強き陽の光にてまた再生する「自然」への執着心ー主に鉱物観賞の御話ー
さて其の社會的闘争からは努めて距離を取るべきであると云うのがむしろ自分としてのほんたうの意見です。
要するに其れは現代社會がすでに奇奇怪怪なる矛盾の坩堝と化して居り其れとまともに向き合うのは個に取り得策では無いと云う意見です。
では何と向き合うべきかと言えば例えばショーペンハウアーなどは是非「藝術」と向き合うべきだとかってさう述べた訳です。
ところが其の「藝術」には「創作」と「鑑賞」との弐面があり其の「鑑賞」の方には何故か「社會性」の如きものが必然として組み込まれて居ます。
要するに其れが「藝術」に對する所謂「評価」の部分なのでせう。
まさに其のやうな「評価」に振り回される位ならばむしろ「藝術鑑賞」などはしない方が良い位でのものです。
尤も「創作」の方には其れがありませんので創作者の方方はむしろ思う存分ゲージツ家の方をやられれば其れでもって万事が済むことでせう。
尚あくまで個人的には自分の奉ずるものは「藝術」では無く「自然」です。
まさに其の「自然」の方から所謂「インスピレーション」の部分が下りて來る訳でよって「藝術」其のものからそんな現象が起きる訳では無いのです。
尤も特定の藝術作品より強く感化されることなどは常にあり得ることなのですが。
さて其の「自然」なるものは例えば北海道の観光地にて壱級の自然に接するであるとかまた海外へ行き日頃は決して観られぬ凄い自然の様に接しただとか其のやうな出来事には限らぬ「内面的志向」なのではないかと最近自分は感じ始めて居る。
逆に申せば其の壱級の自然のさ中にあっても「貧しい心」では其れが眞に美しく且つ豊かなものであることに気付けぬ訳である。
ところが自分は其れとは対極での心の位置にあるのでつまりは何時何処に居ても其の「自然」をこそ見詰めて居られる訳です。
だから特に外へ出かけずとも日日「自然的」な生活をして居ることが多い。
例えば昨日、今日と實に良い天気の日が続き弐日連続で「日光浴」をして居たりも致しました。
「日光浴」を致しますとわたくしの場合は必ずや體調が良くなります。
逆に陽の光に当たらぬ日が続きますと生気が失せて参ります。
其のやうに動物的乃至は植物的な感度の持ち主ですのでつまりは元元「自然的」な人間なのです。
故に其の「陽の光」は自分に取りエネルギー源でありまさに「神」のやうなものなのだが其れもほんたうのところでは其れが「天照大御神」であるとかまた「大日如來」であるとかさうとは決め付けられぬ要するに「命の元としての光」其のものです。
ですが別に其の「命の元としての光」が何ぞ御託宣をしただとかまた「命の元としての光」により活性化した自我が宇宙的な悟りに至り其の「悟り」としての内容を述べただとかさうしたことでもまた無いのであります。
どだい自分は其の新興宗教の教祖的な「悟った」話が大嫌いでありつまりは宗教以前の段階でむしろ其の「光の世界」と戯れることのみが好きなのです。
また自分は現存在はまさか悟れない現象であるとさう考えて居りよってまた自身も決して悟れやしないのだとさう常に考えて來て居る。
所詮現存在は左様な意味での哀れなる現象でありかうして其の場其の場での「不毛の認識」を積み重ねた上で何処ぞ訳の分からん世界へ死後に連れて行かれるのだとそんなことさえもまた思いますのです。
要するにそんなに「高級な奴等では無い」とさう人間を見て居りだから時折人間を動物並みに扱ったりも致しますが其れも惡意からさうするのでは無く自分もまた動物か又は植物だとさう常に思って居るのである。
また自分にはまるで植物的にソコに留まる癖があり其処が余り人間っぽくは無い。
「引き籠り」と云う言葉があるがわたくしは壱週間位なら平気で自分の部屋に閉じ籠ったりもまたする。
ですがあくまで其れはさうして御勉強の方を進めて居るのです。
また現状では勿論そんなことは出来ない。
今は毎日家事に振り回されつつさうして弐時間程バルコニーにて日光浴をするのが何よりの樂しみなのだから。
さて其の日光浴には勿論「鉱物観賞」の時間が組み込まれて居ります。
其れでもって昨日はかって棚山で拾って來たデカいコモン・オパールの標本をまずは陽の光に翳しつつ観て居た。
其の標本は弐つあり、
1.弐年前に棚山の堰堤下側で拾ったブルーのオパールが付いたデカい石ー14.5センチ×10センチー
2.拾五年程前に棚山の何処かで拾った謎のデカい石ーー18.5センチ×7.5センチー
尚かやうにデカい石は普通棚山では拾えぬものです。
だが「縁がある」と何故か拾えるものなのです。
ですが1.の方の石は何故其れが其処に置かれて居たのかまるで分からぬ物です。
さう其れはまるで其処に「置かれた」やうに置いてありました。
其れもどう見ても捨て置いておくやうな石ではありません。
しかも少し大きいですが持って帰れぬ程の物でも無い。
弐年前の其の日は丁度他にも用事があり要するに廃校の小学校の校庭で売られて居る自然酵母のパンを買いに行きまた鳳来寺自然科学博物館の石の催しにも出向き要するにすでに採集の時間が余り無かったのです。
しかも棚山の林道が壱部ぐちゃぐちゃに崩れて居り従ってレンタ🚙を其の崩れた道の前に置き徒歩にて林道を上がって行く他は無かった。
そんな訳で余計に時間を食い日没迄弐時間程だったか兎に角其の時間内に採集を行わねば山の中のことですのですぐに暗くなり石などは何も見えなくなるのです。
