「物語り」としての銘木ボールペン秘話ーI 東京工房の銘木ボールペン1ー
さて本日語らせて頂く物とは所謂「銘木ボールペン」のことである。
ヤフオク! - iemon335さんの出品リスト (yahoo.co.jp)
かうして今東京工房 樫原 正明さんの銘木ペンの「作品」がヤフオクの方に多く出品されて居る。
商品 | 東京工房 〜深沢木箸〜 (tokyocraft.tokyo)
銘木図鑑 | 東京工房 〜深沢木箸〜 (tokyocraft.tokyo)
木のしごと 東京工房 ~takayoが覗く駒沢の職人のシゴトバ~ - YouTube
まさに素晴らしい銘木ボールペンが此の動画の後半部に登場する。
かって其の樫原 正明さんが作られる銘木ボールペンの御得意様の壱人がわたくしでした。
樫原 正明さんはかの早稲田大學を出て居られ職人さんの中ではまさに異例としての知性の持ち主である。
であるからなのか自分の感度とも何故か相性が良く其れでもって兎に角ヤフオクの方でかって随分と御世話となって居たのである。
其の樫原さんが書かれるオークションの説明文は兎に角面白くまた面白いだけでは無く教養の部分なども出て居りまさに「高級」な銘木ペンの世界を形作られて居たやうに思う。
但し樫原さんの銘木ボールペンは其の銘木ボールペンとしては至って「高価」であり私の力では拾本、廿本と集められるやうな世界の物では無かった。
其れでも其の中でかって五本程を集めたやうに思う。
やうに思う、と云うのはまた確認してみないと分からないのであるが或はもう少し本数があったのやもしれない。
当時ー七、八年前ー我はまさに其の銘木ボールペンの蒐集に嵌まり込んで居りそも何故さうなったかと云うに其れは要するに「木の軸のペンの世界」の魅力に気付き其処へとズルズルと引きずり込まれて行ったからなのだった。
どだい自分はかうして「文明」よりも「自然」の方をこそ好む訳だ。
また「人間」よりも「自然」との相性の方が何故か良い。
其れも普通にして居てさうなのでまさに困ったものなのですがイザさうなって仕舞って居るものは基本的に変えやうが無いものと來て居る。
ではそんなに好きな「自然」の中で生きて行けば良さそうなものですが其処まで踏み込む行動力の方には常に欠けて御座る。
有るのはむしろ「観念力」の方ですが其の力は元元「剣」の力では無いのでまさにボールペンや万年筆などとは物凄く相性が良い。
おまけに金を使わざるを得ぬ女房も子供も我には居ないと來てる。
なので必然として其の種の世界に引き摺り來まれて行く。
其れも傍から見て居ると「アホ」にしか見えぬことだらうがあくまで自分とすれば其れは「持って生まれた己が理性を完遂せんが為の聖なる闘い」のことなので単に「趣味の世界に埋没して次から次へと筆記具ばかりを求めて居るアホ」などでは断じて無いのである。
だけれども同じ趣味の領域でも例えばコスプレマニアや🚞ファンなどは自分から見てまるで「アホ」にしか見えませんのですがでもそんな偏見は元より持つべきでは無い。
樫原さんの作品には「凄い」と言えるレヴェルでの銘木ボールペンもまたあり其れ等の何本かは今でも我が所有物となって居る。
例えば壱番凄いのはこんな拾弐角形軸で紅木軸の御品である。
まさしくこんなのは極め付けであらう。
其の面取り軸の銘木ボールペンは樫原さんの作品に限らず僅かながら存在するが大抵の場合入手が極めて難しいのだと言える。
もしや其れを持って居ること自體を自慢して居るのか?
