目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

カルトな日日ー壱 「七五書店」の閉店ー

カルトな日日ー壱 「七五書店」の閉店ー

 

 

 

 

さて自分が所謂「本屋」に通い始めたのは確か中学生位からのことです。

何故なら小学生の頃は学校、學習塾、お繪描きや習字の塾、其れにカブスカウトとしての活動などで兎に角忙しく余り本を読む暇が無い訳です。

 

但し其れでも本を読んでは居た。

当時読んで居たのは親が買って呉れた「少年少女世界文学全集」ー其の正式名を忘れたのであえてさう呼ぶーと小学校の図書館にて借りて来る「少年少女SF文学全集」ー此れもまた其の正式名を忘れたのであえてさう呼ぶーと江戸川 乱歩作の「少年探偵団」の本の数数でした。

 

まあ其のやうに当時から實は結構レヴェルの高い読書をこなして居りました。

「少年少女世界文学全集」には「参國志」だのまた魯迅の作品だのが収録されて居りつまりは其の「中國物」が好きで其れを愛読して居たが他のものもまた例えばオスカー・ワイルドの「幸福な王子」などにも深く感銘を受けたものです。

 

江戸川 乱歩の方は探偵小説の少年版のもので所謂「おどろおどろしい」感じが何処かにして居て其の種のいかがわしく且つ非眞面目な部分が兎に角好きだった。

またSFの方はむしろ怖い作品が結構ありつまりは電脳化される人間だの超人化されもうまともでは無くなる人間などが屡登場し至極怖いのです。

 

 

が、どうも現實世界の方が實はもっと「怖い」のではないかとさう思い始めたのが矢張りと云うべきか中学生の頃からです。

でもって高校生の頃にはすでに人間自身を見切って仕舞って居りました。

 

なんですが、其の「見切った」部分からもまた新たな認識の旅は始まる訳で、よって其の中学や高校の時分は学校の勉強などはほどほどにして置き主に自分の勉強の為にあらゆる本を読みまくりましたものです。

 

そんな訳で本即ち読書とは我に取りむしろ「人間と云う認識」と何処までも闘わんが為のものでした。

其の「人間其れ自體」が信ずるに値せぬものであるだけに其のことが何故さうなって仕舞って居るのかと云うことに就き自らの頭にて考え其の理不尽な様に立ち向かう為の「理性的な武器」其のものが本の世界だった。

 

まあ其の武器にも色色とありませうがあくまで自分に取り「己が理性」こそが武器なのであり其の武器に栄養を与えて呉れるものこそが書籍でありまた筆記具の類でした。

其の意味ではわたくしはもう長く其れこそもう半世紀余りに亘り其の「人間」とこそ格闘して参ったのだと言える。

 

ですがさう云うやうなことを言って居るのはほぼ作家だの詩人だのつまりは文人の方方に限られるか又は画家さんや音樂家の方方さらに學者の方や宗教家の方に限られる訳ですのでさうか、では自分もそんな人間でしかないんだ、とさう思い此処廿年ばかりはかうしてネットライターのやうなことばかりをして來ました。

 

其れでもって「人間」に勝てたかと云えばまるで勝てない。

ですが其の「人間」の間違い方だけは何となく分かるやうにもまたなって來た。

 

そんな我は本日此のクソ寒い中「本屋」へと向かった。

我が訪れる本屋はすでに「七五書店」だけです。

 

 

文筆家愛した書店、閉店へ 名古屋の七五書店、作品のモデルにも:中日新聞Web (chunichi.co.jp)

 

ところが此処が此の壱月壱杯で廃業します。

つまりは「本屋」としては潰れるのです。

 

勿論其のことは我に取り至極悲しいことです。

ですが社會とはまた常にこんなもんです。

 

かうしてむしろ「良いもの」が無くなり「悪いもの」がむしろ蔓延るのが此の世での常です。

つまるところ此の世にはかうしてまさに理不尽な迄に「嘘みたいな矛盾」ばかりが蓄積して行くのである。

 

