其の過剰なる🗾社會からの逃げ方に就いてー本日四角 大輔氏の御意見に大きく感銘を受けるー
絢爛豪華な彫刻屋台 5年ぶり「鹿沼秋まつり」7、8日開催 (msn.com)
こんな祭りだ、祭り。
こんな政治がやれん變な國でもあくまで祭りだけは何処でもやるぞ。
🗾の政治家は全く何を考えて生きて御座るのやら。
もうまるで御話にならないと申しますか呆れるばかりです、特に最近は。
だが「祭り」はあくまで「祭り」だ。
ちなみにわたくしは人混みが大嫌いな哲學詩人です。
ですが何故か「祭り」を観に行くのが大好きです。
成海神社例大祭 -2023年- [祭の日] (matsuri-no-hi.com)
故に当然こちらへ出向かねばならん。
だが地元西八幡社の祭りと同じ日に其れが行われる訳だ。
だから昼に西八幡社の祭りを観て夜に成海神社の祭りへと出向く訳だ。
だが根本的に自分は現行の日本社會にはほとんど興味が無い。
即ち其れに對し常に否定的な見解を持つ。
其の否定的な見解の半分位を貴方方は此処にて此れ迄読まされて來た。
其れは忍耐の要ることであったらうがまさにあっぱれな行為其のものだった。
わたくしの妄想にまた良くぞ付き合って下さったものよ。
そんな貴方方こそが「聖人」の称号に相応しいまさに人間の鑑であらう。
兎に角偉い、ココの読者の方方程偉い人間は他に居らぬとさう断言出來る。
【精神科医が教える】 いつも幸せな人がやっている「ゼロベース思考法」 (msn.com)
「希望」とは諦めること。
素晴らしい。
そんな「ゼロベース」で行くからこそ常に「幸せな人」となれる。
🗾社會もまさに其の「ゼロベース」思考を心掛けてみられては如何か?
なぜ日本人は「限りある時間」を無駄遣いしてしまうのか? (msn.com)
さて本日此の四角氏の記事を初めて読み、あれ同じことを考えて居られるとさう思った。
但しわたくしの「論」とまた違うのはより現實的な意味での實践的批判を彼が展開されて居るとのことである、まさに此の現行の🗾社會への。
わたくしの「論」には「社會科」だの「哲學的要素」などが必然として入る。
だが此の方はあくまで自分の生き方其のものでもって此処🗾の社會のあり方を批判して居られる。
まずは其の部分が自分にはとても出來ぬことですのでまさに其の部分に感じ入った次第である。
ー なのに、なくてもいいモノを買うため、どうでもいいコトを得るために、限りある「命(時間)」の無駄遣いをする人が日本には多すぎる。
ニュージーランドに暮らして約14年。移動生活を送りながら65ヶ国を視察するなど外から日本を見てきた筆者は、哀しみをもってそう言い切れる。
「どんなにがんばっても、常に時間が足りない」
「欲しいモノを買い、不便なく暮らせているが満たされない」
もし、あなたがそう思っているなら、それもあなたのせいじゃない。その原因は現代日本の「社会システム」にあるからだ。ーなぜ日本人は「限りある時間」を無駄遣いしてしまうのか? (msn.com)より
まずは左様に現代🗾の不幸が「🗾社會其のもの」に由来するものであることを自立的且つ自律的に解釈して頂けたらと思う。
さらに言えば「🗾社會其のもの」による部分と「近現代社會其のもの」による部分がまた上手いこと半半位になり其処に入り込んで居る。
そんな風に何せ其れが両方あるのでそも其処から逃げ難くなるのだ。
でもって普通は其処から逃げられぬものなので次元を違えて例えば宗教でもって救われたりまた才能のある人であれば藝術の世界に没頭することなどをして別問題にすり替えて仕舞えば良いのである。
そんな別問題としてもあくまで「社會の御粗末さ」の問題は直りゃあせんので結果次第に社會は惡くなる=より居心地が惡くなることからは逃れられやせぬ。
最終的に文明世界は今世紀末頃迄にほんたうの意味で追い込まれつまりはにっちもさっちも行かんやうになる。
だからさうなればもはや夢も希望も何も無く只自分が今生きて居ることだけで精壱杯のこととなる。
つまりレジャーもファッチョンもクソも無く兎に角今生きて水飲んで飯食って生きて居ることだけがまさに奇跡的な現象と化して行くことだらう。
