「物」を思考してみた其の結果に就いてーむしろ物には是非耽溺してみるべきだー
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まさに仰る通りである意味で其の「名古屋城」こそが最強で且つ最大?の🗾の城である。
我は参年前迄此の「名古屋城」横の「名古屋能樂堂」と云う処で働いて居た。
其れも何せ名古屋市東南の家から名古屋市北西の「名古屋城」迄通うのは至極難儀なことであった。
だが其処にて所謂「古典芸能」に関する知識を仕込んだのである。
さて其のやうに名古屋は家康公が築いた都市である。
故にナゴヤ人は壱様に家康公のことを尊敬して居る。
其の名古屋城を4、5年前に参度ばかり訪れて居るが本丸は兎に角堀が深くまた建物が直角的に立ち上がって居り其れはどんな忍者でも登れぬ感じである。
兎に角名古屋城は物凄い城なのだ。
だが其のことを語り出せばまた話が長くなる。
名古屋城はかって空襲で焼失したった今河村市長が木造にて再建するべく計画を進めて居る最中である。
其の木造の名古屋城はまず🗾壱の城となることであらう。
其れに詳しくは知らないがあのTOYOTAなどもおそらく大金を出すものと思われる。
アノ大TOYOTAが少し寄付すればそんだけですでに壱兆円程にもならう。
さても其の新しい名古屋城が出來る迄は何とか生きて居たいものだ。
【精神科医・和田秀樹の「口グセ」にしたい言葉】「そのうちなんとかなるだろう」 (msn.com)
其の「そのうちなんとかなるだろう」は還暦以降の世代の人人に取りむしろ分かり易い考え方だと言えるのではないか。
其れも「Let it be」に「ケセラセラ」でもって事實として此れ迄やって來たのだからまさに「そのうちなんとかなるだろう」なのだ。
但し自分は此の21世紀に「そのうちなんとかなるだろう」との思考は通用しなくなるとさう考えて居る。
だがあくまで「let it be」に「ケセラセラ」でもって事實として此れ迄やって來たのだから其れを最期までやって行くのが我我還暦以降の世代の人間のむしろ責務である。
ところが今の20~40代の人が其れをやり「なんとかなる」かと言えばほぼさうはならない。
其れは近代社會が此処参百年に亘り築いて來し「罪」がさうさせることなのであり要するに因果応報での自業自得とのことである。
では「なんとかならん」世界をどう彼等が泳ぎ切って行くかと云うことであらうがそんなものはむしろ誰にも分からぬことであるに過ぎぬ。
だからそんなことは偏差値がたとえ75程もあるにせよ分からん。
要するにすでに文明の於ける諸課題はほぼ人間の思考の限界を超えて仕舞って居る。
故につまりはまさに其の意味での「let it be」であり「ケセラセラ」なのだ。
さう何時迄経っても直らんのがまさに其の罪深い近代による「破壊」の痕跡だ。
だからむしろ其の罪深い近代による「破壊」を其処に認めた上で「そのうちなんとかなるだろう」とさう思いつつ年寄り共は死んで行けば良い。
だが詩人の認識はまるで違って居て、彼はむしろ「最惡の世界になる前に生きて食って樂しめて良かった」などとさう思いつつつまりはむしろ感謝しつつ世を去ることであらう。
要するに彼に取りすでに「人類の未來」は決まったも同然でまた其れは「罪に引き摺られ何処までも奈落へと続く階段」のやうなものである。
だから其の前に此の世から消えられ彼はとても嬉しいのである。
そんな喜びの境地をこそまた彼は「今此処」に書き記して置きたい。
