目覚めよ!

文明批判と心の探求と

さうして木が失われれば人間の心もまた必然として貧しくなるー相生山の大きな桑の木に寄せてー

60.さうして木が失われれば人間の心もまた必然として貧しくなるー相生山の大きな桑の木に寄せてー

 

 

 

自然ー特に植物の世界ーは人間のやうに服を着たり儲けたり勉強したり屁をコイたりはしませんのでまずはいつも穏やかですね。

まずは其の点に就き常に感心させられます。

 

対して人間はもうほとんど常にウルサイ奴等です。

どうのかうのよりも我はまず其の点を嫌います。

 

要するに彼等は常に心掛けが悪く欲にまみれたケモノの心の持ち主なので我の如き精神の貴族はもう只其れだけでもガマンがならぬ程です。

其の屁コキ人間共を壱萬人位集めて其処にガソリンでもかけ燃やしたらうかとさうも思いますが、ま、いずれにせよ誰が何と言おうと当の其のケモノ共には自分が持ち合わせた罪のことなんぞおそらく永遠に分からぬことだらう。

 

 

そんな訳でさうして人間をほぼ完全に突っ撥ねた形にて見られるのが人には無く我には有る或る種特殊な認識のあり方なのだらうと思う。

其れは参拾代位の頃から次第に強まって来た感覚であり故に六拾代の今はむしろ其れが最高潮となって来て居る自覚すらもがある。

 

ですがまさにさうした部分は常に壱握りの人しか持ち得ない直観なり或は直感的能力であることだらう。

 

さう云う感覚と常に付き合って来ざるを得なかった我は幸せだったのか其れとも不幸だったのか?

まさに其処は評価が分かれることでせうが個人的にはむしろ其れで良かったのではないかとさうも思います。

 

但し逆に世間での常識的価値構築に反抗して来ても居るので其の意味では確かに何も持ち合わせては居ない。

だがまさに其の代わりに直感力だの美に対する感度だの思考力だのさうしたものが否応なく研ぎ澄まされても来る訳だ。

 

 

なのでまさに其れをこそ持って居る訳だ。

 

つまるところ傍目には持って居ないやうで居てほんたうはしかと其れを持って居る。

逆に世間の人人は何やらゴチャゴチャと持って居るかのやうに見えてでも其れは僕に言わせれば何も持ち合わせては居ない訳だ。

 

さう云うのこそがおそらくは詩としての感度、感性のことなのではないか?

だからつまりは僕に取りみんなは毎日飯食って寝て屁をコイてるだけのケモノにしか見えませんのです。

 

 

 

また其れも恐ろしい話だ…。

 

いや恐ろしい話などはもう止めませう。

おそらくはみんなもまた地獄へ堕ちるのは怖い筈なのだから…。

 

さうして怖い怖いとさう思いつつあえてかうして毎日罪を塗り重ねて来ても居ることでせうから。

其の面からすれば其の現存在程可哀想な生き物は他に御座りません。

 

だとすれば其処に是非慈悲の眼差しを投げかけたくもなる。

即ち慈悲とは常に現存在自身に対し向けられる憐みの情のことなのだから。

 

 

ところで文明世界の出来事ばかりを特にTVなどは垂れ流して居りますがむしろ其のことにより洗脳が進んで居る可能性は常に高くあることだらう。

だからTVを視る時はワイドショーなどを視るよりはNHKの自然に関する番組や民放でも例の「ポツンと壱軒家」だの「池の水を全部抜く」だのそんなカルト番組を視て居る方がむしろ心が休まりませう。

 

ちなみに我がカルト度はすでにゲージツの域に達して来て居り其の自然でのロケの番組だけを拾い集め其れだけをパッと視て後はなるべくネットの方で自然関連のブログや解説の部分を視るやうになって来ました。

但しEテレでの學問的な番組はオンデマンドよりもより画面のデカいTVでもって屡視たりもしては居ります。

 

 

さて本日相生山の横の歯医者へ行く前に其の相生山にて桑の大樹を見た。

 

 

おきどころ@妙高高原: 酔花 風酔 自然法爾のおきどころ・大きな桑の木 <標高 650 m> (okidokoro.blogspot.com)

其れは丁度こんな感じの大きな木ですでに沢山の實がなりまた其れが沢山道路に落ちても居た。

 

さて其の桑の木ですが、最近では地元名古屋で其れを見掛けることはほぼ無くなりました。

ところが我我六拾代が小学生の頃ー半世紀程前ー迄は家の近所にも其れが屡生えて居たものです。

 

でもって私達は屡其れを食って居ました。

桑を食いますと舌に色が付くのですがそんなことはお構い無しに其の美味い桑の實をいつも食って居たものでした。

 

 

其れは家の北側の道の東側の公園の際に生えて居て丁度此の時期になると多くの紫色の實を付け其れを鳥が食う訳ですが實は小学生もまた壱緒に食って居たのです。

ですので桑の木を見るとまずは其の経験こそが思い起こされる。

 

其れも其れこそ幼稚園児位の頃からずっと其れをして居たのですから其の體験が實感として今も残って居る。

 

ですが今は勿論其の大きな桑の木が失われて仕舞って居ます。

何故なら桑の木は實を多く付け其れが道路側にも落ちて来るので掃除にもおそらく手間がかかることでせう。

 

