カルトな封建國家としての日本ー『同調圧力』による近代的価値の破壊と日本の再生の御話ー
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宗教的な肩書を利用しかうして惡を為す奴はまず地獄へ堕ちる。
また政治的な肩書を利用し惡を為す奴もまず地獄へ堕ちる。
同調圧力 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)
さて問題は此の本である。
此の本を1月25日に壱気に読んでみた。
其れは大變優れた書であった。
其れも此処五年ばかりの間では最も優れて居る。
其処では、
1.知性は此の「日本社會が置かれた閉塞状況」を的確に考え抜いて居る
2.此の世の中にはさうした類での優れた知性が常に存在して居る
ことにまずは気づかされた。
従って知性を信じて生きて行くことは矢張りと云うべきか「間違い」なのでは無い。
【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)
コロナ禍における「世間」と「同調圧力」(前)|NetIB-News (data-max.co.jp)
此の本が論じて居ることは其の「世間」が如何に日本社會其のものを圧迫しあらゆるものを壊して行くかと云うことである。
其の「世間」とは「前近代的な意味でのしがらみ」のことであり要するに封建的な意味での「體制維持の力」のことだ。
ところが其の封建的な意味での「體制維持の力」が働く社會であるが故に日本社會は、
3.清潔で且つ犯罪が少なく
4.所謂「おもてなし」の力に長け
5.人間的には「良い人」の多い集団
であり続けることが出来る。
ところがまた其の「體制維持の力」=「世間」こそが逆に日本社會を縛り続け挙句に「息苦しく」さえもして行く訳である。
其の「世間」とは要するに「みんなで渡る世界」の意味である。
さうしてあくまで「みんなで渡る世界」なので「個として渡る社會」なのでは無論のこと無い。
ところが近代的政治原理とはまず「個として渡る社會」なのである。
だから其れが契約社會となりまた法治國家としての基礎的社會となる。
ところが厳密には其の契約社會もさらに法治國家さえもがかの國日本では成立してさえ居ないのである。
何故なら日本は其れこそ「和を以て尊しとする👪主義の國家」なのであるから。
なのでむしろみんなが👪なんだ。
👪だから國が戦争をやればみんなもまた其れに従わざるを得ない。
また御國の為に死んで來い、つまりは「特攻せよ」とさう命じられれば何処までも敵艦に體当たりをしてつまりは華華しく散らねばならぬ。
天皇陛下萬歳!!!ドッカアーン、バラバラバラ。ーアナタの體がバラバラになった音のことー。
だが誰しもそんな死に方はしたくは無い。
無いのであるが此の國では「建前」=「世間體」が常に優先されるのでそんな「バラバラバラ」こそがまさに正解となる。
對して、「戦争反對!!」と共産党員やアナキストが叫ぶと即牢へ入れられ彼等の多くは獄死する。
つまりかの國では正しいことがむしろ圧殺され其の正しくは無いみんなで歩む道の方が常に優先される。
でもって「世間體」があるので生活保護も受けられやしない。
だったら親子の縁を切り生活保護を受けやうと我などは即思うのだが日本人の方方に限り其れは「恥」なのでよもややってはならぬことなのだ。
そんな「恥」もクソもあるかと正直さう思うのだがあくまで「正しい日本國民」の方方は其の「恥」があるからさうして負けられやせぬ。
だが負けて何が悪いのだ?
第壱もう日本の全部が負けてるぞ。
なのに壱體何の為にさうして「和の連帯」にばかり拘るのだ?
まさに其の「和の連帯」にばかり拘るので所謂「自立的思考」が出来ない。
つまりはソコが弱いので「宗教」や「哲學」の分野に頗る弱い。
また日本人は必ずしも非宗教的な民族では無いが眞の意味での宗教の意義に就きまるで知らない。
宗教とは願掛け=御願いとの現世利益主義に毒されて居り要するに別に自分自身を救わんが為に宗教を選ぶのでは無い。
何故ならさうして「世間」が彼等の幸福を約束して呉れて居るからなのだ。
だが其の「世間」は基本的に近代社會の政治原理を外れた云わば「漂流物」でしか無い制度である。
要するに其れが前近代的な封建的要素なので所謂近代的自我として其処に認められるやうな社會的要素ではまるで無い。
其処を壱言で言い表せばそんな「変われない👪的封建主義としての體質」をかの國は近代化以降もずっと引き摺り今に至る訳なのだ。
「変われない👪的封建主義としての體質」=「世間」である。
對して欧米圏やまた社會主義體制を布く國國の多くが「内発的近代」を履行して來て居る。
つまり此処日本に其の「内発的近代」は無いのである。
まさに其のことをかの夏目 漱石がかって述べて居たのである。
さうして日本の近代化はむしろ須らく内発的なものでは無く外圧に屈する形にて齎されたものであるに過ぎぬ。
では「和」とはそも何か?
