63.常に明る過ぎる文明への疑問ーほんたうの明るさとはむしろ暗いことよりさう判断されることだー
さて我とてさうさう常に机を前にし沈思黙考すること、即ち哲學的思考や宗教的概念ばかりを玩んで居る時間などは無く其れこそ洗濯したり買い物へ行ったり飯食ったり屁をコイたりまた万年筆の整備だの改造だのさらに他の様様な用事にて實はほぼ自由な時間など無いのである。
これだけ毎日出て来て置いて何を仰るか。
だから此れは我が仕事、つまりはライフワークのことだ。
でもたまたま今は其れが仕事なだけでもはや書き終えたー現存在に対し言いたいことはすでに言い終えたーと思えばもう出て来ないから今のうちにしかと此の作文を読んで置くが良い。
どだい詩人は小説家などよりもずっと気まぐれなのだからほんたうのところ先のことなどはまるで読めやしないのだから。
アニメ ハロー ワールド! 森のいのちの物語 - アニメ ハロー ワールド! 森のいのちの物語 - NHK
さて本日は買い物だの居間の照明器具の蛍光管の取り替えなどで忙殺されて居りしがたまたま帰って来てEテレを視たら此のアニメ番組をやって居り其れを大體最初から仕舞いまで視た。
其の前の話ながら本日は日本の温暖化の様が著しく自転車にてヤマダ電機へ行き帰って来るだけで何やら熱中症のやうな感じともなって仕舞った。
其れでもって台所にてかき氷アイスを食いつつ其のアニメを視て居たのであった。
尤も最近はむしろ朝晩寒かったのだがまた急にかうして暑くもなる。
此の気候変動の問題こそがおそらくは現存在に取っての最大の大問題であらう。
もしも地球の気候が完全に狂えば其れこそ学校も夢も希望も會社も儲けも何も無く其のクソッタレのホモ・サピエンス共が仕出かした大罪により地球上の生命活動は其の機能を停止して行かざるを得ぬことだらう。
其の馬鹿共に対しかうして教育詩人は精壱杯叫んでは来たが、其処はかの信長公ですら成し遂げられなんだ天下統壱と同じことにて結果として其の大嫌いな人間に謀反を起こされ自ら腹を切ることしか出来ぬのやもしれぬ。
されどかの比叡山の坊主共ですらブチ殺した其の大いなる瞋り、其の宇宙にトドロキ渡る程の「馬鹿野郎!」の叫び、おお其のドッカーンの余りにも見事なる様。
おそらくは其れが出来るのは尾張人だけだらう。
尾張人はかうして常にエビフリャーと味噌カツを食いつつ瞋りまくるのだ!!
其れも、
ドッカーンーーーーーーーーーーー~~~~~~~~~~~。
と。
では今日も其れを食されたのですか?
いえ今日は例の如くに奈良の蕎麦を食しました、其れも百円の…。
それから矢張りと云うべきか菓子も食って仕舞った。
でも菓子はどうも余りややこしい高いものよりも例えば「かりんとう」とかそんなものの方が良いやうです。
うーん、コレはイカン。
どうも球が切れたやうだ。
ではヤマダ電機へ行かう。
ゲッ、何だコレは?
何故電灯の球が四千円もして居るのだ?ツインパルックプレミア 100形(ナチュラル色) FHD100ENWL 商品概要 | 電球/蛍光灯 | Panasonic
店員さん。
ハイ、何で御座りませう?
幾らなんでもタダの蛍光管が四千円もするのはオカシクはないですか?
あっ、でも其の100形は其れしか無いのです。
色合いの調節などはパルック100の他のものでも効きますのですが…。
うーむ、何やら非常に不快だがとりあえずは此処で爆発して居ても埒が明かぬので黙って買って帰らう。
カチャッ。
では紐を引かう。
うわあー、實際何て明るいのだ。
どうも明かる過ぎるやうな気がするのでとりあえずは夜まで切って置かう。
即ち文明は確かに進歩し最新の電化製品、照明器具などの性能は嗚呼まさに進歩を遂げて御座る。
だが此の性能はこと家の如き古い家に取ってはそんな風に常に過剰なのだ。
だから便所の照明などは昔ながらの裸電球を買って来ワザワザ付け替えて居る。
かやうに常に文明は世界を明るく照らし出して来たやうに思う。
だが時に其れは明る過ぎたりしては居なかったのか?
