高級さとはシフトし得る価値であるー価値ヒエラルキーに関する壱考察ー
俳優アラン・カミングさん、英勲章返上 大英帝国の「有害性」に抗議 (msn.com)
まさに此れは大變勇気ある行動です。
其の大英帝國に限らずあらゆる文明が實は有害です。
だけれども其れを言える立場にあるのは藝術家や宗教家であり又は學者の方方に限られる。
だから壱般人では其れを言えないので自称の藝術家や宗教家であり又は學者となればまた其れも可能となる。
其の位に腹を括った上で物を言いませんとむしろ誰も其の妄言の類を聞いては呉れぬ。
電気代とガス代の高騰はもはや「恐怖」の水準 これで値上げが終わりなわけでもない (msn.com)
結局國家其れ自體又は文明其れ自體に矛盾律が課せられて居りよって世界は破滅する方向へと動く訳でしかも其処でまず問題に直面するのは経済的弱者であるに過ぎぬ我我庶民ばかりです。
其れと云うのも以前から申して居りますやうに「金持ちは大抵の場合馬鹿」だからなのですね。
此れはもうほんたうに困った話なのだがさりとて「庶民が利口」だとは限らずソコも實は大多数の人人がズバリ其のバカなんだ。
なので人類は其の「バカ」のせいで滅ばざるを得ません。
全く困った奴等ですがもう自分は半分人類を辞めたので實は半分位しか其処を気にしなくなりましたのです。
さて本日はまず「七五書店」へ行き直木賞作家大島 真寿美氏の御顔を拝見させて頂いて來た。ーさうしてサイン會のやうなことをされて居たー
其の大島 眞寿美氏は普通のオバサンで別段美人でも無いのだが結構可愛く見えた。
かうしてもはや年下の女性は其の全てが可愛く見える。
だから直木賞作家をナメて居るのでは無くさう云うことなのである。
また大島 真寿美氏は萩山中学校の参学年後輩で丁度弟と同学年である。
だからあくまで後輩なのだ、其の中学の後輩だ。
さうして大島 真寿美氏とは何となく理解し合えさうな感じがしたが實際には目線が壱度合ったので睨んで來ただけのことである。ー勿論話もせずサインも貰わずでー
とりあえず書店内は客で混雑して居た。
中には拾冊位の本を抱え持ち歩く人などもまた居た。
だが其の辺りに現存在の認識のつまらなさが出て居るやうにもまた見受けられる。
そんなに本を買うなら何故もっと頻繁に店を訪れ本を買ってやらなんだのだ?
かく言う我にせよ何故もっと頻繁に店を訪れ本を買ってやらなんだのだ?
だが其処はアマゾンの方があるので如何ともし難い部分がまたある。
でもって店内を弐周し即退散する。
何故なら自分は其の人混みが嫌いなので其れ以上居ると心を病んで仕舞う。
そんなもんで心を病むのは異常者であることの証拠だらう?
いやさうでは無い。
即ちデリケートな我は其の集団的圧迫に必ずや負けて仕舞うのだ。
故に「七五書店」なんぞにもう用は無い。
其れも其の偉い作家さんである大島 真寿美氏の顔も見たのだしとりあえず偵察にはかうして成功したのだから。
次に「七五書店」からコノミヤへ行く行き方には参種があるが本日は「北ルート」で行くことにした。
さて其の「七五書店」から五拾米程のところに💎行商人ー元豆腐屋ーのTの家がある。
其の車庫にて彼がレース用の息子のバイクを直して居た。
ほい、久し振り、今「七五書店」で大島 眞寿美の顔を拝んで來たよ。
其れも「七五書店」がもう潰れるから今日そんな催しがあったんだ。
ああさう、大島 真寿美氏は同級生なんで。
Yちゃんー我が弟のことーも良く知って居るのでは?
ところで大島 真寿美は昔天白川の土手の手前のマンションーか社宅ーに住んでましたよ。
ゲッ、其れひょっとして西八幡社から眞っすぐ下り土手に当たる前の左側のマンションかい?
ーつまりは其れが家から参百米位のところにある社宅である。ー
だとすれば彼女が通った小学校は中根小学校だらう。
ちなみに我は其の中根小学校の第壱回卒業生である。ー但し5年生迄は弥富小学校に居たが学区編成にて6年生から其の中根小学校に移ったー
ところで息子は相変わらずバイクのレースに夢中なの?
