目覚めよ!

文明批判と心の探求と

男と女ー壱 獣性と観念性のことー

東京五輪閉幕 日本人が莫大な授業料を払って学んだ「負の遺産」 社会学者上野千鶴子さん

すっげえ知性です、實際コレには負けさうです。

 

【人生100年時代を生きる】養老孟司(解剖学者・82歳)「“自然”から学び、自分を変えていこう」 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト (serai.jp)

 

「人間も自然に任せ自然の中で生きる」

 

確かにまあ其れが最上等の価値です。

リスク管理の面や持続可能性の面から見れば其れは明らかです。

 

ですが、結局は其れが出来ない。

故に其処で何故出来ぬのだらうかと考えてみざるを得ない。

 

するととりあえずは「洗脳」状態であることが疑われる訳だ。

ですが逆に申せば近代的価値とは其の「洗脳」を基盤とする価値なのです。

 

 

例えば近代啓蒙思想其れ自体が其の「洗脳」を成らしめる為の価値観であり思想です。

さうしてかのルソーが社會契約説を説いたのはさうして大衆を近代と云う型に嵌め込む為の思想に他ならなかった。

 

其の社會契約により近代的國家が成立し我我は至極当たり前に國家の奴隷となって行く訳だ。

ですが当の本人には其の奴隷だと云う自覚さえもが無い。

 

何故なら近代的な法秩序により個としての権利が時代による差こそあれ其処に成立して居るからなのだ。

また近代的な法秩序は時代による差こそあれ國民に安心と安全を保障するものでもまたある。

 

逆に申せば数億にまで膨れ上がった人口を維持するには近代的体制こそが不可欠なものでもまたあった訳だ。

 

實はかうした部分にこそ眞の悩み、理性にとっての眞の意味での深い闇が潜んで居る訳だ。

まさに其れが理性に於ける自己矛盾と云うこととなるのだと思う。

 

 

要するに其の「洗脳」はさうせざるを得ぬものでもまたあった訳です。

また實は「戦争」もまた社會に取り是非必要なものなのでもあった。

 

故に「戦争反対!」を叫ぶのであれば本来は社會を捨てねば其れは無理と云うものです。

なので私は確かに「戦争反対!」だとも言えるのですけれども。

 

ですが日本共産党がして居る「戦争反対!」とはそも辻褄の合わぬ「戦争反対!」です。

 

 

近代的國家が成立したことでさうして社會のあり方は須らく意識化=抽象化されて行ったのだと言える。

また實は其の辺りからすでに人間社會は後戻りが出来なくなって居る。

 

「人間も自然に任せ自然の中で生きる」

 

故にこのテーゼもまた其の日本共産党の「戦争反対!」と同じ構造での理想論にしかならない。

でも正しいことが述べられて居ることもまた確かです。

 

で、まあ養老先生は結局御歳なのだし自称詩人はまたかうして半分頭が壊れても居る訳ですからまさに言いたいことを言い放つ訳ですが普通は皆様常識人の方ばかりですので眞理をストレートに述べれば述べる程に逆に「変だ」とさう思われて仕舞います。

 

問題は其の「変」なのを含めての世の中だと云うことです。

何故ならあえて固定化、意識化しない価値を模索して参りますと近代其のものに対しアナキスト化するか又は仙人化して行くものなのですから。

 

 

自然的価値とは無意識的な価値即ち本能的な価値でもまたある訳で、ですが其れだけでは實は人間は生きられない。

何故なら人間とは獣其のものでは無いからなのです。

 

人間とは神と獣か又は天國と地上界のまさに中間を生きるべきものなのでせう。

 

ですが眞の意味で理性的な人間は自らの力でもって天國へよじ登ったりはせぬものです。

無論のこと其れは神により其処へ引き上げて頂く訳です。

 

また神が居ない場合には代わりに佛により引き上げて頂く訳です。

 

其れを自分でもってよじ登ろうとすることこそがまさしく倒錯の認識での正体です。

ところが、其の自我意識こそが近代的原理に於いてむしろ必須の選択だった訳です。

 

其処でさてもどうしますか?

