若者の“肉を食べない理由”に驚き 新世代の“欲望のベクトルの変化”をエンジェル投資家が語る (msn.com)
壱種物凄い話です。
或は人間はかうして欲望のベクトルを変える可能性に満ちて居るのかもしれない。
ですが此の記事を読む前に相変らず世の中に対し腹を立てつつ以下の如くに作文しましたのでまずは其れを貼り付けて置きます。
さて文明の産物はかうして「良い=便利」のであると同時に「悪い=逆に不便」のでありまた「善い=正しい」のであると同時に「悪=邪悪」なのだ。
少なくとも其の原理に気付かねばならぬのが理性の目的だとさう述べて居るのである。
また自然界も實は其れと同じ構造を保って居る。
即ち其れは「良い=自由奔放」であると同時に「悪い=欲深」なのでありまた「善い=純眞無垢」であると同時に「悪=無知」なのだ。
要するに其れは次元を違えつつまさに同じ構造に生きて居るのである。
ところが自然界は自らの無知に気付くことは出来ぬ。
何故なら彼等は理性が顕在化して居らぬからなのだ。
だが人間はむしろ心の面で無知である。
さうして合理化こそが其の無知の種を撒く。
つまりは理性を顕在化させると云う離れ業を成し遂げた人間にせよ結局は其の無知=無明=馬鹿であることからは決して逃れ得ぬ。
自然界はさうして具象的な欲望を生きるが故に抽象的には馬鹿である。
対する人間界はさうして抽象的な欲望を生きるが故にまさに具象的には馬鹿である。
との難題がふりかかって居るのだ我我人間の営為に対し常に。
但しさうした困難なる命題にまともに向き合って居るのはまさに天才級の知性の保持者のみだ。
ところが少し考えてみれば分かるのだが其処でどちらのパターンの場合がよりリスクが大きくなるかと言えば無論のこと其れは後者つまりは我我人間側、文明の側の方だ。
何故なら自然界の馬鹿さ加減はせいぜい他を食い尽す位のことで終わる訳だが人間界其れも文明界の馬鹿は環境のみならずじぶん自身をも滅ぼして仕舞う類での馬鹿だからなのだ。
此の困った馬鹿の部分を我は壱體どうやって治して行くべきかと此処廿年程は其ればかりを考えて来たがとりあえずは其処でもって「馬鹿は死んでも治らない」と云う結論へと至って仕舞った。
さうか、矢張り馬鹿は治りやうが無いのか。
そりゃあさうだらう。
だって馬鹿か利口かと云うことはほぼ生まれつきのことだからなのだ。
どだい其れは塾へ来る子を見て居るだけで一目瞭然だ。
即ち利口は最初から利口で馬鹿は最後まで馬鹿だ。
つまり学校や塾の先生方は別に何かを教えて居る訳では無い。
だって教えやうが無いでせう、其の本質としての頭の仕組みの部分までは。
只知識に関してはさうなのだが文明は其れ以上に現實化して仕舞う、つまりは抽象化した現實を組み立てると云う意味で至極危険である。
だから抽象化したものは要するに観念其のものなのだ。
だが其の観念自体が悪いのでは無く、其の観念に基づき現實を組み上げて仕舞うことこそがリスクを増大させる訳だ。
ところが現實には今我我は其の観念をこそ生きて居らねばならぬ。
そりゃあさうだ、さうして近代化の努力により自らさうした世界観ー認識の世界ーを選んで来たからに他ならない。
然し我我はさうしていつしか後戻りの出来ぬ虚としての価値の世界へと深く捉われて仕舞う。
勿論其れは観念がさう欲するからのことだ。
其れも體が欲するのでは無く頭がさう欲して行くのである。
じゃあ結局頭が悪い訳だ。
だから頭自体が悪いのでは無く「頭でっかち」なのが悪いのだ。
でもアンタがまさに其の「頭でっかち」ではないのか。
もしやさうでしたかねえ。
其れはどうもすみませんでした。
でも僕は頭で欲することをむしろ悉く否定して来て居ますよ。
其れも僕の頭は極めて堅實で宇宙浪漫だの人類の神化だの地上の樂園化だのさうした危ない思想の類は全て否定し只過去にのみ生きて居ります。
だから「頭でっかち」なのはむしろさうして使いこなすべきなのではありませんでせうか。
なる程、アタマがデカいマイナスの理性だと云うことなのですね。
