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数寄の心と「現世肯定」ー三河 眞福寺のことと西行の和歌ー

数寄の心と「現世肯定」ー三河 眞福寺のことと西行の和歌ー

 

 

 

 

海洋マイクロプラスチックの大部分は自動車のタイヤから発生していることが報告される (msn.com)

 

結局さう云うことであり🚗とは文明に取り必須のものでむしろ「常識的」には「良い」ものながら實は其れが「惡い」もの其のものなのだ。

また其の論理を他の物全てに拡張すれば「文明」とは本質的に「惡い価値」の巨大なる複合體のことなのだ。

 

壱概に「思考」とは言ってもむしろ其の辺りでの「眞實」や「眞相」=「實相」の部分に迄踏み込み考えて行かねば無論のことそんなものは見えて來ない。

また其処での問題は「大衆的な思考の傾向」が其の「實相」の方を向かぬと云う部分にこそある。

 

故にわたくしはまさに其れと闘わんが為に此のブログを始めた。

つまり「無知(洗脳)」=「無明」と闘わずして眞理方面への第壱歩は無い。

 

 

「損得ばかりを常に考える人」が見失う大事な視点 「易経」から考える"本当の幸せ"とは何なのか (msn.com)

 

其の「利害関係に生きれば魂が低められ結果幸せになれぬ」との原理は其の「易経」に限らず佛教でもまた他の宗教でも常に語られて來しことである。

「大衆的認知」がまず問題なのは左様な意味での「思想の歴史」のやうなものを「知らぬ」ことである。

 

其の「無知」は「自立的な學び」をしないからまさにさうなる。

但し「自立的な學び」をするとあくまで精神的には苦しいから其れは學者の方方や文人または藝術家や宗教家の方方に任せて置けば良いとの考え方もあくまで個人的に分からぬでもない。

 

逆に「自分の頭を持って無い」奴がしこたま自立的な「御勉強」をすると鬱病となったり或いは気が狂いすぐに滝から飛び降りる羽目に陥るものだ。

だからアホは勉強せん方がむしろ理に適って居る。

 

でも勉強せんとむしろ何時までも「文明はエエもんだ」とさう信じ込み生涯を終える羽目となる。

其の様やまさに哀れなもんですが其れもあくまで自分では分からんのでまあエエか。ーつまりは其の方が幸せか?ー

 

 

ーそもそも「幸せ」とは何なのでしょうか?

それは「自分の生き方に対して自分自身が納得できること」、つまり「自分の人生を自分自身で決められること」そのものです。

 

その定義からすれば、社内で昇進すること、成功者だと賞賛されること、金持ちになってちやほやされること、これらはすべて「幸せ」には当てはまりません。それらはすべて、「他者が決めること」だからです。

すべてをなげうち、人間関係や健康を壊してまで夢を達成した人の、「自分の幸せはこれではなかった……」という悲しい末路は、決して少なくないからです。

幸せになるには、まずその最終評価を他者に委ねないことが必要なのです。ー「損得ばかりを常に考える人」が見失う大事な視点 「易経」から考える"本当の幸せ"とは何なのか (msn.com)より

 

大衆的意思決定ではまず「現世利益」としての価値を第壱義化して居ります。

其の「現世利益」を序列化するつまりはヒエラルキー化して此の世での価値をまさに其の「上下関係」にて判断する。

 

故に貧乏人よりは金持ちの方が良く其れも壱億円長者よりは百億円長者の方が偉くなる。

また學校なども弐流大よりも壱流の大学の方が良く其処を出て良い壱流企業に入り良い嫁を貰い利口な子を此の世に残すつまりは良い血統を此の世に是非伝えたい。

 

まさに其こそが大衆的認識の全内容でせう。

ですが詩人の認識はまさに其れとは逆です。

 

じゃもしや芥川賞か又はH氏賞でも取りたいの?

いやむしろ要らんでせう、其れは。

 

其れはあくまで社會ー他人ーの評価ですので。

 

其の「幸せ」との価値はあくまで主観的な尺度なんです。

ですからルンペンをやり毎日空き缶を集め自転車の左右に其れをぶら下げでもって其れを売り五百円儲け其れにて🍱を食う其の🍱の何と美味いことか!

