70.屍としての記憶が紡ぐ美の世界ー類稀なる強き陽光に石を翳してみるー
さて本日はまた特に光の良い日で従ってわたくしはつい先程まで日光浴をしつつ鉱物観賞をして居りました。
例えばキリスト教では神は光なりと常にさう申されますが何やら其処にて久保田 早紀の讃美歌ソングなどを流しつつそんなことを致して居りますとまるで自身が天界に昇ったかのやうな気がまた致しますものです。
さうして美に酔い痴れること、此の世の美しさを味わい尽くさんが為に生きて居ると云うのがわたくしの本心なのであり其れは上品なことでは無くして常に下品なことなのですが、それでも結局我はかやうに深く深く美其のものに捉えられて居るのだとも申せませう。
其の様やすでにかっての詩人達、また画家達、文學者等とまるで変わらぬひとつの反抗の仕方である。
そんな美への接近が反抗なのですか?
さうです、今丁度ショパンの調べが流れて居り其れはかのフジコ・ヘミングによる演奏ですが其れを聴くに確かに藝術とは反抗です。
其の美への耽溺振りこそが反抗でせう。
ガサツな世間の者共には決して分からぬ此の熱くしかも微妙な思いが。
つまりは其れが精神の高き梢で振動して居るが如き實に繊細なる心の動きのことよ。
嗚呼ケモノ共には決して分からぬことだらう其の魂の振動よ!
相変らず脱俗の境地を愉しんで居られるやうですね。
さうだな、もう世間にはまるで興味が無いな。
ですがショパンを聴くにも電気代がかかりますが…。
ま、其処は何とかなるでしょ。
其れもどっかから御飯が来たりどうのかうので何とか生活を回して行けば良いだけの話だ。
矢張りどうしてもアナタは詩人だな。
其れもズバリ螽斯詩人と云う奴だ。
つまりは常にタダ飯を食い歌を歌いつつ生きて居る。
さらにほんたうは👩が好きで隙さえあれば手を出さうとさえして居るのだ。
アアー、實に哀しい。
壱體何が哀しい?
いや今聴くラ・カンパネラがまた酷く哀しい。
さて藝術はかうして常に心にしかと陰影を刻んで呉れる。
其処が藝術の良いところである。
だが所謂生活には其の陰影のやうなものが常に欠けて居る。
尤も夜にでもなれば自然と辺りは暗くなる。
すると空に☆が浮かびまた森の中も便所の中も皆暗くなる。
ああ、今度はアノ太田胃酸の曲までもが流れたぞ。
かうしてショパンも結局は可成に遠くから聞こえる。
遠くから?
さう常に遠くから其れが聞こえて来る。
即ち其れはベートーヴェンのピアノ曲よりももっと遠いところからだ。
だからショパンはベートーヴェンよりも常にもっと優しく且つ死に近いのやもしれぬ。
また其れはショパンの方がより哀しく聴こえて居ると云うことなのだが。
螽斯詩人さんはさうして常に哀しく感傷にこそ浸りたい訳だ…。
でも世間のガサツさが其れを認めては呉れぬのだと?
いや其の世間がガサツなのは元元のことで結局変わりやしない。
またボクの心がかうして繊細且つ感性豊かであることなどもまた結局変わりやしない。
流石は詩人さんだ、仰る事が違う。
其れでもって結局は何を仰りたいので?
もしやまた世への恨み節だけを延延と述べて行かれたいので?
いやさうでは無く陽の光と藝術に対したった今感謝して居ることを述べたかった。
美しいものをかうして与えて下さる何らかの力に対し我はかうして常に感謝の祈りを捧げて居る。
ではもしやキリスト教徒とおなりになったので?
いやさうでは無くあくまで我は佛弟子である。
但し神と佛はかうして常に部分的にはカブる。
ではショパンはもしや佛ですか?