でもそんな状況でこそ實は自分が持ってることだらう「超感覚」が働いて仕舞ったのだらう。
ですので何やら異様に目が良く見え其れも水の中に沈んで居る「赤のオパール」付きの松脂岩迄もがしかと見えたのです。
結局其の日は「赤のオパール」付きの標本を参つも採集することが出來た。
其れも此処廿年間で「赤のオパール」付きの標本を得たことは其れらしきものが其れ迄に弐、参あったばかりでのことでしたのですが。
しかも堰堤の下の辺りで石探しをして居たところ何と大岩の上に件のブルーのオパール付きの其れもデカい石が置いてあるではないか。
ですから、其れが何で其処に置いてあるのかと云うことがそもまるで分かりませんのです。
まるで分かりませんが或は「山の神」の仕業である可能性も廿パーセント程はあったのではないかと今はさう思えますのです。
尚何せ写眞が無いので其れを披露出来ずで御免なさい。
写眞があればもっと話が面白くなることでせうが其れはまた後日に何とかしてみたいと思います。
さて2.の方の石も要するにデカい松脂岩です。
其れに所謂玉髄が付いて居りますが其の色合いが奇怪です。
つまりは其れが全體に黑っぽい。
其の黑の玉髄があるのかどうか分からずでもかうして其のデカい松脂岩には其の玉髄が確かに付いて居る。
こちらもまた飛び切りに不可思議な標本であり棚山の何処で拾ったのかと云うことなどもすでに忘れて仕舞ったが兎に角究極的に迫力のある石です。
其の「迫力のあるデカい石」に此処五年程は魅力を感ずるやうになりましたものです。
尤も棚山も1990年代位迄はオパールや玉髄の就いたデカい石か又は所謂「球顆」なるものが川沿いに幾らでも転がって居たさうですが自分等が採集を始めた21世紀の初頭には其れもまたほぼ採り尽くされて居たのでした。
カルセドニー(玉髄/ぎょくずい)Chalcedonyの特徴・意味と効果 (zakkaowl.com)
嗚呼でも其の玉髄には「黑」などもかうしてあるやうだ。
次に本日はまた「パイロクスマンガン鉱」の観賞などをして居りました。
「パイロクスマンガン鉱」は流石にエネルギーが高く出る感じでの石である。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/l1084028487
最近では此の標本などが良かったやうです。
「パイロクスマンガン鉱」のコレクターは各地に居てかうして標本の整理等で良い標本なども随時出て参ります。
故にもはや田口鉱山より石が出ずとも入手出来ぬ訳では無くむしろ今後も次から次へと売り物が出て來るものと思われます。
ですがなにぶん値の張る石ですので宝くじにでも当たって置くのがまずは手っ取り早い良品の蒐集への近道でせう。
さて本日は「パイロクスマンガン鉱」を磨いた小さな「握り石」なども陽に翳し観て居りました。
以前御世話になりました浜松のKATOさんにかって頂いたものです。
KATOさん、以前はほんたうに色色と御世話になり兎に角自分は其の全てに感謝して居ります。
また地元での採集の石ー石英ーなどもずっと観て居りました。
今年に入り弐度相生山南麓のガレ場にて採集を行い準💎質の白石英×1と黄色の石英×2を得て居ます。
其の黄色の石英×2が本日は陽の光のみで半分透けて見えて居た。
勿論全部が透けるやうでしたら其れは💎質其のものですが半分透けるだけですのであくまで準💎質です。
石は左様に幾らでもまた山で出るものですが要するに💎質の物を探し出すことが難しい訳です。
されど日本の社會のあり方などはむしろ其れ以上に難しくどちらかと申せば自分の場合は石を探し出すことの方が日本の社會に取っての最適解を指し示すことなどよりもずっと得意です。
左様に日本の社會のあり方にせよ文明世界の今後のことなどを考えるだけでもう絶望的となるが石と戯れ其れ等を陽に翳すだけで何だかとても樂しくまさに「幸せ」な気分となれるのだった。
また家の庭には今白く美しく「利休梅」が咲き誇って居ます。リキュウバイ(利休梅)とは?樹木としての特徴や育て方をご紹介! | BOTANICA (botanica-media.jp)
色色と忙しく桜はまだ観られて居らず其の「利休梅」の観賞を主に致して居るのです。
實は他にも白く美しい🌸が今咲いて居り其れが「木🍓」の🌸です。キイチゴ(木苺) | 花の図鑑 | SUGAWARA
其れは昨年庭師の伐採により絶滅した筈であったが今度は物凄く太い「木🍓」の木となり再生ししかも其れが庭の眞ん中の方向へと伸びたのである。
従って🌸は鑑賞出来るわ、しかも今後はアノ美味しい實の方も期待出来るわでもう「素晴らしい!」の壱言なのだ。
そんな訳でこと「自然」の方を向けば良いことばかりで逆に人間の方を向くとほぼ惡いことばかりである。
さても壱體全體其の人間とは何ぞや?
兎に角そんな訳で陽の光や石達と戯れることでこそ自分の場合は至極「幸せ」になれる。
勿論飯もまた食わねば其れどころでは無いがもしや飯を食わんでも陽の光や石達と戯れることでこそ自分の場合は「幸せ」になれるのではなからうか。
いやでもヤッパリ飯だけは食わんと。
其れでは今夜もまた「チキンラーメン」でも食おうか。
其れと壱週間前のサラダが手付かずで残って居る筈だが果たして其れはまだ食えるのだらうか?