われる。
「反社會的」なことには例えばヤクザ者であるとかまた暴走族であるとかまた犯罪者であるとかさらに邪教の信者であり此の社會の抹殺を計画して居る者だとか、またヤク中であるとかさう云うことなのであらう。
だがゲージツ家であるとかオカマ又はオナベであるとかさう云うのはあくまで「反社會的」なのでは無く「非社會的」なのである。
いや別にゲージツ家であるとかオカマ又はオナベである場合にも所謂社交的な人間が居てさう云う者は良くTVに出たりもして居る訳でありしかも奴等は億単位での金を毎年稼いで居たりするものだ。
が、ゲージツ家の中には矢張りと言うべきか「變わり者」なども居て奴は兎に角非社交的な輩なので其れ即ち「非社會的」であるとさう言わざるを得ない。
ではそんな彼は今何を考えて居るのか?
彼はまさに今「戦争」のことを考え「どうしたら其れを理性的に放逐出來るのか?」と云うことだけに脳味噌の八割程を使って居る。
1.「戦争」は社會関係が引き起こす人間にとっての究極的な不利益のこと
2.「戦争」は「全體主義」と云う社會的意思決定が齎すもの
3.ところが当の彼は「戦争」にはまるで興味は無し
3.に就いて
彼は今そも「社會」に對し興味が酷く無くなりつつある。
まあ昔からそんなこともありしがもう自分がそのうち死ぬんではないかとさう思えて來し時に余計に其れが酷くなり要するに「社會」なんぞ勝手にやって呉れとの感じでありどうあらうが社會に居るお前らはもう助からんとさう勝手に思い込み始めたかのやうです。
でもって左様に彼は今「社會」に興味が無いので同時に「戦争」にも興味が無いのであります。
そも「戦争」に興味が無いのにまた何でオンデマンドの「戦争特番」などを好き好んで視るのだ?
いや其れは「全體主義」に於ける學説の構築の為にあえて其れを御勉強するだけのことだ。
ちなみに自分は戦時中にもしも招集されたのだとすればまず「山へ逃げた」ことでせう。
ですが今後は何時戦争になってもこんな高齢者でありつまりは「役立たず」ですので特攻やら殺人やら兎に角そんな罪を犯さずに生涯を終えられることをまずは神に感謝せずには居られませぬ。
全くのところ良い時代に生まれたものです。
我我還暦世代が生きて來たのはまさにそんな「戦争」の無い良い時代でしたが其れでも結構精神的には樂では無かったのだとも言える。
故にほんに「良い時代」であったのかどうかは分からぬ。
ちなみに矢張りと云うべきか純文學の文豪連中は頭のオカシイ人が多く其れも例えば太宰 治やアノ坂口 安吾などは「戦時中は精神的にむしろ平和だった」などと滅茶苦茶なことを述べて居たものです。
つまり純文學の文豪連中の頭の中身はむしろ常に「戦闘中」なのであり其のことは其の世間ー外部ーの「戦争の様」とはむしろ余り関係の無いものなのです。
また別に純文學の文豪連中に限らず詩人であれ何であれ文學系のゲージツ家の頭の中はチョット變ですから「戦争中は精神的にむしろ平和だった」などと矢張り今でもさう述べる人なども居ることだらう。
でもって其の「逃げ」の部分こそがむしろ最大の「戦争」に對する防御策です。
つまり「戦争」から永遠にむしろ逃げて行くことこそが「戦争」を客體視し得るほぼ唯壱での方策です。
「戦争」から永遠に逃げると言っても其れは無論のこと誰にでも出來ることでは無くむしろ80億人の人間の中で8人位の人が其れを完璧に履行し得る位での御話でせう。
何、僕ですか?
残念ながら僕は確かに観念的に「戦争」から永遠に逃げては居ますが物質的にはむしろ社會関係に規定されまくって居り故に其処では半分しか逃げられて居ないものと考えざるを得ません。
まあ其れでも80億人の人間の中での80人の壱人位には多分なれて居ることかとさうも思われ故に其の意味ではむしろ何も「不安」を感じては居りません。
さうして自分の認識に對し「不安」が無いとのことです。
されど「社會」に對してはむしろ大きく不安を抱いて來て居る。
NHKオンデマンド | 【無料】NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(前編)」 (nhk-ondemand.jp)
さてこちらの番組を視て感じたことを以下に述べたい。
此の番組が面白いところは市井の人人の当時の日記からまさに当時の社會状況を炙り出して行くとの部分でせう。
4.当時の大衆は結果「戦争」に洗脳されて行ったこと
5.「知識人」もまた同様に「戦争」に洗脳されて行ったこと
6.最後迄「戦争」を疑った教師が居たこと
6.に就いて
そんな屈せぬ「理性」が当時からあった訳だ。
ところが「戦時中に娘」を育てたとある優しい母親はやがて其の子の将來に於ける共栄圏構想の遂行を夢見るやうになる。
つまりはスッカリ洗脳されて仕舞うのです。
従ってまずは「洗脳され得ぬ知性」が当時から極少ないものであったことが其処から読み取れる。
翻り果たして今はどうなのだらう?