故に所謂「利口な人、また感度が高くある人」はむしろソコからこそものを考えて行くのである。
なのであればまず今は「幸福」其のものなのだと云うことが人間には理解される。
故に其処にてつまらぬことに時間を費やすべきではないとさう自分から思うやうになる。
また變な社會欲のやうなものからも次第に認識が離れて行く。
要するに「過剰且つ不毛なる」かの🗾の現代社會其のものから次第に認識が離れて行くのである。
其れが病気のやうにもまた壱見見えるが實は病気などでは無くむしろ「聖なる方向性」での認識其のものなのだ。
ー供給される情報も過剰で、その大半が広告ベースだ。メディアやSNSから投下されるトレンドや虚像が「あなた自身」を見失わせ──他人と比較・競争させて劣等感と焦燥感を煽(あお)り続ける。
「役に立つといわれるスキルや資格」
「ネットで常時拡散されるお役立ち情報」
「みんながやっているというプレッシャー」
それだけじゃないだろう。
「大量生産されるファストファッションや格安商品」
「流行・お得・便利というマーケティングメッセージ」
「SNSで増幅したつながりと、組織での面倒な人付き合い」
家を埋め尽くすモノ、見栄のためのブランド品、余計な情報、他人の評価やステータス──そんな無用の長物を得るために際限なく稼ごうと必死に働き、重いストレスと疲労に苦しむ。
「あなたはお金で何かを買っているのではない。稼ぐために費やした人生の一部で買っているのだ」
これは──収入の9割を寄付し、公邸ではなく農園に住み続けた──「世界一貧しい大統領」と言われ愛された、ウルグアイのホセ・ムヒカ氏が、日本に向けて発した言葉だ。ーなぜ日本人は「限りある時間」を無駄遣いしてしまうのか? (msn.com)より
さて此の現状での社會を良いー望ましいーと見れば其れは其の人に取ってあくまで良い社會であり其の逆に惡いー望ましく無いーと見れば其れは其の人に取ってあくまで惡い社會である。
また他の見方もあり其れは宗教的な世界観の方に其の判断を丸投げして仕舞うことである。
確かに「狂信」もまた情けないことながら所謂「正教」に縁し判断を丸投げして仕舞うことは人間に取り惡いことでは無い。
其れもまた「正教」と言うからにはなるべく伝統のある世に認められた宗教なり宗派なりが良いことかとさう存じます。
所謂「利口な人、また感度が高くある人」は現行社會を惡いー望ましく無いーと見る傾向があり無論のことわたくしもまたさうでむしろ其れの最右翼なのではなからうか。
よって正直申して其の批判は強烈です。
なんですが實はまだ半分位しか言ってないし怒っても居ません。
もう本気で言えば爆弾テロとかになりさうなので本気を出して居ないだけの話です。
いえそも「社會」が直るなどとは思って居ない。
自分は其れこそ中学参年の時分から担任の京大出の社會の先生に導かれもうだんだけ此の社會を勉強して來たかまるで分からぬ程です。
なんでまさに其の「社會」が兎に角嫌いなのです。
もう「社會」なんぞ無くなれば良いのに何でこんなもんが此処にあるのだらうとさう夕焼けの空を観ながら良く思いますのです。
まあ兎に角此の社會は何より「過剰」です。
「過剰」だから其処にそも疲れるのだし物事の本質部が見えなくなりがちだ。
ですが其の現代社會の過剰振りの逆側には結構良いものが化石化し埋まって居たりもする。
まさに其の部分が例えば「西行の歌」であったり「祭り」であったり「アンティークの筆記具」であったりする。
またズバリ「石」が出て來たりもする。
まあ其の石が壱番綺麗だらうな。
なので兎に角其れを「掘る」のです。
「掘る」と云うことは「過去」を見詰めるとのことだ。
「過去」を見詰めることの方が「今」を頑張ることよりもより重要なことです。
但し「社會」から少し距離を取り見詰めぬとさうしたものが此の世界に埋まって居ることにさえ気付けない。
ーいつの間にか大量の不要物を背負い、動けなくなっている。必要以上を追い求め、何かを得ては快感を覚え──すぐ冷めては「これじゃない」と次々に手を出す。稼いでも稼いでも喉の渇きは満たされず、不安と焦りという「渇望症」があなたを蝕(むしば)む。
