実際危機と云うものは様々な形で迫り来るものなのでしょうが其の危機がより本質的な形で齎されるものであることが人間界または文明世界での特徴なのでせう。
ただ理系思考にはゴチャゴチャした人文系の感情論要するに気持ちの部分での表出が無い分結論としてハッキリして居りつまるところは至極サッパリして居やう。
合理主義とはさういうことで、其処では理性にとっての余分なものを常に意識的に削いでいくと云う事です。
わたくしはむしろさういうのこそが好きですので元来は合理主義者です。
ただし全的な破壊を食い止める為には其の合理主義をこそ放逐しなければならないのです。
さてこのやうに理詰めで考える。
すると理詰めで考えた結果必要になるものが生じ、具体的に言えばさういうのが自動車であり飛行機であり新幹線でありPCでありAIです。
然し、いつしか其れ等が目的化されて仕舞うのです。
物凄く良く考えてみますと実は其れ等の全てが要らないものばかりなのです。
ただし普通は其処まで考える能力のある人が居ない為其れ等が不要物であることが分からない。
其れ等は人間のより望ましき現在と未来を実現する為の手段であるべきなのにいつしか其処で其れ等の実現自体が目的化されていく。
ですから人間は考える能力には元々欠けて居りましょう。
おそらくはホモ・サピエンスがバカだった為に仕方が無く其のバカの遺伝子を引き継いで来たことでせう。
ホモ・サピエンスのバカは多分宇宙一の馬鹿です。
どだい宗教の発明者であるホモ・サピエンスのバカは救いがたい程である。
特に私の場合には先祖返りの兆候が色濃く認められるゆえおそらくは高率でネアンデルタール人でもあることでせう。
つまるところわたくしはネアンデルタール人であった。
理詰めなのは至極潔癖なので除菌、とか清潔、とかもはや女には手を触れない、とかさうした合理性の部分に深く捉えられて仕舞う。
わたくしなんぞは兎に角潔癖なので電車の吊革とかドアのノブとかを素手で触れたことなどありませぬ。
そしていつも便所紙を持って居ます。
其の便所紙で手を包んでから人間界の汚いものに触れて来て居る。
或いはハンケチ、其れも石鹸水で湿らせたハンケチを常に持ち誤って人間に触れた部位を其れでもって拭き清めても居る。
其の潔癖も或はネアンデルタール人由来のものではなかったか。
元より理系思考には感情や情念と云った湿度が含まれて居ない分よりストレートかつドライなところがある。
だから其れが実は嫌いではない。
ですが其れは多分非人間的で冷たい部分を持ち合わせて居るのやもしれない。
さういうのが現実上は問題を引き起こすことが多いので其の合理的思考は手段化するに留めておく方が良いのです。
丁度論理に生きるミスタースポックが感情的なドクターマッコイと様々にぶつかり合いながらも僅かに変化していくことと同じくして。
さうした意味では論理的でかつ潔癖な男性は腐ったやうな女共の子宮思考、所謂感情論の世界と交わると云うか無理にでもくっつけてみた方が良いのやもしれない。
されど腐ったやうなものは兎に角腐ったやうなものであるに過ぎず、また女の損得勘定、其の打算の部分こそがハッキリ言って醜い。
理系思考でいくとどう考えても百年後には文明社会が滅亡して居りませう。
百年と云うよりも五十年程なのかもしれない。
そして実は自然とはまさしく此の理系思考なのであります。
自然を規定する理性とは外在的理性のことで其れは人間の理性よりも分解度の低いより本源的な理性のことです。
ゆえに其の理性とは合理性そのもののことです。
だから自然には感情論など元より通じません。
確かに食うか食われるか、なのでせうが其処で食われたとしても食ったとしてもただ其のやうな食物連鎖の上での階層構造が存するばかりで本質的にはどちらがより得をしたかと云うことにはならない。
さうした究極的にドライなつまりある種の殺伐とした割り切られ方で役割のみが其処に生じて居るのみです。
また地球の大気中での二酸化炭素または酸素の量などにしても其の究極的にドライな因果関係にて其の量が決定されていきます。
だから因果関係、究極的にはコレのみで自然界は動いて居りましょう。
ですので怖いだの逆に可愛いだの可哀想だのそんな感情論には振り回されることなく合理的に、極めて合理的に自然界の秩序は維持されて居ります。