であるので「そのうちなんとかなるだろう」はそんなジジイやババアの専売特許としての「思想」であり今の20~40代の人人にはまさか御勧め出來ぬ考え方となる。
今の20~40代の人人は兎に角足掻きに足掻き其の場ももう何処にも無くなれば此の世ー文明社會ーとでも心中して頂きたい。
いやもはや其れしか出來ぬ筈だ。
其れでも猶其処にて「そのうちなんとかなるだろう」でもって行ける人はまさに「👽」なのでありむしろ立派な人である。
或は「👾」でありさうして理解不能な精神的進化過程を歩んで來し人なので同じ人間だとはまさか思えない。
思えないが其れも畢竟壱つの宇宙生物としての大事な實存的価値なので是非威張らずに其の価値をこそ愛おしんで行かれたし。
さて「物」とは何か?と云うことを丁度今考えて居る最中である。
と云うのも「物に耽溺」し生きることは「思考に耽溺」し生きることよりも卑しいのか?との問いが己が頭の中をたった今経巡って居るからなのだ。
だが「思考に耽溺」し生きることが「偉いこと」だとは少なくとも決め付けられない。
どだい「思考」は「観念」であり「観念」には「生産性」が無い。
「観念」は「創造」するが其れはあくまで「抽象的な領域」をこそ其処に生むのである。
だが「物=物質」はあくまで「具象的な領域」に有りまさに其れは「有無對立」なる事實よりさう有らしめられて居るのだらう。
従って「物=物質」には「生産性」が逆に有りしかも其れには「持続性」が備わる。
但し其の「持続性」とは「観念」に對する相対的な持続性のことである。
「物=物質」は例の熱力学の第弐法則熱力学第二法則 - Wikipediaより壊れるし本質的な意味での「持続性」には欠けて居る。
逆に「観念」はまさに精神的な意味での「創造」を為し本質的な意味での「持続性」を持つ。
例えば前回述べたところでの「藝術」や「宗教」の分野が其の本質的な意味での「持続性」を保つ。
ところが観念的価値に實質的な意味での「持続性」はむしろ無いのだとも言える。
論理⇔非論理
何故なら観念的価値とは主に論理的価値のことである。
されど其の「論理」には「動き」が無く本質的な意味での「持続性」を保つが故にむしろ現實からは疎外される。
繪に描いた餅⇔現實の餅
さて我我人間は果たして此のどちらを選ぶのだらうか?
其の答えは「どちらも要る」とのことであり其の比率は人により違うー相対化される価値となるーとのことである。
「観念性に傾く」であらう宗教的なまた藝術的な価値は左側を強くしがちであるが體はあくまでほんたうの餅を欲するのでありつまり物で無い餅に腹を満たすどんな作用も無い。
精神性⇔物質性
其処からもむしろ近代以降は左側の「観念性」の方が強くなり過ぎて居るのだと言えやう。
つまりはかうして「飽食」して居るにも関わらず我我は其の「食べ物」をしかと味わえずに居るのではないか。
また「物」を大量消費するばかりで「敬って」など居ない。
「物」を「尊敬」出來ないのは自分の周りに「物」が過剰に有るからのことなのだらう。
「精神性」に於ける弊害とはまさに其のやうに實質的「持続的」価値=現實性を失いがちであることなのだ。
要するに「頭の中で捏ね繰り回した価値」をこそ至上の価値ー絶對的な価値ーとさう捉えて仕舞うので「相対化されるべき現實としての価値」のことをつい忘れて仕舞う。
要するに「価値としての逆」の領域=「非論理としての非合理領域」に對し「拒否」を行うことでむしろ自らの認識領域を狭めて行って仕舞う訳だ。
まずは其れが「人間が抱える認識」の盲点でありズバリ「誤り」なのだ。
では「正しい」と申すか少なくともバランスの良い「物」に對する認識とは如何なるものとなるのか?