 

嗚呼幸せな日日だ。

だからあくまで其れは其れで良いのです。

 

逆に其れをどうかう言い勝手にヒエラルキーの最下位に置く其の価値観こそが下賤其のものなのだから。

 

また逆に「社會に繋がれた」状態は個人的に言えば「極めて危険」です。

其の「社會の価値観」を自分の価値観とさう勘違いする訳ですので言い方を變えればまさに其れが「全體主義」としての「洗脳」の様です。

 

●山沢損(さんたくそん)

……損して得取る時。自分の得た分を減らしてでも、他人の分を増やすことを考えよ、の意。

翻って「今の損を未来の得につなげるなど、長期的視点を持とう」

これは「損」の徳について語ったものです。ここから西郷隆盛の有名なセリフを思い出します。

「命もいらぬ、名もいらぬ、官位や肩書きも金もいらぬ、という人は扱いづらい。だがこのような扱いづらい人物でなければ、困難をともにし、国家の命運をかける大事を一緒に成し遂げることはできない。でもそういった人物は、なかなかお目にかかれない。真に道理を行う、正しく生きるという覚悟が必要だからだ。」(『西郷南洲遺訓』より筆者要約)ー「損得ばかりを常に考える人」が見失う大事な視点 「易経」から考える"本当の幸せ"とは何なのか (msn.com)より

 

其の「マイナス」を「プラス」に転ずる思考法こそがむしろ「眞理」方面での思考法其のものです。

道教や佛教、さらにキリスト教などでは特に其の種の思考法が強く出る。

 

また「聖人」系の人は「現世利益」的価値ヒエラルキーをすでに心中に解體し尽くして居るのでそも其れを求めては居ない訳です。

また自称詩人の場合も今や其れをまるで求めては居りません。

 

ではもしもあの世で西郷さんがまさに君は認識が聖人級だから是非壱緒にあの世の改革を行おうとさう言われるのであればまずはソコから逃げます。

 

とどのつまり「眞理」方面での思考法とは此の世に於ける常識的価値観の眞逆を行くものです。

 

 

ーつまり、お金の価値とは「交換価値」です。より大きなお金があればより大きな価値のあるものと交換できる。だから、より多くのお金を皆が欲しがる。ここにこそ、「お金を欲しがること」の根本的な問題があるのではないでしょうか。

実際に欲しいものがあれば、そのもの自体を欲しがればいいはずです。でも、どんなものよりお金が欲しいとなると、まったく意味が違ってきます。欲しいものがないのに欲しがる、つまり「欲そのもの」が動機になってしまいます。

 

つまり、ある程度の年収があれば、人間は十分に幸福になれる。逆にそれ以上のお金があると、さらに欲をかき、幸福ではなくなるのです。

損得は生きる手段であり、人生の目的ではない。損得に費やす人生こそ、大損である。だから損得だけではない人生を求めなければならない。ここに生き方のカギがありそうです。ー「損得ばかりを常に考える人」が見失う大事な視点 「易経」から考える"本当の幸せ"とは何なのか (msn.com)より

 

認識上其の「抽象的価値」には兎に角気を付けて頂きたい。

特に「金」は「酒」や「👩」以上に厄介なつまりは悪趣其のものなのだ。ー何故なら酒と女はあくまで具象的な惡であるー

 

さて上の記事は素晴らしい、まさに仰る通りです。

つまり欲しいなら「物」を得れば良くそんな範囲の金ならば大きく罪が生じないとのことである。

 

ですが金持ち連中の中にはおそらく「金其れ自體」が欲しい奴等がまた多い訳だ。

こいつらは金への執着が昂じた病気ですので「幸せ」でも何でも無く単なる「金の亡者」です。

 

 

さて人間は「価値観」に生きる生物であり其処が動物達とは異なる部分である。

逆に言えば「価値観」が狂って居ると社會全體の価値観がまた狂う訳だ。

 

さらに言えば社會全體の価値観が狂って居ると個に於ける価値観もまた狂う。

 

個⇔社會

自分⇔他

 

個がむしろ社會其のものでは✖だ。ー個=社會は✖ー

逆に個が社會と無関係なのも實は✖だ。

 

但し例えば飯を食うことは個人的體験であると共に大いに社會的體験である。

またルンペンさんが空き缶を集め其れを売り🍱代にすることなどもまた立派に社會的體験である。

 