と云った御話なのだと思われる。

 

 

ひとつには「自然」其れ自体にはもはや戻れぬにせよ其れから學んで行くと云った観念上の選択は可能であらう訳だ。

 

だから其れをします。

すると次第に世の中がバカらしく思えて来た。

 

だったらまさに其れを世に対し訴える生き方などもまた選べる訳だ。

 

グレタ氏の如くに、また養老先生の如くに、また自称詩人の如くに。

 

ですので、私は今初めて眞の意味で生きられて居るやうな気さえもが致します。

なのですが、其れもまたひとつの観念的反抗の範囲ー非洗脳に於ける自我形成ーでのことです。

 

其の観念的反抗の範囲ー非洗脳に於ける自我形成ーはグレタ氏の如くに、また養老先生の如くに有名人となるか其れとも自称の文人化して行う他は無い。

またはほぼ社會的な繋がりを捨て去り山奥にて独り仙人生活を目指すかです。

 

 

自称の文人化するのと仙人になるのは何せ無名なのでより気が樂かとも思われます。

勿論他には出家などする手もまたあらうかと思う。

 

ですが出家はむしろ宗教教団と云う社會へと飛び込むことなのですからまあ其れも大変なことでせう。

 

さて養老先生もまた結局は大反抗されて其の生の幕を閉じられることでせう。

結局五木先生もまあさうなのだらうが。

 

三島先生が今生きて居られたとすれば九拾代で、八拾代の御二人がまさにこんなでしかも所謂団塊の世代全共闘をやり六拾代はしかしながら果たして何が出来たのだったか?

嗚呼、さうか、まさにオウムの反抗をああしてやりました訳です。

 

 

此の反抗の系譜と云うものが案外大事なものなのやもしれません。

 

さて果たして今アナタは何かに対し反抗されて居ますか?

僕は兎に角もう最近は目一杯に反抗して来たので實際もうアップアップなのですが…。

 

 

養老孟司先生はなぜNHKアナウンサーを叱ったのか | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)

 

其の意味化即ち抽象化される文明世界の問題は善悪や好悪と云った感情レヴェルでは實は解決が付かぬものばかりなのだ。

さうした意味での最大級の問題がまさに地球温暖化による諸問題である。

 

然しあくまで本質的な意味では其の文明による抽象化を食い止めねば我我に未来は無い。

但し其の本質を反故にし科学技術にて問題を誤魔化して行くと云う方法論が無いでも無い。

 

本質論がもはや現代社會に届かぬのであれば其の種の誤魔化しの中での最適解を實行に移して行くことこそが今求められて居る訳だ。

 

養老先生はまた五木先生は畢竟其の本質論者であり本質の履行者である。

何故なら養老先生はまた五木先生は所謂戦争体験を持たれ且つ戦後の価値転換を身を持って経験して来られて居る。

 

 

即ちさうした激動の時代を生き価値変化に対する免疫がおありなのだらう。

 

だが正直なところ其れこそ今上陛下をも含め我我六拾代にはさうした意味での価値の変化に対する耐性など無い。

謂わば我我は至極不器用なのだ。

 

また我我の子の世代ー廿代、参拾代のーはさらに不器用である。

つまりは其れは戦後民主主義と云う価値にしかと洗脳を受けて居るとさう申しても良い筈だ。

 

故に我我はすでに其の本質主義からは遠く隔てられて仕舞って居る。

 

だから養老先生がさうして意味無き部分を大事にして居ない世代を叱ったにせよまるでピンとは来ない筈なのだ。

然しさうだとは言えあくまで理窟的には意味であることと同様に意味無き世界が拡がって居なければ其処での選択は誤ったものとなって仕舞う訳だ。

 