「和」とは「世間としての連帯」のことだ。
あくまで其れは「世間の連帯」なので「社會の連帯」とは違う訳である。
つまるところさうして日本社會は「近代の連帯」をして居るのでは無く「世間の連帯」にて万事が滞り無く営まれるカルト國家な訳だ。
ところが次第次第に其の「カルトな連帯」にも綻びが生じて來る。
6.民主制の機能不全
7.エッセンシャルな労働の崩壊
8.教育の崩壊
等が取りあえずは挙げられるがまた其れに加え「宗教的」にも破綻して來て居る可能性が高くある。
と以上で述べたことは其の『同調圧力』を読み強く示唆を受けた我が理性が考えたところでの部分を述べたものである。
9.日本には「社會」が存在して居ない
10.兎に角「同じ」であることこそが至上の価値
11.みんなでもって滅びることこそがむしろ「世間」の論理が欲するところでのもの
とのことなのでもう反對意見は誰も言えぬ。
でも其れを言うてる人も居て其れが「同調圧力」には屈しない人人である。
また我なども明らかにソチラの側の人間なのではないかと思う。
何故かと言えば「みんなでもって共に滅ぶ」のがイヤなばかりなのだけれども。
さて其の「同調圧力」が齎すものとは所謂「全體主義」である。
其の「全體主義」はかっての「大東亜共栄圏」ばかりでは無く「高度経済成長」にせよまた「自民党壱党支配」にせよむしろ全てがさうだったのだ。
何故なら、
「高度経済成長」反對!!
「自民党壱党支配」反對!!
とは實はなかなか言いにくい。
つまり其れは「世間」が是認するものなので其れに對し反對することが出来ない。
またつまりは其の「全體主義」國家であることから必然的に様様なものが壊れて來る。
現在の日本人の経済的苦境などもまた資本主義に對する「全體主義」がまさに其れを齎して居るのだ。
其れにも増して怖いのが先にも述べたところでの「日本人の宗教的崩壊=精神的崩壊」の部分である。
何故なら「世間」には宗教が要らず「社會」にこそ宗教が要るのであるから。
日本には社會が無くよって宗教が本質的には要らずでだから最終的に宗教団體などが儀礼化習俗化しとどのつまりは「現世利益」の為の組織と化して行く。
そんなもんは無論のこと宗教には非ず。
其れはむしろ👪主義にさし貫かれた「世間」話の類のものでよって厳密には日本社會に宗教其れ自體が存立して居らずだ。
などとまた過激なことまでつい言っちゃいましたが要するに其れは全てが「全體主義による自己矛盾」の世界のことを述べて居るのである。
また重要なことが理性は其れをむしろ「直視」して置かねばならんと云うことなのだらう。
自分はまさに其の「直視」の様を『同調圧力』と云う書籍より強く感じたのである。
故に「絶望の度を深める」どころか逆に「絶望の淵より救い出され安堵する」ことが出来た。
要するに其の「モヤモヤ」とした正體不明の息苦しさに對し答えを出して呉れたことに関する爽快感が勝って居たのである。
左様に「理性的に」物事を見詰めることでこそ明らかにされる部分が確かにある。
ところが例えば政治で例えるとアノアベだの🐊(アソー)だのまた🐵(ガースー)だの何だのではそも全てが其の理性的範疇以前でのケモノ力の集合體ですので兎に角理性的にはまるで埒が明かぬこととなる。
またキシダの場合理性はあっても何せ👪主義ですのでつまりは其の「世間が齎す全體主義」から逃げおおせることなどはまるで出来ぬ。
ではどうするの?
どうする、日本?
まあすでにどうにもなりまへん。
だから其の「全體主義による自己矛盾」の世界の中を只ひたすらに潜行して行きハッと気付くともはやどうにもならんデカい肥溜めの中に落ちもがいて居たと云うことでせう。
何でさうして日本其れ自體を肥溜めの中に落としたくなるの?
