目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

養老 孟司先生によるコロナ禍での「認識論」に就いて

菅内閣 「支持」29% 内閣発足以降最低を更新

カンさん、此の際政治家など辞めて故郷でもって畑でも耕してみてはどうだらうか?

さうして畑を耕してみれば土の中よりミミズやモグラが出て来るわ、また🐗や🐻にも襲われるわで政治家であること以上に素晴らしい体験を積むことさえもが可能だ。

 

カンさん、人間はな、さうして土にまみれ額に汗して働いてこその生き物だ。

即ち君のやうに総理大臣をやること自体が間違って居る。

 

さう君の人生は失敗だ、其の全てが間違って居た!

さう君は左翼自然派に是非なるべきだった。

 

ところで左翼其れも極左の人は何故田舎または山奥に引っ込むのですか?

 

だって逃げますもの。

かうして体制の目の届かぬところで思想を磨き戦闘訓練をやり其れでもって革命を目指すのだ。

 

 

では貴方もほんたうはさうしたいのか?

いえ全然。

 

私はむしろ自身を平和にせんが為に山へと逃げて行くのです。

ですから此の私の知性を寸毫も文明の為になど使いたくは無い訳だ。

 

 

まあある意味では其れも徹底して居ますね。

でも何でそんなに文明嫌いになりましたか?

 

其れは御勉強したからです。

沢山の其の種の本を読み其処でもって知識を仕込みついにかうして世捨て人となりましたのです。

 

 

何でそんなに御勉強したのですか?

まあひとつには👩に触らなくなったからだ。

 

何故なら👩に触る限りは深い意味での御勉強など出来ません。

其処ではつまり其の👩中心に生活が回るやうになりますので革命も宗教もクソも無くつまりは精神が低次元な方へと堕落して行きます。

 

 

但し其処で何故か食い物には困らなくなります。

例えば宮澤 賢治のところへ押しかけた女教師は🍛ライスを作ったやうですが賢治は其れを食わなかったやうです。

 

でも其の🍛ライスは是非食って置くべきでしたね。

ちなみに私は其の🍛ライスさえあればもう他に食いたいものなどは何も無いのです。

 

其れも野菜カレーなどは最高ですね。

野菜カレーが壱番體に良くしかも美味い。

 

結局久保田 早紀か又は宮崎 美子に其れを作って貰いたいのですね?

まあさう云うことです。

ですが何なら自分でも作ります。

 

ハイ、かうして玉葱とジャガイモを剥いて…。

 

 

 

賢治はさうして女教師も🍛も食わず壱體何をしやうとして居たのですか?

其れは法華的世界観の広宣流布でせう。

 

即ち可成に観念的な目標です。

ですので其れはひとつの宗教的闘争です。

 

ですが三島先生の場合は政治的闘争であった訳です。

なのですが共に観念的な闘いであり努力でもある訳でつまりは共にインテリジェンスが齎して居るであらう闘争のことです。

 

 

ですが私の場合特に最近は其の観念的闘争其れ自体に疑問を感じ始めて居ます。

宗教的闘争もまた政治的闘争もまさに其の観念としての理想を追う動きのことですが其れを成就することなどほぼ不可能に近い訳だ。

 

また法華的世界観が正しいものであるかと云うことさえもが實は分からない。

さうして此の世での価値は所詮分離し且つ矛盾化する価値ですので正しいとされるものが信仰其れ自体以外には實は存在しない。

 

 

イザ信仰すれば其れは常に正しくもなりまた救われもすることだらう。

ですが信仰が消えれば其の相対的ニヒリズムが其処に復活するだけのことだ。

 

相対的ニヒリズムは主にインテリ層の頭を常に悩ませる實存への攻撃であり苦の巣窟です。

インテリ層は其の相対的ニヒリズムにドップリ侵され其処に生きるか死ぬかの観念的闘争を開始する訳だ。

 

でも其の闘争はどちらかと言えば死を招くやうだ。

其処でもって死んじゃう可能性が高くなるのでほんたうは是非其れは止めて置くべきものだ。

 

 

止めてどうするのですか?

