目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ヒメボタルによるそんな儚い命としての乱舞ー儚き命としての光の乱舞を相生山にて観るー

73.ヒメボタルによるそんな儚い命としての乱舞ー儚き命としての光の乱舞を相生山にて観るー

 

 

 

さて、前回はまさに「近現代文明、結局はお前なんか馬鹿だ!」とさう申してみましたのです。

では元社會の先生がどんなに利口かと申せば其れもたかが知れて居り、第壱かうして日日ショパンを聴くことでのみ今と云う哀しみの時をやっとのことで乗り切って居るのですから其れは何と云うこともない、タダの理性にとってのドタバタ劇であるに過ぎず其れを作品として売り出すだの、また芥川賞直木賞に挑むだの、そんな勇ましい話では金輪際無く要するに壱社會科詩人としての独白であるに全ては過ぎぬ。

 

しかも其処には毒さえもがかうして塗り込まれて居る!

其の毒にやられつい此処へと引き寄せられて来る哀れなる読者達。

 

だがあなたがたは幸いである。

あなたがたにはすでに天國への途がすでにしかと見えて居やう。

 

あなたがたは此の稀なる詩人の語る言葉にかうして出遭い、さらに其処でもって何時の間にか洗脳されるにさえ及んだ。

あなたがたはすでにわたくしの僕でありわたくしだけの読者である。

 

よって他のものはもう何も読まずとも良い。

そんな書や新聞やネットの記事などは即刻捨てよ!

 

其れもタダ此処だけが…。

此処だけが眞實とほんたうの詩とを語る場なのだからこそ。

 

 

でもどうも邪教臭い…。

今何と仰いましたか?

 

ズバリ邪教臭い。

ですがわたくしは世間の教祖様の如くに威張ったりはまるでしません。

 

其れは壱応認める。

だがなんか胡散臭い。

 

まあ本心を言えばわたくしは組織が嫌いなのでまさか教祖などでは無い。

だから全然胡散臭くは無くタダの愛を語る愛の詩人なだけです。

 

でも愛の詩人ってつまりはハイネみたいな詩が好きだと云うことか?

 

たとえばこんな。

 

 

  ローレライ

   ハインリヒ・ハイネ

どういう訳か分からない
こんなに心が重いのは
遠いむかしのもの語り
それが胸をはなれない

風は涼しく日は暮れて
静かに流れるライン河
かなたの山の頂きが
夕陽にきらり光ってる

この上もなく美しい
娘がそこに腰おろし
金の飾りをきらめかし
その金髪をすいている

金のくしですきながら
歌のひとつを口ずさむ
それはふしぎな旋律で
強い魔力を秘めている

小舟をあやつる舟人を
歌は切なく惹きつける
迫る暗礁に目もやらず
彼はひたすら仰ぎ見る

あげくは小舟もろともに
波にのまれることだろう
不思議な歌の力を使い
それをしたのはローレライ

   (訳:船津 建)

 

 

ま、かうして或る意味では壱種下らぬ詩ですが要するに地元を愛するストルゲーとしての愛よりの詩なのでせう。

 

ところで詩とは所詮逃避ですか?

其の逃避を多分に含むが詩とは矢張り叫びの方でせう。

 

するとアノ叫ぶ詩人の會叫ぶ詩人の会 - Wikipediaのやうなものなのですか?

まあ確かに音樂の方でもさうして叫びますね。

 

音樂に限らず絵画なんぞはもっともっと叫んで居ます。

其れと同じくして言葉もまた叫ぶのですか?

 

言葉は論理性が強くあるので音樂や絵画以上に論理的に批判し得るが尤も詩は其の限りでは無い。

例えば哀しみ、悲しみの思いなどは散文よりも詩の方でこそ直接的に伝えることが可能である。

 

 

では詩は常に哀しいので?