文明とはまさに意味化ー意識化ーの過程であり其処に一種の抽象的樂園を築こうとする作用其のものである訳だ。

だが其の意味化ー意識化ーを全部止めればまさに我我は人間では無くなって仕舞う。

 

 

ところが文明をさらに加速させ続けて行けば行く程に自然からのまた肉體からの疎外感は増し続けむしろ己自身の内なる自然へと刃を向けることにもなりかねぬ。

さうしてまさに因果なものなので因果なものだと人間を観念しかうして詩人は何処までも逃げて行かうとして居る訳なのだが其れって實は当たり前のことではないのか?

 

第壱何でみんなはさうして逃げぬのか?

逃げぬともはや社會もろとも共倒れだよ。

 

自然は自然でもって其れで良い。

だが残念なことに人間は自然其のものでは無い。

 

私はそんな人間が嫌いで仕方が無いが其れー人間が自然其のものでは無いことーは是非前提として認めて置かねば余計に話がややこしくなる。

 

 

尚私は其の抽象化其れ自体ー意味化其れ自体ーが悪いのでは無く其れをやり過ぎなのが悪いとさう前々から思って来て居た。

要するに歯止めの無いところが悪いのであり其れは近代と云う社會の進歩の枠組みに対する批判が甘いか又はまるで為されて居ないので結局其れを変えやうが無かった訳だ。

 

ところがあえて近代の平衡を突き崩せばおおまさに其処にはどんな化け物が潜んで居るものともまるで知れぬ訳だ。

ひとつには其れをまさに左翼思想が目指した訳だったが其れもいつの間にか権威主義体制へと飲み込まれて仕舞ったかのやうだ。

 

 

近代の平衡を突き崩した場合に出て来る化け物<近代をより徹底し科学技術にて地球を何とかする場合に出て来る化け物

近代の平衡を突き崩した場合に出て来る化け物>近代をより徹底し科学技術にて地球を何とかする場合に出て来る化け物

 

さうして結局は其のいずれかを選ばねばならぬことだらう。

 

ちなみに個人的には、結局どちらも選びません。

 

おや、たった今何かが叢へと逃げて行ったぞ。

なあんだ、結局詩人の螽斯が壱匹だけのことだった。

 

 

尚「観念」を離れる価値観とはまさに禅宗が語るところでのものでもまたある。

ですが現代人はもはや其れを學び切れない。

 

何故なら我我は久保田 早紀へのまた宮崎 美子への観念愛を決して捨て切れぬものだ。

ー其れはあくまでアンタの個人的な話であり人類の普遍的問題とはまるで違って居ることだらうがー

 

であるからむしろ其れ故に我我は観念の自浄作用即ち理性による定言命法をこそ信じ歩んで行かねばならぬことだらう。

 

 

ーカントにとっては、こういう直感的なものは道徳ではありません。
あくまでも道徳法則は理性的なものであり、溺れる他者を助ければ自分も共に死ぬかもしれないという可能性を十分考慮した上で、それにもかかわらず飛び込むという選択肢を意志によって選び取るということです。ー

「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と言う時の、道徳法則への畏敬の念です。道徳法則の義務を遂行する動機は、道徳法則そのものを尊敬しているからだ、という端的なものです。ー

感性によって捉えられる経験(後天)的な自然法則と違い、道徳法則は純粋理性による先験(先天)的なものであり、意思決定を道徳的にするものは、この経験に先立つ「内なる道徳法則」なのです。
それは自然法則のように経験的に確かめられるものではないにしても、例えば良心の呵責などのような形でその存在を垣間見ることができます。

以上カントの定言命法とは、具体例で分かりやすく解説・要約する倫理学まとめ | コテンto名著 (kotento.com)より

 

此のやうに母親が咄嗟に我が子を危険から守ろうとする行動は決して理性的なものには非ず。

逆にカントが信じて居たものこそがまさに理性による「道徳法則」への近接でした。

 