かうして観念的懈怠をあえて生きて行くのです。

 

其処に観念を捨て中國のペンなどと戯れつつ只遊んで居れば其れで良いのです。

では其の遊びこそが仕事だと言うことですか?

 

観念は所詮仕事にはならぬとさう観念し「放棄」の立場にこそ至れば其れでもって萬事宜しい訳だ。

 

 

詩人さん、観念上の仕事が全部✖だとすれば其処に文明の価値観は崩壊して仕舞う筈ですが…。

いや、でも其れは私だけがさう言って居るのであり文明の価値観はあくまで其の倒錯の認識により継続されて行きます。

 

 

倒錯の認識?

…でも酷い言い方です。

 

まるで酷くは無いですね。

例えば養老 孟司先生などはもっと酷いと云うか過激なことを申されて居ますよ。

 

例えば最近NHKの番組で文明のことに就き「ロボットの電源を切る」ことこそがより良い社會を創る為の秘訣だとさうも申されて居ました。

 

結局養老 孟司先生は何でも言っちゃう訳ですね。

全くのところ過激な知性其のものです。

過激な八拾代は然し決まって恰好良く私には見える。

 

でも「ロボットの電源を切る」とは文明を止めろ!と云うことに等しいのではないのですか?

 

だって文明は是非止めるべきなのでさう仰っただけのことであるに過ぎぬことだらう。

より正確には文明による「倒錯の認識」を去り新たな認識世界に到達せねばまず人類のやり直しは難しいことだらうから。

 

決まって作家の方々や詩人の方々がいつもそんなことを仰るがでも此の文明はまさか間違ってなど居ない。

むしろ文人の人々がものを言う其の感覚の方こそが如何にもズレて居ます。

 

いやさうでは無いですね。

残念ながらさうでは無い。

 

 

何故なら作家や詩人の認識はとても鋭く其処でまず間違わぬものだからなのだ。

原理的にはまさに直観したことを其処に述べる訳なので大抵はそちらの方こそが正解です。

 

逆に申せば社會の価値観はさうした直観的解釈では無くあくまで現世利益としての功利主義により抽象的に組み立てられて居るものだ。

ですので其れは近代社會としての枠内では確かに仰るやうに間違いでは無い。

 

ですが自然に対してはむしろ大間違いである訳だ。

其の自己矛盾の様をこそ近現代史の御勉強の部分でもって是非確りと學んで置くべきだらう。

 

 

バイ・アメリカンの衝撃、日本は内需主導型経済への転換を急げ (msn.com)

 

全く其の通りです。

ー日本の製造業はまさに米国と中国の輸入に支えられてきたわけだが、この巨大な市場がとうとう間口を閉じようとしている。ー

ー国内消費市場で経済を成長させる内需主導型経済へのシフトが必要ー


其の内需主導にて其れこそ循環型経済のやうなものとし場合によっては保護主義へとシフトして行っても良い。

グローバル経済は今後訪れる國ごと、地域ごとでの危機に対し対応出来るやうなシステムには決して非ず。

 

要するに自己利益ばかりを求める儲け主義であり且つ其の土俵の中に日本の企業を完全に入れれば早晩日本の経済が崩壊する虞さえもがある。

 

 

養老孟司先生の入院 「野良猫」は決して「家猫」にはならず したたかな大人の患者として | ヨミドクター(読売新聞) (yomiuri.co.jp)

 

養老先生によるコロナ禍への認識は相変らず素晴らしいものです。

 

養老先生は自然科学による方法論や哲學的な思索を駆使されすでに独自の文明批判のスタイルを確立されて来た方です。

實際に此処拾年ばかりの間私は養老 孟司先生の考え方に大きく影響を受けて来て居る。

 

いやでも根本的にはさうなのでは無く或は「降り方」が良く似て居るのか其の部分で何かしら共鳴出来る部分があるので先生の著書を定期的に読み返したりして居る。

ですが私はむしろオンリーワンでのタイプの人間ですのでものの考え方や感じ方もまた其の通りにオンリーワンであり外部からの影響でもって其処が変えられる訳ではありません。

 

ですので私の文明論はまさに私だけのものであり神のものでも佛のものでも無くまたどんな文豪のものでも無くましてや養老先生や五木先生に大きく影響を受けたものなのでも無い。

 

 

ところでおまえは何でそんなに所謂「自我」が強いのだ?

