目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

かって工学者が述べたところでの人間にとっての本質的な価値ー市川 惇信『暴走する科学技術文明』より読み解く人間にとっての本質的な価値ー

10.市川 惇信『暴走する科学技術文明』より読み解く人間にとっての本質的な価値

 

 

 

 

 

ひきこもり当事者たちが作った「人権宣言」って何? 七つの条文、社会の価値観変える一歩に (msn.com)

 

「『かごに乗る人 担ぐ人 そのまたわらじを作る人』ということわざがある。いいかげん、分をわきまえて諦めろ」ー以上よりー

左様人間には其其に役割がある。

其れもまた確かなことだ。

 

 結びの第7条・頼る権利は、こう記している。

〈自己責任論によって孤立し、ひきこもり状態を自分の力で抜け出せなくなった人は、人や社会に頼ることを否定されない〉ー以上よりー

社會批判や社會否定もまた様様な形やレヴェルがある。

但し自己否定的なものに陥らないことが大事なことではないかと個人的には思う。

自己へのプライドや信念を失う形での社會批判や社會否定は結局其の社會に負ける形での自己否定へと繋がらざるを得ないのだから。

 

例えば學者や藝術家また宗教家はどんなに異端だとされて居ても自己のプライドや信念に対しては至極忠實である。

學者や藝術家また宗教家がたとえ其の自己への信念の為に身を滅ぼさうとも其れは社會に負けたのでは無く単に己の力の至らなさに負けただけのことなのだ。

 

廿代の頃私は小学生と中学生の登校拒否児の家庭教師をして学校に復帰させた経験を持つ。

だが私自身がすでに其の頃より大きく社會に対し疑問を抱いて居たものだった。

其の大元にある疑問がまずは此の社會は欲望を煽り其れこそ『かごに乗る人 担ぐ人 そのまたわらじを作る人』なる内部規範にて全ての価値を成立させて居ることである。


逆に其の価値に対し疑問を抱けば抱く程に此の世は生きにくくもなって来やう。

然し其の自己の内部が欲するところでの御勉強を重ねるうちに、其れも参拾年、四拾年と其れを積み重ねるうちにむしろ世の中のことが須らく分かって来る。

 


さて其の社會が悪いこと、社會こそが暴走するものであることを理性の力にて捉えた著作が此の世には存在する。

其れ等が所謂文明の暴走を扱う著作群であり人類の社會的滅亡を論ずる本の数々だ。

元元我はひねくれて居るのか、まさに此の種の本が嫌いでは無い。

 

だが其れは其の種の著作が「内部規定」を離れ常に外側より文明を見詰めるものであるが故に基本的にさうした心のスタンスを取る我には至極読み易いからなのだ。

逆に言えばさうした心のスタンスを築き上げて居ない者に取り其れはむしろ害毒を振り撒く本なのでありまさに縁を持たない方が良い本となるのであらう。

 

其の例

1.『愚民文明の暴走』『愚民文明の暴走』(呉 智英,適菜 収)|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

2.『暴走する文明』暴走する文明 「進歩の罠」に落ちた人類のゆくえ | NHK出版 (nhk-book.co.jp)

3.『暴走する科学技術文明』市川 惇信『暴走する科学技術文明――知識拡大競争は制御できるか』 (arsvi.com)

 

1.に就いて

まさに此れを今年になり再読して居る。ー参度目の読み返しとなるー

此の本の要諦は大衆社會批判=反知性主義への批判となる。

其の呉 智英と云う評論家がまさに愛知県ー名古屋ーを代表する知識人の壱人で件の東海高校から早稲田大學を出かっては學生運動などにも身を投じて居られた方である。

此の人は兎に角物知りでもってとても頭の良い方である。

 

つまりは自ら學ぶことを志す愛知県人にとってのまるで教祖様のやうな方だ。

其れと対談して居るのが壱種過激な哲學者であり作家であるかの適菜 収氏だ。

ちなみにどうでも良いことながら適菜 収氏は江戸前の高級な寿司を食うことに限りない喜びを感じて居られるやうだ。

 

呉智英 × 適菜収 【第1回】「バカが好む民主主義というイデオロギーについて」() | 現代ビジネス | 講談社(1/6) (ismedia.jp)

こちらにも此の本の要約となり得るやうなことが述べられて居るのだが要するに「バカ」が社會を駆動するに至った其の近代大衆社會のあり方其のものに対する根本的な批判が展開されて居る。

流石に其処は早大にて哲學を學ばれた適菜氏ならではの視点なのであらう。

尤も近代大衆社會其れ自體が社會をブチ壊す元凶だとの視点は今に始まったことでは無くむしろ古くよりある訳なのだが。

 

2.に就いて

以前此の本をまともに読んで居ないのにあえて取り上げ何かを書いて仕舞った覚えがある。

「本を読んで無いのに其れに就き書くバカ」とは實はわたくしのことなのだ。

だがかう本ばかりを毎日読んで居るとたまには読む前に其れに就き何かを言いたくなるものなのだ。

 