さらに文明のアホさ加減に切れた自分が三河の山奥へ逃げ其処にて独居生活を営むにせよ其れはあくまで社會的體験である。

 

他⇔自分

 

兎に角人間はまた社會的な動物故社會的営為からの影響を極力減らすことは可能であれ完全な単独生活はまずままならぬものだ。

故に余り気にせずに所謂「社會的な眼」から逃れて行っても良いのではないか。

 

では何故「社會的な眼」に合わせてはならないのかと言えば其の社會は主に「抽象的な価値」にて運営される場であるのだから故に。

 

「抽象的な価値」は壱歩誤れば取りかえしのつかぬ「大問題」を引き起こす。

「進歩」だの「繁栄」だのと云う抽象的な価値其のものに其の「大問題」を引き起こさんが為の原因がさうしてしかと仕込まれて居る。

 

故に「聖なる認識」とはむしろ其れ等を慎重に避けおおまさに「自立的且つ自律的」に世を諦めてー明らめてー生きる精神の階梯のことをこそ言う。

イザ其の「聖なる認識」から見れば此の世の価値観はむしろ要らんものばかりで組み上げられて居る。

 

 

例えば金を必要以上に欲すること。

だが其はまるで要らん。

 

だが今欲しい萬年筆が實は壱本ダケある。

何とかコンサルタント料を何処かで稼げないものか。

 

 

さてでは以下に「物其のもの」を欲することは必ずしも惡いことではないことに就き述べる。

 

其れもまた「本質的」には「余計には要らん」ことながらだが「飯」にせよ「筆記具」にせよ無いと死んじゃうのではないか?

そんな「筆記具」なんぞ無くてもまさか死にゃあせんことだらう?

 

いやこんなインテリ様に限り「筆記具」が無いと消化不良を起こし其の頭が死んじゃう。

 

さて物とは好きな物のことです。

其れを「数寄なもの」と言うことなどもまた出來る。

 

「数寄」とは古くからの🗾の美意識のことで所謂「侘びや寂び」と通ずるであらう価値観のことです。数寄(スキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

此処五年程だらうか、自分は此の「数寄」の世界のことを自分なりに考えるやうになった。

何故なら自分はまさに自宅のやうな古民家が大好きで尚且つ戦前の🗾の萬年筆やまた庭石などが大好きです。

 

其れも案外盆栽などには興味が無いが以前に真福寺と云う三河の寺でもって其の盆栽の見事なものを観感銘を受けたことがかってあった。真福寺 (岡崎市) - Wikipedia

 

菩提樹館 - |密教祈祷 竹の子料理 盆栽 真福寺 (shinpukuji.com)

 

まさに其れが此処です。

 

何でまたこんなに遠く迄行ったかと云うに当時父親が癌でしたので病気平癒の御祈祷をして頂く為に屡👪で此処を訪れて居たのです。

其れが今から丁度弐拾年程前のことであった。

 

竹膳料理 - |密教祈祷 竹の子料理 盆栽 真福寺 (shinpukuji.com)

 

但し此の「竹膳料理」は予約が必要で食えなんだ。

まさに其れが今思えば心残りだ。

 

尚此の種の精進料理こそが自分は大好きです。

別に仏蘭西パンにハムとマヨネーズばかりなのでは無く兎に角筍だの牛蒡だのまた昆布だの山菜だのさうした此処🗾で古來より食されて來しものが實は壱番好きである。

 

 

ちなみに「祈祷」でもって病気なんぞ治る訳が無いのです。

ですが其の「祈祷」其れ自體は素晴らしいものだった。ー若い御坊様が美しく響き渡る声にて其れを行われたー

 

でもってそんな大きい寺へ行くとさうして美しい若い御坊様が結構居られてついそちらに目が行くので實はヤバいのです。

實際美しい若い御坊様方はむしろ其の辺のバカ👩よりも魅力的なことが多いものだ。

 

兎に角其の眞福寺は三河壱の由緒ある名刹であり山の中にありつまりは環境が最高でしかも観光の方なども出來るので是非御勧めの処です。

 

 