…ショパンはまさか佛ではないでせう。
だが我が哀しんで居るのはショパンのせいでは無くズバリいつもみんながガサツだからだ。
さうしてまた周りを思い切りに見下す…。
其処はいま少し大人になって貰わないと困るな、其れももう棺桶に片足を突っ込んでも居るのだから…。
酷いことをさうして平気で言う。
だが其れはお前もまた棺桶に片足を突っ込んでも居ると云うことだよ。
あ、さうか。
僕等はもはや永遠の道連れとしての壱心同體でしたね。
いやさうでは無い。
あくまでお前はお前、ワシはワシ。
お前はケモノでワシが詩人だ。
ああああああー、もっともっと光を!!
だがついさっきまで其れを全身に浴びて居たではないか!
さうでした、其れもつい忘れて居ました。
其れにつけてもこんな完璧な光が降り注ぐ日はまたと無いものです。
即ち確かに其処でノーブルオパールやパイロクスマンガン石が眞の意味で光輝いて居たのである。
だが其の美しさにもどうも裏がありさうだ…。
さても何ですか、其れは?
其れは此の世の美しいもの全てに潜む生の哀しみのことだ。
またイキナリ人文學乃至は宗教の方へとさうして飛んで行って仕舞う。
もうそんなクドイ思考など止めて美しいものを美しい侭に愉しむべきなのでは?
いや勿論其れは常に両方をやって居ます。
だから光は明るく闇は暗い。
まさに其れは当たり前のことです。
また世間は明るくChopinは暗い。
其れもまた当たり前のことだ。
いや暗いと云うよりも矢張りかう何か沈潜して行くものが常に其処にはありますね。
ずっと哀しく沈潜して行くやうな何かがあり逆に其れが煌めいて見えたりもまたする。
流石は詩人さんだ。
ガサツな我我とは感じ方の其の感度が違う。
ねえ、ウンコたれ詩人さん。
さうして褒めて呉れてどうもありがたう。
詩人さん。
ほい。
腹が減りましたか?
うーん、減っては居ますが先程からかうして美に酔い痴れて居るので其処は余り気にならない。
さうか、するとアナタはさうして常に美を食べて居るんだ!
確かに食べて居ります。
其の美と戯れつつ其れを喰らうのが常に詩人としての役割でせう。
ではもしや美は美味いのですか?
確かに美味い。
だが美は同時に何だか哀しい。
藝術はさうして完全なやうで居てでもいつも其処にある訳では無い。
言わば縁を結ばないと決して心には入って来ない。
要するに自分から其れを求めて行かないと其れが見えては来ない。
でも石はかうして今此処で光を受け輝く。
木や人間や🐈もまた光を受けて其処に輝くが生ものー生命ーは物質よりも儚くやがて木は枯れ生命は急に消え失せて仕舞ったりもまたする。
わたくしには其の生命の持つ哀しみのやうなものが何よりも辛いのだ。
わたくしには其の其の生命の持つ哀しみのやうなものがすでに持ち堪えられぬ。
詩人さん、またもや深い悲しみの底に沈んで行って居られるやうだが、でもノーブルオパールやパイロクスマンガン石は今日確かに稀なる光に照らし出されさうして輝いて居たのでせう?
まさに其れが生の頑張りではないですか。
いや頑張るからドツボにまたハマるのだ。
もう頑張らずにかうして此処でもって物質化して居れば其れで良い。
なる程、すると物質にもまた壱理あるのだと?
物質には感覚器がそも無いので自分のことを美しいとはよもや思っては居まい。
であるからこそ其れは美しい。
物質はさうしてショパンよりももっともっと遠くにある。
だから其れは変わらない、つまりは感覚に対しての変化が無い。
なのでむしろ其処に心が癒される。
其の美しさがこと生命に対してはかうして長持ちする。
さうなんです、實は物質の方が生命よりもずっと長生きをします。
人間は早い人はもう六拾代でもポンポン死にます。
でも物質の劣化はもっとゆっくりなのでコレクターがもし死んでも石や万年筆はまだまだ生きて居ます。
さらに本などもさうだ。
よって生命が持つ本質的な哀しみのやうなものがかうして常に詩人の素顔には付きまとって居る。
でももう世間離れのし過ぎ。
エッ、さうなの?
