目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんなイデオロギー對立と洗脳過程ー右の思想と左の思想の誤りと正しさに就いてー

そんなイデオロギー對立と洗脳過程ー右の思想と左の思想の誤りと正しさに就いてー

 

 

 

「早稲田祭」で旧統一教会の「友好」団体トップが講演会 「正体隠しの勧誘の場」だった? (msn.com)

 

いずれにせよ其の最高學府にて「洗脳」が行われて居るのだとすればまさに其れは由由しき問題です。

ですが早稲田の學生ともなれば少なくとも此処日本に於ける最高峰での理性の持主なのですからそんなもんに洗脳されて居るやうではかの大隈 重信が泣くと云うものだらう。ー我は其の早稲田大學へ壱番行きたかったが結局は行けず仕舞いでしたので其の辺のことまで良く良く考えて頂きたいものであるー

大隈重信って結局何者? 我が輩のことをもっと知ってほしいのである – 早稲田ウィークリー (waseda.jp)

 

さて其の「洗脳」のことだがまず自分は現存在の生其れ自體が其の「洗脳過程」にあるものとまずはさう認識する。

つまりは其の「洗脳過程」こそが實は現存在に取ってのアイデンティティーのやうなものなのだ。

 

逆に所謂「理性」が勝り過ぎて「洗脳過程」を削いで行けば行く程に現存在は人間としては生き辛くなって行く。

だけれどもかって御釈迦様やイエス様が此の世にて為されやうとしたのがまさに其の「洗脳過程」からの脱却であらう。

 

尤もイエス様などは其処にてむしろより強固なる「洗脳」により神の認識の次元へと人間の認識を繰り入れやうとなされたのだと思う。

對して御釈迦様の場合にはむしろ全ての「洗脳」の滅却だから其処にて次第に非人間化して行って仕舞うことはどうしても否めない。

 

尚其の弐種の「聖なる認識」に於いて優劣や正邪の区別などは元より生じはせぬ。

逆に邪教並びに邪教の教祖が目指すものとは究極的には自己の価値観への「洗脳」である。

 

でもって政治思想の上でのイデオロギー對立などもむしろ其の「洗脳過程」がさう生じさせて居るものだらう。

但し政治思想の上でのイデオロギー對立は所謂「社會」と連動しさう規定されて行くものなのでより問題が大きいつまりはタチが悪い。

 

ちなみに自分の考えとは即ち「限定論」であり對立其れ自體を縮小し平衝化して行くと云うものだ。

従ってあらゆる對立に於いて所謂「弐項對立」としての弐元論的な平衝を図る。

 

 

従って、

佛教⇔キリスト教

でもまたあり、さらに、

 

キリスト教イスラーム

ともまたなるのである。

 

だからそも其れは優劣の場なのでは無く信仰のあり方の違いとしての観念の場なのである。

 

さらに言えば、

革新思想⇔保守思想

なのでもまたあり、

 

また其処には優劣などは無くあるのは其の違いとしての観念の場なのである。

 

尚さう云うのはまさに哲學的には価値の「脱構築」的過程ー主にポスト・モダン以降の哲學が目指したところでの脱構築的価値構築の場ーに結果的に重なるのであるが但し自分の場合にはむしろ其処に東洋的な価値観ー所謂陰陽弐元論的な考えーをも盛り込むことを目指して来ては居る。

来ては居るが結局なかなか出来ない訳で出来ないともう頭にも来るがそんな足搔きのやうなものこそがまさに我が理性が此の世を生きた証拠なのであるから其れもちゃんと書き残して置かぬと誰にも伝わらずに終わっちゃうのでかうして日日書いて来ておりますのです。

 

 

さて其の「イデオロギー對立」其れ自體が非常にデカい観念的な場での對立です。

よってまずは其の「デカい観念的な場」であることこそがそも問題なのだ。

 

でもってTVなどを点けますとなんだか良く物事が分かったかのやうなコメンテーターの方方がまさにしたり顔にて偉そうに露西亜がどーたらかうたら、また中國がどーたらかうたらと言うて居りますがほぼ其の全てがバイアスが強く掛かった上での発言しかなされて居ない。

また其の多くが「祖國としての日本」を守る上でどう意思決定をすべきかと云う視点にて思考されて居るがどうもさう云うのは皆違うやうに思われてならない。

 