で、實は此の本をいまだ読めて居ない。

だからまた読んでみてから何かを語らうかとは思います。

 

3.に就いて

本日是非語りたいのはまさに此の著作のことだ。

實は今まさに此の著作と格闘中なのだ。

 

此の本は弐年程前にアマゾンで買った。

だが簡単に読める本では無い。

つまりは書いてあることの内容が高度でありまさに専門的ですらある。

なのでまだ半分位しか読めては居らぬ。

 

だが本が読み切れて居ないことを決して恥ずかしく思ってはならない。

何故なら我我壱般の學徒が學者より頭が悪いことは其れこそ当たり前のことなのだから。

兎に角本に挑む姿勢、其の難解なものに理性として挑んで行く姿勢こそが我我大衆に取り壱番大事なものなのだ。

 

まさに其れをやるのが眞の意味での知性的な生き方なのだ。

其れから逃げるのがつまりは馬鹿のことであらう。

 

僕はこんなにバカですぅ。

確かに君は馬鹿だ。

何故なら君は知的になどよもや生活出来て居ないからだ。

 

知的に生活するとはまさに脇目もふらずに御勉強に勤しむことだ。

しかも其れを何歳になってもやらねばならぬ。

たとえ八拾八歳でも其れをやり遂げなされ。

 

ああー、何やら足が痛いな。

だったら閉じ籠って読書に邁進せよ。

 

ああー、何やら腹が減ったな。

いやむしろ其の空腹こそが全き知を完成させやう。

其のひもじさを知の為のバネと化し壱日拾時間は本を読みなされ。

 

 

市川惇信 - Wikipedia

ところで此の方はてっきり社会學者さんなのかと思いましたらかうして工学者さんなのでした。

市川 惇信『暴走する科学技術文明――知識拡大競争は制御できるか』 (arsvi.com)よりまずは感銘を受けた点があります。

其れは終章「日本社会の選択」として纏められた部分です。

 

其処でまず市川先生は「日本社会は内部規範社会の行動様式に依拠して居る」ことを述べられて居る。

まさに其れは正しい指摘なのであらう。

要するに其れは内向きの社會であり社會としての価値基準を其の體制の枠組みの中でのみ完結させて居る社會なのではないか。

 

其の内部規範社會では、

1.科学技術との馴染が審判社会に比し悪い

2.社会的に先験的規範が無いので他の社会に対する主義、主張に欠ける

ーわたくしの纏めー

 

此のやうに日本社會の問題点が述べられて居るが此の本が出されたのは今から22年も前のことです。

故に私が指摘したいこととは当時よりすでに壱部の知性には語るべきことは見えて居たと云う事實なのです。

市川先生はさらに「日本社會は経験審判社會への移行を目標として設定すべき」だと述べて居られる。

 

また其の理由が三つあるともされ、

壱 科学技術文明の知拡競争による特定の国や企業による知の独占を阻止する為により高い見地に立ち人類に対し健康で平和的且つ知的刺激に満ちた知の文明を齎すリーダーたらんと欲すること。また行動様式、経済活動に於いても同様で経験審判社会への移行を目標として設定すべきーわたくしの纏めー

弐 社会全体として共通な経験規範として内部規範を定めること(其の社会の移行に伴い発生した対立は審判により裁定して行くべき)ーわたくしの纏めー

参 世界全体として今後世界は経験規範としての統合原理に以降して行かざるを得ないのでむしろ其れを先取りし世界に範を示すべきーわたくしの纏めー

 

そも日本は何故「顔」を持たず「主張や個性に欠ける」社會を戦後築き上げて来たのか?

其れは内部規範原理の下で主張すべき正義が無くまた対立の回避にばかり努め、さらに「利益」を社會の統合の手段と為して来たからなのだ。

つまりは審判規範としての理念などは何処にも無いこととなる。

 

尚此のことは文學者としての三島 由紀夫先生が日本社會に対し危惧されて居たことにも連なることだらう。

戦後日本は主義主張による公正さや正義を失い「利益」つまりは資本主義による高度成長による金集めばかりを追い求め要するに「豊かになれば國は榮える」とさう目論んで来て居た。

 

ですが其の「利益」程不確かなものはまたありません。

事實金融経済の破綻や新興國の経済的発展また今回の疫病の蔓延などによりむしろ其の経済的優位性は容易に崩れ去って行くものです。

 

対して市川先生は日本社會が取り得る意義の大きい正義の形として「知的独占の排除」であり「非核三原則」などの価値を挙げられて居る。

また日本の科学界の統合原理もまた経験審判原理に変えて行かねばならぬことを以降具體的にこと細かく述べて居られる。

 

しかしながらわたくしが感銘を受けましたのはむしろ其の部分では無く其の後に書かれた3.社会全体として、と云う部分なのです。

其処でまず述べられて居るのがまずは経験的形式規範としての哲學の復権である。

其れも工学者である先生が何故そんなもはや死んだも同然のやうな人文科学の領域を持ち出されて居るのであらうか。

 

