本日改造ボールペンを創るー新年壱発目での改造ボールペン+昨年得た銘木ボールペンの御話ー
さて本日はまたオンデマンドにて「第九」を聴きつつ作文を行う。
本日はまた朝より忙しく何がそんなに忙しいのかと申せば筆記具を新たに壱本創っておった。
其れの製作に参時間程を要し他の事が何も出來なんだ。
其の筆記具とは重厚なエボナイト軸のボールペンである。
1.首軸(伊太利亜アンコラの限定🖋の黑い首軸)+胴軸(印度RANGAの黄マーブルのエボナイト軸)+キャップ(伊太利亜ヴィスコンティの靑いセルロイドマーブルキャップ)
2.筆記全長170mm、筆記重量31g、重心位置5.5對4.5
3.壱言で評せば中世~近世欧羅巴を意識し且つ其れを表現した物
4.其の出來は自己評価で90点
つまりは可成にレヴェルの高い筆記具作品である。
特に良いのが、
5.首軸の先に保護キャップ(黑いプラ製)が付けられて居り其れを取り除くと芯が剝き出しとなる。
6.其の剝き出しとなった状態にてもしかと書ける。ーつまりは芯の固定が上手く行ったー
7.其の芯をペンチなどで鋏み抜き取ることが可能となった
つまり芯の交換が容易に可能である。
8.其の芯自體の加工は最小限で済み即ち使用する芯と長さを合わせ鋏にて六ミリ程切り取るダケ。
おお何て素晴らしいボールペンなのだ!
さうして自分はそんな所謂改造ボールペンを多く持つ。ーおそらくは弐拾本程かー
其の中でもまさに特等の出來の改造ボールペンとなる。
今回苦勞したのが主に5.の保護キャップの製作でありつまりは其処に穴を開けなければならん。
でもって穴を開ける場合には無論のことキリを使う。
だが意外と其の材質が固くJS芯を通す迄穴を拡げるのは兎に角難儀であった。
事實として其の穴開けのみで壱時間半程を要しておる。
でもって自分はこんな「工作」が別に好きな訳では無い。
自分は技術家庭の分野が特に好きな訳では無く分かるものと言えばピッと分かる自然や藝術の分野また學問のことであり全然手も動かんわ根気も無いわやることが駄駄草だわでまるで職人気質なのでは無い。
だけれども嗚呼まさに其の「美」に對する果てしない羨望と欲望がおそらくは人の倍以上もあらうかと思われるそんな「美への奴隷であり下僕」なんだ。
故に其れに對し常に必死コイてやるのである。
即ち彼に取り此の世はまさに「美の世界」其のものなんだ。
いやより正確には「美の世界」と「醜き世界」の集積物である。
でもって彼は心の底にて常に乞い願う。
どうかどうか僕の周りに「美の世界」ダケが貼り詰められますやうに…。
決してそんな「醜き世界」が僕の周りに來ませんやうに…。
ところが此の世とはまさに玉石混淆でありまさに清濁混淆の世界であるのでなんや知らんが何時の間にか自分の周りに汚ねえものばっかりが寄り集まって來たりもする。
つまりはさうして醜きもの、唾棄すべきものがまるで💩の如くにとぐろを巻き居座り我がデリケートな感性の上にのしかかり且つ肥溜めの如くに眼前に拡がる訳だ。
うわああああーお助けを、どうかどうか僕を助けて下され。
さうか、ではまたぞろベートーヴェンを聴きつつ工作に専念するのだ。
其れも今回は中世~近世のイメージを是非其の作品に込めねばならぬ。
ところで此の「第九」とは勝利の歌なのですか?
さうだまさに其の勝利の歌だ。
では何に對する勝利なのだ?
人類はむしろ「敗北」を重ねつつ近代をやって來たではないか。
そんな人類が皆兄弟で勝利者だなんてあんなシラーによる世迷言はまさか現代には通用せんことだらう。
さう言えばさうだね。
其れとベートーヴェンは革命主義者であり要するに新しい時代の波が腐り切った欧羅巴社會を変革するとさう信じて疑わなんだ。
ベートーヴェンはそんな腐り切った格差社會としての当時の欧羅巴の體制其のものを批判したのですね?