いや自分が其れを落としたいのでは無くあくまで自身でもって危険な野っ原を突っ切り挙句にドボーンと其の肥溜めに日本が落ちたのです。
日本を支配する「空気の暴走」は止められるのか | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)
さてこちらの記事はとある塾の先生が「空気」の観点より日本社會を論じられて居るものです。
此処での要点とは「空気」を全否定せずに置きしかも「空気の暴走」は断固阻止するとの点でせう。
尚自分の場合にはあくまで其の「空気」とは「全體主義」のことだとさう捉えて來て居ます。
従って其れこそ理論的にはそんな「全體主義」は否定されてしかるべきなのだとも考える。
其の「全體主義」はそも村落共同體の如き前近代的な社會に於いては至極有効に働くことだらう社會的原理です。
またつまりは其れが「非近代的な意思決定」なのであり且つ「非合理的な意思決定」なのです。
其れ即ち感性主義ー感情に基づく意思決定ーであり要するに👪主義のことでもまたある。
ではあるが其れはあくまで「近代に對し誤謬」であるに過ぎないが「前近代に對し正解」なのでもまたあり得る訳だ。
だけれどもあくまで近代と云う時代構造に對し其れは反旗を翻して居るものです。
但し近代は正しいやうに見えて實は「間違い」の塊です。
よって問題は「変われない日本の価値構造」を自覚するか否かの部分だと考えます。
其れはむしろ「変われない日本の価値構造」を武器化して行くことなどもまた壱つの日本の理性的選択であるとさう捉えるからだ。
其処をもっと具體化して述べれば、
12.「鎖國」へと進む勇気と覚悟の涵養
13.「共同體主義」へと進む勇気と覚悟の涵養
14.「自給自足経済體制」へと進む勇気と覚悟の涵養
との点に於いてむしろ其の日本の価値構造の非近代性が功を奏する可能性なども高くある。
要するに「自己中心的に」國家を成り立たせて行く方が今後かの國が受ける利益は大きくなるものとさう判断する。
但し問題は其の全體主義による「洗脳」が日本國民の頭の中をすでに蝕み始めて居ると云うことである。
其処にて「洗脳」=「空気の暴走」=「全體主義」ですので其れに寄りかかれば寄りかかる程に日本人の精神性はダメとなることでせう。
元より「近代」と云う時代は其の「特殊なる日本の社會構造」とはまるで別箇での大問題を孕むものだ。
「近代」が良いか悪いかと云うことを考えまするにむしろ其れは悪いとさう捉えて行かざるを得ない。
従って其れは「近代的な合理主義」に於ける誤りの問題なのでもまたある。
でもって最終的には其の「近代的な合理主義」を肯定するか其れとも否定するかの弐者択壱の選択となる。
よって其処に於いて其れを否定出来る可能性はむしろ日本的な意味での「前近代的な意思決定」のあり方であるつまりは「非合理的な意思決定」の中にしか無いと言える。
少なくともさう考えると其の日本人の意思決定の非自立性、概念の非自律化の部分があながち悪いとも言えなくなって來る。
従って日本國は其の特殊な社會性の部分をむしろ武器とするやうな方向性へと是非向かって行くべきなのではなからうか。
其れ即ち、
15.経済成長には捉われずに経済的自立性を追求する
16.共産主義や社會主義に對する生理的な毛嫌いを無くす
17.肥溜めの中で溺れぬ理性の力をこそ磨く
とそんな点に就き頑張れば日本國が良くなる可能性もまた残されて居りませう。
但し『同調圧力』の本の中にはそんなことはまるで書かれては居りません。
其処では要するに其の「世間」としての「同調圧力」から「社會」としての「同調圧力」に変えて行くべきだとさう書かれて居ます。
尚「世間」と「社會」は確かに違う。
例えば日本の會社は「世間」を渡るものだが他の世界の會社は「社會」を渡り歩くものである。
さて個人的に「世間體」と云う言葉が兎に角大嫌いです。
「世間體」なんぞを気にするから「個」としての意思決定が出来なくなるとさう良く思います。
「世間體」はさうして「肩書き」=「地位又は名誉」にコロリと騙されて仕舞う。
「肩書き」だの「金の有無」などは人格とは無関係な価値でありよって人間は其の人が何を考え何を言って居るかと云うことこそが全てです。
さう考えるからこそ「人間の中身」こそが大事になる訳だ。
ところが此処日本社會では「肩書き」だの「金の有無」に對しむしろ人格評価の力点を置きがちである。
まずは其れこそが間違って居ます。
其れこそ最初に述べた如くに「肩書き」を隠れ蓑と化し惡事を働く輩が此の日本の社會には多く居る。
其れと社會と個はあくまで別者です。