海外から「さすがおもてなしの国」と、従順さや勤勉さが絶賛されて「世界一便利」と評される日本は、みんなの過重(かじゅう)労働やサービス残業が支えているだけ。
──そんな行きすぎた便利社会を求めるあなたは、自分の首を絞めているだけなのに──。
この「システム」のせいで人生が仕事に支配され、命を消耗させながら働いている。心や体の健康に問題を抱え、自殺や過労死が後を絶たない──筆者も大切な人を何人も失っている。
ある方向へのシフト、システム脱却とは全く難しい話じゃない。
「減らす」「手放す」「軽くする」「削ぎ落とす」といった引き算をしただけ。簡潔に言うなら、暮らしと仕事──つまり生き方──をミニマルにしただけだ。
「増やす」「所有する」「大きくする」「成長し続ける」という足し算は多大な労力を要し、莫大なお金がかかる上に終わりがない──あなたを追い込むシステムから逃れることもできない。
だが、引き算には必ず終わりがある。すでに手にしている物事を手放すだけだから誰にでもできる。なのに日本では、実践できている人は1%もいない。それが悲しいのだ。
そんな人生にシフトすべく、自分に「無いもの」ばかりに目を向けるのはやめよう。「外」に答えを求めるのはもうやめよう。
永遠に満たされることのない、「無いものねだり」という渇望の無間(むげん)地獄に引きずり込むシステムと決別しよう。
そのためには、意識を自分の「内」に向け、一番大切な「すでにあるもの」に気付く必要がある。それは、あなたという原木の中に眠る完璧な彫刻作品のことだ。
「ぼくは答えを知らない。“答え”はあなたの中にある」ーなぜ日本人は「限りある時間」を無駄遣いしてしまうのか? (msn.com)より
内⇔外
家⇔會社
哲學上はそんな「弐項對立」の部分に「弐義性、両義性」を持たせて行かぬとバランスが崩れ破壊が引き起こされる訳です。
「現代社會」はあくまでそんな原理を無視し進む「壱義的」な世界ですので当然のことに時間が進めば進む程に世界に破壊を齎すやうにさう出來て御座る。
でもって普通現代人はそんな不完全でむしろ間違った「社會」の方にまずは軸足を置き全ての価値を解釈します。
ですがむしろ其れをすればする程にモヤモヤが大きく生じまた余計に「充たされぬ思い」が大きくなる。
何でそもさうなるのかと言えば此の近現代社會の思想設計其のものが失敗であり間違いでありつまりは零点だからなのだ。
零点?
さう零点。
でも零点は無いでせう?
なら五点。
でも拾点は欲しい。
ダメだあくまで五点。
何故なら2100年迄持たない文明なんて五点がエエところで拾点もあったら明らかに其れは採点間違いだらう?
確かに仰る通りで…。
よって価値認識をそも逆側にシフトして行く必要が是非ある。
逆側即ち自然の側、藝術の側または宗教の側さらに哲學の側などつまりは「文明を推進」しない側の方に合わせて行く必要があらう。
其れと「引き算」と云う表現はまた素晴らしいです。
🗾文化の本質部とは「引き算」だなどともまたかねてより言われて來たことでせう。
まさに其の部分をわたくし自身の言葉にて言えば引き算や割り算の如き「限定」です。
對して近現代文明が奉ずる原理とはまさに足し算や掛け算の如き「拡張」です。
「限定」すれば逆に豊かになれる。
「限定」すれば逆に不安が消える。
「拡張」すれば貧しさらに壊す。
「拡張」すれば不安がむしろ募る。
まずは此の原理、まさに自然の摂理のやうなものにこそ文明側は是非気付くべきだ。
其れと現代社會に生きる🗾人は仰る通りに「外」ばかりに自己の尺度ー価値観ーを求めて居ます。
ですが其れをやりこんなに「自分に自信」を持てずさらに「幸福感」に欠けるのであればむしろ其れは外側ー社會ーにこそ大きく問題があるのだとさう疑わざるを得ません。
ですから其れはまず「外」ばかりに自己の尺度ー価値観ーを求めて居るからこそさうなって仕舞うのです。
故に其の逆に「内」向きとなりつまりは冷静になり「全體」を見渡してみないと其の「文明による暴走」の様は決して見えて参りません。