ほんたうは此れの弐分の壱か又は参分の壱で充分だった。
さうかうするうちにおや、自分の部屋の蛍光管も消えて仕舞った。
では隣の部屋の蛍光管を付ければ良いだけの話だ。-隣の部屋の蛍光管は日頃使って居らずまだまだ使用出来る-
パチッ。
うわあーーー、こりゃあまた明るい。
ですがまあ丁度良い位だな。
ー参連の蛍光管だがさうして壱本のみを付けて居るー
神経質な我はまたPCの画面の明るさなどが特に気になる。
よって其れを最大限に暗くしさらにエコモードにて我は其れを使う。
さて問題は其の「明るさ」の度合いである。
さても其れは誰が決めたのであらうか?
即ちわたくしが好ましいと思う「明るさ」と世間にて常識的に明るいとされて居るものにかうして大きなズレが感ぜられるのである。
だから私の部屋に夜来た人は正直「暗い」とさう感じる筈である。
だがわたくしは夜に本は読まずやることと言えばPCでもってオンデマンドでも視て居るだけのことである。
ならば部屋の照明は其の蛍光灯壱本でも明る過ぎる位のことではないか。
實は我はさうして昔から其の自分と世間との感覚上の誤差、ズレと云うことに関し常に悩まされて来て居た。
其れとわたくしは廿歳位まで強い性欲を感じたことなどもまた無かったのである。
尤も其の後は人並みにはなったが特に食欲や性欲に関しては壱種独特なものを持って居たものだった。
要するにどうも肉體的に省力型なのである。
だから精神にはエネルギーを使うにせよどうも周りに溢れて居る「やる気」のやうなものに常に拒否感を感じて仕舞い逆にもっと抑えた方が良いのにと常にさう思って居たものだった。
例えば小学生の頃に獅子 文六 - Wikipedia氏のとある作品に触れたのだったが、其の折に作品中の詩人の魂を持つ少年が「昇る朝日」などよりも「沈む夕陽」の方がより美しいとさう言うのである。
まさに其れこそが当時のわたくしの気持ちを代弁して呉れて居るやうな気さえもがして居たものだった。
また小学六年生の時担任の先生に、「君は成績が良いのに何故手を上げないのか?」とさう問われたことがあった。
だが我は其の問いには答えず、よって通知表の方に「積極性に欠ける」とさう書かれて仕舞ったのである。
だけれども本音を言えば、「そんなハイハイと自分が分かった気になり正答を答える奴は大抵は馬鹿ですよ。」とさう其の問いに対し答えたかったのだった。
ま、昔からそんな世間を小馬鹿にして居る人間ですので其処は要するに完全なる屈折人間です。
でもって其の屈折人間には其れなりの世界に対する感度や考え方があるのではないかとの話である。
そも屈折人間にはそんな「沈む夕陽」の壱種哀しくも美しい情景が常に見えて来るのである。
だけれどもハイハイと自分が分かった気になり正答を答える馬鹿はそもそんな情緒的な部分、即ち感性的に詩的な部分を元元持ち合わせて居らぬのでさうして常に旭日旗を掲げて特攻へと勤しむのであらう。
いや特攻もまた三島先生の如きものであるならばまだしも認められやうと云うものであるが只闇雲に敵艦へと體当たりをして鬼畜米英共を蹴散らすと云うのではもはや日本人としての身が持たぬではないか。
さてもお前は御國の為に何故戦わぬのだ?
いえわたくしもまた戦っては居ります。
ですがどうも戦いの仕方、そも其の闘いの場がまるで異なって居るのです。
要するに太平洋戦争を戦って居るのでは無く現存在との闘争をかうして続けて来て居るのであります。
さうか、確かにさうだな。
何か其の戦闘の方向性其れ自體が確かに百八十度位は違う。
ようやく分かって頂けましたか、憲兵様!
いや分からん、よってお前は敵前逃走の罪にてたった今牢屋へと入れ!!