つまるところカントは理性の限界を示すと同時にかうして理性にとってのー性善説ーをむしろ信じて居たのです。

 

尚私はむしろー性悪説ー其れも社會性悪説をある程度までは自分でもって組み上げた人間なのですが此のカントによる理性への信仰の部分程心打たれたものはかってありませんでした。

カントの信仰とはまさに其の部分にこそあった訳だった。

 

彼が人間を信じて居たかどうかは分かりませんが少なくともさうして彼は理性を信じて居たのです。

 

 

イマヌエル・カント - エピソード - Weblio辞書

 

かうしてカントは所謂人嫌いでは無く逆に社交的な面もまたあった訳ですが何故か👩を悉く遠ざけて居た訳です。

但し其れは理性的な🚹としての親分級の人ですので当然の論理的帰結かとさう思われる。

 

要するに論理的展開に邪魔が入ってはどうしても困る訳だ。

またバカが移るとより困る。

 

酷え言い方だな…。

いや個人的には聡明な女性の下僕として生きても宜しゅう御座りますのですよ。ー其れも上野先生のやうな女傑のねー

 

只其の秀才👩の割合が非常に少ないので大抵はバカに当たって仕舞うと云うまさにさう云った類での困った御話です。

 

 

ーアルトゥル・ショーペンハウアーは、人生は苦しみの方が多いと主張し、最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだと主張する。 ショーペンハウアーの哲学では、世界は生きる意志によって支配されている。盲目的で不合理な力、常に現れる本能的欲望が、それ自身によって懸命に生み出される。しかし、その性質ゆえに決して満たされない事が苦しみの原因である。存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。 倫理的な行動の本質は、同情と禁欲によって自分の欲望を克服することからなる生きる意志の否定である。 一度我々が生きる意志を否定したなら、この世界に人間を生み出すのは、余計で、無意味で、道徳的に非常に疑問のある行為である[17]。ー


ーパーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。

世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と。— スッタニパータ正田大観訳)

以上反出生主義 - Wikipediaより

 

かうして彼ショーペンハウアーの女嫌いはほとんど完璧の域に達して居り事實屡「👩の敵」などとも呼ばれて居る訳です。

それにしても彼の哲學はもうほとんど佛教のやうなものです。

 

ー世界には喜びより苦しみの方が多い。ー

即ち悲観論でせう。



対して釈尊の方も實は相当に🚺嫌いなのでした。

なので当初は女性が成佛するなどまさに程遠いことであり其れでもって変成男子と云う概念がワザワザ形作られて行ったのでした。


だけれども、其処にもあるやうに「女性は女性として生きるのは煩悩、男性は男性として生きるのは煩悩」Saññoga Suttaより、とのことでしたらつまるところは両極否定ですので女性が女性らしく生きるのは✖で、しかも男性が男性らしく生きるのも✖なのです。


此のやうにお釈迦様の仰って居る事は實は凡人にとりとりあえず意味不明なことばかりなのです。

尚私の解釈ではあくまで此れは「女性が本能を生きてはならないのと同時に男性は観念を生きてはならない」と云うことなのではないかと思う。


尚女性は常に本能ー現實的価値ーに従い生きて居る傾向が強く有り、逆に男性は観念的理想を追い求めるー浪漫としての価値を追うー傾向が強く御座ります。


だから両者は本質的に別ものであり其の侭ではまるで理解し合えぬ人間としての性質なのだらう。

ですが其の子作りこそが両者が居ないとそも成り立たぬ現象なので何故か其れがくっつくやうにまた出来ているのです。



で、まさに問題は以下の部分にこそあります。


ー意識(アタマ)が優先して、感覚(カラダ)が置き去りになってはいないか。現代人はアタマでっかちになっているのではないか。これは『バカの壁』の頃から一貫して養老さんが提起してきた問題である。

