目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ハイデガーの哲學に絡める僕の今

43.ハイデガーの哲學に絡める僕の今

 

 

 

 

さて現存在ー實存ーが食って寝て學んで且つ元気に生きて行くこと程大変なことは御座りません。

其れは動植物にせよ同じことで故に人間もまた只の其の動物の仲間です。

 

其の學びが否応無く入るのがインテリの生き様なのであり普通はー庶民はー其の學ぶ代わりに👩や酒、さらに旅行やギャンブルなどが入るのです。

尤も大酒飲みの作家はむしろ多いのではありますけれども。

 

尤も我の場合は参拾歳位から酒は壱滴も飲まず其の代わりに菓子を食います。

本日もスギ薬局にて美味い菓子を買って来て食いましたが其れは體を保養する為のものです。

 

此の四月は半端では無く痛い歯の治療を繰り返して来ても居るのでもう體が悲鳴を上げ続けて居る。

此の侭では人類を助けるだけの観念論議が出来なくなる虞がある。

 

 

でも其れでは人類にとっての大いなる損失でせう。

さう我は今K先生を信じて積年に亘る不摂生にて悪化した歯の病と闘って居る。

 

ですが壱番問題なのは此の弐月に「どうも状態がヤバいのでまた診て下さい。」とさう訴えたにも関わらず見当違いの治療を行いしアノ若い歯科医でせう。

お前のことなんぞはまさに實名でもって晒してやっても良いが僕は意外と優しく事勿れ主義ですので其処はとりあえず不問にふして置きます。

 

昨日は大変な治療にも関わらずK先生はテキパキと抜歯と縫合をこなされた。

意外と術後の経過も良く酷い痛みも出ず顔の腫れなどもほとんど出ずであった。

 

まさに歯科医は腕であり経験です。

其のK先生を信じて歯を治せばまた美味い物が普通に食えることだらう。

 

 

壱時期は菌があちこちに回り食道や首、耳にまで痛みが出てさらに口の中はひどく腫れて居ましたが其れも何とか収まった。

ちなみにK先生の師匠がI先生で我もまた其の藤の壱族ですのでつまりは藤の連帯だと云うことでせう。藤 | くすきの杜 (kusukinomori.com)

 

 

其れでもって治療の前に相生山の徳林寺の裏手に当たる方面を時間潰しに歩いて居たら初めて見るガレ場「ガレ場」の意味や使い方 Weblio辞書に出食わしまた其処でもって近く石拾いが出来そうだ。

しかも其処は眺望が効き主に天白区や緑区が壱望出来ます。

 

ですが昨夜はまた少し大変でした。

痛み止めや抗生物質を飲みおまけに眠剤やPL顆粒を飲みで兎に角薬浸けの夜です。

 

 

でもって腹が減って歯が悪くとも食い易いのが「割子うどん」であった。

 

商品案内 岡井食産(okai-syokusan.co.jp)

よって其の「割子うどん」と「割子そば」を今日の朝壱番で買って来た。

 

ところが朝壱番のスギ薬局はむしろ壱番混んで居る訳だ。

コロナ禍にてかうして大衆の意識に変化が生じて来て居て、其れも昔は見向きもしなかったやうな価値や時間帯にむしろ大衆の欲望が集中するやうにさえなって居る。

 

 

其の「割子うどん」と「割子そば」はそれぞれスギ薬局で税込み105円で売られて居る。

だから沢山買ってもお安い訳だ。

 

でもさうして朝買占めに来る馬鹿が居るので昼過ぎに行くともはや古い商品しか残って居ない。

兎に角其れがさうした病気の時には特に素晴らしい食品です。

 

「割子そば」には練りワサビが付いて居るのだし「割子うどん」にはおろしショウガも付いて居る。

尚歯は矢張り痛い訳ですので米を食う気にはなかなかなれぬのです。

 

要するに噛まずに食えるやうなものでもって今我はさうして命を繋いで居るのである。

 

 

さてハイデガーの哲學をもっと細かく論じたいところながら今は心理的な余裕が無く大筋でしか触れられません。

 