いいやさうではありません。
さうした御品が世にあること自體が凄いことなのであり其れをたまたま今自分が保管して居るだけのことなのだ。
つまりこんな御品を持つ自分が偉いのでは無く其れを世に生み出した職人さん方の技と根気こそが凄いのです。
實際にコレクションされた筆記具はコレクターさんが例えば病気となったり亡くなったりすれば売りに出されたりする訳だ。
また自分の持ち物もいずれは其のほとんどが散逸するものです。
其のやうに世の常にて全ては「諸行非常」なのだ。
また観念の方ですら其の「諸行非常」なのだ。
だけれどもかってアナタが其れをやったとの事實のみはむしろ保存される。
なので其れは「無い」のでは無くあくまで「有った」ことだ。
また變な論理にてさうして「過去」を何とか保存しやうとして居るのだね?
いやさうでは無くあくまで其れは「有った」ことなのだ。
其の屁理屈が観念的な「眞理」へ至ることを妨げて居るぞ!
へっ、何だい其の観念的な「眞理」とは?
観念もクソも無いわ、有るのは物だけだ、其の物!!
そんな訳で最近は屈強な観念論者からむしろエエ加減な唯物論者へと移り変わって來つつあるやうです。
尚今でも毎年家に樫原さんから銘木ボールペンが撮影された年賀状が届きます。
其のヤフオクの方での樫原さんの銘木ボールペン作品は神戸から出て居る物でおそらく関西方面でのコレクターさんが手放した物なのでせう。
しかもこんなに纏まった数が出て居るところからするともしや金持ちのコレクターさんからの放出品なのではないか?
其れでもってお前また何かをやったらう?
はっ?果たして其れは何のことでせう。
だからまた何かを落としたのだらう?
さう云うのはでもなかなか人には言えないことですよ。
言えないことですよ、とさう言いつつ結局此処で其れも洗いざらいブチまけて居るでないか!
おや、こんなところに何故か其の神戸からの宅配便が…。
其れをカッターで開け中を見るとあれこんな美しいペンが壱本何故か出て來た。
其の美しい御品に就いては是非次回に述べて置きたい。
ところで其の物を語るのはあくまで「物語り」なのであり「物語」=「創作」なのでは無い。
最近自分は「物語」には興味が無く其の「物語り」の方にこそ興味が涌くのである。
「物語」の方は所詮「抽象的概念」に過ぎないことながら「物語り」の方は「具象性を伴う職人技」に就いて語ること其のものなのだからこそ。
尚現代社會が語る「物語」は「観念的でありしかも複雑且つ怪奇」で「具象的に今此処に規定される価値」とはむしろ遠ざかって居ると見ても良いことだらう。
前者には「未來」が含まれるが後者にはむしろ「過去」が含まれて居る。
故に「過去」を語る「物語り」の方がより實り豊かでしかも美しいものなのだ。
さうして何処までも「過去」を賛美するのか?
さには非ず。
だが「過去」には往往にして「職人技」の世界が展開されて居るものなのだ。
其のやうにむしろ「本物」は過去にこそ有る。
さて樫原さんの作品は4、5年前に突如としてヤフオクの方から消え或は病気となられたのかもしれないとさう思って居たのだったが今では販売ルートの方を変えられやって居られるやうですが其の辺りの経緯で詳しいことを自分は知らない。
其の「病気」と言えば今年に入り杢杢工房の野村 収さんとも御話をする機會があり矢張り病気となられたさうだが仕事を続けることで進行を遅らせて居るとさう仰って居られた。
左様に「銘木ボールペン」の趣味はそも高齢者向けなのか職人さん方御自身が何故か病気になって仕舞うものらしい。
よって最終的に何が言いたいのかと言えばそんな貴重な作品の数数であると云うことをこそ述べたい訳だ。
其のやうに手間暇をかけつまりは心血を注ぎ製作されたまさに貴重な作品群なのだ。
でもって今や野原工芸や工房楔ばかりが持て囃されるがあくまで自分は「東京工房」や「杢杢工房」の方のペンの方が良いとさう思われるのでそんな爺さん達向きのペンを是非選んで下さい、さすれば決して損は致しませんとさう述べてみたのである。
尚今回の話は続編の方がありますがとりあえずは「岡本 太郎展」の方へも行かねばならず實は其れどころでは無いのだがでも何せ好きな分野の話ですのでまた近く御話出来ることかと思います。