目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな「認識論」上での和解に就いてー「日本文化の核心」より読み解く🗾の「物」文化ー

そんな「認識論」上での和解に就いてー「日本文化の核心」より読み解く🗾の「物」文化ー

 

 

 

 

トヨタ、今期の業績予想を上方修正…データでみる決算 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

其のTOYOTAばかりがかうしこたま儲け其れで良いのか?

其れもまあ「國」がそもさうして居ることですので何ともなりませんのですが。ー輸出産業の保護政策としてー

 

日本人の7割は自力で恋愛も結婚もできない…「カネも恋愛力もない独身男性」が日本の当たり前になった根本原因 (msn.com)

 

なる程、まさに仰る通りです。

🗾人はかうしてそも受け身ですので自由民主党が🗾独自の體制を壊しては絶對にイケませんでした。

 

よって自由民主党員が全員断頭されたとしてもまだ罪が軽過ぎる位のものでせう。

 

 

 

さて自分は此処数年に渡りまさに「認識論」の分野で格闘して参りました。

また其のことは所謂「他己の評価」などとは實はまるで関係の無いことであった。

 

其のことは現存在による「認識世界」が他から与えられるものでは無いことをまずは示して居る。

ですがこと「生活」に限れば我我人間は常にほぼ他との関係性の中に埋没して居るのである。

 

其のことはまず「苦」として認識され得ることだ。

事實として其の社會関係に於いて我我個は「安心且つ安全」な心持ちの中に居られなくなって居る。

 

即ち文明社會の生み出す諸矛盾によりすでに「個としての動き」すら取りにくくなって居るのである。

 

だがわたくしはかうして變人なんで「其れに負けてなるか!」との思いが何せ強くある。

そもそんなバカ社會に負けてなるか!

 

バカ文明などにやられてたまるか!!

文明なんぞは早う肥溜めへと落ちよ!!

 

などと思いつつでも他方では至極冷静且つ沈着に兎に角自分の頭でもって考え抜いて参りました。

 

でもってまずは結論的に言えば、

 

1.認識世界は所謂「縁起」の賜物である

2.よって人間其のものやまた物其のものと云うものはあくまで本質的には無い

3.文明と個もまた其の「不即不離」の関係の中に生じて居る

 

とのやうなことを考えるに至る。

 

 

まあ至極難しい御話ですがつまりは現象に「其のもの」は無いとの御話です。

「其のもの」は無いので幻視乃至は錯覚しつつ認識することこそが現存在の認識の癖であるとのことである。

 

即ち其れはあくまで「癖」であり「ほんたうの認識」ではありません。

では「ほんたうの認識」とは何かと問われても其れを言葉にて答えることはおそらく出來ぬ。

 

だから仮に神であるとかまた佛であるとかさう「象徴的」に述べておくことしか出來ぬ。

 

 

さて多くの方方にはおそらくこんなわたくしの「思考」其のものが分からぬことかと思われる。

そも此の人何を考えて居るの?

 

此の人はもしや👽なの?

何の為にそんな「役立たず」なことをクドクドと考えるの?

 

じゃあみんなは何で考えないの?

何で何の疑問も無く毎日をさうして送れるの?

 

まさしく逆に言えば僕にはまさにソレが分かりません。

 

と申しますのもどうも此の「認識世界」とは「自立」するものなのだ。

「自立」する即ち「自分でもって考える内容」のことなのだ。

 

よって「自分でもって考える内容」が少ない場合には其れ相応の世界しか与えられないこととなる。

即ち其れがほぼ「洗脳世界」のことだらう。

 

でもついさっきアンタは此の世に「其のもの」は無いとさう言ったばかりだ。

なのにそも何で「認識世界」は「自立」するのか?

 

だって「幻」はあくまで「自分」でもって拵えるものですよ。

そんな「幻」はまさに「本質的」に「自己幻想」なのだ。

 

でもちょっと話が難し過ぎません?

さう言えばさうか。

 

 

ならばもっと簡単に御話ししやう、要するに観念的な次元を落とすことでもっと理解が樂な話にしてあげる。

 

4.そんな「自己幻想」こそが「文明」であり且つ「生活」だ

5.そんな「自己幻想」には「物」が是非必要となる

6.其の「物」と「人間」との関係性こそが壱種の「本質的規定」である

 

全然カンタンじゃないよ。

いやカンタンだ、つまりは其れが「物」とはそも何か?とのことである。

 

「物」とはそも何か?とさう言われても物は只物で此処に有る物でせう?