ソレ、ズバリ言って病気だぞ。

 

少なくともおまえは佛教徒には非ずだ。

ひょっとすればおまえはキリスト教で言うところでの👿のやうな奴なのではなからうか?

 

 

まあ可愛い小👿だと是非さう思って置いて下され。

其処を佛教的に申せば可愛い壱修羅です。

 

アノ「春と修羅」に於けるまさに修羅のことだぞ。

 

すると君はかの宮澤 賢治と同じ道を歩いて居るとさう言いたいのだな?

いやさうでもなかったのですが何故か次第にさうなって来て仕舞ったのです。

 

なのですが私の場合「利他」にはまるで生きませんので彼賢治とはまるで真逆の道を歩き其れでもってかうして長生きしてもおるのです。

 

なる程、悪い奴程長生きすると云う其の理を今まさに實践している訳だ。

さうなんです。

 

自分はひょっとすると悪い奴なのじゃあないかと最近は其のことばかりが気にかかるのです。

 

 

[ コロナの認識論 ] 養老孟司  字幕 - YouTube

さて今回こちらを視ましたので其の感想を述べてみます。

 

まずは其の「認識論」と云う部分に惹きつけられた。

何故なら私は文明による抽象的な認識のあり方の誤り=人間の認識上の癖を拡大解釈したことによる具象的アンバランス、こそが現在の破壊と悲劇を招いて居るものとさう考えて来て居るからなのだ。

 

であるからこそまさに其れは「認識論」に於ける問題なのだ。

 

其の認識上の誤りは自然科学による視野狭窄=部分的分析知による全体性の喪失の部分からまさに生み出されたものである可能性が高い。

其処で養老先生はー「認識」に於ける不確定原理ーなるものを解説されて居る。

 

其れは「部分を正確に知れば知る程に全体像はむしろぼやけて来て仕舞う」と云う所謂「木を見て森を見ず」と云う論理に拠って居る。

即ち還元知が齎す価値は決して全体性ー全体像ーを復元し得ぬ訳だ。

 

また熱力学の第弐法則の部分を引き合いにされ、「秩序の発生は同量の無秩序の発生を促す」などとも述べられる。

秩序の発生⇔同量の無秩序の発生

 

其処を私の二元論にて解釈すればさうしたこととなる。

都市化⇔不安定化=大リスク化

 

とのことでもまたある。

さうして秩序化即ち意識化は結局二元分裂によるリスクを最大限化するだけのことだ。

 

だから次第に文明では危機対応其れ自体がまるで効かなくなる。

さうして対応出来ぬやうな部分へと自らを追い込んで行って仕舞う訳だ。

 

 

其の都市化は然し意識の望みに従いむしろ「安定化」させる為に其れを行う訳だ。

だが結果的に其れは逆の目が出て仕舞うのである。

 

何故なら其の抽象的価値が自然を省みては居ないからである。

抽象性即ち観念性とはまさにソコにこそ使うべきものでは無く本来ならば文學的哲學的且つ宗教的にこそ即ち自制的、自省的にこそ使うべきものである。

 

其の自然は文學的哲學的且つ宗教的にこそ規定されるべき価値である。

何故なら文學的哲學的且つ宗教的に規定される価値こそが理性による全体性をまさに形成するものであるが故にだ。

 

つまりは其れが詩人宮澤 賢治による「ぜんたひの幸福」の為の認識のことでもまたある。

 

 

さうして意識は秩序である。

其の秩序は膨大なエネルギーを常に消費する。

 

だからまさに其の為に資本主義が∞の消費へと突き進んで行く。

でも自然にはつまり感覚には限界があった。

 

動物等は常に其の限度内で生きるのだが我我人間だけが其れを無視しさうして抽象的価値ばかりを追い求めて行く。

ドッカーン、バラバラバラ。

 

 

いやーやっちまった、確かにどっか間違えて居たがつい頭が悪くて其の誤りにまるで気付けなんだな…。

いやー、苦しい、兎に角今此処こそが地獄だ。

どうかどうか我等を是非お救いあれ、神よ、さうして佛よ!