今は「戦時中」では無い、少なくとも此の🗾に於いては。
しかしながら、事實上はむしろ「戦闘中」のやうなものです。
其れも🗾ダケのせいでは無く近現代社會に於ける「罪」の総決算としての「戦闘中」のやうなものなのです。
さて問題はまさに其の「洗脳」のことです。
「洗脳」はそも何故引き起こされるのか?
結局其れは「社會関係」がさう規定せざるを得ないとのことである。
但し「軍國主義教育」をまさに其の頃にやりながら「戦争」に終始懐疑的だった其の長野県の壱教師の「理性」のあり方はあくまで「非社會的」な部分に迄踏み込む見事なものでした。
まさに其れが「理性」のあり方の御手本でなくて何なのか?
戦後の體制の變化により教師は左派化され其の左派はそも「戦争反對!」だものですから教師もまた「戦争反對!」となりましたのですが其の御話は戦時中のことですのでむしろ教師こそが「戦争賛成!」だったのです。
ですが何せ教師は普通「理性」を持って居ますので。
其の「理性」を持ちつつ「戦争賛成!」を言わなイカンのは其れは今の小中学校の先生以上に仕事上大層辛い御話です。
だからとりあえずは「洗脳」に屈服せなんだ其の教師の理性的態度こそが「アッパレ」です。
さて「洗脳」はズバリ現代にもあります。
「洗脳」とは所謂「全體主義」を成立させる要件であり其れこそ細かく言えば現代社會の諸価値を構成するむしろ多くの事象が其の「全體主義」であり同時に「洗脳」のことです。
逆に申せば近代其れ自體がまさにそんな「全體主義」であり「洗脳」のことだ。
では其処で何が問題となるのかと言えばまさに其の「全體主義」が特定の価値の「破壊」を生み「洗脳」をより強化するとの点である。
「全體主義」はイデオロギーなどはむしろ関係無く引き起こされ兎に角其処に「やる気の有る社會関係」が存する限りみんなは「全體主義」化されて行くのである。
が、「やる気の無い社會関係」=「批判」や「逃げ」の方ですとつまりはそんなマイナスのエネルギーの塊ですとそも「全體主義」も「洗脳」も起こりやうがありません。
またつまりはそんな「批判」や「逃げ」の方ばかりをやることで「偉い軍人様」や「偉い資本家様」にはなれぬ代わりにさうして「理性」ダケを磨き込んで行ける。
其れもスペシャリストとしてそんな理性をより磨き込んで行けば學者様や学校の先生様位にはなれのやもしれません。
つまるところ「偉い軍人様」や「偉い資本家様」には決まって「理性が有る」とはなかなか言い難い。
また「偉い政治家様」や「偉い役人様」などにもまた決まって「理性が有る」とはなかなか言い難い。
さらに其の「全體主義」であり「洗脳」には「デカイデカイ病」と云う病が隠されて居りまさに其れが精神的な病です。
國を背負い頑張ること→〇
熱狂し歓喜せよ→〇
👩にモテること→〇
権威権勢金力が大好き→〇
だから其の「認識」其のものがそも間違って居ます。
よって正しくは、
國を背負い頑張ること→✖
熱狂し歓喜する→✖
👩にモテる→✖
権威権勢金力が大好き→✖
との認識に生きねばならぬ。
つまりは逆に「生臭くしてデカいもの」を捨ててかかるのが本來の「理性」としての役割である。
元來理性とは「限定」であり「否定」=「批判」である。
しかしながら其の「デカイデカイ病」こそがまさにタチの惡い病です。
いや待てよ、もしかすれば其の「デカイデカイ病」もまた「全體主義」であり「洗脳」のことなのやもしれん。
「デカイデカイ病」とは要するに「近代病」のことでまさに「力のあるものに群がる」であらう認識のことだらう。
「力のあるものに群がる」のが何故人気があるかと言えば「力のあるものに群がる」方が樂だからなのだ。
其れもあくまで「精神的に樂」なんだ。
逆に戦時中によりにより戦争に懐疑的な教師の頭の中身は可成に大變でありつまりは其れが精神に取り「茨の道」となるのである。
また戦時中によりにより「戦時中は精神的にむしろ平和だった」などと言う無頼派の作家共は如何にも認識がオカシくつまりは其れが精神に取り「茨の道」ともなる。
そんな訳で「全體主義」であり「洗脳」に侵されて居ない精神のあり方に就き今回は述べてみましたのです。
でもって個人的にはあくまで「戦争」からは逃げまくるとの御話でした。
其の「戦争」から逃げまくることと「社會」から逃げまくることはほぼ同様の認識から齎されて來るものです。
7.「國家」の決定には即従うが自分の決定には従わぬのは其れは洗脳的自我の成せる業でしか無い
8.上の議論での「戦争」を「進歩」とさう言い換えても良い