ですが其の「文明による暴走」の様は個人の認識では如何ともし難い大問題であり要するに個としての手には余る難問其のものです。
故に其れに對し自分の意見を述べる迄に留め後はむしろ自分のやりたいことをやって置く方が良い。
又は四角氏の如くに實践としての行動に移して行ってもまた良い訳です。
ですが矢張りと言うべきか大多数の人人はなかなか其れも出來ぬことだらう。
尚自分のことを言いますとかって自分は常に宝くじを買って居り其れが当たったら彼「西行」のやうになる積もりでした。
即ち僻地か又は離島のやうなところに隠遁して其処にて「詩」を書く積りだった。
尚其の「詩」は今でも幾らでも書ける。
書けるが自分の場合には「作文」の方が常により面白い。
つまりはさうして多くの人が文明忌避の部分と経済的基盤の部分を両立させられぬ訳だ。
ーだが、全てが過剰な日本では、モノやコトを削ぎ落とすのも、自分らしく生きるのも非常に難しい。だから「ミニマル・ライフなんて不可能に近い」と言いたくなる気持ちはわかる。
そのためのノウハウは広範囲にわたり、数も膨大となる。ーなぜ日本人は「限りある時間」を無駄遣いしてしまうのか? (msn.com)より
其の「断捨離生活」はしかしながらとりあえず「観念的」には成立する筈です。
其の實践が伴わぬ「観念的なシフト」であれ其れは壱つの立派な「価値観の転換」であることでせう。
人間には動物と違い抽象的な思考能力があり故にむしろ壱番大事なのが其の「価値観のあり方」の方なのだ。
其の「価値観のあり方」を社會に丸投げして居る部分こそが現代の🗾人が罹っただらう精神的な意味でのビョーキ其のものです。
とどのつまりは其れをむしろ壱番ヤバい「暴走文明」に丸投げする即ち全面的に寄りかかる訳ですね。
だから其れは惡い👩に引っ掛かり丁度たった今其の👩のヒモであるヤクザが現れ「よりによってオレの👩に手を出しやがって、まずオトシマエとしてすぐに百萬持って來い!」とたった今アナタが詰め寄られて居る其の様其のものです。
さてもアナタは其の百萬を出しますか?
其れは自称詩人の原稿代として我が口座へと振り込んで頂く方が良くはないか?
だから其のタチの惡い文明に擦り寄ったりしては決してイケません!!
さうだ文明は其の惡どい水商売の👩とまさに瓜弐つだぞ!
「削ぎ落す」=「限定」する
元より其れもまた「完璧」にはまさか出來やせぬ。
自分の場合もまた「観念的な意味での限定」を心掛けて居るばかり。
ですがある意味では「社會に對する不信」の部分に限りすでに完成させて居るのやもしれません。
「社會に對する不信」が増長した時点で何か他のものを信心して行くこととなる。
其の「他のもの」とは何かともう長い間探し続けて來し気がするがあくまで現代人に取って其れは「自分」です。
何故なら「自分」がもし無ければそも近現代文明は成立しないからなのだ。
ならば其れがどんな「自分」かと言えばあくまで其れは「押し付けられた価値を生きる偽りの自分」では無く「自立的且つ自律的に価値判断を行い価値を選択し生きる自分」とのことだ。
ですが其の「自分」は所謂「近代的自我」のことなのでは無く言ってみればまさに「實存的自我」のことであり要するに唯壱としてのたった今此の地球上に生きる自分のことである。
さう云うのを「眞我」とする佛法に於ける考え方などもまたあり故にまさに其れは「眞我」なのだと自分は考えるに至った。
其の「眞我」と云うのはある意味ではクリスト教的な解釈などとも重なるのではないか。
ですので自分の佛法解釈はまた他面でクリスト教的なものとなる。
又は密教的な解釈ともまたなるのやもしれません。
民⇔全能の神
てなものだらうか。
ちなみに禅宗は此の種の分離を殊のほか嫌う。
禅宗は兎に角分けちゃイケません。
ですが兎に角「観念的な意味での限定」にはまさに其の「眞我」こそが不可欠なのであった。
いずれにせよ我が観念の前に「四角 大輔」氏なる恐るべき人がまたイキナリ現れた。
しぶとく生きて居るとまたかうしたことが屡起こり得ます。
超ミニマル主義 | 書籍 | ダイヤモンド社 (diamond.co.jp)
また近く是非此れを買わずばなるまい。