さうだね、ベートーヴェンの場合欧羅巴社會は此の侭ではダメだとさう考えて居たであらうフシがある。
また後のマルクスやエンゲルスもまた欧羅巴社會は此の侭ではダメだとさう考えて居たことだらう。
つまるところ「第九」とはそんな社會に對する闘争ソングであり且つ個人への精神的な意味での覚醒をこそ促す歌なのだ。
なる程、するとまさに「目覚めよ!」ですか。
さう、まさに「目覚めよ!」です。
其の社會の価値ヒエラルキーの言いなりとなった民衆に對する起爆剤のやうなものである。
しっかし「改造ボールペン」と「第九」を良くぞくっつけたものだ。
いや詩人に不可能なことなどありません。
特に彼に取り筆記具と石の世界はまさに自宅のやうなものなのだから。
ところでベートーヴェンが現代社會をもしも見たら驚くと言うか兎に角失望することでせう。
いやベートーヴェンに限らずゲーテにせよダ・ヴィンチにせよ皆大失望することでせう。
…情けねえ文明ですね。
はい、情けねえ文明其のものです。
其れと信長公、秀吉公、家康公が現代社會をもしも見たら驚くと言うか兎に角大失望することでせう。
全く困った社會だ…。
ひょっとしてアナタは其の「困った社會」を忘れんが為にそんな「工作」に勤しむのではないのか?
…仰る通りです。
もしも此の社會と縁が切れたら其の時にこそ僕に取ってのほんたうの幸せが精神的に訪れませう。
うーん、其の御言葉からはどうも「絶望」の色合いが濃く感じられます。
いえでもだからそんな「絶望」はむしろどーでも良い訳です。
そんな「絶望」してるヒマが有るなら「美」の方をこそ見詰めよ、とのことです。
では此の筆記具にて文字を書いてみやう。
「絶望的現在」
「無念夢想」
「成田はほんたうに天才なのか」
「希望はマルクスか、アルゴリズムか?」成田悠輔×斎藤幸平 初交錯の二人が〈22世紀の資本主義〉を語る (youtube.com)
此処で成田氏の言うてることはどうもオカシイ。
何故なら「格差」はむしろ拡がりつつあり現行社會はむしろ何ら良くはなって居ない。
其の「資本主義」に拘る限り現代社會は崩壊して行くことでせう。
何故なら「資本主義」は過剰を当たり前に行う「破壊者」其のものなのだから。
其の「脱成長」はあくまで論理では無く「物理的限定」により齎されるものだ。
「物理的限定」とは「社會的常識」に對する「革命」である。
そんな「革命」とは其のマルクス主義とは無関係に「限定」される物理現象=自然の摂理のことだ。
其の「自然の摂理」を甘く見て居てはならない。
大地震や火山の噴火や小惑星の衝突は「資本主義」や「マルクス主義」とはまるで無関係に引き起こされる単なる「物理的限定」なのだ。
即ち「観念」とはまるで関係の無い「現象的次元」の御話なのだ。
現代社會を其の根底より變化させるのはイデオロギーや主義主張では無くまさに其の「現象的次元」としての「物理的限定」である。
いやあー素晴らしい!