ですが哲學が何か超越性を持った非常に高尚なものであるかと言えばあくまで我我哲學フェチに取っては必ずしもさうではありません。

確かに精神の方向性だけは高尚は高尚なんでせうが当の哲學する者はむしろ相生山の石やら奈良の「割子うどん」と「割子そば」にさうして感動を覚える訳なのでして其れ等よりも哲學の方が遥かに上だなどとはまるで思って居ないものなのだ。

 

要するに観念に対する価値解釈がチョット違う訳で其れはまさに宗教家による価値解釈が世俗のものとは違うことに良く似て居ります。

 

ですから哲學なり宗教なりまた藝術と云うものは其の種の世俗的価値ヒエラルキーには属して居ない世界観なり価値観のものであるとさう考えて置くべきことでせう。

つまりは大衆的な価値観に属さない価値の世界を其処にあえて生きるものと思って置けば良い訳だ。

 

 

其の観念を生きると云う意味では自然科学もまた医療の世界もまさに其れをこそ生きて居る訳だ。

なのですが、其れは理系即ち合理的な意味での其れも最終的には技術の世界のものですので所謂人文系の観念とはまるで違うものとなる。

 

故にむしろ其れは根本的に違います。

ですが所詮は人間が考えることで成立させる世界のことですので壱括りにすれば同じく「人間臭い」営為です。

 

 

其の「人間臭い」のが生理的に我はイヤなのですがさうかと言ってイザ病気になれば命を助けて呉れるのは其の近代医療であり其れを成り立たせて居る道具であり技術です。

人間とはさうして常に特殊な世界を生きる者のことです。

 

其れも自然から観察すれば其のやうに見えるが人間の側から其れを見詰めれば其れは不思議なことでも何でも無いことに終始する。

しかも其れをみんなでもってやれば至極当たり前のことばかりか、いやむしろ其れをやらずに「俺は自然に生きるのだ」などと言って居れば病状が悪化しやがて死に至るのです。

 

 

「俺は藝術家なので君等とは違い精神が高尚に出来ておる。」

でも其れは精神がチョットばかり違うだけのことで體の方の出来が違う訳では勿論無い。

 

なのでかのムンククリムトスペイン風邪に罹りクリムトなどは其れがもとで死んで居ます。

かうして藝術家とは昔から病の巣窟であり同時に精神の病の方の巣窟でもまたあった訳だ。

 

ムンクも矢張りと言うべきか精神病院の御世話になって居る。

さうして藝術家もまた世俗の価値観、所謂常識的なものの見方をあえて離れて行く生き方ですので病になり易いばかりでは無く気が狂い易くもなるのです。

 

 

また科学者なども結構気が狂い易くなるものです。

だから藝術家や科学者は偉いなどと思って居るべきでは無くむしろアレラは全てが変人であり変態だ、とさう思って置く方がより正確に其の實態を見極められることだらう。

 

なのですが大衆は大衆でまた気が狂って居ると例えばハイデガーなどはかって述べた訳です。

 

ハイデガーは廿世紀最大の哲學書とされる『存在と時間』の中で近代社會を生きる大衆が抱える根本的命題に就き論じて居ます。

尚此の本は現存在としての「世人」が抱える本質的危うさに就き言及したもの=「存在」に就き論じたものでハイデガー自身に時間が無く「時間」の問題に対し言及したものではありません。

 

 

然し其の大衆への認識は近代社會を成り立たせて居る社會的構造其のものへの批判的な哲學を形成するものとわたくしは見て居る。

まさに其れは近代社會がさうして成り立たせて居る大衆社會其のものへの深い洞察であり同時に危惧なのです。

 

其の大衆社會が抱える根本での問題点はまさに今ゼレンスキー政権の成立と云う形でまたソーシャル・メディアの蔓延と云う形で具現化されて来て居ることだらう。

けれども多くの人人はむしろ其れをこそ擁護することでせう。

 

ですが個人的にはあくまで其れ等には反対します。

即ち我は反ゼレンスキー政権であり反ソーシャル・メディアの立場をあくまで貫きます。

 

まさに其れが大衆社會が生じさせたものとしての無自覚な暴力や無責任さに対する否定であり批判です。

 

 

「赤信号 みんなで渡れば怖く無い」

 

さうだったのか!

では早速みんなでもって渡らう!

 

キキキキー、ドッカーン。

 

嗚呼さうしてみんなが轢かれたぞよ。

 

知床の沖でさうして遊覧🚢が沈む。

ドッボーン。

 

結局みんなで行くとみんなが死ぬのだ!