即ち問題はもっともっと根本的なところにありおそらく其れは哲學的な場としての論議なのでせう。

ですが政治家にせよ社會學者にせよさらにコメンテーターにせよ其の哲學的な場としての論議に迄踏み込んで問題を考えていく観念的な能力には欠けて居りませう。

 

だから最終的にはまさに其れは哲學的な場にて解決が図られねばならん大問題なのだらう。

わたくしはまさに其の領域に於いてあえて「限定」することの大事さに気付いたのです。

 

「限定」する=「縮小」する、ことです。

近代と云う時代の意思決定其のものがむしろ「非限定」化すること即ち「拡張」すること其のものです。

 

さうして拡大するとまさに虫眼鏡のやうなもので小さいものがより大きく良く見えるやうにはならうが逆に虫眼鏡の外の現實世界が在るのか無いのかと云うことすらもが良く分からなくもなる。

尚「非限定」化すること即ち「拡張」することこそが僕に言わせれば「洗脳」其のものなのだ。

 

 

其の「洗脳」としての「非限定」化すること即ち「拡張」すること=進歩主義により現存在の精神のあり方はほぼ損傷を受けて来て居ることだらう。

さうなんです。

 

實は所謂唯物的な進歩史観にせよ強欲資本主義による欲望の進歩主義にせよ元元現存在の精神のあり方への攻撃的要素がしかと組み込まれて居ます。

だからいずれにせよ能が足りんと云うこととなり實際に強欲資本主義の侭で此の侭行きますれば2100年迄おそらく世界は持たないことだらう。

 

では世界を共産化すれば良いかと云えば今日では中國も兎に角豊かになりたくまた北朝鮮なんぞはもうみんなが腹壱杯飯が食いたいばかりです。

さうして結局は腹壱杯飯が食いたいばかりですのにミサイルばかりを日本や米國に打ち込もうとして居るのですからそも其れは政治指導者の頭が狂ってるのです。

ですが日本や米國の価値観は正しいかと言えば其れはこと哲學的には正しくありません。

 

じゃどーすりゃ良いのだと誰しもさう思うことでせうが壱つには此処での我が発言に耳を傾けどう考えて行ったら良いのかと云うことを共に學ぶ立場をこそ涵養して行かねばなりません。

じゃあ社會科詩人さんは僕等を「洗脳」しないの?

 

 

いや正直「洗脳」しやうとさえして居ます。

むしろみんなを洗脳し哲學に於ける其の暗~い観念の森へと、其の堂堂巡りの果てでの観念地獄の場にみんなを落としてやらうとさう目論んでおる。

 

さうか社會科哲學詩人、おおまさにお前こそが其の邪な學問としての👿だったのか!

はい、さうです、我こそが其の「邪な學問の👿」其のものだったのです。

 

でも此のアイコンはなんか可愛いよね。

さうだな👿も💩もなんか可愛いくて苦悩の度には欠けるよね。

 

 

さて最近わたくしが考えて来て居ることとはまさに其の種の政治的イデオロギー對立の限界の部分でありさらに大衆的な意思決定過程に於ける限界ー民主制としての限界ーの部分です。

逆にわたくしの考えはむしろ初めから「限定論」でありつまりは限界的な論議其のものなのです。

 

どだい現存在による意思決定其のものが限定的産物=諸諸のバイアスにて構成されるー縁起的ー仮構築での観念の場其のものなのです。

其処を嚙み砕いて言えば現存在の「信念」なるものに理性的な意味での根拠がそも存在して居らずつまりは其処にて刷り込みを受けている=「洗脳」されて居ざるを得ない訳だ。

 

逆に言うと現存在は其の諸諸のバイアスにて構成されるー縁起的ー仮構築での観念の場を「信仰」することで日日の今と云う場を生きて来て居ます。

ですが其の「信仰」其れ自體を是非疑ってみるべきなのではないか。

 

「信仰」するならむしろ其のやうな社會的仮構築物としての価値観=イデオロギーなのでは無くまさに佛教でありキリスト教でありイスラーム教でこそあるべきなのでせう。

つまり我が考えでは其の政治的な意味での価値對立即ちイデオロギー對立がむしろ現存在の生存を脅かす元凶であることを今此処に述べて置きたい訳です。

 