だってさうでせう、ほんたうのことだよ。
本当のことだけれども世間は常にもっと常識的時間をこそ生きるのです。
アレッ、するとどっかで歩む道を間違えたのかな。
分かりました。
では詩人さんはさうしていつも哀しく命の儚さにだけ酔って居られることとしてみやう。
でも買い物や掃除洗濯は果たして誰がやるのですか?
其れはお手伝いさんが…。
嗚呼でも其れはたまにしか来なかった。
だから感傷詩人、まさにお前が今日これから其れをやるのだ。
でもどうもやりたくはない。
かうしていつまでもいつまでも文學や哲學の世界に浸って居たい。
またショパンや色んな画家の作品に是非接して居たい!
ではいつまでもさうしていろ、もう生涯さうしておれ。
コンコン、すみません。
何ですか、其れもイキナリ?
すみませんのですが、ボクはもはや限界です…。
何が限界なんだ、さうして毎日やりたいことをやっておいて。
いえ實はタラー♂🐈壱歳ーが家出をしました。
ですが其の代わりにタマー♀壱歳ーがつい先日五匹も子を産みましたのです。
では良いじゃないですか、まさに其の詩的な實存苦を癒すのには丁度良い。
しかもそんなデカい家であれば壱部屋や弐部屋🐈に占領されたにせよ構わぬのではないですか?
ですが、其のタラの家出が可成にコタエて居ます。
何故なら自分は常に感度が高くあるが故にさうした事件や事故には概して弱いのです。
まあさうでせうね、そんなショパンばかりを聴いて心持ちを深く深く沈めて居るやうな人には其れが響くのでせうね。
ですがあなたはたとえ誰が死のうがまるで構わないのでせう?
いえ作家や詩人の先生方が死んだ折には流石にわたくしも悲しくはなる。
そんな経緯から兎に角さうして生と死は常に相剋し且つ相即して今此処にあります。
だけれども生きては居ない物質ばかりがさうして陽の光を浴びて遠くでもって輝くのだ。
其の輝きの遠さとショパンの音色の遠さがほぼ同じであることに本日ようやく気付きました。
うーむ、今日の作文はまたどうも内容の方が散文詩ですね。
いえ詩は常に生きるものと生きぬものの双方をさうしてたゆたいつつ流れて居ります。
詩は何処にでもあり生きるものと生きぬものの双方をむしろかうして近くから見詰めて居ります。
でも余り近づき過ぎると詩にとってもむしろ其れは良くない。
其の遠いものと近いものの誤差を埋めるものが詩であり同時に音樂であり絵画である。
さても生きることとは罪ですか?
罪だからこそ美が常にかうして必要だ。
美は観念と常に関わるものです。
観念こそが美で美こそが観念である。
其の美は常に失われるものですか?
今其処に輝く美は失われるが其の印象はむしろ観念として永遠に積み重ねられる。
さうして観念にはそも限界が無い。
だからまさに其れが永遠に積み重なって行く。
命として失われゆくものは常にそんな悲劇をこそ背負う。
されど其の悲劇さえもがまた此の世界には記憶されて行く。
其の記憶を司るものこそが観念なのだ。
其の記憶を辿ればさうして其れは常に有る。
無いのでは無く其れが有る。
有るものとはもはや死なぬものだ。
いやもはや死ねぬもののことなのだ。
逆に今を生きて居るものとは無いものだ。
其れは過去をこそ生きなければ有るものとはなり得ぬことを常に意味する。
まさにそんな風に悲劇の集積としての観念を生きると此の世界の哀しみの構図がしかと見えて来る。
さう其れは今を生くる我我が築く世界なのでは無く記憶の場としての命の痕跡が今を築く世界だ。
そんな無数の屍によりたった今壱つの美が形作られて行く。
そんなことを思いつつ本日は石を類稀なる強い陽光に翳しつつ小壱時間程眺めて居た。
其の輝きが余りにも美しいのは實はそんな理由によるのである。