つまりは誰壱人助からぬ訳だ。

 

 

さうしてみんなで行くことはある種安心ですがむしろみんなで滅びる可能性を常に有して居ます。

 

ところがさうした大衆的価値観に同調せずあえて「俺は藝術家なのでつまりは精神の貴族だ」とさう思い自分勝手に生きて居たところもう奥の歯の方が手遅れに近かったのです。

でも其れを名医K先生が今治して下さって居ます。

 

さうか、コレはもう相生山の神が我を御救い下さって居るのだ。

我はすでに相生山の眷属となって生きて居り其れは佛法以前でのアニミズムの神として我をしてさう従わせて御座る。

 

 

さてハイデガーは人間は「今、此の瞬間」のみを生きるものでは無く過去と云う記憶を辿りつつ未来を見通しつつ生きて居ると述べる。

であるからこそむしろ本来的な自己を生きられぬのであらう。

 

かうして『存在と時間』は何より「人間とは何か?」と云うことに就き深く考察を重ねた哲學的著作である。

 

「現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身ではないかという、自己自身のありかたの[二つの]可能性によって、自己を理解しているのである。」

 

自己を自己自身として理解する=本来性を生きる自己=精神の貴族=責任を負う自己

自己を他者による規定に従い理解する=非本来性を生きる自己=大衆的な精神=責任を負わぬ自己

 

 

無論のこと精神の自立性を保ち生きて居るのは前者の方です。

ですが何度も申して来て居りますが本来性を生きる自己には多大なる精神的負担が常に掛かり其れが體を蝕む方へと大抵の場合は進むので長生きはしにくくなるのです。

 

逆に後者のやうに大衆其のものを生きれば長生きはし易くならうが精神の方はたとえ死んでも自立出来ずに終わって仕舞う。

畢竟其れもまた現存在としての選択と云うこととなります。

 

其れもまたレヴェルの差がある訳ですが例えば南 直哉師の如くに實存が選び取る眞理方面への探究が深ければ其れは明らかに前者の理解であり認識をこそ選択して居るのです。

また我等も其れにはまるで及ばないがあくまで精神の傾向としては前者のパターンを選択しつつ自己としての今を生きて居ます。

 

 

結局は、

 

本来性=自己本来のあり方から自己を理解する精神の向き

非本来性=自己を他者からの視点でもって理解する精神の向き

 

なのだらう。

 

するとまずみんなは違和感を其処に持つことでせう。

何だ、じゃあ學校や會社でもってまた家庭や共同體でもって演じて居る我等の努力をよりにより哲學は馬鹿にするのか?

 

さうなんです、實はもう思い切りバカにしてまーす。

其のみんなを馬鹿呼ばわりすることこそが哲學の重要な仕事の壱つです。

 

 

またハイデガーに限らずオルテガなども、そも大衆社會による価値構築の流れが文明を壊す元凶だ、位のことをかって言うて居ります。

だから馬鹿はもうどうしやうやうも無く馬鹿なんですう。

 

でも皆様はまさか自分が其のおバカだとは思いたくは無い筈です。

まあボク自身も其のおバカだとされる位ならもう死んだ方がマシです。

 

但し本来的自己が非本来的自己となる場合もあり逆に非本来的自己が本来的自己化する「可能性」-ハイデガーの概念-が常に存して居る。

 

 

其の「人間とは何か?」と云う問いは哲學のみならず宗教や藝術の世界に於いてむしろ普遍的に存して居る問いのことです。

但し科学や科学技術、また医學などの分野ではむしろ其の精神的な問いを脇に置く形でもって實利的な成果を求め続けて行く。

 

逆に申せば人文系の學問とは「ほんたうの人間の姿」を曝け出さうとする試みなのであり實利的な成果とは丁度正反対の問いであり悩みであり精神的格闘のことだ。

ですから其れはまさに文人の精神の格闘のことであり眞理へ到達せんが為の精神の荊の道のことなのだ。

 

 

其の人文理性が志してやまぬ「人間とは何か?」と云う問いは現代人に取りあくまで抽象的に示されるものでありさうして實利性には欠けた空理空論のやうなものと思われるのかもしれません。