其の芯がJSの1.0mm太字芯ですので兎に角物凄く滑らかな書き心地がする。
もうまるでシルキーな書き心地でありつまりは🖋の書き味とはまた別の上質な書き心地である。
尚わたくしが求めるところでの「美」の世界には見た目ばかりか其の「書き心地」の良さもしかと入るのだ。
9.書き心地が良い
10.美味い
さうした所謂「感覚的な喜び」もまた現象としての「美」の追求なのだ。
さて今年は壱つ「筆記具の現在」より順次遡り昨年行った筆記具との格闘のことに就き是非御話をしてみたい。
其れも大枠で言えば昨年自分は「最後の蒐集」を完成させて居る。
さうもはや此れ以上はやれぬと云うところ迄其れをやり切った。
其れは金額的にもキツかったが其れ以上に精神的に酷く疲れた。
だが昨年得た萬年筆やボールペンや芯ホルダーを眺めて居ると「やって良かった」と云う思いしか涌いて來ぬ。
尚正直申して自分は並みの筆記具愛好家では無く言ってみれば其れの「上級」の分野で活躍して來た人間である。
とは言え其処にて全部をやれた訳では無く其処ではむしろ得られなんだ筆記具の方が多いのである。
だけれどもそんな「上級の蒐集家」でもまた誰しもそんなものなのだらう。
尤も「数」を持つ「上級の蒐集家」さんの場合はまた話が違って來るのやもしれないのだが。
さてわたくしは筆記具を広く深く愛好して來た積もりである。
例えば私はボールペンやシャープペンシルなどもまた好きであり「万年筆のみ」を使うやうな狭い筆記趣味の持ち主ではそも無い。
故に「筆記具ライター」のやうなことがやれるのであり其れも別に🖋の上級愛好家だと常に威張って居る訳では無い。
まあ時に威張ることなどもまたあるかとは思いますがそも其れは其れなりに實力があるのだから仕方の無い御話です。
兎に角自分はさうして筆記具とのdeepな付き合いをすでに40年余りいや其れも学生時代から数えればすでに半世紀にも亘り続けて來たのである。
ではそも其の筆記具にて何をやって居るのかと言えばつまりは「御勉強」をやるのである。
が、まさに其の「御勉強」をやる振りをしつつ實は其の筆記具にて遊んで居るのである。
其の筆記具にて「遊ぶ」と云う感覚がおそらく壱般の方方には分からぬことかと思う。
何故なら壱般の方方の遊びとは其れ即ち「酒や女やギャンブル」とさう相場が決まって居り其れは断じて「読書」したり「文字を書く」ことでは無いのだから。
だがわたくしの場合にはあくまで遊びとは其の「読書」したり「文字を書く」ことなのである。
なのでまずはソコんトコを良く理解して頂かぬとわたくしが凄く樂しく今此の御話を書きつつあることがまるで理解されぬことでせう。
左様に自分に取りあくまで遊びとはズバリ「御勉強」なのである。
故に「酒や女やギャンブル」こそが苦行でありまさにイヤなものであり「逃げ回りたい」もの其のものなんだ。
其のやうにまずは其の「認識」の部分が違うから是非気を付けて此の作文を読んで頂きたいものです。
さて今年壱発目に得た筆記具があり其れがコレです。
此れはWANCHERさん(旧萬佳さん)のオリジナル・ボールペンである。
其れを年末にヤフオクにて落として置き其れが昨日届いたのだった。
尚ボールペンに對し自分は結構拘る。
また鉛筆やシャープ・ペンシルや芯ホルダー等に関しても矢張り同様に拘る。
どう拘るのかと言えば今此処で書いて居るやうに其れに對し拘る。
ですが🖋の場合は實はもっともっと拘って居りボールペンや鉛筆やシャープ・ペンシルや芯ホルダーなんぞはどーでもエエわいと云う本音の部分もまた自分の何処かに蔵されて居る。
ボールペンや鉛筆やシャープ・ペンシルや芯ホルダーなんぞは兎に角「書ければ宜しい」との思いが何処かに深く宿されて居りよって究極的に其れ等は何でもエエのですが其れでは筆記具愛好者とは言えぬが故にそんな「拘る振り」をしつつ日日を過ごして來て居る。
さう言うて居る割に彼の筆箱ー保管用の箱ーの中をしげしげと覗いてみると「ワーオ!」と云う感じがまずしてさらに其のコレクションの美しさに必ずや圧倒されて仕舞う。
つまりはさうして自分でもって自分のコレクションの凄さに感動して仕舞う訳なのだった。
でもってボールペンや鉛筆やシャープ・ペンシルや芯ホルダーを足した数の方が實は持って居る🖋の数よりも確實に多い。
だからゆえに彼は純粋な意味での🖋愛好家なのでは無く要するに壱「筆記具collector」なのだ。
では萬佳さんのオリジナル・ボールペンに就き其れを評価してみやう。
ちなみに萬佳さんのオリジナル・ボールペンには△軸と六角軸とが有り自分は以前より△軸の方が良いとさう思って居た。
だが今回の品はつまるところ個體的に〇である。ー所謂「当たり」のペンであるー
其の筆記具モデルとしての評価と個體的な評価はまた別物となるが往往にして筆記具に於いて個體的な評価が筆記具モデルとしての評価を凌ぐ場合が生ずるものなのだ。
何を言って居るのかと言えば「筆記具モデルとしての評価」が80点でも「個體的な評価」が20点ですと其の筆記具は「✖」とならざるを得ない。
逆に「個體的な評価」が80点ですと「筆記具モデルとしての評価」が例え20点であれ全體として其の筆記具の評価は「〇」となるのである。
でもって「個體的な評価」が80点ですと「筆記具モデルとしての評価」の方も20点位上がったりも感情的にするものなのだ。
よって此のWANCHERさん(旧萬佳さん)のオリジナル・ボールペンは自分に取り「〇」です。
では果たしてドコが〇なのか?