あれさう言えば漱石も芥川も太宰も安吾もまた啄木も三島も川端も皆其のマイナスの理性からの言及者でしたね。
だからそも文學がさう屈折して居りますことでせう。
其のマイナスの屈折こそが理性としての使いどころで是非あるべきだ。
なので頭が悪いと云うのは其の「悩む」ことをむしろ放棄した状態にこそ存する訳です。
宗教の場合にも結局は其の逆方向へと屈折して行きます。
どだい「解脱」にせよ「天國」にせよ其れは物凄い屈折思想であり何故なら現世を利益としてはまるで捉えて居ないからです。
逆に申せば現世を利益として捉える思想なり宗教なりは邪教である可能性がまた高い。
今私はかうした「後ろ向きながら最も前を向き歩く」思想、即ち「役に立たぬのに最も役立つ」思考のことばかりを考え込んで居ます。
つまるところ思考即ち観念とは本来ならばむしろさうしたスタンスをこそ取って居るものだ。
其れが特に近代以降は世の中への「お役立ち」と國家又は共同体若しくは會社への「滅私奉公」ばかりが強調されるやうになった。
なのでまずは其れが全体主義なのだらうとさう思います。
つまり其れは価値其れ自体が功利化された即ち合理化されたことでの非常に危険なアムビバレントな様其のものだと捉えられる。
要するにすでに文明世界は自己崩壊へと向かい突き進んで居る。
でもって是非ソコの部分を察して自己としての認識を正して行くべきだと云うのが私の主張です。
ですから、其の「観念」其れ自体が悪いのでは無く何故なら人間は所詮観念者なのですから。
曰く、
「人間は考える葦である」パスカル
考えずに座禅を組めば馬鹿は治りますったって其れは其の通りのことでせうが解脱さえ求め無ければ考えたって多分馬鹿は治ります。
むしろ考え過ぎでもって脳疲労を引き起こす位に考えさうすると決まって眠れなくなるので其の場合には是非睡眠薬を飲んで寝ませう。
兎に角観念其れ自体が馬鹿なのでは無くマイナスの領域へとコミット出来なくなって居ること自体が馬鹿の証拠です。
なので飽食でもってかうして食い物が溢れて居るのであれば其処へ是非ウンコをたれてやらねばならぬのです。
あ、良かったな、今日も何とかウンコが出た!
なので何百億もかけ宇宙旅行することよりもかうしてウンコが出たことの方がずっと有意義なことだ。
もしや便秘気味なので?
ええ、昔からさう調子が良くはありません。
さて問題とはまさに其の無限に増幅される抽象的欲への制限であり限定である。
但し此の命題に関しても其れが「分かる」人と「分からぬ」人とがある。
「分かる」人とはマイナスの考え、理性的な観念の屈折に長けたタイプの人であり「分からぬ」人は社會的欲望に洗脳され屈折の無いプラスの理性=獣性に捉えられた人々のことを言う。
つまり、「やる気」があり「頑張る」ことでむしろ其の観念的に推進される獣性をより強めて行って仕舞う訳だ。
其の「やる気」があり「頑張る」ことはむしろ社會的にしてはならぬことなのだ。
其の「やる気」があり「頑張る」ことはむしろ個の範囲で其れをやらねばならぬ。
非社會的な頑張り即ち「対物」的な頑張りは人間の欲望を不必要に刺激し肥大化させることなどまず無い。
だが社會的な頑張り即ち「対人」的な頑張りは人間の欲望を不必要に刺激しやがては肥大化させることであらう。
また其れが所謂「群衆心理」の問題でありかって哲學者オルテガが述べたところでの大衆的価値観の蔓延の問題でもある。
故に基本的な心のスタンスとしてはむしろ「人の眼を気にせず」生きることの方が第壱義的なものとなり眞の意味での自己の形成にも繋がる訳だ。
そんな「人の眼を気にせず」ウンコを垂れろとさう仰いますが恥ずかしくて學校や會社の便所では大便をすることなど出来ません。
だからまずはソコが病気だ。
逆に何処でも誰に見られて居ても是非クソを垂れてみよ。
無論のこと野原があれば其処でもってウンコを是非してみるのだ。
「やる気」があり「頑張る」ことはむしろマイナス方面としての個の範囲でやれとさう仰るのですか?
また抽象的な欲望の達成は個としての範囲に留めよと?