また其のこともつまりは我が拾代の頃に自ら學んだ「大宰」や「芥川」の文學からすでに其の全てが分かって居たことです。

従ってまさに其のことは「大宰」や「芥川」の文學からでしか學べなんだ訳だ。

 

ではあったにせよソコへ所謂「宗教的な見地」を加えてみたりしますとまた少し違う「世に對する絶望」のあり方となる。

其れはさうで何故なら宗教は其の「絶望」の地点よりむしろ出発して行くのですから。ー但し其のことは正教に限るー

 

そんな訳でそんな程良い「絶望感」に打ちひしがれつつ此の世を生きて行くことは人間の生き様として決して悪いことでは無くむしろ「良い事」です。

但し其のことの成就の為には其の「宗教的な見地」と「學問的・藝術的見地」とがどうしても必要となる。

 

特に「両義的認識の世界」を生きる我には其の全てが必要なのです。

 

 

ところで以前新瑞橋ピアゴー現ドン・キホーテーの弐階に素晴らしい書店ー「夢屋書店 - Wikipedia」ーがあり其処には宗教に関する本が多くあり我は屡其処にて「立ち読み」をして居りました。

我我の如き還暦を過ぎた所謂昭和の世代の人間はまさに昭和の時代にもうイヤと云う程其の立ち読みをして來て居ます。

 

ですので其れが出来る本屋こそが良い本屋なのだ。

さて其のピアゴ新瑞橋店の夢屋書店も五年程前に無くなりところがもっと家からほど近いところに「七五書店」なる理想の本屋がしかとあった訳です。

 

故に此処五年ばかりは屡此処を訪れて居た。

だけれども次第に壱時間ばかり立ち読みをしても他の客が來ないことが多くなり正直申して閉店も「時間の問題」だらうとは思って居た。

 

何故なら本が売れずとも店舗の賃料や光熱費などがしかとかかる訳ですので要するに「赤字」となって行く他はないことでせう。

其の「商売」とは文學だの哲學だのとはまた違う實利的な世界のことなのだから故に。

 

自分は其の「商売」には根本的に向かない人間なので普通の會社へ入り営業マンとなることを拒み大學を出るとすぐに家庭教師となりましたのです。

故に其の「商売」の世界は自分には所謂「生臭過ぎて」ついぞやれぬ世界のことでしかありませんのです。

 

 

長年の営業に幕。瑞穂区『七五書店』の雰囲気を残しておこう。【みずほん写真館】|みずほん (mizuhon.com)

七五書店 - Wikipedia

 

では何が悪くてかうなるのか?

此処の店主の方も大變「努力」されて居たことを自分は良く知って居ます。

 

ですが結局此の世には「世の流れ」のやうなものがありむしろ其れこそがそんな街の書店としての努力をあざ笑うかの如くに全てを覆い尽くして行くのです。

まさに其れぞ「社會が生み出す理不尽な様」でなくて何なのでせう?

 

かっての文豪連中などはまさに其の「社會が生み出す理不尽な様」をこそ書き描いて行った訳です。

かの太宰 治などもまた自分の自堕落な部分をああして赤裸裸に書き描きつつも結局は「人間の世の中が信じらぬ」様をこそ小説として纏め世に示して居たことでせう。

 

従って此の「社會が生み出す理不尽な様」とは「当たり前」と言えばまさに其の当たり前のことなのだ。

要するにむしろ「当たり前」に「社會が理不尽な様」を生み出して行くものなのだ。

 

であるからこそ文人としての藝術家は常に其の理不尽さと闘わねばならんのでせう。

 

 

七五書店(2023年1月31日閉店)(@75bs)さん / Twitter

 

そんな訳にて「七五書店」の閉店を個人的には悲しんで居るどころかまさに其の「社會への怒り」を世にぶつけてやらうと云うそんな闘争力こそが逆にメラメラと燃え上がって居るところです。

まあ確かに此処でもって此れ迄のやうに「立ち読み」が出来ぬことは我が人文理性に取り大きな損失です。

 

ではあるが「本其れ自體」は決して消え去りはしない。

其れも世がどうあらうが人文理性が批判力を失うことなどは無いのである。

 

七五書店行ってきた感想と今は亡き書林房五常の話|HCCMONO/新棚のい|note

 

かうして其の「自称歌人」もまた色んなことを述べて居りますのです。

なので僕もまた「自称作家、自称詩人」としてもう何でも言ったりますわ。

 

ー相変わらず過激やねえ。

さてもお前體調の方はどうなんか?