「どうすればいいか」を安易に聞く前に、まずは体を動かす。感覚を磨く。外に出る。自然と触れ合う。それで自分がどう変わるかを経験してみるのが大切だ、ということなのだ。ー養老孟司先生はなぜNHKアナウンサーを叱ったのか | デイリー新潮 (dailyshincho.jp)より

 



まさに其れは其の通りのことであり現代人の感覚ー肉體性ーは危険な状態にあると私も以前からさう述べて来て居ました。

されど最近🐈は所詮獣であること知り、また女性は所詮獣なのではないかとの疑念が生じ實は困ったことにもまたなって居るのです。


また酷えことを言ったぞ!

其れは完全なる🚺蔑視発言として立派に世に通じるものだらう!!


いやさうなんですが、さうしてかのカントもショーペンハウアーもまたお釈迦様もー特に初期としての佛法の頃はーむしろ徹底して👩を避けて居られ其れではまるで獣扱いのことでは御座りませんか。

では女性は皆獣であり男性だけが哲學者か又は解脱者だとさう言いたいのだな!


いやさうでは無く、つまりは子宮思考の其の獣染みた部分こそが可成に問題なのです。

と同時に観念的理想の追求もまた同時に可成に問題なのでせうが…。




子宮思考=現世利益主義⇔男性原理=観念的理想の追求=浪漫主義


尚男性による現實的にふるわれる暴力とは實は観念的理想を實現する為の手段であるに過ぎぬことでせう。

最終的に男性は皆浪漫ティストであり故に男性が此の世に生きる目的とはまさに其の観念の成就だけなのです。

ー其れもデカいところではかのヒトラーによる第三帝國の建設や日本の軍部による大東亜共栄圏の樹立なども皆其の観念的理想の成就を目指す為のものであるに過ぎぬ訳だー


即ち其の観念的成就こそがまさに男子としての本懐なのであり、故に三島先生ばかりでは無く宮澤 賢治にせよ太宰 治にせよ結局は其の本懐を遂げたまさに男臭い人達だったのだらう。

なるほどー、其れがまさに子宮思考とはまるで違うものだと云うことなのだな…。


但し此処での大問題は近代に於いて實は其の獣性が観念性とくっつく形にて相互に高め合いより強力なイケイケドンドン主義を形作って仕舞って居る点にこそあります。


即ち浪漫主義が現世利益化しさらに現世利益主義が浪漫化してもおると云うまさに面妖なしかも厄介な現實が生じて来て仕舞って居るのだ。

じゃあ逆に其の部分は分けた方が良いのだと?


結論的には男女としての価値観をむしろなるべく引き離した方が良いのではないかと思う。

また其れはイデオロギーとしての問題では無く自然的摂理としての要請なのだとも思う。



どだい養老先生にせよ五木先生にせよ其の仰って居ることの論理は至極観念的なものであり子宮思考とはまるで別ものとしてのものです。

故に🚹には陣痛のことなど分かるべくも無くまた🚺に所謂男の浪漫のことなどが分かる筈もまた無いのであります。


要するに分担がそも違って居るので其れを近代的ー意識的ーに統合しやうとする試みでの所謂同質化ー同権化ーすることなどはそもオカシイことだとさう述べたのであります。

従って此の論理にて養老先生が述べられたところでの「感覚重視」、「肉體重視」に対する矛盾点に就き少しばかり述べさせて頂きました。



おい、またまた師匠の仰る事に反抗して居るな!!

おまえの頭の中は壱體全體どうなって居るのだ?


ですのでかうなって居ります。

但し其の「感覚重視」、「肉體重視」のことを私自身もかってさう述べて来て居たことです。

なので其れを全否定するつもりなのではありません。


さうでは無く、あくまで其のカントによる観念的理想を引き合いにすれば観念もまた大事、いや観念こそが實は大事なのだと云うことをこそ申し上げた迄のことだ。