 

でもってして其の政治的な意味での価値對立即ちイデオロギー對立を平衝化して行くことは例えば夫婦喧嘩を調停することなどよりは常に難しくなる。

要するにデカい範囲での価値對立は平衝化して行くことがより困難であり必然的に其れが破壊を生み出すがより小さい範囲での価値對立は平衝化して行くことがやり易くもなる筈だ。

 

其のイデオロギー對立ばかりでは無く環境問題ー文明と自然の価値観の上での對立ーにせよ人口問題ー現存在としての理性と本能に於ける對立ーにせよ全てが其の論理に嵌まり込む現象として考えられやう。

つまりは其の種の大問題に至らしめて仕舞う前に實際には是非手を打って置くべきでした。

 

壱つには例えば徳川政権による幕藩體制こそがまさに平衝化された上での政治的理念の場其のものであった。

其れを成立させたのは他ならぬかの家康公による強固に築かれた人文學としての理性の場であった。

故に其れは政治としての場に「限定性」をしかと組み込んだものでした。

 

勿論其の「江戸時代」にもまた何ともならんやうな飢饉やら天災やらまた幕府としての政治上の汚職や腐敗が多多生じて居た訳だった。

であるからこそ大塩平八郎の乱 - Wikipediaなどがまた起きたりもして居たのだった。

 

では「江戸時代」が悪かったかと云うと其れはさうでは無かったことでせう。

少なくとも政治體制としては其れはほぼ完全に機能したところでのまさに「限定的」政策過程であり政治體制であった。

 

つまりは此処日本國に於いて理想的な體制が初めて布かれたのがまさに其の幕藩體制でした。

其の幕藩體制は天皇ー國王ー中心の體制でも無ければ独裁政権でも無かった。

 

其れが即ち江戸幕府と云う合議制による政體でありさらに尾張藩や他の諸藩での自治などもある程度は認められても居た。

まさに其の理想的な體制を築いた流れには勿論信長公→秀吉公が築いた武家政権への努力が全てなだれ込んで居やう。

 

いや其れ以前に半分尾張人であるアノ源 頼朝公の武家政権への努力がなだれ込んでも居る。

またつまりは愛知県人の政治的努力がソコに全部詰まって居るのだ。

 

 

だから開国なんてむしろしない方が良かったのだ!!

其の鎖國をこそ是非続けて居れば良かったんだ!

 

よりによりまた何を言うとるんだ?

其れももうすぐ師走で寒くなりつつもあるのにまた気でも狂ったのか?

 

いえ只単に懐古趣味の場にかうして深く深く浸り続けて居るのです。

じゃあ着物でも着て麦飯でも食ってみたらどうだ?

 

いや着物は持ってませんしそも麦飯なんて何処にも無いですよ、もう何処にも。

ところでお前たった今「今夜はまた味噌煮込みおでん飯」をつくり食おうとさう思ったな?

 

はい、確かにさう思いましたのです。

其の「味噌煮込みおでん飯」こそが三河松平の味其のものなのですから。

 

では何で東京では「味噌煮込みおでん飯」が流行って居ないのだ?

さあね、其れは分かりません。

分かりませんが東京人は近代化され挙句におそらくはダメになりつつある。

 

重傷の宮台真司さん「誰なのか分からなかった」 都立大切りつけ (msn.com)

ほらね、かうしてもう東京では毎日とんでもないことが起こります。ー其れもかうして同い年の社會學者がやられた訳だー

 

いやあ、確かに東京には今問題があるね。

尤もあんな大阪には任せられないよね、まさか。

 

ですから、名古屋が其処に乗り出すと良いかとさう思うでせう?

でもそもやる気が無いので名古屋はもうヒタスラに逃げて行くばかりなのです。

 

うーん、さうして實は可成に逃げつつ仕事だけはキッチリやりさうして稼いで来た訳か。

さうなんです、其れも最終的には東京が例えば富士山の噴火で壊滅しまた例えば大阪が地震で潰れるとココ名古屋だけがかうしていつまでも豊かに暮らせるやうになるんですよー。

 

 

こーのクソナゴヤめが、潰したろかい!!!