ところが多くの日本人がむしろ「世間」=「個人」位にも思って居ます。
つまりは其の自我分離が無く共同體の中に埋没し易い。
其のことはこと近代に對しては不利どころか誤り=✖ながらも前近代的な社會システムに對してはむしろ〇です。
結論としてむしろ日本國は其の「カルトな封建性」を武器としてまさに其れを+の価値へと是非変換せしめて行くべきだ。
だけれどもあくまで其れをするにはまさに「國際連合」を脱退する位での強靭なる意志の力が必要だ。
つまりは其の「空気國家」乃至は「同調圧力國家」其れ自體が近代と云う時代の枠内ではむしろ完全に✖なのですが其処から抜け出すと云う点に於いてはむしろ其れが有効に働く可能性が高くあるのです。
さて以下では佐藤 直樹先生の考え方を基に日本社會の異質性に就き考察してみます。
ーそのような同調圧力も世間に由来するものでしょう。日本人の間では「みんな同じ」という同質性の同調圧力が働くために、隣の人がちょっとでも違う行動をとることに過敏でした。たとえば屋外でマスクをしなかったり、外出自粛要請を守らなかったりと、「世間のルール」に反する逸脱行為とみなされます。これが相互監視を生み出すのです。コロナの感染が広がる中では、世間による同調圧力と相互監視の肥大化につながりました。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より
其の「みんな同じ」と云うことは価値ヒエラルキーが無いと云う良い事の筈ですが實際には日本國に於ける身分制の秩序はほぼ絶對です。
だからまずはソコがそも矛盾して居ります。
あくまで「みんな同じ」なのであれば例えば共産主義やアナキズムとの親和性があるのですが身分価値ヒエラルキーは縦の序列として殊の外堅固ですので共産主義もアナキズムも勿論認められません。
つまり其の革新的進歩思想とは極めて相性が悪いのがそんな「世間」としての制度なのだ。
また其の「世間」に於ける意思決定の正邪はむしろどうでも良く要するに間違って居てもみんなでもって其れをやり切ることが大事なのです。=戦時中の価値観
ーそれが正当化されるのは、「人に迷惑をかける」行為が、日本ではきわめて悪いことであるとみなされているためです。日本では「世間のルール」に反したものに対して、法的根拠もなく、権利や人権も無視されて、世間が事実上の処罰をおこなっているといえます。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より
此処日本にはかやうに正確には法律さえ無いんです。
また議会制民主主義其れ自體がそも成立して居りません。
要するに其れはズバリ言って前近代的な國家のあり方で要するに精神の方が過去にしか無いと云うことなのだ。
ー「空気を読む」「忖度(そんたく)」という言葉も世間に密接に関係していると考えます。劇作家の鴻上尚史さんは「『空気』とは『世間』が流動化した状態である」と定義しています。つまり、がっちりとしていない、ゆるい「世間」が空気だといえます。「KY(空気が読めない)」は、2007年ごろから若い世代の間で広がったといわれますが、この空気に動かされるのも世間の特徴でしょう。ー【佐藤直樹】日本世間学会の研究者に聞く、日本に「自粛警察」が生まれる理由:朝日新聞GLOBE+ (asahi.com)より
まさにそんな「空気」による緩い「世間」としての価値を奉じ日本社會及び日本人は動く訳だ。
つまりは其の「世間」乃至は「空気」による洗脳を受けて居るのである。
ーこれらのルールは海外では通用しないが、実は11世紀、12世紀ぐらいまではヨーロッパでも「世間」があったという。それを宗教、つまりキリスト教が他宗教を排斥する過程の中で「社会」に変えていった。
同様に日本でも近代化によって「世間」は少しずつ崩れ「社会」に変わっていくと思われたが、グローバル化によって復活し逆に強固になるという現象、バックラッシュが起きる。ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より
「社會」=近代的価値であり「世間」=前近代的価値です。
尚新自由主義的な秩序が「世間」を放逐した訳では無くむしろ其れを強化して居ます。
また文明の危機もまた「世間」を放逐した訳では無くむしろ其れを強化して居ます。
ー「日本は明治に入り近代化を進めました。欧米から『ソサイエティ』という言葉が入り、『社会』という言葉を造語します。しかしその当時、日本に『社会』はありませんでした。では、150年たった今、日本に『社会』はあるかといわれると、無いのです。