さて其の「数寄」とは「好きを突き詰める心映え」のことである。

よって茶道、華道また能や狂言などの芸事つまりは文化的事業がまさに其の「数寄」の世界のものだ。

 

但し自分の場合は特に其の「数寄の世界」に詳しい訳では無くむしろ自分の好きな古い西洋的な文物と合わせる形にて其の世界を理解して來て居るつもりである。

つまり西洋的な文物もまたアンティークの物などはほぼ「数寄の世界」の物です。

 

要するに「突き詰められて居り何より洗練されて居る」のである。

 

また個人的に佛教とクリスト教は近い宗教だとも考えて居る。

但しイスラーム教は少し違うかと思う。

 

他に角所謂「西洋アンティーク」物と此処🗾の「数寄の精神」は重なる部分がまたあるやうに思う。

 

 

でもってつい先日昨年買った松岡正剛 - Wikipedia氏の本を読んで居たところ所謂ピンと來るものがありました。

 

日本文化の核心 | 現代新書 | 講談社 (gendai.media)

日本文化の核心 / 「ジャパン・スタイル」を読み解く | 本の要約サイト flier(フライヤー) (flierinc.com)

 

個人的にはまさに此の本に参りました。

其れも「🗾とは何ぞや?」と考える方方にはおそらく最良の思考の素材を提供して呉れるであらう書なのだらう。

 

尚先日🗾の政治を其れもボロクソに批判しましたのですが此処🗾の価値はそんな「政治がやれぬ」価値ばかりなのでもありません。

「政治がやれぬ」ことは確かに壱番むしろタチが惡いのだが其のことはむしろ遮断して置かぬとかうして🗾の文化のことなんぞは述べられなくもなりませう。

 

わたくしはまず其のことがダメなのだと思う。

かの國は政治的にはあくまでダメでも實は文化的に大層豊かで且つ面白い部分がある。

 

との精神的スタンスでもって今後行きませんともはや其処には「絶望」が拡がるばかりです。

故に自分は主に「文化」のことを努めて語って行きたい。

 

ですが「政治がやれぬ」國は五年後、拾年後、さらに拾五年後、廿年後にどうなって居るかはハッキリ申して分かりません。

まあなるやうにしかならぬことでせう。

 

だから「社會」のことがそもかの國ではダメなので「文化」の方へと是非逃げやう、とのことだ。

 

 

さて其の『日本文化の核心』の120~121頁に至極大事なことが書かれて居る。

 

其れは「物事に執着する」とのことだ。

ところが「物事に執着する」ことを佛教は戒める。

 

佛教は兎に角物が無ければ無い程に良いのです。

だから沙門ー修行僧ーは身壱つ鉢壱でもって所謂乞食をして生きて行くのがむしろ理想です。

 

つまり本來の佛教とはむしろ「無い」ことにこそ縁して居りつまり其の無いことに甘んじて生きんが為の教えです。

無い方が良いのであれば無論のこと仏蘭西パンにハムとマヨネーズも要らんしさらに筍だの牛蒡だのまた昆布だの山菜すらもが要りません。

 

が其れをやると多分壱ヵ月程で死んじゃうので兎に角何かを食わんと宗教其れ自體が成立致しません。

なのですから宗教が「食うこと」其れ自體を禁じられる筈も無い。

 

ですがジャイナ教に限り過激であり即ち苦行として断食し飢餓死すればむしろ彼は其のジャイナ教に於ける「聖人様」となる。

おお彼こそがそんな「聖人様」なのだ!!

 

まあでも佛教徒も結構色んなものを食いまたクリスト教徒などはパンと葡萄酒が必須のものとなる。

ですが佛教とクリスト教は普通👩ー生殖ーに関し壱種潔癖です。

 

個人的にはまさに其処が良い処だとさう思って居ります。

 

 

ですが基本的に佛教とクリスト教は食事に関し質素であることをまずは求める。

またクリスト教は「此の世に蓄財は出來ぬ」とさうも述べる点で佛教と左程變わるものでは無い。

 

要するに共に本來ならば「現世放棄主義」なのだ。

しかしながら其の「現世放棄主義」と所謂「数寄の精神」とは違う。

 

なんとなれば「数寄の精神」とは逆にむしろトコトン物事に拘るとのことなのだ。

まあ京都などが其の典型かと思いますが兎に角トコトン物事に拘る。

 