例えば宗教でも組織化されればされる程に教祖の説く眞理が捻じ曲げられ体制維持=現世利益維持への社會性へと組み込まれて仕舞う訳だ。
社會と云うことの根本には其の社會的自我による社會的に規定される欲望=群衆心理=大衆的価値観なるものが拡がって居る。
まずは其れを制限せねば認識を正すこと即ち馬鹿を治すも何も無くなる訳だ。
だからさうした集団催眠を催すやうな価値からはなるべく自己を遠ざけた方が良い。
道元禅師はかって最終的に禅の道場として人里離れた山國を選んだ。
其れは社會生活と壱度決別した上で眞理を探求すると云う心掛けの意味でもまたあった訳だ。
禅は其の意味ではまさに脱俗的である。
然し浄土眞宗は逆に俗的である。
で、禅宗はまさに考えに考えた末に観念其れ自体を放棄し禅定のみを重視する訳だが浄土眞宗はそも観念を設定せず代わりに「南無阿弥陀佛」を唱える訳だ。
其れもまた観念放棄の様であるが只釈尊御自身はあくまで観念による相対分別を自ら超越するが為に観念放棄を説かれたのであり其れは観念が無価値だとさう説かれたのでは無く其れは眞の意味での観念には非ずとさう説かれた可能性が高くあらう。
さて其の眞の意味での観念には非ずでの価値観をどうしても社會は個に対し強要することとなって仕舞う。
だから例えば僧では無く仙人の方は山の奥へと逃げて其の社會とは交わらうとは決してせぬ訳だ。
其の俗化即ち世俗化が進めば社會に於ける価値観其のものが低俗化されるに及ぶことだらう。
低俗化即ち価値分別が幼稚化し次第に其ればかりが強調されやがては社會全体が精神的な価値を見失って行く。
現代社會では今やあらゆる領域にて其の白痴化=馬鹿化が行われて居ることだらう。
人の眼を気にする、また異常に人と繋がりたくなるのはズバリ其の自己の無知化が行われて居るからのことだらう。
逆に眞の意味での自己を見出した人、世界の理に気付きし人は孤独をむしろ愉しみ其処に遊ぶ術をさえ持って居る。
其れもまるでわたくしの如くに。
其の人間の持つ抽象領域が個の範囲に留まるうちは其れが外部ー環境ーとの酷い摩擦を生み出さず理性とさうで無いものとのバランスの崩れを引き起こすことなどもまた無いものと考えられやう。
だが人間の持つ抽象領域が社會化された上で暴れ出すともはや其れを止める力は何処にも存せず従ってかってのナチスドイツや大日本帝國のやうなことと必然として至る他は無い。
重要なことは経済成長や宇宙開発、また技術開発などの社會的価値であり目標とされるものに対してむしろなるべく疑惑の目を向けて置いた方が良いと云う点である。
もしも其れ等のプラスの価値観が誤って居た場合に其処ではまさに取り返しのつかぬ破壊が生じて仕舞う虞が多分にあるからだ。
だからそんなもんを信じて居てさてもどうするのだ?
信じるならむしろ其れに違和感を抱き続けて来て居る自分としての感覚と理性を信じよ。
左様に此の世のことはむしろ間違いだらけである、とさうマイナスに或いは否定的に捉えさう捉えることでこそむしろ自己の領域の方を堅固に構築して行く訳だ。
そんな構築主義はもはや時代遅れですよ。
いや今に遅れも進みも無いよ。
事實上「今」は過去としての堆積物である。
其れは浪漫では無く現實である。
其れも観念の創る現實としての「今」である。
近代社會は只ひたすらに利己的な「今」の利益に拘って来た。
だが其処に拘れば拘る程に搾取や収奪を繰り返し己自身を空しくすることにはついぞ気付けなかった。
だがそんなものは釈迦やキリストが禁じて居たことばかりである。
おまけにやりたい放題をやればやがては追い詰められ未来を失うことさえ良識ある者には分かって居た筈だ。
なのにこんなんなって仕舞ったのは其れは何でか?
其れは畢竟我我の利己主義によるものだ。
さても其の利己主義に於ける「我」とは何だ?
其の「我」とは非我である。
其れも社會が築き上げし幻想としての非我だ。
つまりは社會が悪い?
つまりは社會が悪い。
だがさう思いつつ半分死んで生きて居ること自体は正しい。
さうして半分死ぬる為には是非社會と距離を取らねばならない。
勿論其れは物理的な意味ででは無く心理的に其れと距離を取らねばならぬ訳だ。
「世捨て」とはさうして眞理を見詰んが為の必然としての場なのだ。
だが其れを實行出来る人はまず居ない。
居ないにも関わらず其れは屡語られて来たところでのものでもまたある。
何をどうするか?では無く何をどうしないか?である。
いつやるか?今でしょ、では無くいつやるか?多分明々後日。
でもって全然宜しい。
最終的にはたとえ死んでもやらぬ位の観念的根性を是非鍛えよ。
何故なら先に述べた如くに「馬鹿は死んでも治らない」からなのだ。
其の馬鹿は君の馬鹿やワタシの馬鹿と云うことでは無しに人類の馬鹿、文明の馬鹿、集団の馬鹿、大衆の馬鹿と云うことだな。
つまり君の馬鹿やワタシの馬鹿はたかが知れて居ることなのだが人類の馬鹿、文明の馬鹿、集団の馬鹿、大衆の馬鹿は最終的に比べるものが無い比類無き馬鹿と云うことなので謂わば其れが宇宙壱の馬鹿と云うこととならうかと思う。
では宇宙開発だのゲノム編集だのまた情報過多社會などが皆其の馬鹿洗脳社會の具体例なのですか?
また良いところに気が付きましたね。
君はもう其れをこそバカにしておやりなさい。
さうしてみんな猛獣共に食われて仕舞えとさう思って居るべきです。
すると君の目の前にイキナリデカい🐻が出た!
それでは是非其の空腹を充たしてあげませう。
バリッ、バリバリバリバリバリバリバリッ。
ご愁傷さまです、どうもごちそうさまでした。
馬鹿はかうして食われてみて初めて治るものです。