ですが其の解釈はおそらく誤りです。

 

本来ならば「人間とは何か?」と云う問いから発した価値であり認識こそが所謂正しい価値観であり認識を育むものなのではないか。

故に狂的な且つ虚的な価値なり認識を去り其のやうな自律的な認識を形作るー構築するーことが価値観や認識をパラダイム・シフトし視界を晴らさんが為の精神の要諦であり眞理への唯壱の道です。

 

 

さて父ちゃん、「人間っていったい何?」。

「まさに此の父ちゃんを見よ。かうして行きたくない會社でもってコキ使われおまけに不細工な母ちゃんにも足蹴にされつつ…。さうされつつもお前を食わさんが為にかうして必死コイて働いて居るのだ。」

 

「さうか、人間って結局さう云うものなんだ、其れにつけても偉いなあ、ボクの父ちゃんは。」

 

だから其れは生活者としては常に正しいのだが哲學者としては大間違いなのだ。

 

ハイデガーはさらに現存在への現象學的なアプローチを『存在と時間』の中で試みて居る。

元より「人間とは何か?」と云う抽象的な問いが「役に立たない」思考だとさう世人=大衆的な認識の次元は思い込んで居る。

 

だが其の抽象的な問いを「世界」=環境=「世界内存在」と関連させ具象化することが實は可能である。

第壱我なんぞはまさしく常に其の「世界内存在」としての實存的価値をこそ今生きて居る。

 

 

だから歯医者もまた相生山も奈良の蕎麦や饂飩も全てが其の「世界内存在」としての實存的価値なのであり全てに対し手を抜いてはイケナイ哲學的対象其のものなのだ。

でも其れ何だか大袈裟過ぎてもしやアナタは半分位頭が狂っては居ませんか?

 

いやむしろ人間の頭は半分位狂う位で丁度良い塩梅なのだ。

だから逆に狂わぬ君等の頭の中身こそが洗脳の産物=非本来的自己其のものだ。

 

 

ハイデガーの頭の良いところは、さうして人間を世界から引っこ抜いた抽象的概念としては決して捉えぬところです。

ですから其の本来性だの非本来性だのと云った現存在の形式もむしろ具體的にさう提示されるものです。

 

でも何だ、そんなもん!

結局僕等庶民をバカにしお前等は人間として非本来的な洗脳野郎共ばかりなのだから馬鹿は馬鹿として大人しくしていろ!位なものでせう?

 

良く出来ました🌸、まさに其の通りです。

 

ですがね、インテリはインテリでまたかうして精神的に苦しまねばならぬのだし其れに體が弱いので七拾位迄に皆死んじゃいます。

さうなったらむしろみんなの天下ではないですか!

 

嗚呼、みんなでもってさうして赤信号を渡って行く其の天下こそがおおまさに此の世の春の様でせう。

 

 

ところで宗教詩人さんは壱體何を求めて生きて居るのですか?

其の「人間とは何か?」と云う抽象的な問いをあえて具象的に問うと云う壱種の離れ業の中に生きでも見た目は単に歯医者に歯を抜かれヒイヒイ言ってるだけのことで且つ相生山を変質的にうろつき回り時には其処でもって小便を垂れたりもするのでせう?

 

其ればかりか朝から堂々とスギ薬局へ出向き奈良の蕎麦類を買い占めて来る訳ですね?

其れの何処が宗教なのだ、また哲學なのだ?

 

いやだから其れが宗教であり哲學には見えぬ君等の認識其のものこそが非本来的自己としてのあり方其のものなのだ。

僕の場合は現象と哲學が常に密接に結び付く認識をあえてして居る訳だから世俗の価値とはほとんど関係無く本来的な自己の世界、其の小宇宙の世界を常に漂いつつかうして生きて居るのだ。

 

 

さうかなあ。

何だか半分頭の狂った爺にしか見えて来ませんよ。

 

さうかなあ、でも半分頭の狂った爺と云う御評価だけでもう僕は其れだけで充分です。

第壱かうして名医により命が助かりつつあることだけでもう大感謝です。

 

其れに病を癒す食事としての奈良の割子蕎麦と饂飩にも大感謝です。

其れからおおっと忘れてはならぬのが相生山の神様に対する心よりの感謝の気持ちでせう。