哀しい。

だが其の哀しいのを感ずることの出来る人は實は人類の半分程しか居ない。

 

人間には性格即ち心の性質の違いがあり其れこそ人生の上での苦しみや悲しみには案外無頓着な人なども中には居ます。

要するに感度や思考力には常に大きく差が生じて居る。

 

翻り考えるに、文明は壱義的方向性、壱方向性から此の世界を再構築する試みだったが、其処ではさうして常に価値の方向性が限定されて居るが故に其の価値の埒外のものはむしろ藝術や宗教、さらに學問の分野が其れを常に吸収して来たのだと言える。

でもって其れは逃避でありまたプロテスタントなのでもまたあるが元元は変なものでも何でも無い謂わば「ありの侭」の人間としての価値であり哀しみなのだ。

 

逆に申せば近代的規定其のものが其れ等の価値を言わばカルト化しても行った訳だ。

でも學問は反體制ばかりかむしろ體制をこそ形作るものでせう?

 

特に理系の學問はさうでせう。

ですが人文學はむしろ常に反體制的だ。

 

人文學の魅力とはまさに其処にこそある。

其の人文學こそが文明を規定するに及べばおそらくは此の社會はスッカリと変わることだらう。

 

 

でも人文學は何だか力が失せた感じですよ。

人文學とはズバリ教養つまりは知識では無く知恵の方をこそ磨き込むものだ。

 

だからむしろ人文學だけをやって居る位で此の文明は丁度良くなる。

だから其の良くなると云うのは科学の理論や技術が良くなることでは無く現存在の頭の中身が磨かれる=教養が付く、と云うことでなくてはならない。

 

要するに日本人其のものが其れこそ宗教や哲學に対しからきし弱いのは其れは何時の間にか實利的思考に毒されて自分の頭でもってー自らの思考、自らの教養でもってしてーもはや何も考えられぬやうになって来て居るからなのです。

まさに其れが高度経済成長が齎したところでの精神的な意味での弊害です。

 

逆に詩人さんは何でまた其れに限りかうして強いのですかね?

まあ頭の中身がスッカリ現實離れして仕舞って居る訳です、其れもほれ、こんな風に…。

 

 

だから我が頭の中には其の哲學と宗教と藝術だけしかすでに入って居ません。

はあー、然し其れではまた苦労が何かと多いのでせうね、其れもまずは生活力が乏しくて。

 

いやだから実際此の世界に対しては何でも言えますがもっとかう何か金、即ち現金を。

此れを是非お布施して頂かないとそのうちに詩人は餓死しちゃいますのです。

 

流石は貧乏詩人さんだ…。

どうかどうか御恵み下され、其れも出版社の方方などが前金にて壱億円程振り込んで下さると實に助かります。

 

前金?

さうです、こんな爆笑連載をもしもわたくしめが引き受けますればアナタ方の雑誌の売り上げはもう即拾倍ともならう筈だ。

 

 

でもつい先日「うんこたれ賞」を受賞なさった偉い詩人さんがそんな三文雑誌にあえて書かずとももう此処だけで充分じゃないですか?

ではアナタは我が餓死しても良いとさう仰るのですか?

アナタはこんなに眞面目な宗教詩人をさうして小馬鹿にし挙句の果てに今「死ね!」とさうも仰られる。

 

そんな理不尽な様が果たして此の世に通って居て果たして其れで良いのでせうか?

じゃあアノ裸のプーチン氏にでも救って貰えば?

 

それではたった今より出立致します。

何処へ?

其の露西亜へと。

 

 

 

君、君…。

はい壱體何でせうか?

もう漫才は止めてちゃんと書くべきことを書きなさい!

 

さても果たして露西亜正教は邪教か?

いえ其れもまた眞理へと至らんが為の教えです。

 

つまりはプーチン氏と露西亜正教はさうしてしかと結託して居ります。

 

 

 

さうして昨夜は相生山にてホタル観賞をして参りました。

 

まずは其の経緯を以下に箇条書きにて纏めます。

 

ー廿参時より出立す

廿分で相生山へと到着すー

 

1.竹の小道ー散策路ーにてヒメボタルを探索し四、五匹其れを観る

2.梅林ー入口に近い方のーの方へ移動しー約弐百米程ー梅林南側の竹林にて五、六匹のヒメボタルを観る

3.梅林東側の穴場スポットの方へ移動しー約百米程ー其処にて拾匹以上のヒメボタルの乱舞に出くわす

 