いや其れはおそらく「物」では無い。

 

だから其れはあくまで「洗脳物」であり要するに単なる「文明による幻想物」である。

故に其の「文明による幻想物」である「物」を如何に自らの手の内へと解き放つかとの課題のことよ。

 

また話がややこしい。

たった今壱つのことが分かりました。

 

確かに其れでは君から👩と云う👩が全部逃げて行くことでせう。

 

どうも有難う御座ります。

其れもわたくしの弱点をまたズバリと指摘して下さりどうも有難う。

 

確かにこんなもんにはまさか付き合えないですよ、普通動物の♀は。

でもってどう観念的に解決なさったのですか、其の「物」と「人間」との関係性を。

 

「物」と「人間」はあくまで「其のもの」として現象し得ぬ。

「物」と「人間」はあくまで「不即不離」での関係性の中に埋没して御座る。

 

故に逆に其れを切り離すことは出來ない。

 

例えば佛教に於いて最低限托鉢の鉢が要りさらに其処に恵んで貰うであらう残飯が「眞理への道」を逆に成さしめる訳だ。

またクリスト教に於いても葡萄酒やパンが「眞理への道」への必須のアイテムとなることだらう。

 

なる程、ではたとえ「眞理の世界」であれ其の「物」が重要な役割を担うとのことですね。

 

 

さて暫く前に自分はとある民放のTV番組を視て居た。

其れは家の中の物を宮大工や左官などの物の専門家が直したり生まれ變わらせたりする番組だった。

 

自分は其の番組を其の仕舞いまで食い入るやうに視て居た。

さうしてまさに其処に「観念にはまるで無い技」を認めざるを得なかった。

 

其の「観念には無い技」には何より「物を良くする」働きがある。

 

良い⇔惡い

「物」は基本として「劣化」するが逆に「観念」は「劣化」などせず。

 

ところが「観念」は主に「理想論」へと傾き易い。

そんな「理想論」へと傾く「観念」は「物を良くする」働きには直接は関与せず。

 

まさに其のことがもしや「職人技」のことですね?

さう、其の「職人技」のことがまずは此処🗾の「物」の柱としてさう認識されるやうになったのだった。

 

 

たとえば「神道」では「神宮式年遷宮 - Wikipedia」に於いて弐拾年毎に社殿を造り替え神座を移すとされて居る。

此のことは「合理的」なことではまさか無くむしろ「不合理」極まりないつまりはとんでも無い無駄遣いである。

 

だが其処でまさに磨かれるものが有る。

其れが「職人技」でありまた「社殿としての久遠の美」なのだ。

 

すると「🗾の美」としての壱極がまさに其の「職人技」にて表されるものとなる。

またもう壱極としての「🗾の美」とは例えば西行の歌に代表されるやうな「荒びとしての美」のことだ。

 

其は「すさび」即ち「遊び」のことぞ。

其の「遊び」には「職人技」は要らず要するに其れは「観念として自然と壱體となる」ことで「もののあわれ」を感ずることとなる。

 

ふーん、すると「🗾の美」の壱極には「劣化」に抗い逆に「良くする」であらう人間としての技術が深く関わって居るとの御話ですね。

流石は自分の片割れの君だね、まさに理解が早いやうだ。

 

 

良い⇔惡い

 

屡かねてより此処でも述べて居るがこと本質的な意味での佛法に於ける認識論とは其の両極を同時に否定することで得られる境地をこそ指す。ー良い、惡いの判断其れ自體の否定を目指すー

尤もクリスト教の場合は其の「相対分別としての妄想世界」を神の認識へと丸投げし自己認識を謂わば消し去る訳である。ー「善き認識」へのアウフヘーベンを行うー

 

故に本質的にはどちらの場合にも「自己認識」は否定されやう。

 

また「神道」に於いても多分に自己認識は否定されやうが實は其処に「人間の技」が残る。ー「認識」とは別の次元での技術的進歩が残るー

さうして「人間の技」とはそも「物」に對するものだ。

 

左様な論理より「🗾の美はまず職人技が築き上げて來た」ものであることが良く分かる。

同時に🗾人としての得意こそが「むしろ観念的論議よりも現實的な技術」の方であることなどもまた良く分かる。

 

さうか、確かに此処🗾は「技術立國」であり且つ「物造り」大國なんだ。

しかも此処愛知県は🗾でも有数の「物造り」県である。

 

そんな「物を良くする技」は元より「観念」とは無関係に醸成される言わば「現世利益」性のことである。

従ってかの國🗾ではまさに其の「現世利益」性に基づき諸価値が構築されて來て居る訳だ。

 

