目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

年頭の感ー日本の未來と味噌煮込みとしての「限定」とー

年頭の感ー日本の未來と味噌煮込みとしての「限定」とー

 

 

 

井上指揮N響『第九』を聴く - HUKKATS hyoro Roc

 

昨夜は結局其の井上 道義氏の指揮による『第九』をTVにて視ましたが個人的な感想としてはむしろとても良かったです。

何が良いのかと言えば「むしろ厳しくは無い(日本的な)『第九』」である部分が個性的かとさう思いました。ー井上氏のジェスチャーでのパフォーマンスの部分などもまた存分に樂しめましたー

 

さうして何か「美しい旋律としての流れ」のやうなものを其処に感じ但しおそらく其れは「欧羅巴に於ける歴史上の流れ」とは別物でのまさに日本人としての藝術表現でこそあったことでせう。

其の「日本的なる感性の流れ」はおそらく今でもかの國の精神の底流であり続けて来て居るものです。

 

但し其の「日本的なる感性の流れ」と對になる形での「日本的なる社會制度としての流れ」には今明らかに綻びが生じて来て居ます。

 

眞説 日本近代精神史

 

其の点に就きわたくしが考えて来て居ますことは此の種でのー概括的な意味でのー日本の近代精神としての没落化であり虚構化のことです。

要するに其のやうに作家的な見方でありまた哲學的な見方として其れを捉えて居り其れを「日本的なる社會制度としての流れ」に於ける大矛盾として捉えて居ざるを得ません。

 

ところが此処日本では相変わらず「日常を日常として」優先的に生きる暮らしが繰り広げられつつもまたある。

だから元日から相変わらずTV番組では「何も起きては居ない」かのやうに正月番組やらまた相変わらず鬱陶しいCMなどが繰り返し流されて居る。

 

其れもまあ中には良い番組もありますので其れを全否定することなどは勿論出来ない。

ですが逆に其れ等に浸り切って仕舞えば其れはほぼ「洗脳」されるとのことでせう。

 

 

尤も其の日本社會が抱き抱える「虚化、虚構化」の流れはおそらくは止むことが無い。

またつまりは其の零落であり没落の流れと何処までも付き合って行く他は無いことだらう。

 

従って其れは部分的な社會制度への批判、また個人に對する批判によりどうかうなると云うものでもまた無い。

つまりは其れが所謂全體主義的な流れとしてのものなのです。

 

其処でもって全體主義とは何かと言えばまあ其れも其れを簡単に言えば「軍國主義」や「ナチス體制」なのだとさう思えば良いことだらう。

でも其れは「やってはイカン」価値としてすでに我我現代人は認識して居る筈です。

 

だったら何でまだみんなは自民党に票を入れて居るのですか?

其れ即ち自民党其れ自體が惡なのでは無くそんな自民党を政権与党として選んで居る日本の民主制其れ自體が「全體主義」に陥って居り惡なのだ。

 

つまりはそんなポピュリズムが用意せし罠の部分がまさしく「悪循環」を生じせしめて居るのです。

其のポピュリズムとは「其の場としての空気につい乗せられ流されて仕舞う」との大衆的な資質が生じせしめるところでの政治的堕落を指す現象のことです。

 

だからまずは、

 

1.みんながやってることが正しいとは必ずしも限らぬこと、むしろ其れは「正しくは無い」可能性の方が高くあること

2.幸か不幸か「カルト趣味」のある所謂マニアックな方は其の「全體主義」による社會的な「洗脳」を解く可能性を逆に高く「持って居る」こと

 

の部分にこそ是非気付いて下さい。

 

其の全體主義がむしろ其の侭に進んで行けば、

 

3.先進國としての日本の非自立化

4.日本人の精神のあり方に於ける虚構化

 

の様は逆にドンドン進んでも行くことでせう。

 

 

故に其処でもって考えられる日本人ー日本人としてのインテリ層ーとしての正常な立場とは、

 

5.先進國としての日本の非自立性其れ自體を無視すること

6.悲惨なる其の日本の未來には背を向けてむしろ過去の価値に埋没すること

 

などの選択でしかあり得なくもならう。

 

前者は現行の日本社會の価値其のものを否定的に見詰めることであり、

後者はむしろ歴史と云う過去から學ぶことで所謂「理想論」にしがみつくと云うことです。

 

いずれにせよイザ「日本社會を直さう」としても所詮其れは無理な話ですのでむしろ自分の方での社會への向き方を変えて己としての精神の自立性、精神的な意味での自律の部分を回復して行くことにこそ理性的なエネルギーを注いで行くとのことです。