とのことで、結果的にはさうして拾数年振りでのヒメボタルの乱舞の様に遭遇致しました。

されど實は2.迄でもう終わって居てサア帰らうとさう思って居たのです。

 

だが乱舞の様をまた是非観たくもなり其の穴場スポットの方へ移動してみましたところ、何と、

 

其の梅林東側の竹林の中に沢山の光が点って居たのです。

うわー、コレは凄いぞ。

 

では其の光の中へと突っ込んでみやう。

 

すると何と!!何とわたくしの身の周りを即ちわたくしの體のぐるりー三百六拾度ーを拾匹位のヒメボタルが取り囲むが如くに輝き始めたのです。

尚此のことは文學作品としての誇張でも何でも無くまさにほんたうにそんな感じでのことなのでした。

 

 

其のヒメボタルは飛んで移動しつつ光って居りよって其の我が身を包む光の環のやうなものは弐、参分の間しか持ちませんでした。

つまりは当初竹林の中に居た多くのヒメボタルが何故か竹林の際に居るわたくしを取り囲み其の後は他の方向へと散りじりとなり去って行った感じでした。

 

勿論懐中電灯も持って居りますが實は其れにて足元などを照らし出すとヒメボタルにも影響が及ぶが為に手の平にてレンズ部を隠しつつ其れを使って居ます。

 

 

【相生山緑地ホタル】2022年見頃や鑑賞の時間帯は?駐車場や鑑賞ルールについても紹介 | 名古屋男子のはじめての子育てレポ (tomodannagoya.com)

 

こちらに山根口→梅の小道の奥となって居るが大體其の辺りではある。

 

ですが1.及び3.は暗い場所なのでむしろ余り人は来ないところです。

其れでも1.はカップルなどと屡出くわすところで現に昨日なども参組程カップルや👪連れとすれ違いました。

 

1.では暗い小径に時折竹林からヒメボタルが出て来て木の葉などに止まったりもし其処でずっと光ったりもして居るものです。

昨日もそんな壱匹と遭遇しまさに目の前で其れを観察して居たがたまたカップルが其れを観に来たので我は退散しました。

 

 

ヒメボタルを名古屋市天白区の相生山緑地の竹林や梅林で撮影したよ | こぎフォト ダイアログ (koggy358.com)

 

さてこちらでは現地により近い感じでもって写真が撮られて居ます。

最初の大きな画像は3.の場所である可能性があります。

また小径や竹林の画像は1.の場所である可能性が高い。

 

であるとすればわたくしがヒメボタルの乱舞に出くわしたのは最初の大きな画像の奥の方にある竹林と云うこととなる。

 

 

但し画像でのホタルの光り方は自然界での實物とはまた別物です。

 

自然界での實物は其れも毎年感ずるのですが言わば「言語以前での静けさを宿す」光り方をします。

即ち無音で且つ無垢なる自然の侭に言語以前、即ち観念以前思考以前での具象的煌めきの様を示す。

 

そんな風にわたくしは毎年其の蛍の光に文明以前での全ての価値を感じ入って居る。

其れはまさに文化以前、さらに言えば人間以前での無垢なる生命としての輝きの様である。

 

ですが其のヒメボタルの光をそんな風に捉えるのはおそらくわたくしばかりでのことなのだらう。

人間は常にさうして沢山何処にでも居るのですがそんな意味での心の純粋さを保つ人がまず居りません。

 

故に其のかうして何処までも詩人であるわたくしの感度は其れこそ摩天楼のビル街だの、また巨大なタワーだの、或は宇宙開発だの戦争だの紛争だの日銀や政府が行う悪だのそんなものとは悉く相性が悪い訳です。

むしろ詩人は肥溜めや野糞などとの相性が頗る宜しいやうだ。

 

 

其の光が、其の輝きがまさに音も無く移動する。

なので其れぞ音無き移動でありさうして闇に溶け込んだ侭での光其のものの空間の移動です。

 

さうした様はまさに神秘的な場なのだとか申せません。

そんな神秘的なもの、むしろ神や佛の世界に連なるが如くに無垢なる自然現象はまずはさうして静かである。

 

静けさに満ちたものこそが其れこそ本来ならば理性的なものなのです。

逆にウルサイもの、兎に角騒がしく落ち着かぬものこそがケモノとしての性質其のものでせう。

 