まさに其れが「🗾独自の精神」の流れのものであり本來の意味での佛教精神とは相反するものであるとのことである。

尚此の辺りでのことは『日本文化の核心』の内容を引用して居るのでは無く其処での記述を基にわたくし自身が考えたことを主に書いて居ります。

 

 

ところが其の佛教精神もまた此処🗾の大乗教説は純粋な意味での佛法とは大いに違う訳です。

故にむしろ其の釈迦による原理的佛法とは眞逆に「生殖を肯定的に捉える」だらう密教的な世界観やまた風狂禅での壱休禅師の如くにとても👩好きだった僧なども出て來る訳だ。

 

まあさうした流れをひっくるめて言えばどちらかと云えば大乗佛法其れ自體がクリスト教化して行ったことかと自分は思う。

ですがとりあえず佛法もまたクリスト教もあくまで「現世否定」を旨として居ます。

 

ところが神道に限ればむしろ其れは「現世肯定」主義でせう。

よってか「物事に執着する」ことは神道に於いて必ずしも惡いことでは無い。

 

ー「好きなもの」にむしろ徹底して拘り其処に「美」さえをも見出す精神ー

まさに其れが古來より連綿として続く🗾人としての「数寄」のあり方なのだらう。

 

しかも其のことは「継承」されて行くのです。

「継承」されて行くからこそむしろ次第に「美のあり方」として研ぎ澄まされて行く。

 

例えば日本刀、コレなどはもはや其の侭でのものでせう。

また城にせよ能であれ狂言であれさらに🗾食であれ全てが其の「数寄」としての「美」の極みなのではあるまいか。

 

 

さて問題はまさに「本質的」に「現世否定」なのか其れとも逆に「現世肯定」なのかと云う点でせう。

其の「現世否定」との面ではむしろ浄土教はクリスト教と同じでほぼ「現世否定」的です。

 

要するに所謂「浄土=極樂思想」なのである。

 

でも🗾の職人芸はほぼ「現世肯定」主義でせう。

何故なら「現世肯定」主義だからこそ彼等は物事に拘り逐次其れを「良く」して行くのです。

 

其の意味に限れば近現代思想と「数寄の精神」は似て居ないでもありません。

 

 

要するにまずは其の物事にあえて拘るであらう「数寄の精神」が🗾の物作りの根幹に横たわることでせう。

對して物では無い拘りの例として松岡氏は「西行」の生き方を挙げて居られる。

 

西行」が拘ったのは言わば「世を捨ててこそ浮かぶであらう遊びの境地」のことである。

「遊び」とは其れ即ち「花鳥風月と戯れること」=「数寄の精神」のことだ。

 

即ち「西行」は「世を捨てた」やうで居てむしろ其処にこそ「世を得た」のである。

つまり「生きるに値する世」を其処に数寄者として見出したのであり「生きるに値せぬ社會としての世」を切って捨てたのだった。

 

さういうのを出家遁世かまたは隠棲と言うのである。

また其れは「社會の評価とは無関係に生きる」とのことであらう。

 

故に其れは其れでまた「数寄」としての追求なのであるがまた違う意味での「現世肯定」主義なのです。

故に「西行」の生き方は「捨てんが」為の生き方なのでは無くむしろ本質的には「得んが」為の生き方であり佛教とは異なるだらう「数寄者」としての生き方だらう。

 

 

さて本日はまさに其の種の「文化的逃走」のことに就き述べて居る。

其のことはかの國ではもはや「政治的闘争」が絶望的だからなのです。

 

ですが其処で良く考えてみれば何も此の世の中は「政治」壱色なのでは無く其れこそ「文化」だの「物」の面で暫し時間を費やすだけの心理的余裕は残されて居る。

されど今より五年、拾年、拾五年、また廿年経てばどうなって居るものやらまるで分かりません。

 

左様に時代其のものが不安定化し先の見通しが立たなくなって居る。

またおそらくは其の不安定さが次第次第により増幅されて來やう。

 

そんな折にこそたった今自分が語りたいのは「政治」では無く「文化」的な側面です。

また其れに絡めたところでの「宗教」的な次元のことである。

 

またつまり此処🗾の政治は其の根本よりダメだが「文化」には見るべきものがしかとあるとの点である。

 