 

 

 

救いません。

エエッ???

 

今何と申されましたか?

だから助けませんとさう申しておるのだ。

 

何故なら君等をもう見放すことに決めたからだ。

左様に所詮心の馬鹿は救いやうが無いと云うことです。

 

だから神佛の前に出て来るより前にまずはちゃんと勉強して来い!

ちゃんと宿題ー心の修行ーをやり夏休みを是非有意義に過ごして置かねばならなんだ。

 

其の宿題は此処でもってちゃんとやりました。

カルトな旅行も少しはしましたがほんたうは生きるか死ぬかの瀬戸際の気分でもって至極眞面目に夏休みを過ごしましたのです。

 

 

…では救います。

でも余り期待などせぬやうに。

其れもあくまで自分でもってじぶんのケツを拭くやうに…。

 

 

ー社會システムに寄り掛かれば共倒れー

ー民主主義でも共産主義でも腹が空くー

ー寝たら意識は消えるー

ー認識は世界を変えるー

 

との如くに常に示唆に富み且つ面白いことを述べられる養老先生です。

 

「近代化とは意識化、つまりは都市化であり其れには無秩序の排出が必要となる。」

「其の無秩序の排出により温暖化が生じるのは至極当然の道理」

 

つまりは其処でもって秩序的世界ー近代化世界ーが限界を迎える事に就き語られて居る。

 

故に「科学は最終的に世界を解明出来ぬ」こととなる。

また實際に今多くの科学者がさうした結論へと傾いて居る。

 

 

何故なら科学は万能では無くコロナにも勝てずましてや温暖化には為す術が無く出来ることはせいぜいAI開発と火星移住計画位なもので大問題である筈の生物種の絶滅や森林火災などを食い止める術なども何処にもありはしないのだ。

 

其の理性の限度に就いては哲學者カントがかって詳しく述べて居た訳だ。

カントはさうして理性をも信じ切れぬ程に頭が良くだけれども天才故なのか余り悩んだりはせずに規則正しく「日常」を繰り返しさうして理性への批判哲學だけを遺し「コレで良し」と最後に述べ世を去った。

 

所謂観念の世界即ち抽象的価値の世界はさうしてまさに一筋縄では行かぬ伏魔殿のやうなところなのだ。

謂わば學べば學ぶ程に分かり辛くもなるそんな世界である。

 

 

さて、其処で養老先生は「対人」の仕事からは非難せよなどとまた思い切ったことを述べられて居る。

グローバル資本主義にせよ近代教育制度にせよ他の諸の社會的に成就される仕事は主に対人の仕事である。

 

さうした仕事では抽象的理念が価値として硬直化して仕舞う訳でありまさに其処でこそ問題ーリスクーが生じ易い訳だ。

例として近代教育制度に於ける「いじめ」の問題を挙げられて居て、其れは対人の価値のリスク化だと云うやうなことを述べられて居る。

 

対して対物の仕事は危険度が少ないやうなことを仰る。

まさに其れが主に物を相手とするやうな職人や第一次産業の従事者や田舎暮らしの人々なのでありまた文學も自然ー花鳥風月ーを相手にするのが基本だから良いと云うこととなるらしい。

 

またグローバリズムにせよ「対人」的なものはダメで「対物」的なものの方が良いとさう仰る。

 

 

どうも養老先生は我と同じで人嫌いなのだらうか?