逆に言えば其れは「観念性」に弱くつまりは「現實主義」なのだ。

だが認識世界はあくまで本質的に妄想=虚妄の世界であるので其の「現實主義」には常に限界があるつまりは其れのみで全てが「良くなる」訳には非ず。

 

事實として政治や行政などの社會的諸制度ー観念的設計世界ーに於いて現在の🗾の状況は可成に危うくもなって居る。

だがそんな中に「變わらぬ価値」の如きものをあえて探すのであればズバリ其れが「職人技」であるとのことなのだ。

 

 

さて以上の思考には種本があり其れが『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(松岡 正剛):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)と云う本である。

 

但しあくまで「自分の思考の参考」とさせて頂いただけのことである。

 

でも其の「自分」はあくまで幻想なんでせう?

まあ本質としてはあくまでさうだが上記のやうに🗾の社會は基本的に「観念」の世界のものでは無くむしろ「物としての進歩主義」の如き世界観のことである。

 

故に其処に於いて常に自己の「技術」を磨くのであるしまた其れが「惡い」のでも無い。

むしろ大きく其処には「物」としての「可能性」が秘められて居る訳です。

 

されど個人的には「現代物」にはむしろ拘るべきでは無いのだと思う。

其処はあえてむしろ「職人技」の方に向き直り其処にこそ拘って行く方が🗾的な意味での「上質なる物」の世界が開かれるのだとさう思われる。

 

だから「全自動洗濯機」にゴチャゴチャと余分な機能を付け其れで付加価値が付いたなどと喜び価格を上げるのでは無くむしろ木製のしかも壊れないさらに値段が安い「半自動洗濯機」などを造られてみては如何か?

 

また便座の「自動御尻洗い」の機能はそも要らんのではないか?

むしろ便座其のものを木製となしさらに洋式では無く是非和式の便所を復活せしめるべきなのではなからうか。

 

さらに此の際🚗を全廃し木製の🚲などを是非創られたし。

 

其れもな、此処🗾には銘木が澤山あるぞよ。

例えば強い木を用い其れに漆塗りを施しフレームと成す。

 

そんな銘木🚲で!!

さうそんな銘木🚲のことよ。

 

コレは売れるぞよ、しかも瞬く間に世界中に売れやうぞ。

 

 

尚松岡氏の本によると「遊び」の元とは「荒び」とのことである。

「遊び」には元來そんな「放蕩」のやうな感覚が多分に織り込まれて居るのである。

 

他方で「侘び」、「寂び」での「寂び」の感覚は所謂「もののあはれ」に繋がるとのことである。

また西行の歌が謳うやうに「もののあはれ」は人の「ものごころ」を究極へと誘うものであるさうな。

 

「物心」、まさにさうなのだ。

🗾人に取り「物」と「心」は常に壱體のものである。

 

其れは西洋文明での合理主義のやうに「分離」されるものでは無く「自然」と「心」などもまた常に壱體となるものなのだ。

また「自然」が即「物」であり「物」が即「自然」である。

 

さらに「心」が即「物」であり「物」が即「心」である。

自分が今注目するのがまさにそんな意味での🗾流のアニミズム的感性世界のことなのだ。

 

兎に角其処に置いて「物」は単なる物では無くむしろ人間自身を高めて行かんが為のものとなる訳です。

 

 

良い⇔惡い

 

まさに其のことは「現世利益」を放棄すること無く此の世界で成就されることであらう「改良であり改善」なのだ。

なんだまさしく其れはかのTOYOTA🚘の「改善提案」のやうなことではないか?

 

いやそんなもんとは違いむしろ其れが「本質的」な意味での此の世での「改良であり改善」なんだ。

また實は佛教でもクリスト教でも其のことはついぞ出来ぬものです。

 

 

でもって結果わたくしの観念はまさに其の点に於いて「🗾社會との和解点」を見い出したのだった。

じゃあもう「右翼」壱本筋なので?

 

では無く要するにあくまで「哲學的」に祖國🗾との闘争に於ける「和解」が成立したとのことなのだ。

また其の「和解」を齎したものとは「物」の力によるものである。

 

「物」を究めつつ歩む其の「職人技」こそがわたくしの観念の強情さをある意味でさうして捻じ伏せて呉れたのである。

 

 

尚松岡氏の著作にもまた触れられて居るのだが佛教に於いて「物への執着」は捨て去るべきもののまずは第壱歩である。

なのに何故自分はむしろ「物」にばかり拘るのだらう?