さう、…や…などで走る為に此のバイクを買った訳です。ーそんなレース用のバイクが参台も其処に置いてあるー
其の息子はすでにCHUKYO大學を出て今給料の良い會社の方で稼いで居るさうだ。
ー其の稼ぐのは良いがレースの方は至極危なくはないか?ー
ちなみに公道でも時速200キロ位は簡単に出せるバイクで事實出したこともあるさうである。
いずれにせよ其のレースとかさう云うものは文明に取っての壱種の病気だらう。
其れもレースのより凄いのがまさに🚀であり宇宙開発なのだらう。
さうか、自分は自分自身が至極マニアックな人間だとさう思って居るがかうして實は其れ以上にマニアックな人間が世間には溢れて御座る。
彼Tは何だか適当のやうに見えてさうして何でもこなす所謂「器用貧乏」タイプの人で元は弟の親友である。
だがもう💎の行商の方は辞めたらしい。
弟も今は彼と付き合って居ないやうだが何より彼には「生活力」があるやうに思う。
其れも金が無いのに息子を大學までやりなんだかんだでさうしてやって居るところが凄い。
所詮我には「考える力」の方はあれ其の種の「生活力」にはほぼ恵まれて居ない。
其の意味で自分とはまるで違う人の価値観や能力に触れることは大いに勉強となることである。
但し理性的では無い人人はむしろそんな理屈は考えずに只「欲望」に突き動かされつつさうして生きる訳だ。
其れをイチイチ理屈化して捉えるのが所謂學者であり文人系の人なのだらう。
我は結局さうして人間を好きにはなれぬが「面白い」とさう捉えることなどもまた出来る。
但し其れと同時に可成に周りを「見下し」ても居るので其処は単純に所謂「良い人」なのでは無い。
結局コノミヤにてまた色色と買い込んで來る。
最近面白いのは地元のフジパンが出して居る御当地パン?のやうなものだ。
フジパンはアノヤマザキパンの商品などよりも幾分か安く売られおまけに菓子パン類の種類などもまた多い。
ちなみにTの家の南隣がフジパンの本社でまた北側にはフジパンの工場がある。
しかもフジパンの工場の辺りも結構高級住宅街なのだ。
なのでフジパンが所有する資産額は相当に高いものがあるとさう思われる。
もしパン屋の方が潰れても工場の跡地はべらぼうな不動産価格となることであらう。
此の「ホイップあんぱん あまおう🍓」は母が欲しいと云うので本日弐箇買って來た。
さて此処での「黑コッペ」と「銀チョコW」こそがフジパンの改心作である。
でもって此の種の百円前後の菓子パン類は「美味過ぎ」てはむしろならない。
また満足出来るだけの「量」の方も大事な要件なのだ。
まず其処を求め違いなどをしないやうに。
此の種の商品は飛び切りに美味いものである必要は無くまた御上品に腹が膨れぬやうな量であってもならない。
其の点がまさに上手く機能して居るのが上記の弐商品である。
また「ホイップあんぱん」の方もまさにさうで其れが洋菓子専門店の「ショートケーキ」よりも美味い必要などは元より何処にも無い。
あくまで安くてソコソコに美味いのが此れ等の商品に求められるまさに期待値であり其の全ての価値なのだ。
其処を勘違いし此れ等の商品が不味いと言って居るバカな御仁がまた居るものだが實は君の其の頭の中身の方こそがマズい。
だから壱體全體何を基準にし物のことを評価して居るのだ?
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また自分用には今回此の「生チョコクーヘン」を買ってみたがまさに其れが感動的に安くて美味い。
要するに此の菓子パンはまさに「分を弁えて居る」實に良い商品だ。
其のチョコパン類もまさしくピンキリながら自分は例えば「ザッハトルテ」などよりもこちらの方が良い。
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但し其の「ザッハトルテ」を食う高級な人間こそが自分だとさう妄想することだけは避けたい。
ではそもかうして「生チョコクーヘン」を食ってる貧乏野郎は低級な人間なのか?
さうではまるでなからう。
故に其の人間の高級、低級との区別は食ってるものの良し惡しでは無くましてや持ってるものの良し惡しなのでもまた無い。
要するに外部から取り入れ消費するに過ぎぬ金や物の価値なのでは無い。
但し物を全否定するに至らずに縁のある範囲でむしろ其れを大事にしやう即ち味わい尽くさう。
確かに「ザッハトルテ」を今食いたい。
いや實は壱年程前からずっと食いたい。
だがつまりは金銭的に敷居が高く要するに生活費がよりかかるやうに何時の間にかなりもうまるで手が届かない訳だ。
さあ、其れではまた今夜も「生チョコクーヘン」を食おう。
そんな訳で本日は「哲學と食い物其れ自體」との融合を図ってみましたのです。
ちなみに「食い物」もまた「価値ヒエラルキー」としての物ですので絶對的基準では無く常に相対的基準に寄りかかる価値其のものです。
従って其れこそ「高級」な物の方へもまた「低級」な物の方へも寄りかかり其れ自體を移せると云うこととなる。
但し「絶對的」なのは「食わねば死ぬ」また「出さねば死ぬ」と云うことでせう。
ですので「高級」な物の方へ行き其処で得られる喜びが「低級」な物の方へ行き其処で得られる喜びに對し常により大きいと云う論理は「間違い」其のものだ。
要するにむしろ理性的な人間は「低級」な物の方へ行き其処で得られる喜びを最大限化することにこそ勞力を注ぐのだ。
ではあるが「高級」な物の方へ行き其処で得られる喜びを全否定すべきなのでもまた無い。
ですが現實的には「高級」な物の方へ行き其処で得られる喜びに捉えられると「低級」な物の方へ行き其処で得られる喜びを最大限化することは極難しくなる。
左様に現存在は「ヒエラルキー地獄」に對し至極嵌まり易い訳だ。
自分はまさに其のことをこそ認識上の「地獄」だとさう述べて居るのであり逆に其のおかしな拘りを無くして行く方向性こそが「天國」へ至る道だとさう述べて來ても居るのです。
また其のことを佛教的に申せば物に関する欲望を「限定」し其れ以外の物を「放棄」してこそまさに其こそが「佛の道」へと繋がらう筈なのだ。