其れも元東大医学部教授と云うまさに最高峰での肩書をお持ちの方で其の知性はおそらく日本を代表するものでもまたあることだらう。

 

そんな先生がお好きなのがまさに🐈と昆虫採集である。

其の🐈のまるは結局死んだのであるが昆虫採集の方は多分永遠に続けて居られたい趣味なのであらう。

 

 

尚虫は結局自然の中でこそ輝く命である。

さうして子等が夏休みに色んな虫を採って来る訳であるが、其れは虫籠の中で暫く生きて居るにせよ暫くすると皆死んで仕舞う。

 

其れは人間の住む環境と彼等が生きる場ー自然環境ーの本質的な相違をこそ指し示して居る。

また動物園や水族館と云うものもまた基本的にはおかしなものである。

 

まさに其れは自然は管理出来るとする人間の観念的欲望が創り出した人工物であり自然其のものでは断じて無い訳だ。

 

さて養老先生の著作である「超バカの壁」なる本を本日半日で読み切ったところだ。

養老先生の本は読み易く面白いのだが其の内容は概して哲學的で可成に難しいのだと言える。

 

 

【人生100年時代を生きる】養老孟司(解剖学者・82歳)「“自然”から学び、自分を変えていこう」 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト (serai.jp)

こちらでは上にて私が纏めたやうなことを大体述べられて居る。

 

 

ー「コロナの認識論」でも書いたのですが、「わかる」ということは面倒くさいことで、わかることによってわからないことが増えてしまうんです。ウイルスがいい例です。小さいウイルスの構造がわかるとしたら、同じレベルで人間がわかるのか、ということにつながってくる。ー養老孟司「不安と同居するやり方を覚えるのが成熟」コロナ禍の社会で (4/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)より


分かる⇔分からない

とのことなので分かったからと言って全部が分かる訳では無くむしろ物事が分かって来ると自分の無知に気付き其れに愕然としたりもするものだ。

だからほんたうに物事が分かることとは何も知らぬ自分の無知を分かるやうなものなのであり其れをあえて難しく言えば己が理性の限界を知ると云うことなのだらう。

さうして其のやうに分かった理性は決して威張らずむしろ謙虚に其の己の馬鹿を認め以降は醒めた目にて人間社會を見詰めて行くものだ。


ー学問というのは結局、頭でやっていることです。つまり意識で学問している。ところが、その意識そのものには定義すらない。エネルギーなのか熱なのか何なのか、よくわかっていないんです。AIなんて論理の産物ですから、意識がつくった最たるものです。それをどこまで信用していいのか。ー養老孟司「不安と同居するやり方を覚えるのが成熟」コロナ禍の社会で (4/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)より


學が有るーお利口ー⇔學が無いーアホー

とのことなので、實は其のお利口なのとアホなのがどちらが偉いとはなかなか言い切れぬものなのだ。

但しさうした認識に達し全てを懐疑の目にて見詰めることこそが理性としてのひとつの到達点なのではなからうか。


さうして學が進んで来ると文明其れ自体にも明らかに懐疑的となりまた色んなことを言えるやうにはなるのですが其処でもっていつも自分は利口だと言って居る自称詩人程馬鹿な人間は他に居ない訳です。ー但し本気では無くいつもボケのつもりでさう申して居ますー



ー僕はその辺りの根本が非常に怪しい、と思っている。そもそも意識なんて簡単になくなるんです。1日1回、誰でも寝るときには意識をなくしている。意識の定義すらないのに「コンピューターは意識を持つか」という議論がある。そんな部分が今の科学で気になるところですね。ー養老孟司「不安と同居するやり方を覚えるのが成熟」コロナ禍の社会で (4/4) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)より


其の意識とはそも何かと云うことこそがまさに大問題なのです。

意識には時間が関係して居ると今年私は考えて居て、結局は時間と云う分離を生み出して居る抽象的癖の継続こそが意識なのかとさう思いますのです。


私の場合其の人間の抽象化癖の部分を弐種に分類して居り、まさに其れが具象的抽象と抽象的抽象と云うこととなる筈です。

近代以降の人間の価値観は、


具象的抽象→抽象的抽象

へと移って来て居り、


其の抽象的抽象価値への欲望を如何に抑えるかが人間理性の責務なのだとさうも思って居る。

本物の理性とは常にさうして自己抑制へと向かう筈です。


逆にウソコキ理性の方がもしも暴走致しますとAI開発だの何だのに走る筈でせう。



尚次回は養老先生の自然への考え方を是非見て行きたいと思う。

但し所用の為週末の投稿となる筈である。