9.詩人は今も今後も兎に角「🏔へと逃げる」ダケのことだ
近代的価値とはそも認識として扱う対象が大き過ぎるつまりは「抽象度の高い」価値となる。
「戦争」もまた「進歩」もさらには「AI」だの「火星への移住」だのも皆其の種での「抽象度の高い」価値となる。
「抽象度の高い」価値からはなるべく逃げた上で其のポッカリ空いた穴の中に自身としての具象的価値をこそ嵌め込むべきなのだ。
またつまりはそんな「逃げること」即ち「逃避」とはむしろ眞近にある具象的価値を見詰めんが為の積極的な意味での「精神的避難」のことである。
さて其の「戦争」の問題に絡め以下に所謂「大衆社會論」を展開してみます。
尚以前此処にてオルテガの云う大衆社會を論じた時にとある大學の先生ー女性のーが御覧になって下さり反応を頂きました。
勿論其の方のブログの方も読ませて頂きましたが其の内容は可成に専門的であり自分に取り難しかった覚えがある。
オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 | マインドセットサロン (mindsetsalon.net)
capstone_2013.pdf (kyoto-u.ac.jp)
尚其の「大衆社會」の問題点とは価値が逆方向へと流れて行く=眞理方面に對し逆方向へとなだれ込んで行くとの点です。
また其の「眞理」とは所謂科学的な意味での「眞理」のことでは無くむしろ道義上のつまりは宗教的な意味やまた哲學的な意味での「眞理」でせう。
何故ならそも所謂「大衆」が欲するものとは「力」であり「熱狂」であり「騒がしさ」なのですから。
逆に「精神の貴族」の方方は「無為無力」であり「無視」であり「静けさ」としての心的世界を生きて居られる訳だ。
つまりは元來其のやうな認識世界を持って生まれて來たとのことである。
でもって此の弐種の認識のタイプは決して他方を理解することがならない。
ですが世が進み大衆的価値観が社會の趨勢を占めるやうになれば壱言で言って其の社會は「腐って」参ります。
つまりはそんな「洗脳大衆」による価値観が世を占めるやうになり「惡や不正」が横行する酷い世界となりやがては其の認識の腐りにより世は滅ぶこととなる。
まさに其の部分こそが彼「オルテガ」による大衆社會批判としての要諦なのだらう。
でもって「大衆」には「理性」が働かず要するに「全體主義」へと容易になびいて仕舞う訳だ。
何故「理性」が働かぬのかと申せば偏に其れは「社會に洗脳」されるからである。
さう「社會に洗脳」されるからこそ其れが「非自立的な意思決定」なのであり其の社會を自ら遮断し其処に「自立的且つ自律的な思考」を保てるやうになれば其の「操り人形状態」からは即解放されやう。
良くする⇔惡くする
まさに其れが科学技術にせよ大衆社會にせよ左側をやらうとしつつもつい自己矛盾して右側の価値を實現して仕舞うとの「カラクリ」である。
尚無論のこと「戦争」なる「全體主義」もまた「國を守らう」として逆に國を滅亡へと導くものなのだ。
故に「戦争」なるまた「大衆社會」なる「全體主義」こそが「惡」其のものなのだ。
また其の「全體主義」こそはさうして「社會」が担う価値である。
故に「社會」はむしろ「個」として「遮断」してかからねばならぬ価値としての筆頭となる。
其の「諦め」には「明らかにする」と云う意味もまた含まれると確か何処かで読んだ覚えがある。
そんな「諦め」とは所謂「デタッチメント」のことなのやもしれません。
「デタッチメント」の本質は「捨て去る」ことであり例えばイエス様の思想や御釈迦様の思想は共に其の「デタッチメント」としての思想のあり方である。
ところがそんな「聖なる認識の世界」には疎いと申すか元元縁の無い獣染みた大衆共はそんな高級な理性の働きにはまるで興味が無く兎に角食って寝て屁をコイて👩に触わりデズニーランドでもって遊びたいばかり。
是非にでもデズニーランドでもって何とかのアトラクションをしたい。
兎に角「花火」を是非観たい。
ありゃ同じことかいな。
其の下品で下ネタ満載でもってもうどうにもならん下卑た欲望の持ち主共が。
其の下卑た欲望の持ち主がしかしながら我にもまた半分は生き残って居た。
さても困ったな。
自分は結局のところこんな螽斯詩人の端くれとして藝術に殉ずる覚悟でもつて還暦以降の時を過ごして参ったが案外こんなにも「大衆的資質」にまみれておったのだった。
さうかでは其の「惡」をこそ赦さう。
「菩薩は惡を忍受する」
「汝の敵を愛せ」
かうしてついに我が社會的ー思想的ー闘争は宗教的次元へと突入して行くのだった。