いえあくまで尾張は惡役ですのでたとえ殺しても死なんのがナゴヤの本質部です。

 

さうか、尾張は確かに根性が悪くできとるやうだ、また其のことは日頃のお前の言説からしてもしかと分かることだな。

 

でもって其の「洗脳論」の方はどうなった?

 

つまるところ其の社會的な意味でのイデオロギー価値をあえて「限定」して行くべきでせう。

其の社會的な意味でのイデオロギー価値はまず「偉い思想」なのでもなんでも無く逆にどーでも良いやうな観念的なしかも不完全な価値であるに過ぎぬ。

 

イザさう捉えれば其処に無駄な精神的労力を使わずとも良くなる。

但し考えるのだとしたら限定的な政策をこそ支持して行くべきです。

ー其の意味での「計画経済」か又は「國家資本主義」つまりは限定的な政策こそが〇となる。ー

 

さらに邪教の洗脳への対処法などもまた其れと同じことです。

要するに正教の判断をより徹底して行う必要があり此の際邪教には退いて頂く必要が是非あらう。

 

逆に申せば精神的労力とは自立的、自律的に自己の内部でもってまさに哲學的に深めて行くものであるべきだらう。

うーん、また其の結論の方がなかなかに難解だな。

 

 

要するにごくカンタンに申せば「周りの意見に振り回されて居れば居る程に受動的な意思決定過程の中に組み入れられ自己に於ける精神的な意味での自立性、自律性を失う羽目となる=洗脳されるに至って仕舞う。」とのことである。

 

ですが現存在の生もまた動物の生も同様に受動的なものであることが基本です。

何故なら其の「受動」こそが「社會化」の過程なのであり「社會化」即ち「受動」を否定すれば即現存在もまた動物でさえ孤立致します。

 

なんですが現存在が文明として構築した社會的自我なるものは其の価値が及ぼす範囲がデカ過ぎるが故に極めて危険なのです。

なので其処からはあえて距離を取るつまりは自己としての精神を回復させんが為に「限定」せずば眞の意味での精神的な満足=幸福感を得ることは難しくなる。

 

逆にそんな状態だからこそ益益イデオロギー構築に拘り「自分の意見こそが正しく」他は間違いでありさらに自國や自らが属する共同體の論理こそを優先させる訳ですが其れではほぼ其の全てが「洗脳過程」を生み出しよって自ら進んで其処に「洗脳」されて行く他は無い。

 

ではそんな天下國家だの郷土だの👪だのの論理では無くむしろイデオロギー以前での価値構築に拘り其処にて適当に遊んで居ればむしろ其の方が良いとさう仰るので?

 

むしろソチラでの価値の方こそが實存を實存としてさうしからしめて居る価値なのですから。

まさにそんな小さい価値の方こそが「偉い思想」であるつまりは大事な価値なのです。

 

ふーん、さう云うのがむしろ「限定論」の核心部に横たわる価値なのか。

でもさう云うのはもはや壱般大衆にもまた知識層にもなかなか伝わらぬ部分だらう。

 

さうなんだ、だからこそ社會科哲學詩人は其処でもってもうほんたうに苦労して来てるのだ。

 

 

要するに「バイアス」からつまりは所謂「しがらみ」から解き放たれることこそが「洗脳」から目覚め自己を確立すると云うことです。

ですが其の自己は言わば脱構築された自我でありあくまで脆弱ですので正教に對する信仰はむしろ不可欠なものとなる旨を御話させて頂いた訳だ。

 

うーん、すると其の社會が齎すイデオロギーとしての価値對立はむしろ避けられないのであくまで自分としての認識の方を「限定」して行くべきだとさう述べられて居るのですね?

まあそんなことです。

此の社會としての価値観のあり方はまさに「矛盾的推進」ですので必然として時間の流れと共により諸矛盾が其処に蓄積されむしろより問題はデカくなりしかも解決不能な状態へと移り変わります。

 

だから其れとまともに向き合えば向き合う程に内心の自由や幸福感が逆に損なわれつまりは自分自身が不幸な状態へと陥って行かざるを得ない。

でもまさに其れぞ「ロクでも無い社會のひっでえ體たらく」以外の何ものでもありませんのです。

 

故にそんなもんはむしろ切って捨ててやる位の気概を持ちまた其の後に江戸時代の夢の統治の様などを組み入れ結局は独り悦に入る位のことをして居る方がより有意義な価値に触れることに繋がりさらに幸福感さえもが其処に滲み出て来るのです。

 

 

でもさうかなあ?