精神性⇔物質性
要するに其の「精神」にベッタリと張り付くと同時に「物」にもまたベッタリと張り付かねばならぬ。
エエッ?そんなことは御釈迦様もクリスト様もまさか述べては居られませんのですが…。
御釈迦様とクリスト様の御考えは左様にほぼ「絶對」に正しいが其の逆向きのことなどもまた時には是非考えてみなければならぬ。
従って其の「現實の餅」=「物質性其のもの」にむしろ張り付いて行かねばなるまい。
と同時にこんな観念詩人が考える程の深い思考の痕跡もまた其処に是非残して置かねばならぬ。
はあー、また其れは随分と御立派な御考えでもってして…。
しかしながら良く其処迄考えるものですね。
だがアンタが言いたいのは結局「物に張り付く」下品さのことなのではないか。
いいやまさかさうでは無い。
どだい「腹が減っては戦は出来ぬ」のだ。
また腹が減っては「宗教」すら成り立たぬ。
故に僧侶は托鉢に出掛けさらにイエス様は澤山のパンを天から降らせて居たりもまたするのだ。
また禅宗などでは「食うこと」其れ自體が修行其のものなのだ。
繪に描いた餅⇔現實の餅
さても汝は今どちらを選ぶのか?
…では是非両方行かせて頂きます。
其れは偉い!
汝はすでにボーサットゥ並みの認識世界を獲得して居るぞ。
いいですか、まさに其の「繪に描いた餅」で😣することこそがそんな宗教としての最大の弱点である。
ならばボーサットゥはまさにその「現實の餅」に食いつくのですか?
あえて食いつくのです。
其れも壱口でもって其れを飲み込むのです。
ー「物=物質」には「生産性」が逆に有りしかも其れには「持続性」が備わる。
但し其の「持続性」とは「観念」に對する相対的な持続性のことである。ー
「観念」には「生産性」が無く要するに其れが現實とは元元齟齬を來たして居るのである。
其の「観念」の力は前近代に於いて「物質」の世界とある意味で均衡されて居たのである。
ところが近代以降は其の「観念」の力が「暴走」を始めた訳だ。
即ち近代とは「観念の暴走」の世紀となる。
「観念の暴走」は「抽象的な価値の肥大」を必然として齎す。
「抽象的な価値」が肥大すれば其処にやがて「物質世界とのアンバランスな様」が展開されて行くこととなる。
「抽象的な価値」の典型的なものが所謂金の価値だらう。
そんな金の価値でもって世界の全てを回して行くのが資本主義経済體制である。
だが其処では常に「物質世界とのアンバランスな様」が展開されて行く訳なので次第に人人は「物」としての眞の意味での価値や「物」に對する敬意や感謝の念を次第次第に失って行くこととなる。
さて所謂「文明としての持続可能性」が今世界中で議論されて居る状態にある。
また其処では「消費文化」に對する批判が左翼的な潔癖さでもって行われたりもして行く。
いや左右には関係無く「文明としての持続可能性」こそがむしろ最も大事なことなのだ。
何故なら所謂皇統の継続などもまた其の「文明としての持続可能性」こそにかかって居るのだから。
また共産党壱党独裁にせよ「文明としての持続可能性」こそにかかって居る。
ありゃ文明ヤバいぞ、コレ。
右左も何も無く文明ヤバいぞ、コレ。
あったりマエダのクラッカー。
其れでもってして今回わたくしは其の原因の壱つをまさに突きとめましたのです。
ー「物=物質」には「生産性」が逆に有りしかも其れには「持続性」が備わる。
但し其の「持続性」とは「観念」に對する相対的な持続性のことである。ー
「物」はむしろ古びたりはしない。
何故なら「物」は生きて居ないからである。
「物」が古びる其の速度は「生ものとしての生命」が古びることよりも遅い。
よって我我人間の「生命」よりもむしろ「物」の方が長生きなのだ。
事實として例えば奈良の古刹などは今もまだ現役である。
されど確かに我我人間の祖先に限れば寺などよりも遥かに長生きなのだ。
だが我我人間の血統は「個」に對してのものとはまた違う。
「個」に限れば我我人間はどんな古刹よりも短命なのだ。
「生きて居ないものは古びないが生きて居るものは直に古びる」
まずは其のやうに根本での認識を是非變えて置くべきだ。
我我生命としての生ものは単なる物以上にむしろ時間と空間に「限定」される現象なのだ。
故にこそ其処に「抽象性の仕掛ける罠」の部分に自ら気付く必要が是非出て來る。
其処でまずは我我生命がむしろそんな腐り易く狂い易くしかも死に至り易い「生もの」であることを認識せずして壱體何を認識するのだ?