わたくしは今其の静かなる光の中にこそ生きたい。

其の光と壱體となり何処までも其れと飛んで行きたい。

 

詩人さん、どうもまた危ない沈潜の仕方をして居るやうですよ。

いや危ないのはあくまで文明の方だよ。

 

 

文明は第壱至極ウルサイ。

今日もなんだか知らぬが近くで工事をして居るが其の「ダダダダダンッ」と云う音がもう耳障りで其処ではもうChopinもクソも無いやうな破壊音其のものだ。

 

いやあー詩人さんはまたぞろ今日もそんな内なる小宇宙へとさうして沈潜しておいでになる。

もしや其れはたとえ貧乏でも心が豊かだとさう申せることなのですか?

 

良いところに気付かれました。

むしろ詩が生じるのは心が豊かであるからこそなのだ。

 

逆に幾ら金持ちでも心が豊かでないと其処には詩もクソもむしろ無い訳です。

 

 

其れでは其の「蛍の光」とはもしや「愛」のことなので?

「愛」なのだとしてもどうも其れは非常に限定された、即ち「愛」以前での愛としての具體物なのだらう。

 

「愛」はさうしてむしろ限定的に具象化されるべきなので?

限定的に具象化されし愛は常に我我に取って優しく尚且つ静かです。

 

本質的な優しさとはむしろ其のやうに行為が限定され言わばより薄くのろくなりもはや動かなくなることである。

そんな風に存在感が薄まる?

また動きが止まる?

 

つまりはより死に近くもなる?

 

存在感が強くある、所謂オーラがあると云うことはむしろ下品なことでさらに言えばまさに其れが闘争的であり「愛」に欠ける行為=悪の信奉者であることです。

じゃあ死んだ方がマシでさうして死ぬることこそが愛なのか?

 

 

でもヒメボタルはよもや死んでは居らずかうしてちゃんと生きて居るじゃないか。

要するにさうして光ったりしつつ生きる生命は人間とは異なり常に慎み深いやうにさう思われてならぬ。

 

じゃあヒメボタルとでも結婚したら?

いやわたくしはあくまで自分と結婚して居るのでまさか浮気などは致しません。

 

ええっ?そんな自己完結での結婚、なのですか?

だが如何にも其れでは危ない、なので其れは止めれ、止めれ、其れにアノ宮崎 美子が泣くぞ!

 

だから宮崎 美子なんぞより自分の理性と結婚する方が屹度倍程も頭が良くなりますよ。

 

だから僕が欲しいのはあくまで頭の良さなのであり外側がどーのかうのではまるで無い。

でも其の宮崎 美子に少女の恰好をさせると其の求める頭の良さ以上に魅力的ですよ。

 

…全然。

 

其れに宮崎 美子は石もまた好きですよ。

 

…全然。

 

宮崎 美子がアナタの性欲の最後の砦の筈ですよ!

 

…全然。

 

 

そんな訳でわたくしはすでに其の相生山のヒメボタルが放つ光の静けさに其れも全的に魅了されて仕舞いましたとさ。

 

相生山のヒメボタルはさうして言葉以前の世界でもっておそらくは光って居るのだと思う。

故に其れはほんたうの意味で美しい、其れも具體物としての静謐さを身に纏った上で永遠に美しい。

 

でもヒメボタル - Wikipediaの寿命はとても短いのでせう?

 

ヒメボタルの生態と生息環境 (tokyo-hotaru.com)

 

こちらには何と壱週間程だと出て居る!

また名古屋と関東では出て来る時期が異なる。

 

また光るのは♀の方である。

 

嗚呼蛍の命はかうして儚い。

其の儚さを詩人は「静けさ」として常に感じ取ります。

 

静かなものの方がより死には近づいて居る。

なのでかのジョージ・ハリスンなどもまた早死にをして仕舞う。

 

ですが其の「死への光の乱舞」程美しいものはまた他には無い。

要するに限定されたもの、限定される命こそが美しいものだ。

 

其れも現存在の如くにどーのかうのと煩悩だの罪深さだのに振り回されることが無く清潔なのだ。

 