そんな空想的な夢想の如きぼっちの世界でもって幸せになれるんですかねえ?

 

必ずやなれます。

だってまさに僕がさうなんだから。

 

其れは君だけの話で其れもどうもみんなに向いた御話では無いやうな気がするのだが…。

 

ですか?

まあ僕もこんな変わった自称の詩人ですので其れとは別に是非みんなはみんなの道を行って下さい。

でも其れをやりますともうすぐにでもみんなが大宇宙の巨大なる肥溜めに落ちる気がどうしても致しますのです。

 

まあでも確かにアンタ変わってるわ。

其処の部分は確かにアノ養老先生並みなのかもしれないね。

但し知能指数の方は其の半分位しか無いのだらうが…。

 

またさうして詩人の頭の悪さを馬鹿にしてえ…。

でも僕は参箇月程前に知能検査をネット上でやりましたが「空間識別能力」がとても優れて居る旨が結果として出たんです。

でも知能指数の数字を知るのは有料ですので結果分かって居ません。

 

ですがおそらくは150程はあるかとさう思います。ー尤もさう思うだけながらー

でも知能検査ってそも何であんな理系の図形や数式のやうなものばかりなんだらう?

 

 

なにせ僕はかうして文系の天才なのでつまりは其処が其れではまるではかれないだらう。

ちなみに文學の抱える闇はまた常に濃く深いものがある。

 

何をまたイキナリ言いたいのか?

いえアノ大宰のことをつい考えて居ました。

 

太宰は心中する時に女に玉川上水に引き摺り込まれた可能性があるのださうだ。

では今でも其の大宰のことが好きなのか?

 

いやそんな🚺と死ぬ大宰なんて嫌いだな。

アレの生活には元元嫌な雲行きがありつまりは所詮芥川賞だけが欲しかった生活破綻者であるに過ぎぬ。

 

だから安吾の方がより好きだがでも彼はキチガイにより近かった可能性が高いのだ。

安吾の作品をまた是非此処でも論じてみたいがいつもふと気付くとかうしてバカバカしくも社會のことばかりを論じさせられて居る。

 

全くのところ此のクソ社會めが…。

 

 

さう言いながらでも其の社會を論ずることは得意なのだらう?

はい、確かに社會に對しては頗る強いのです。

ですが社會を語ると決まって「滅亡論」へと至るのでもうやりたくはないんですう。

 

でも其の滅亡論こそが得意なのだらう?

得意ですがそんなもんもはや誰も聞きたくはないですよ。

何故なら今マジで滅亡への途について居ますので、他ならぬ此の文明こそが。

 

さて人類は2100年迄持ちますか?

まあ遊んでればおそらくは何とか。

でも頑張ればおそらくはあと20年、30年位でボロボロでせう。

 

要するに五木先生のやうに浄土教を論じ養老先生のやうに虫取りをして居れば良いのだと?

まあ作家の先生方はね。

 

でも幾ら作家の大先生方でももう直に御迎えが来ることはまず確かだ。

だからもう後はアノ尾張の自称詩人に全てを任せるとさう御墨付きさえ頂ければ必ずや僕はやりますのに全く残念なことだ。

 

ほれ、また「何とか御墨付きが欲しい病」が出て居て其れはまんまアノ大宰の論理と同じだぞ。

さうだったのかしら、むしろ其れは嬉しい。

 

…。

 

 

さて其の「政治的な意味での価値對立即ちイデオロギー對立を平衝化して行くこと」は兎に角難しいことだ。

さらに文明に於ける進歩主義を止めることなどもまた其のこと以上に難しいことだ。

 

ではあるが其処にて、

1.内面的価値化こそが實存的な能力を高め得ること

2.正教に對する信仰こそが實存的な能力を高め得ること

 

の弐点に就き今回は述べさせて頂きました。

さらに、

 

其の内面的価値化及び信仰こそが諸諸の社會的な洗脳に對する根本的な對抗策となり得るものです。

でもそも社會ってそんなに悪いものなのですか?