だから其処を間違えて居てはいけない訳です。
あくまで人間にとって自然とは合理性そのもののことなのでもある。
其処を解明したと云うかむしろ其の部分にこそコミットした自然科学の方法論はある意味では正解でした。
ですが其の合理性そのものを百八十度捻じ曲げて自己本位に使おうとしたことこそが自然科学の犯した過ちでもあった。
文明と云う欲望の構築に其れを全的に適用して仕舞ったことが其の誤りとしての内容です。
元より自然界と人間界を規定する理性には差がある、謂わば違いがあるのです。
人間の理性には理の知と自らを見詰める知とがある。
其の自らを見詰める知こそが自然界には欠けて居ります。
より正確に言えば自然界には自らを見詰める知などは必要ではない。
自然は物理的な法則に従い機械的に変化を繰り返して来ただけなのだ。
其れも太古の昔より其の理としての営為を繰りひろげて来た。
ですが人間の知的領域は其れだけでは済まないものであった。
人間の理性または認識が二重に分離されたものであるゆえもうひとつの知の方を絶えず振り返り進まねばならなかった。
であるから自然科学はむしろ理解し難い女の情念だの、また宗教が語るところでのハルマゲドンだの、さうした非合理的な要素としての部分を、或いは漱石や安吾の悩みを、さうした全くバカバカしいまでの割り切れない部分をこそ見詰めていくべきだった。
ですが実際には物理学を始めとする現代の諸科学は一種の非合理的な領域にまで踏み込んで居やう。
踏み込んでは居るのですが、其れでもまだ理解し難いものがありまさに其れが自然界に於ける合理的秩序以外での感情であり直感であり迷信であるところでの非合理的秩序なのです。
さて何故人間界では合理性のみで現実を規定することが出来ないのか。
何故なら人間は矛盾が大きい特殊な生きものであるからです。
勿論自然界にも其の合理的秩序以外での矛盾は存して居やう。
ですが自然界の矛盾は破壊を引き起こすやうなものではない。
対して人間は自然界よりもさらに限定=分離される必要があるにも関わらず其の事実と向き合おうとして居ない。
即ち人間に対して自然界の論理=合理的秩序を与え過ぎて来て居やう。
でも其れはあくまで自然の論理であり人間の論理にはそのままでは重ならぬ。
合理主義がまさに要らぬやうな変なものばかりを欲するのは此の基本の原則を知らぬばかりか足蹴にして人間に対して自然を重ねやうとする愚かな行為から齎されて居る。
エッ?
では自然科学とは人間を自然化する加工のことなの。
逆でしょ、逆。
自然科学は自然を切り刻み加工し続け自然其れ自体を破壊して来たのでしょう?
違ふ。
自然科学にとっての神はまさしく自然なのじゃ。
其の法則、其の冷徹な物質的法則の積み重ね=合理性のみが其の神じゃ。
だから自然科学は人間界を自然そのもの法則でもって縛りたひのだ。
其の冷徹な合理性でもってして人間様を縛りに縛って置きたひ。
つまりは人間をそして文明をまるで自然による緊縛のやうに変えたい。
だったらそりゃエエ事なんじゃないですか、そんなエエ事はまたとないことだわ。
馬鹿者!
だから君は勉強が足らんと言うて居るじゃらうが。
人間を自然化するとスッカリ全部が合理化され逆に変なものばかりが出て来やう。
スマフォ人間、ゲーム人間、18時以降に盛り場をうろついて居るふしだらな娘共、独身、純文學が大嫌ひな人間達、欲望が充たされ楽しさうなオバサン達、マッドなサイエンティスト、などである。
だから金輪際其のやうな化け物を此の世に生みだしてはならぬ。
即ち自然界のやうに食うか、食われるか、絶滅するか、生き残るか、では元よりいけない。
人間は其のやうな殺伐とした合理的秩序の世界に生きるべきではない。
人間が生きるところはたとへば子宮思考の中である。
変だ、いつもと言って居ることが百八十度違うぞー。
さうではない!
合理性以外の部分であえて考えよと言うて居る。
其の感情論でもってして物理学の限界を打ち破る。
物理学なんぞゴミ箱へ捨てちまえ!
と云う其のパワーが実は大事だ。
確かに力を統御するのは法則だが其の力自体を法則にて縛ることは出来ない。
いま一度言う。
自然科学なんぞゴミ箱へ捨てちまえ!
科学により文明が滅びるのは法則でもって人間を縛れるとカン違いして仕舞ったからのことだ。