 

其れこそ今日本人の精神の基底部にはまさにかってでのやうに、

 

「日本のみんなでもって発展しより良くならう」とする思いが強く宿って居ることでせう。

ですが「日本の社會としての特殊性」=「全體主義」に自ら進んで陥っていく國民性こそが逆に其のポピュリズムの度を強くしまたつまりは其れが諸の社會的な意味での破壊を生じせしめる悪循環を生んで行くのです。

 

 

また、

 

プーチン氏は皆さんを滅ぼしている……ゼレンスキー氏がロシア国民に (msn.com)

 

こちらでの問題も所詮は「全體主義」に還元し得る価値上のポピュリズムとしての現象です。

其のゼレンスキー政権による価値及びプーチン政権による価値は無論のことながらどちらも其の「全體主義」の履行者としてのものです。

 

またミサイルを兎に角撃ちたい北朝鮮の独裁體制やさらに儲け主義に毒された米國流の金融資本主義の側なども結局は其の「全體主義」の履行者のことです。

では其処にてどうすれば良いのか?

 

まるでどうにもなりません、かうして我我は個としての日日を積み重ね生きること以外に道など無い。

但し其処にて「考え方」だけは変えることが出来るのです。

 

其の「考え方」が変わればまた日本社會に對する批判力も同時に備わります。

例えば世の中には此の日本社會を普通にでは無くまさにボロクソに批判する人などもまた居られまさにさう云うところの読者に我はなって居ます。

 

故に其の批判は常に大事ですが自分に限りもっと建設的なことを述べたく要するに其れは御料理だの万年筆だの石だのまた藝術家の作品に就いてなどのことです。

つまりは僕に取って日本の社會的崩落のことはむしろ必然としての歴史的事實なのであり須らく其れを受け容れた上でやれる範囲にて人生の可能性を切り開く方向性のことこそが大事なのです。

 

またさうした精神の方向性こそがまさに「藝術的」であり「宗教的」な我が生き方其のもののことだ。

ですがどうも皆様が期待されて居るのは「批判」の方なんじゃないかともまた個人的には思わぬことも無い。

 

即ち藝術家に取ってのやりたいことが「どーでも良い」やうなことで逆に僕に取っての壱大事こそが「どーでも良い」ことなのだらう。

 

そんな訳で要するに限られた人生の時間の中で「何をして行くか」と云う問題へと何時の間にか論点が集約されて参ります。

つまりはそんな個に取っての精神のあり方の課題へと全ての問題が移り変わって行く訳だ。

 

 

其処に於いてようやく其の社會の抱える課題即ち外側の課題が内面化され認識されて來る。

イザさう認識されれば其れに就き批判を加え己が「理想」を語ることなども常に可能となる。

 

なのだけれどもまた何時迄経っても社會のあり方が変わることなどは無い。

要するに其の社會は図体がデカく変わりにくくしかも常に「威張って居る」のですから。

 

其の「威張って居る」ので社會は常に「全體主義」を我我個に對し強いて來るのである。

 

左様な訳で我が批判とはポピュリズムに對するものでもまた特定の國家に對するものでもさらに日本社會の「事勿れ主義」に對するものでも無くズバリ其れは「社會」其のものであり「文明」其のものに對する懐疑であり反駁である訳だ。

 

其の「威張って居る」デカい社會が如何に下らぬ価値観の持ち主であるかと云うことをこそかうして新年早早また飽かずに述べ立てて居りますのです。

 

 

社會⇔個

 

まさにそんな本質的に規定されし對立関係のことに就き本日は述べて居ります。

故に最終的には其の「相剋しかつ相即する」関係性をどう個として乗り越えて行くかと云う御話とならざるを得ない。

 

でもって結局は其のどちらをも見渡して所謂臨機応変、融通無碍にどちらをも保存する他は無いことだらう。

だが社會のあり方がむしろ悪くなりつつある此処日本では其の社會的崩落に對しより強固なる自我でもってして其のバランスを回復するより他は無い。

 

まさに其れが「有」の現實としての必然的展開となる。

逆に「無」の流れー正法としての佛法の流れーからは其のどちらをも消し去って行く他は無い。

 

人生に於ける選択とはまさにさうしたことであり果たして「個としての自己の居場所」を何処に築き得るのか、と云うことに換言されやう。

「個としての自己の居場所」を此の今の日本社會に築き過ぎればむしろ自分を失う=全體主義の餌食とならざるを得ない。

 