1.利益の追求のみでは科学技術文明と云うー抽象的ー進化システムの爆発ー暴走ーを阻止することが出来ない。よって経済システムと共に共進化する科学技術の爆発を回避する為にはむしろ人の生き方に関する何らかの目的が必要であり其の目的を考えることこそが即ち目的を其処に見出して行くものこそが宗教と哲學の役割である。ーわたくしの纏めー

2.多文化社会である世界を平和と安泰のうちに維持して行く為には世界に通じる人の生きる目的が必要であり其れを實現に導き世界に対し社会的に貢献する為には日本社会其のものが何らかの宗教か哲學を持つ必要がある。ーわたくしの纏めー

 

何て筋の通った、まさに仰る通りでの指摘なのであらう。

今から廿弐年も前に其の工学者の市川先生はむしろ宗教か哲學こそが大事だとさう日本社會に対し真摯な提言を為されて居たのであった。

 

だが其の提言を心より聞いて居た人が果たして何人居たのであらう?

『暴走する科学技術文明―知識拡大競争は制御できるか』|感想・レビュー - 読書メーター (bookmeter.com)

ぎゃーーん、むしろ誰も読んでは居らなんだのだった。

 

其れも当たり前で、バカは壱般に小難しいことの書いてある本を生理的に嫌うものと相場が決まっておる。

つまり世の中に馬鹿が蔓延するに及び観念的に樂な方へと走り要するにもう難しい本などはまさか読みたくは無い。

かうして読むのはマンガでやるのはゲームばかりだ。

 

しかもエロいことばかりを考えアノ戦前戦後の純文學の苦しさなどはまるで他世界での出来事のやうだ。

要するにもはやみんながパッパラパーなのか?

要するにすでにみんなはパッパラパーなのだ。

 

ではまずはお前が其処に何ぞ書き込んでみてはどうなのだ?

いや僕は僕で色々と他に予定が御座りましてそんなところへ出て行くのは恥ずかしいと申すか何と申すか兎に角気乗りがまるで致しません。

 

では聞くがさても宗教か哲學こそが何故大事なのだ?

宗教や哲學はまさに抽象的に人間の存在意義を問い糺して行くものだ。

 

まさに其のことこそが人間存在としての本質的意義を問うことに重なる。

人間存在としての本質的意義は功利主義や現世利益主義などからはまさか問われることが無い。

だが本質的価値とは常にさうした利害関係の絡まぬ世界でのものなのだ。

 

要するに金でも無く今日食う食い物のことでも無い、また綺麗に見える姉ちゃんの魅力や石だの万年筆だのさうした美的な物質的価値を離れた人間の精神的な価値其のもののことなのだ。

じゃあ其の宗教と哲學にむしろ狂いまくってるお前は世間の馬鹿共とは違い物凄く偉い人だとさう言いたいのだな?

 

いや其れはあくまで僕が偉いのでは無く宗教や哲學こそが偉いのだ。

よって文明の存続の意義を問うこととは宗教的なまた哲學的な領域でのみ完遂される抽象的価値である他は無い。

 

科学はさうして技術は其れ自體で其の種の人間の生の目的、其の存在意義を問うことが出来ぬ。

其れは功利主義ー現世利益主義ーが本質的要件を規定し得ぬこととまるで同じことなのだ。

 

だがわたくしの場合は其の知恵の世界だけを重視して居るのでは無い。

言うまでも無くわたくしの場合は智恵と現象を等価に捉え同時に其処に遊んで居る訳だ。

 

まるで仙境ですね…。

もはやスッカリ仙境でせうね。

 

但し物質的に流されぬ為には大きな欲を捨てねばならぬので無論のこと其処には強靭な知性の力が要る訳です。

で、僕はかうして學問の世界でもって正しい意見なり主張なりを発見することこそがむしろ壱番樂しい。

まさに其れが酒を飲んだり姉ちゃんの尻を触ったりすることよりも純粋に樂しい。

 

うーむ、アンタの學的な意味でのカルト度も流石に年季が入りもはやほとんどイッちゃってますよね。

さうしてイッちゃって居ながらまだまだイクのですか?

 

勿論まだまだイクのであります。

學のゲージツ家は何処までもさうしてイクのです。

兎に角かうして世には良書の類が満ち溢れて居りませう。

其れを全部読み己が血肉と化して行かねばなりません。

 

學のゲージツ家?何ですか、其れは?

其れは僕が今心理的に入り込んだ世界のことをさう形容して居るのです。

僕はさうして學の壱ゲージツ家として此の今を生きて居るのです!

 

ハイハイ、分かりました。

アナタは偉い、おお!世にも稀なる眞面目な人だ。

 

さうですか?其のことがヤッパリ伝わった?

うーん。何だかとっても嬉しいなあ。

そんな訳で市川先生のお蔭で何だかとても幸せな気分を味わって居ります今日の僕です。