1.六角の軸が個性的で〇
2.芯出しのアクションが完璧に良い
3.JS芯化すると書き心地が〇となる
兎に角此の縞縞のボコテの軸を初めて得た。
そんなボコテの軸の銘木ボールペンを弐本程持って居たが此の縞柄が初めてなのだ。
WANCHERさん(旧萬佳さん)のオリジナル・ボールペンは所謂回転式で軸を捻り芯を出す仕組みとなる。
だが其の回転式其のものが意外と難しく特に廉価な物ではガタツキなどが出易い。
WANCHERさん(旧萬佳さん)のオリジナル・ボールペンの回転式にも個體差があるが概ね其れは合格圏内に有ると言えやう。
さらに此の個體のアクションこそがむしろ此れ迄で最も良いものだった。ー此れ迄に全部で五本程求めて居り此れが六本目となるー
では何故そんなに数が必要なのかと言えばまさに其の個體的な当たりの物を引かんが為にさうする訳です。
また其のことは🖋でも同じで出來得ればまるで同じか少し違っても同じモデルを最低限弐本は持って置いた方が良い。
でもって気に入ったのを手元に残し後はヤフオクやイーベイにて売れば宜しい。
と言うことは如何に其の「個體差」なるものが大きな価値であるかと云うことが分かるのである。
故に筆記具の其れも上級コレクターともなれば何本も何本も同じ筆記具を買い求めて居たりもまたするのである。
そんな訳でわたくしはかって高価な限定🖋を複数本持って居ることなどが多かった。
其れは無駄な出費を重ねたやうで居て其の後は売れるから其処にて大して損はして居ないのである。
なのだけれどもまさしく其れはコレクター側の論理なのであり壱般人から見ればまずは???と思うことなのだらう。
さて此の銘木の六角ボールペンにはシュミット社製のレフィルが入って居る。
されど其のシュミット社製のレフィルは如何にも書き心地が重い。
要するに海外製のボールペンのレフィルは🗾の三菱鉛筆やゼブラのやうに「低粘度油性芯」となって居らず大抵の場合は其の書き心地が重くなるのである。
要するに書くのに力が要りまた筆圧が要るとのこととなる。
また要するに其れがボールペンのレフィルの昔からの書き心地となる。
まさに其の部分を嫌う🖋愛好家の方方が多い。
🖋はさうしてガシガシと力を入れ書くものでは無くまさに泉の如くに湧き出るインクを紙の上に乗せて行く位でのまさに「高等」な筆記となるものなのだ。
逆にボールペンはさうしてガシガシと力を入れ書くものなので元來其れは「下等」な筆記具であり例えば動物で言えば🐒止まり位のものだ。
だが我我人間はそも頭が良く高等種なのでそんな下等な筆記具を使って居るだけでもう書く字が腐るわ、其の字が!
などと仰りたいやうな高等種での🖋愛好家の方方が其れも多く居られそんな方方に限り「下等」な筆記具であるボールペンなんぞは死んでも使わぬものなのだ。
でもまずは其の思い込み其れ自體がオカシクはないか?