 

まあボロボロですがかうしてまだ死んでません。

 

其れと飯だけは常に食います。

其れと💩だけは垂れてもまた居ます。

 

尚「消えた書店」は實際数知れず、だ。

 

 

参拾歳前後で「有隣堂書店」が廃業したこと

有限会社新瑞有隣堂書店 - 新瑞橋 / 有限会社 - goo地図

 

此の「有隣堂書店」が所謂「マニアック」系の店で1980年代にますむら ひろしだの白土 三平だのの漫画本やジェット戦闘機に関する専門書を多く扱う店でした。

要するに其の部分だけを取ればむしろ名古屋随壱でした。

 

古本屋でもって「皇と嵐」とか云う不思議な店もまたかって弥富通りにあった。ー但し其の店名は不正確であるー

こちらでは雑誌「太陽」や文學系の本等で良い物が出て屡通って居た。

こちらもまた四拾歳前後の頃に閉店して居る。

 

尚書店はむしろ「大き過ぎない」方が良い。

つまりは落ち着いて長時間に亘り立ち読みの出来る「七五書店」位の店舗こそがベストだったのだと言える。

 

 

同調圧力 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)

名古屋発 日帰りさんぽ 溝口常俊(編集) - 風媒社 | 版元ドットコム (hanmoto.com)

 

さて此の弐冊を本日は買い込んで來た。

他にも欲しい本は無論のことあったが其れはまたアマゾンにて購入出来る。

 

尚其の地元版の日帰り遊びの本は高い本だしまず買わぬ本ながら「七五書店」にて最後に買った本即ち思い出の本として思い切って購入した。

結局は現存在が最終的に何処に逃げるかと言えば其れは「地元」の部分であらう。

 

即ち例え今後「文明が崩壊」するにせよ最終的にはさうして「地元の価値」だけが身近なものとして生き延びる訳だ。

其れと我自身が何時寝たきり老人と化すかもまた分からぬことなのでとりあえずは此処名古屋と云う地元にて出来れば今目壱杯に遊んで置きたい。

 

 

で「同調圧力」の方は文字通りに其の「同調圧力」のことにてまさに其れがかの日本社會が抱える壱つのビョーキである。

もしかすると其のビョーキのせいで日本社會に於ける平等性や自由さなどが破壊されて來て居る可能性が案外高くあらう。

 

左様に日本人は「思想」や「宗教」を自ら進んで選択出来ぬと云うまさに恐るべき精神状況に追い込まれて居るのやもしれず其処を考えるとかうして名古屋人として遊んでばかりもまさか居られぬ。

 

だからとりあえずは其の「同調圧力」のことに就き自分なりに考えてみたい。

そんな訳で最終的には「七五書店」の閉店に悲しみつつ付き合うやうな暇ー心の余裕ーなどは何処にも無し。

 

そんなのはまさに冷たい…。

 

いや只寒いだけだ。

兎に角かう寒くてはまるで體が動かん。

 

ちなみに29日の日曜日には大島真寿美 - Wikipedia吉川トリコ - Wikipediaが來店するとのことですので其の様子だけでも窺いに行かうかとさう思って居ます。

また其の大島 真寿美氏と吉川 トリコ氏が書いた「七五書店」に関する文章の資料なども本日貰って來たところである。

 

かうして日日はむしろ「破壊的」に過ぎて行くが其れでも我にはどうしても破壊せずに守りたいものがあり結局其れは己が人文理性としての生命だけなのだった。