 

其の「矛盾」に関しても實はもう長く葛藤して來て居たのだった。

だが其のことをも含め此の本を読み分かったのである。

 

其れは此の本の121頁にまさに書かれて居たのだ。

曰く、

 

ーしかし、この執着をあえて「好きなもの」として徹底し、何かに執着する態度に一転して美を見出すことが、日本においては連続したのです。その有名な例を見せてくれたのが西行でした。ー『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』P.121(松岡 正剛)より

 

其れは此処🗾に於ける謂わば「数寄の心」としての発露其のものである。

「数寄」とはまさに其のやうに「物」を嫌うこと無き壱種の永続世界のものなのだ。

 

丁度神道が「価値の永遠の継続」を目指すが如くに其れは是非永続されるべきものなのである。

 

永続?

まさかクリスト教でもあるまいし…。

 

いやあくまでクリスト教の場合は「あの世」での「神の國」の實現となる。

だが此処🗾では其の「職人技」=人間の力にてまさに此の世での永続性をこそ目指すのだ!

 

なんとまあ壱種ブチ切れた思想なのだらう!!

なんとまあ壱種「妄想的で且つエロース的な」思想なのだらう!!

 

さうですね、其れはほとんどもう「永続性への變態思想」其のものでせう。

 

だがなんて自分に取り都合の良い思想なのだらう!!

だがなんて自分に取り役立つ思想なのだらう!!

 

 

要するに其処に置いて我は全てを了解したのである。

さらに何故自分が「animist」と名乗ったのかと云うことなども其処に於いてしかと納得された。

 

尚さらに言えば松岡氏はー「好き」とは「梳き」のことであり「もの」やその「あらわれ」をたんに扱うのではなく、さまざまにスクリーニングを通して感じていこうという感覚ーであるとさう述べられて居る。『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』P.120(松岡 正剛)より

 

つまりはさうして次第に「感覚」的に洗練されて行くのです、まさに其処にて「梳き」を行う訳だ。

 

實際にペンの世界でもまた石の世界でも突き詰めてやる即ち「梳き」の域までやれば否応なく「感覚」的に洗練されて行くのです。

故に其の「梳き」の領域こそが「職人技」などにもまた通じて行く訳だ。

 

まあ自分の場合手は動かぬがむしろ気持ちの面では其の「職人」と左程異なるものでは無い。

 

「数寄の心」とはつまりはむしろ突き詰める形にて現世に於いて「ものごころ」=「物心」を追求することだ。

ですが其の「数寄」を追求すればする程に「捨て去るもの」がまた出て來る。

 

西行の場合は「世を捨てて」ー地位や名誉を捨ててー其れを得て行った訳だ。

だが自分の場合はいや自分の場合もまさに其れと似たやうなものであるか。

 

 

でも自分の場合は兎に角やることだらけですのでそんな風流文人の方とはまるで異なります。

いずれにせよかの國🗾にはさうして「現世其のものを美として見做す」伝統的な感覚がしかと根付いて居ることだらう。

 

わたくしは今まさに其れへとアクセスしつつ以降の美的生活を営んで行くことでせう。

其の「美的生活」こそが自分に取っての「梳き」であり「寂び」での生活なのだ。

 

尚壱言付け加えれば「職人技」には当然ながら何より「自分」が要求される。

だから「無我」の職人なんて何処にも居ないのですしもしも有るのだとしても其れは「忘我」での境地です。

 

さう「忘我」となる程に技に長けて居るとのことである。

ではわたくしも是非其の境地をこそ目指すべきだ。

 

即ち見ずとも触れるダケで万年筆名や鉱物の名をピタリと当てる最上級コレクターを是非目指したい。

でも既に其れが出來さうな気が致します。

 

では試しにちょっとやってみやう。

うん、まあ形に特徴のある物は分かります。

 

だが其の全部をピタリと当てることは結局無理です。

 

 

ー「数寄の心」とはつまりはむしろ突き詰める形にて現世に於いて「ものごころ」=「物心」を追求することー

 

松岡氏が仰る如くに🗾文化の核心部には其の「物」への拘りが其れも強くあるものと思われます。

 

であるからこそ「高度経済成長」などもまた成し遂げた訳だ。

ですがたった今此の物余りの🗾で必要なのはむしろ「侘び」であり「寂び」の方での感覚なのやもしれません。

 

其れもおそらくは「侘び」であり「寂び」での感覚を持った上で其の「物文化」を新たに見詰め直すと云うやうなことなのだらう。

 

#参考資料

日本文化の核心 / 「ジャパン・スタイル」を読み解く | 本の要約サイト flier(フライヤー) (flierinc.com)

松岡正剛が読み解く、「日本文化の核心」に迫るための手がかり(松岡 正剛) | 現代新書 | 講談社(1/3) (gendai.media)