 

さう「物事に執着する」ことは左様に🗾文化の核心部に横たわる命題です。

其れでもって「物事に執着してはイケない」佛教徒である筈のわたくしがそも何で逆に「物事に執着する」のかと云うことを常に考え続けて來たのでしたがずっとまるで分かりませんでした。

 

ですが今回初めて其れが分かったやうに思うのです。

つまり佛教徒と言っても此処🗾の佛教徒は釈迦の直弟子では無く其れこそクリスト教やらまたヒンズー教やらさらに神道エヴァーグリーン思想常緑- Wikipedia迄をも包括する「数寄の精神」としての代弁者だったのです。

 

  • 常磐(常盤、ときわ)とは永久不変なの事を指し、転じて永久不変なことを指す。
  • また、常磐(常葉、ときわ)とはでも緑色のまま不変である常緑樹のことを指す。常磐木(ときわぎ)。

 

常盤 - Wikipediaより

 

さらに言えば「神道」は元元其の「永久不變」なことをこそ目指す血脈思想であり其の意味ではまさに現世に樂園を築かうとのある意味では壱義的な思想です。

つまりいつも「グリーン」でないとイケないので当然のこと子孫は繁栄して居なければならずまた子孫が繁栄し同時に常にまさにみどり児のやうでなくてはならない。

 

其れ即ち「スーパーグリーン」だ!!

たった今汝は「スーパーグリーン」なので?

 

いえなんか「枯草」のやうな気もまた致しますが。

だから子孫ー孫ーが無いからさうなるのだ!

 

孫を早うつくれ、其の孫を。

そんな孫が可哀さうだとは思わんのか、君は!

 

しっかし神道もまたヤバくないか、コレ?

とのことでさうして神道は久遠化されしもので同時に現世成就としての普遍性をも持ち得るものです。

 

 

但し其れは所謂創唱宗教では無くむしろ國家ー社會ーの為の教えであり伝承でせう。

ところが何時の間にかそんな世界観が我我🗾人に取り無意識レヴェルで大きく影響を与えて居ることだらう。

 

でもって結局🗾人は結果として「現世利益」主義なのだ。

よって原始佛法やクリスト教を理解することなどは根本的に出來ぬ。

 

にも関わらず🗾の大乗佛法は基本クリスト教化して行くのであります。

さうしてクリスト教化して行くにも関わらず「現世利益」主義ダケは手放さぬ、いやあくまで「神道」としては其れが手放せぬ訳だ。

 

…訳が分からん。

ですが「数寄」の精神のことだけは何となく分かる。

 

西行はおそらく其の「数寄の精神」とこそ結婚したのであらう。

であるからこそ詠める歌がまたある訳で以下に挙げたのはまさしくそんな歌ばかりなのである。

 

 

なにごとも変はりのみゆく世の中におなじかげにてすめる月かな(350)[続拾遺595]

【通釈】何事も全て変わってばかりゆく世の中にあって、太古から同じ光のままに澄み輝く月であるよ。

 

 

ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならむとすらむ(353)

【通釈】あてどもなく、月を見ているうちに心が澄みに澄んで、ついには私の心はどうなってしまうというのだろう。

 

旅宿月といへる心をよめる

都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり(418)[新古937]

【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

 

大峰の深仙と申す所にて、月を見てよみける

深き山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし(1104)[風雅614]

【通釈】深山に澄み輝いていた月の光――あの光を見ることがなかったならば、思い出もない我が身であったろう。

 

題しらず

世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ(新古1471)

【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

 

 

題しらず

はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや(新古1099)

【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

 

 

あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき(710)

【通釈】ああ、ああ。現世のことは、ままよ、どうとでもなれ。しかし、来世もこのように苦しいものなのだろうか。

 

 

鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をもたすけめ玉葉2467)

【通釈】いくら惜しんだとて、惜しみとおせるこの世でしょうか。生きている間に身を捨てて出家してこそ、我が身を救い、往生することもできましょう。

 

題しらず

身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ(詞花372)

【通釈】身を捨てて修行する人は、本当に自分の身を棄てるのだろうか。いや、捨てずにいる人こそが、我が身を棄てることになるのである。

 

西行 千人万首(注釈付き) (asahi-net.or.jp)より