…火星へ。
バカ、火星なんぞはこんな「生もの」が生きて行ける処ではそも無いぞよ。
…AIが。
そんなAIなんぞは奴隷にしてコキ使うまさに其れが正解ぞ。
…子宮思考が。
うん、確かに其の「子宮思考」こそが壱種ヤバい思考である。
但し其の種の「現金思考」若しくは「現ナマ思考」こそがある面では役立つのではなからうか。
例えば御釈迦様もクリスト様も其の「子宮」から御生まれになったことだけはまた確かなことなのだ。
其の御釈迦様があんなに「👩嫌い」だったにも関わらず。
またクリスト様があんなに「姦淫」を御嫌いになって居たにも関わらず。
では「文明としての持続可能性」と其の「子宮思考」との関連性の部分をどう御考えになるのでせう?
矢張りと云うべきかソコは是非「脱子宮思考」でもってして行くべきなのではないか。
でも「脱子宮思考」こそが其れこそ科学を生み科学技術を生みアナタの仰るところでの「物」と「精神」とのバランスを崩したのでせう?
いえだからそんな弐項對立では無くして両方を同時にやるのです。
あくまで両極での価値を同時に履行することこそが其のバランスを回復せんが為の認識となる。
尚自分が30代の頃に「直観」しましたことですが、
物としての現象→壱次的分離
精神としての現象→弐次的分離
と云うものがありました。
「分離」とはかってわたくしが気付いた哲學的な意味での此の世の實相のことでまさに其れが「現象」の根本的な意味であり所謂「存在論」としての理論的な展開のことです。
「分離」するからこそ逆に「物」や「生命」は其処に生ずるのです。
「分離」しない本質的要素は「神」や「佛」として實體化する訳でつまりは其れが「現象化」する訳では無い。
「神」や「佛」の他に「宇宙の摂理、自然の摂理」などとさう言い換えて良くまた「梵我壱如」などとも表現されるのやもしれません。
つまり「現象化」するものはむしろ「紛いもの」であり「迷いしもの」でありつまりはロクなものでは無いのである。
でもって此の世を永遠化したい切支丹の場合もまた此の世に於ける現存在の認識をロクなものでは無いとさう断ぜられて居る。
況や御釈迦様に至っては佛以外は皆「凡夫」なのだからして。
「凡夫」即ち凡人であり其れももうほとんど獣人でありもはや🐵並みに認識上タワケな奴等其のもののこと。
兎に角さう分離しまさに此処に生まれた!
ちなみに浄土思想では此の世のことが「穢土」と呼ばれます。
「厭離穢土欣求浄土」
さて其の浄土思想フェチであった家康公はまさに其れを旗印に用いて居たのでした。
繪に描いた餅⇔現實の餅
さても汝はたった今其のどちらを選ぶのか?
…では是非両方を行かせて頂きます。
其れは偉い!
汝はすでにボーサットゥ並みの認識世界を獲得して居る。
いいですか、まさに其の「繪に描いた餅」でもって😣することこそが宗教としての最大の弱点である。
ならばボーサットゥはまさにその「現實の餅」に食いつくのですか?
あえて食いつくのです。
其れも壱口でもって其れを飲み込むのです。
尤も其の「直観」は以下のやうに變えられるのやもしれぬ。
物としての現象→壱義的ー本質的ー分離
精神としての現象→弐義的ー副次的ー分離
又はむしろ、
物としての現象→弐義的ー副次的ー分離
精神としての現象→壱義的ー本質的ー分離
なのやもしれず其の部分は次回以降での「直観」の機會を待ちませんと判然とはしません。