ですが確かにシュミット社製のレフィルの書き心地は兎に角重い。
逆に言えばひと昔前のボールペンの書き心地がして居る訳なのだ。
…確かにどうもイヤだな。
さう思う方に限り以下の替え芯なども用意されて居る。
Amazon.co.jp: 三菱鉛筆 ボールペン替芯 ジェットストリームプライム 0.7 単色用 黒 SXR60007.24 : 文房具・オフィス用品
こちらへ芯を替えれば其の「書き心地」はずっと軽くなる。
ジェットストリーム替芯|商品情報|三菱鉛筆株式会社 (mpuni.co.jp)
だがまさに其の芯が三菱鉛筆で壱番高価な替え芯なのである。
故にどうしても「軽い書き心地」を得たい人ダケの為に其の芯を交換する手があるとのことなのだ。
尚芯を交換する場合に僅かに芯径が合わずよって筆記時に首部で隙間が開く場合があるので要注意である。
さうなればさうなったで無論のこと少しだけ細工をせねばなるまい。
但し極僅かな隙間の場合には左程気にせず其の侭に使い続ければ宜しからう。
さて昨年の八月に自分は此の銘木ボールペンを得た。
此の銘木ボールペンは高価ですが其の折にセールが行われて居り結果1882円にて此れを得て居る。
そも何処の國の物なのか分からぬのだけれどまた意外と此の銘木ボールペンが良かった。
其れは△の軸でもって回転式の矢張り重い書き心地のレフィル入りである。
其れでもってどうもJS芯化出來さうなので「SXR-600-07」を購入し書いてみたところ即サラサラと軽く書けるやうになったのである。
其のサラサラと軽く書ける🗾製の低粘度油性インク芯の書き心地は今や🖋の書き心地と遜色無いレヴェルへと到達しつつある。
即ち其の油性インク芯のボールペンが大進歩を遂げたのである。
其れも丁度PCの進歩のやうにボールペンは大進歩したのである。
なんとなればボールペンは今や主流の筆記具である。
逆に🖋なんぞは時代の遺物でしかない。
どだい🖋なんぞはもはや誰も使って居らず。
第壱🖋なんぞ好んで使う奴は今や筆記上の異常者ダケだ。
さうか、我我🖋の愛好家は単なる筆記上の異常者だったのだ!
どうもすみませんでした、其の事に就き此の半世紀もの間まるで分かりませんでした。
そんな訳でもはや万年筆はボールペンに對しとても威張れないのです。
なのですが其れでも尚「威張る」人がおそらくは🖋愛好家の中には居られることでせう。
ですが僕に限りもはやそんな「威張り」と言うか「自負」と言うか其れとも「矜持」とでも言うのかそんなものはもうとっくの昔に捨て去って居ます。
どだい万年筆と鉛筆による筆記は本質的に何ら變わるものでは無い。
要するに筆記とは文字を書き表す試みのことでありそんなものは「愛」だとか「美」だとかそんな壱種臭い言葉を書き連ねたにせよ誰もが詩人にはまさかなれぬやうに要するに何を書かうがたかが知れたものでありそんなことの為に何で筆を選ぶ必要などがありませう?
事實ほれ、世間で屡言われて居るではありませんか。
即ち「弘法は筆を選ばず」などとも。
逆にレヴェルの低い🖋使いの人達こそが「こんな僕は筆を選ぶんだもんねー」などと声高にボールペンを貶し生涯ボールペンなんぞ使うものか、などと額に靑筋を立てつつ言い放ち自宅にて己が🖋ばかりをナデナデして居るのです。
さても君のそんな万年筆はさぞや凄いのだらうね!
そんな君の万年筆をボクにも是非使わせて呉れないか?
もうガシガシと書いてそんな威張った金ペン先を是非曲げてやりたいのだよ。
すると何ですか?
もしや全てが🖋愛好家其れ自體への批判の御積りですか?
いえさうでは無く🖋愛好家は「偏屈に威張る」だけではイカンとさう申した迄のことです。
🖋愛好家は何だか知らないが高学歴でもってややこしい人が多いのでむしろ「バカ」になりませうとさう申した迄のことですね。
ところで君自身が其の筆記に於いて「偏屈に威張る」タイプの人間ではなかったか?
ああさうでしたかねえ、どうもどうも御免なさい、過去のことは今かうして謝ります。
兎に角たった今銘木ボールペンの世界はそんな素晴らしいものとなりつつある。
其れも回転式に限らずノック式やまた他の不可思議な芯出し機構の物などが出て居て其れ等を見且つ使ってみるだけで何だかクラクラと來る程に其れは多様であり面白い世界の物となりつつある。
逆に万年筆は現在概して高額化しつまりは特権層の為の筆と化しつつある。
そんな現行万年筆の堕落振りを見るにつけ何とも言えぬ類での情けなさを感じて仕舞うのは果たしてわたくしだけなのであらうか?
故に拾萬の現行万年筆よりもこんな弐千円の銘木ボールペンの世界の方がより樂しくしかも有意義なのだ。
また逆に千円、弐千円の中國の廉価万年筆の世界こそが面白くしかも所謂コスパが非常に高いのだとも言えやう。