 

いや貴方方は人が良いからさうして社會を信じて仕舞うのであり自分の場合はあくまで性格が屈折して居るのでー根性曲がりなのでーさう思って居るだけのことなのだらう。

 

でもTVのコメンテーターでもってこんなことを言う人などは誰も居ませんね。

尤も其れが居ないので社會の真相の部分がまるで其処には語られては居ないと云うことなのだけれど。

 

 

杉田水脈政務官「命に関わる女性差別ない」 14年発言を説明 (msn.com)

 

さて本日午前中に國會中継を視て此の杉田氏の問題発言の部分をも丁度視て居たがまずは果たして國會とはこんなことを討議する場なのだらうかとさう正直思った。

でもって杉田氏は小綺麗な女性で其処は悪くは無い。

 

少なくとも左翼のしかもバリバリの男女同権🚺よりはむしろ好みでさえある。

自分が完全に共産主義思想に馴染めないのはズバリ其の「女性の権利を声高に叫ぶ」点にこそある。

 

尤も我が信奉する「共同體主義的なアナキズム」は結果として國家を否定するのだからむしろ政治思想的には極左に分類されやう。

なんだけれども自分の主義主張は其の全てが「限定論」なので当然ながら其れは左翼平等思想とはまた違うものなのである。

 

要するに男女の性差があることを認め適した仕事をやるのがむしろ「権利」を認めることとなるので所謂男尊女卑思想は我に取りおかしな思想にはならないのである。

だから其の「共同體主義的なアナキズム」思想は我に取り左翼思想と所謂古臭い保守思想との結節点としての理想的な結末なのでもまたある。

 

つまりは其れを両方やって行く思想の流れなのだ。

 

でもって自分はまず「良妻賢母」こそがむしろ社會の根幹に位置するものだとさう考えても居る。

だから家の中のことが確りと出来且つ男性を持ち上げる女性は無条件で偉いとさう考えて居る。

 

なのだけれども右の人と違うところは「國」なんぞはむしろどうでも良いとさう考えるところである。

杉田氏は其の発言の仕方には大きく問題があらうと思うのだがとりあえずは綺麗なので其れも許した。

 

もしも此れが不細工であればまた評価も変わったかと思うのだがとりあえずはさうしてタイプだったので結局は許した。

 

が、右の思想の問題点は、

1.反共産主義の度が強過ぎること

2.妙に👪主義であること

が挙げられやう。

 

何でかと言えば日本の體制はむしろずっと👪主義だからなのだ。

おそらくは戦國時代ですらさうだったのである。

 

要するに其の「家の制度」に固執するから個としての自我が確立せずむしろ「家としての存続」が個の存続よりも優先されたりするが其れは近代的な思考のあり方とは異なるまさに前近代的な思想としての遺物である。

でも僕の場合其の「男尊女卑」はむしろ合理的に考え抜いて行くとさうなるんである。

なので其れは「家の制度」に於ける所謂家父長制的な「男尊女卑」なのでは断じて無い。

 

其れと右の思想に「反共」の考えが根強くあるのは色んな理由があることかとは思うのだが其れも結局は理性的な態度では無いのだと思う。

 

3.声高に女性、性的少数者障碍者の権利を常に叫び且つ其れを持ち上げること

4.結果的に男性のプライドの如きものを其の平等思想の中へと組み入れて仕舞うこと

 

對して左翼思想の考え方にもまた大きく問題が存する。

でもって以上のことをやると相對的に男性がダメ化しつまりは弱くなって行く。

 

だが先にも述べたやうにライオンの♂はたとえ怠けて居ても偉いのである。

そこんとこを實際よーく観察して置かねばなるまい。

 

また男性はプライドの動物なのであんなソフトバンクのCMみたく犬扱いされたりすると意気消沈して仕舞い易い。

要するに男性は元元至極デリケートに出来上がって居て其れも壱般に鈍感な🚺共とは異なりすぐに滝から飛び降りたりもするのでむしろ保護してあげなくちゃならない。

 

まあそんな訳で其の右もまた左もまた間違いダラケである。

だから全部が間違って居るのだと言っても良いのだ。

 

だからまずはそんな視点からこそ政治思想とは是非取り組んで行くべきなのだと思う。

さうしてくれぐれもどちらかを信じ込まないやうに。

でも部分的には勿論両者とも正しい部分もまたあるのだから。