アナタは然し死に対する憧憬を持ち過ぎて居る。

危ない、もはや危ないよ、そんなでは次第に病的な域へと入り込んで行かう。

 

 

だから、はい、今此処で其の落下を止め其の美をこそ成立させて居ります。

何故なら眞實の美とは其の寸止めした状態にて初めて見えて来る姿だからなのだ。

 

でも僕とて其れこそ友達や👪とヒメボタルを観に行ったにせよアア今日は蛍が観られて良かったねえ。

と云うことだけでおそらくは終わって仕舞うのだ。

 

ですがかうしてあえて詩的な理解を其処に成立させて居るのは孤独者としての詩を感ずる感性でありまた哲學的なものの見方の方だ。

 

アナタはではまさに其れと心中なさるとさう言われて居られるのか?

さうたとえ心中しても良い。

何故なら我はまさに此の美に常に触れて居たいからなのだ。

 

では宮崎 美子よりも其の蛍の方が大事か?

へえっ?へえ。

 

では人間の👩よりも其の蛍の方が大事か?

…へえ。

 

では文明よりも何よりも蛍の方が大事か?

其の詩としての死の輝きの方が文明の継続などよりもずっとずっと大事か?

 

へい、さうで御座ります。

まあ其れもほぼ四十年もかかってさうした価値観になっちゃってるものですのでもはや如何ともし難く思われる。

 

ちなみに最近は特に此の弐年程は闇が怖く無くなりつつある。

要するに其の闇への恐怖と云うのは文明による妄想の如きものでもまたあるのだらう。

 

でも生命其れ自體は其の闇が怖いのでは無くおそらく文明物だの都會だのの方こそが怖いことだらう。

だったらあんたはすでにケモノ化して来て居るの?

 

 

いいえ、全然…。

だってケモノとはむしろあんた方文明人の方ではないですか。

 

昔は夜中にヒメボタルが乱舞する其の梅園横の野原を撮影したところ沢山のオーブが写って居たりー約15年程前ー其れから蛍観賞の後に自転車でもって家に帰る途中に意識が飛んで気が付いたら左の鎖骨に怪我を負って居てしかも其れから妙に体調が悪くなり壱箇月程自宅にて寝込んで居たことさえもがありました。-其れもまた約15年程前-

 

然し最近は至極普通に蛍観賞が出来るやうになりしかも昨日などはむしろ大賑わいでしたので夜の山の中も全然怖くはなかった訳です。

其れとわたくし自身が老人化しつまりは枯れても来て居るのでかうしてより素直にヒメボタルの光と向き合えるやうになった。

 

また近頃は相生山への愛がより増して来ても居るので余計にすでに遠いところでは無くなって居る訳だ、其の相生山其れ自體が。

ですがそんな身近な山の中に明滅を繰り返すまさに限定された命の輝き程哀しくもまた美しいものはありません。

 

 

或は🐈や🐕、其れから庭に集い来る生命なども皆そんな限定としての時空を生きる哀しみの象徴なのだとまさに其のやうにも感じられより壱層詩人の心は寂しさのやうなものに充たされて行くのであった。

だけれどもまた其処に♀🐈が五匹も子を産み落す。

 

其の♀の無謀なるやる気と申しますかおおまさに理性以前でのケモノ振りに?????と正直思いますのですが其れもまた自然の摂理だと申しますか結局は此の世の宿命としての現象其のものの生き様なので御座りませう。

さうか、かうして光るヒメボタルもまたそんな宿命的な現象物なんだ。

 

などと思いつつ帰りに吉野家へ寄りましたがすでに終わって居てセヴン・イレヴンにてキュウリ入りのサンドウィッチ等を買い込みエリザベス女王に関するNHKの番組を視つつセッセと其れを食った。

いやあー、夜中にかうしてTVを視ながら何かを食うのは弐拾年振り位のことですな。

 

まあ其の英國の王室もまさにドタバタ劇のオンパレードであり其処からすれば矢張りと申すべきか自然界の出来事の方がずっと静かでしかもずっと御上品ですらある。

そんな訳で自然界こそが現存在に取ってのおおまさに本来的な意味での癒しを与えて呉れる現象であることばかりはもはや疑う余地の無い事實なのである。