特に人口の多い都會であればある程に其の種の「手間がかかる自然物」が否定的に扱われる傾向が強くあることだらう。

 

なんですが、今此のやうにして其の種の「手間がかかる自然物」がほぼ消え去って仕舞うとむしろ其れがどれ程人人の心の糧となって居たかと云うことに思い至ります。

でもって我は拾分程其の大きな桑の木の下にずっと佇んで居ました。

 

 

すると其の桑の實の香りすらもが何処からともなく漂って来ます。

また其の紫色と赤色の實が連なる様はまさに半世紀前に経験したものと同じ風情を感じさせて呉れる。

 

其の折にまず我が感じましたのは其の喪失感は何か實存に取り大事な価値の喪失其のものだったと云う事實です。

 

此の半世紀余りの間に街をマンションやコーポだらけにした家の近辺では其の何か實存に取り大事な価値よりも街を綺麗に整備することの方が優先されて来た訳だった。

まさに其れは人間の繁栄と文明の発展を目指しさうされて来たことでした。

 

 

ですが、其の間に失われたものとは其の何か實存に取り大事な価値であった筈の桑の大樹や池や小川や小さな生き物達だった。

当時は我が家から西へ弐百米程のところにそんな小さな溜池や小川や大樹までもがまたあったのだった。

 

我我小学生はもう毎日其処へ遊びに行きます。

すると池の中にはオタマジャクシだのタニシだのヤゴだのそんな生き物がまさに群れをなして暮らして居ました。

 

其の池があるから夏場になるとギンヤンマやまたオニヤンマまでもが我が家の前の道を行ったり来たりもして居たものだった。

其のやうに半世紀前には都市部であれまだ自然の生業は生き残って居た。

 

ー其のギンヤンマやオニヤンマは常にはっとさせられる程に美しい生き物でしたー

 

 

されど此の半世紀の間にまさに其れは根こそぎ破壊されて行った。

しかしながら人間は、さらに文明は其のことを破壊だとはなかなか認めはしまい。

 

ですがまさに其れが破壊です。

自然は其のやうに金に目が眩み我が子や孫の存続ばかりを願う文明世界により壊され尽くされたのだった。

 

 

其の美しい自然の様。

生命の輝きであり心の癒しであり藝術の母胎でもある自然への無知と勘違いの様。

 

其れを根こそぎ奪い去り果たして其処に何を築いたと云うのだらうか。

今や其のかっての公園には公園など無くみすぼらしい建売住宅と自動販売機が置いてあるだけのことだ。-尤も此の自販機はなかなか其の内容が良く個人的に屡利用して来ては居る-

 

其の自然破壊のことを思うにつけ常に考えるのですがもしや洗脳人間ー其の価値観が文明に洗脳されし人間ーには自然を壊すと云う其の罪の意識さえもがもはや欠けて居るのではないか。

 

現存在は常に其のやうに価値観の洗脳を受け利己的に成就される自我のみを拡張し続けて行くことでせう。

ですが其れを指摘する人などはまず居ないので其れが悪いことだと云う意識すらもがもはやみんなには無い。

 

 

みんなはさうして赤信号を渡りつつ自分に取り都合の良い夢だけを追いかけつつ生きて行くのだ。

でも其れが果たして正しいことだらうか?

 

逆に大罪である可能性の方が高いのではないか。

 

そんな訳にて其の「自然を破壊する文明の常識は大罪」との認識より常にわたくしは現存在を見詰めて居りますので、要するに其の自然破壊に対して常に理性的に抑制が掛けられる人こそがわたくしにとっての偉い人であり他の人人はあくまで文明による洗脳者であり同時に顧みるだに値しない人人ばかりなのだ。

 

 

とのことで其の相生山を突っ切る道路の際に生えて居る大きな桑の木はたった今沢山の紫色の實を付けながらわたくしに何かを語りかけて呉れて居ます。

勿論其れは多くの人人に対しても常に何かを語りかけて呉れて居ることでせうが其処でたまたまピンと来たのが我が實存的感度だったのでせう。

 

尚家の前のSちゃんー幼馴染のSちゃんーの家には梅の大きな木がありましたがつい壱週間程前に彼自身が其れを植木屋と一緒に伐り倒して仕舞いましたのです。

何故なら今彼は独身なのだししかも仕事が不規則なのでさうさう手入れも出来ずまた其れが常に道路へと實をバラ撒くので結局は伐り倒すことにした訳でせう。

 

ですが、實は其れが若くして亡くなった彼の父親が大事にして居た梅の木でもまたあったのです。

わたくし自身は感情に流されず社會正義の方を向く自信だけは何故か御座りますのですが、こと此のことに限っては矢張り寂しい思いがどうしても致します。

 

どうも其のやうに自然物と感情や感性との相性の良さは常に大きく存して居ることでせう。

でもって木が失われると綺麗にだけはなりますが何処か殺風景でもって現存在に対し語り掛けるもの其れ自體がもはや其処から居なくなるのです。

 

 

さうどうも文明からは其の語りかける他者のやうなものがすでに居なくなります。

ですが現存在に取りむしろ壱番大事なものがまさに其の他者としての自然のあり方でせう。

 

其の自然との対話のやうなものを失えばおそらく現存在は本來あるべき心の豊かさをほぼ失って行くことでせう。

そんな訳で木が失われれば人間の心もまた必然的に貧しくなると云う御話を今回はあえてさせて頂きました。