さうかと言って俺は海外の方が好きだなどと言って海外にでも居を定めればまたどんな羽目に陥るか知れたことでは無い。

第壱俺は翡翠が好きだからミャンマーへ行くぞとミャンマーへ移住したら軍事政権が出来翡翠を集める自由すらもが奪い去られた。

 

俺はもう米國で壱旗上げるぞと米國へ移住したらもう金が無いと医者にすらかかれぬ有様だった。

俺はもう欧羅巴でもって古城巡りをするのだと欧羅巴へ移住したらもう金は無いわ寒いわ其れも外人ばかりだわで古城巡りどころがズタボロにされ木賃宿にて暮らし挙句にコロナ死をする羽目となった。

 

俺はもう日本人だから日本が大好きだ!とさう宣言し其れも正月は朝から酒飲んで「日本の芸能」とかを視て居るが何だか知らないが毎年同じやうなTV番組ばかりで何だか飽きちゃったしまた其れ以前に日本の社會に「苦悩」があるやうにはついぞ見受けられぬ。

 

 

辻井伸行 ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58 ショパン作曲 - YouTube

 

ちなみに昨夜は『第九』をTVで視てからユーチューブの方で其の辻井氏の演奏によるショパンなどを聴き込んで居た。ピアノソナタ第3番 (ショパン) - Wikipedia

此の曲は結局ショパンが精神的に苦しい時期に作曲したものださうですが何故かさう云うのに限り曲の出来が良い。

 

要するに其処からしても藝術家はむしろ常に「苦しんでナンボ」でのものである。

 

サファイア:Sapphire - 猫車通信 (nekoguruma.site)

 

さて其の後此の「🐈車」の方を読んで居た。

また此処に書かれた名古屋評は的確だとさう思う。

 

されど名古屋の「限定」主義はむしろ信長公的なものでは無くあくまで「家康公」的なものなのではないか

所詮ナゴヤ人はさうして「井の中の蛙」ではあれ結局「大海」もまた「空の靑さ」をも知るのである。

 

事實わたくし自身がさうしてココに居ながらかうして何でも知って居るやうな人間なのだから…。

其の「限定」主義は其れ即ち「理性的限定」のことなのだ。

 

何でも求めれば求める程に即ち欲すれば欲する程に世界は拡がるが其れにつれてリスクが増大する。

現代文明其れ自體がむしろそんな意味でのリスクの塊である。

 

だがナゴヤ人はそも利口だからそんなもんには決して首を突っ込まぬ。

従って其処にて「唯我独尊」での価値を築きまた高層ビルの類なども東京や大阪などよりずっと少ない。

 

つまりは慎重でありまるで徳川家みたいな性格をして御座る。

東京は徳川による統治が無くなったと同時にむしろ悪くなったのだらう。

 

さても其のナゴヤ人はもうおせちを食いましたか?

本日つい先ほど食いました。

 

ですが何故かイマイチであり来年は京都のおせちはもう要らんぞなどとさう母と相談して居たところなのです。

 

むしろ其れよりも今朝作りました「赤味噌ごった煮」の方が美味かった。

しかも其の赤味噌はインスタントでしたが非常に美味くなった。

 

 

其の具材は、

 

7.大きい方の従妹ー高山出身ーが煮て来た芋煮ーごった煮ー

8.宅配🍱の中のもやしやら人参やら豌豆やら

 

を全て混ぜ込み其れを永谷園生みそタイプみそ汁 ひるげ|商品情報|味ひとすじ 永谷園 (nagatanien.co.jp)にて煮込んだものである。

兎に角さうしたものを其の味噌汁にて煮込む。

 

すると此の冬場での最高の飯となるのである。

さて明日はとりあえず神社詣でなどをしてみたい。

 

尚昨日コノミヤの帰りに東八幡社の横を通ると何故か「蛍の光」の曲が流れて居り非常に郷愁をそそられたものだった。

現存在の生活とは所詮はそんなもので良く要するに其の場限り、其の時時での瞬時の積み重なりで良い。

 

別に永遠でなど無くとも良い。

そんな永遠は神の國以外には何処にも無く所詮此の世の全てがかうして「限定」の産物だ。

 

また東八幡社の本殿前に飾られた門松が兎に角滅茶苦茶に綺麗であった。

かうした部分がいまだ残って居るのはまさに此処名古屋が「限定」的な都市だったからなのだ。