社会は『インディビジュアル=個人』が集まってできますが、当時の日本には『個人』の言葉はあっても実態がありません。その代わりにいるのが“個人ではない人”です。それはまさに現代のような“悪目立ちしない”在り方です」
明治以降、日本は海外からの法制度や政治制度の輸入には成功したが、その根底にある社会、人間関係の作り方の輸入はうまくいかず、それまでに存在していた集団、つまり『世間』が残ることになる。ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より
まさしく此の佐藤先生による近代化と世間との関係のあり方ー近代化の失敗ーの解釈の部分こそが最重要での部分です。
つまるところ日本人は精神の近代化にはかうして失敗した訳です。
失敗すれば其処でもってむしろ其れ迄連綿として受け継がれて來た共同體的な感性ー感情ー=👪主義としての感情に頼らざるを得ません。
ー「日本人は皆どこかの『世間』に属していて、自分の『世間』の状態をとても気にします。『世間』はウチとソトが隔てられた“閉じた”もので、パブリックが存在しません。日本人は『世間』のウチでのことは積極的にやりますが、ソトのことはどうでもいいと思う。一方、『社会』は原理的に閉じておらず、そこにはパブリックという概念が存在します。『世間』は『社会』より狭い。そのため医療従事者への拍手も一部にとどまったのです」ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より
つまりは其の閉鎖環境としての👪主義的な封建體制ダケが大事なのです。
要するにそんな内向きでしかあり得ないのが「世間」であり其れはよもや「近代社會」では無い。
尚名古屋人は特に其の「世間體」を気にする内向き志向が強いものと考えられる。
だがわたくし個人に限れば「世間體」は気にせず内向き志向が強いタイプであり其処は少しばかり変種なのであらう。
また日本人は「人の目」ばかりを常に気にする。
「人の目」ばかりを気にするから少数派のキリスト教徒にもまた共産主義者にもまさかなれない。
だが實際には「人の目」ばかりを気にするやうな奴に自己の意思決定などとても出来ぬ訳で故に要するに頭の中がスッカリ洗脳されて行かざるを得ない訳だ。
また其の意味での精神の非自律性から要するに新興系の邪教などにも洗脳され易いのだとも言える。
ちなみに自分は最近ほぼ其の「人の目」を無視して居るが實は其の方が気樂に生きられる。
がなるべく他己を尊重して來ては居る積もりである。
其れでも屡喧嘩などすることが無いでは無い。
ー「開催されたらされたで楽しみますよ。そういう空気になるからです。空気というのは非合理的で、持続せず、変わるものです。日本人は思想や信条があまりないので、空気が変われば自分も変わってもいい、と思うのです」
海外と比較すると日本人は合理性に欠けるように思えてしまうが、アフターコロナに向けては前向きな空気が欲しい。息苦しい日本の状況が変わっていくにはどうしたらいいのだろうか?ー日本人が大事にする「世間」の正体~コロナ禍と日本人論 (seikeidenron.jp)より
そんな日本人は全く合理的な民族では無くむしろ前近代的で且つ非合理的な感情にまみれむしろ其れにこそ流されて仕舞う哀れなる人人です。
だからかうして歴史のドツボとしての肥溜めにも落ちるんです。
其れもみんなでもって笑いながらドッボーンと其処へ落ちたのですから。
さて其の「世間」は結局「全體主義」を招くので其の「正義の全體主義者」等は正しい論理を振りかざし惡を糾弾する訳ですがなんのことは無い、實はソイツラの側こそが洗脳されて居てむしろ惡人なのです。
「世間」は結局価値の自己矛盾をかうして招き其れが自己崩壊への引き金を自ら引くのだと言える。
其れと「世間」は基本的に「馬鹿」=「非理性的」でありまるで動物的なものだとさう申しても良いことだらう。
なので👪主義などにせよまさに其の本能的で且つ動物的な価値観其のものです。
以上から導き出される結論とは、
18.日本は脱近代を目指して行けるまさに稀有な國である
19.其の頭の中身が合理的で無いのはイケないことながらむしろ合理主義の亡者となるよりは其の方がマシ
20.なので後は人文學の方をしかと頭の中へ仕込んで政治的には鎖國主義としての江戸時代に戻った方が良い
とのことである。
但し馬鹿=洗脳状態だけは治した方が良くまさに其れをやるには「人文學」の方をこそ徹底的に脳内に仕込むと云うことでせう。