さて、其の「森のいのちの物語」なるアニメは大変良く出来た作品だった。「ハロー ワールド! 森のいのちの物語」11/20(土)午後3時から再放送! | NHKアニメワールド
例えば其処にギンヤンマが登場する。
其れがまだヤゴの時にさうして毎日繰り広げられる自然界の「生と死の闘争」に就き悩んだりもまたするのである。
勿論自然其れ自體は其れを悩んだりはせぬ訳なのでまさに其れは理性を持ち此の世を生きる現存在としての視点なのだらう。
けれども其のギンヤンマは成虫となり強く逞しく成長する。
即ちギラギラした生へのあくなき欲望を持ち其処にてオスのギンヤンマはむしろ世界中で俺だけだとさう豪語する。
其れでもって♀を獲得する為の戦いの世界へと独り旅立って行く。
わたくしは多くの現存在もまた此の世にて其のやうな飽くなき戦いの舞台へと駆り出されて居る筈だとさう解釈して居る。
但し其のこと自體ー生が闘争世界であると云う實相ーに問題がある訳では無くあくまで其の闘争を理性化して見ることが出来ぬ現存在其れ自體に認識上の問題が生じて居るのである。
何故なら理性はまず其の「生の闘争」を俯瞰視するのである。
俯瞰視するするからこそ其の闘争が無意味なものであり其の無意味さに捉えられて居る限り「生きる哀しみ」から逃れることは出来ないとさう判断し得る筈だ。
まさに其の理性の悩み、俯瞰視した上での理性的逡巡の如きものが其処に描き出されて居る点に就き大いに感心させられた。
さても其の理性的逡巡とは明るいものなのだらうか。
いいやさうではあるまい、其は常に暗き分別の淵にこそ沈み込むものだ。
だがむしろ其の沈み込むものであるが故に其れは「生きることの哀しみ」をしかと知っても居やう。
其のやうに此の世の中には旭日旗を掲げ勇ましい歌を歌うだけではよもや済まぬことだらう精神の領域がある。
其の領域にすでに捉えられて居りし小学6年生の我は担任の先生に対し「ハイハイ」と手を上げられなくなって居たのだ。
翻り其の文明の明暗のことに就き暫し考えてみやう。
其の現代文明もまた其の担任の先生と同じくして常に前向きでもって明るい未來のことだけを目指し突き進んで来た。
兎に角文明はさうして我我現存在に対し至れり尽くせりに頑張って来た。
其れでもってまずは夜も明るい街並みを創った。
其れでもって兎に角電灯が煌煌と点き常に明るい。
だが果たして其れがほんたうの明るさだと言えるのだらうか?
何故ならほんたうの明るさとは常に暗さから見た明るさのことだからなのだ。
例えば以前は奥三河でもって棚山へと登り其処でもって夜を迎え麓の集落の光を見下ろすことなどが屡あった。
其の折に其の文明が点す光程美しいものは他に無かった。
だがいざ山を下りれば其れは単なる田舎の集落のみすぼらしい電灯の光である。
其の「生の闘争」にせよ文明の点す「光」にせよ壱面的な理解、まさにやる気があるだけの精神では其れこそ敵艦への特攻と同じであり且つ理性への無理解と其の生の本質的な暗さへの対義的領域を只拡大させて行くばかりでのことなのだ。
だからほんたうの意味での「光」の価値を知る為にはむしろ「闇」の濃さに浸らねばならず眞の意味での自然の美しさを知る為にはむしろ其の生の闘争としての醜さを是非知らねばなるまい。
其の意味で個人的に常に明る過ぎる文明には大いに疑問を抱き続けて居る。
また無暗に生命を讃美するだけでは事は済まず其の負の側面をも常に見詰め続けるべきである。
世人による大抵の認識はさうしてまずは自分を正義の側、善の側にしかと置いた上で事の正邪を壱面的に判断して居る。
だが其の所謂常識的判断が正しくあると云う保証などは實は何処にもありはせぬ。
むしろ其れは間違って居るとさう判断した上でなるべく欲望其れ自體を絞り込むことこそが今文明に対しほんたうの意味で求められて居ることなのではないか。
であるからこそ我は自らの部屋に蛍光灯を壱本しか付けぬのである。
だったら其れは暗いか?
いいや全然明るい。
明る過ぎてもう闇が何処かへ全て飛んで行って仕舞う。
其のやうに此の文明のことは須らく常に逆側から見詰めて行くべきである。
まさに明るさでは無く暗さの側から、またやる気の側からからだけでは無く悩みの側から、さらに現存在の側からだけでは無く自然の側から常に其れを見続けて行かねばなるまい。
さらに僕から言わせると文明と申すか組織と申すか兎に角人間と云うものは其のやうな視座の逆転、立場の転換に於いてそも其処に大きく難がある。
其のやうな視座の逆転、立場の転換に就いてはまさに詩人の認識、此れ迄に多くの詩人が書き遺して来た詩の中より其れを掬し取り學ぶことこそが肝心なのではなからうか。