目覚めよ!

文明批判と心の探求と

石ころ拾いの樂しさー相生山及び棚山での採集記 Ⅱー

 

さうして山だの川や海などへ行くと何故か石が落ちて居る訳です。

其れに興味が無い人の方がおそらくは多数派なのでせうが、實は此のエッセイにもありますやうに石趣味は自然の奥深さに触れることが出来る稀有な体験なのだと私も思う。

 

尚ユーチューブなどには其の石採りの模様が沢山UPされて居て確かに其れを視て居る分には大変面白い訳です。

ですが主に産地でのものなので其れは簡単に石が採れ過ぎて居るやうな気が致します。

 

逆に私の石趣味は近年都會でのものに限定されつつあり其れも誰も見向きもしない街路樹の根っこの辺りだの誰も下を見もしないみんなが大勢歩くハイキングコースだとかむしろさうした難易度の高い場所にてうわーと言えるやうな石を見つけて仕舞うことだけにまさに生き甲斐を感じて居る訳だ。

 

 

つまるところは石が採れるところで沢山石を採るのはむしろ石趣味の素人がやることでせう。

ですが、産地と云うものもまた確かに凄いものですね。

ー思えば私も以前は複数の産地へ良く遠出して居たものだったー

 

其れにあんなに簡単にメノウが採れるならむしろそちらへ移住したい程のものです。

 

其の石の採取に限らず自然との交感、交流こそが今現代人には最も価値があることとなりませう。

ですが今や其の自然との付き合い方がなかなか難しい訳です。

 

 

田舎ではさうでは無くとも都会人は豊かさの定義をはき違えて居り其処で一体何が豊かなのか、其の根本での価値観の部分でまさに顛倒の度を深めつつあることでせう。

其の具象的なる自然界の価値に気付かされるともはや其れを汚染したり破壊したりするべきものでは無いことに眞の意味で気付いて行けるものです。

 

其の気付きこそがまさに自然への愛の体現なのです。

愛とはさうして普遍化されて行くべきもので社會的に利己的に成就されるべきものでは無いことだらう。

 

自然はいつも只其処にさうして転がって居ます。

只其の事に現代人はまるで気付いては行けぬ訳だ。

 

そんなにも美しいものであるのに、またそんなにも尊いものであると云うのにさうして社會的に洗脳されし人々は其の美しさには決して気付けやしない。

かくして地を愛することこそが自然を愛することなのです。

 

 

でも自然を所有することが果たして愛なのか?

まあ其処を突かれますと痛い部分なのですが本質的には自然もまた物も所有などは出来ぬものなのですから…。

 

所有では無くお借りして居ることだけのことで、また此の身にせよ此の心にせよ所詮はさうしてお借りして居ることだけのことでせう。

だから自分がもしも死んだら其の愛をも放棄してお借りして居た分を御返ししなくてはならない。

 

さうした考え方で良いのではないかと最近の私は思って居る。

其れも生ものでは無く生きて居ないものを愛しもしもじぶんに死の影が兆せば其れ等を全て世界へと御返しするのだ。

 

 

さてエッセイ中の画像にある其の錦石こそは如何にも美しいものです。石ころ拾い

相生山の石英なども(赤)、ピンク、黄、白、(緑)と色のヴァリエーションがあり其れを並べて居るだけでまるで石の花が咲いて居るかの如くです。

尚絵画が好きな知り合いである二人が共に石が好きだったことがあります。

 

また私も其の絵画が好きなので特に其の色の面から主に石には惹かれて居るのでせう。

けれども石は例えば藝術として其処で主張する訳では無い。

 

石には主張だのコンセプトだのが無くまた誰が好きだのおまえなどイヤだなどと云った感情さえもが無い。

まあ元々死んで生きてるやうなものなのでさうなんですが。

 

 

死んで生きて居る?

其れは凄い。

何で死んでるのに生きてかうして多様なものでもあるのだらうか?

 

そりゃ分かりません。

分かりませんので其の自然物こそが神秘の体現なのだ。

 

 

鳳来寺自然科学博物館 博物館の概要

 

三月の終わりには鳳来寺自然科学博物館での奥三河の鉱物展なども見て参りました。

三河の鉱物の展示では特にコモンオパールの素晴らしい標本が出されて居り其れはまさに色とりどりでもってとても美しいものでした。

 

また例の赤いパイロクスマンガン石の結晶などは単結晶の良いものが出されて居りました。

但し残念ながら棚山産のノーブルオパールの良品は出されて居りませんでした。

 

さらに中宇利石に良いものがあり其の濃い靑がとても美しかった。

中宇利石 - Bing images

コレなどはまさに凄い標本ですが果たして本当に中宇利石なんでせうか?

 

私自身其の靑の石がまずは好きなのですが最近はむしろ其の反対の色としての赤い石にこそ惹かれて居ます。

赤い石の方がおそらくは靑い石よりも稀産なのやもしれません。

 

 

第一赤い宝石は至って高価で例えばルビーなどもさうなのですし、またノーブルオパールにせよ遊色として赤が出て居るものが最も評価が高くなる訳です。

 

其の赤はまさに血の色なのでもあり一種の危険色でもある訳ですが兎に角其れをみつけた時の嬉しさったらありません。

尚石の世界もまさにピンキリでの世界です。

 

むしろ筆記具の世界などよりもピンキリでの幅が大きくあり結局は金のある人が良い石を得やすいのだとも言えませうが反面石は其の具象性を採取することの出来る世界なので運が良ければー熱意さえあればー自分にとっての良品を得ることが可能な世界だとも申せませう。

 

上でのエッセイは其の自分にとっての良品を得る喜びを述べられものでありまさに其処が鉱物趣味としての愉しみの本質の部分を突いたものなのだと思う。

要するに石と戯れる気さえあればさうして日本中の何処にでも石は転がって居るのですから。

 

 

 

仕舞った!

危うく言い忘れるところでしたが其の三月の採集時にノーブルオパールの方もひとつだけ採れて居たのでした。

 

其れも庭の捨て石場に捨てやうと思って居た石をたまたま縁側にて光に翳して見て居たところ其処に何やら微細な赤の光が見えうわあもしかすれば採っちまってたのか?

と思い其の小振りの石をよくよく観察してみまするに明らかに其れは微細ではあっても紛れも無い赤の遊色でした。

 

無論のこと其の石は棚山産のノーブルオパールの大きな標本瓶の中へと入りました。

コレでようやく自己採集でのノーブルオパール標本が四つともなりましたのです。

 

 

さて其の自然に関する認識は文明人の場合次第次第に貧しくなりつつもあることでせう。

其れは近代的自我による認識におそらくは何か誤謬が含まれて居ることによるものなのだと思う。

 

いつしか人間は抽象的価値に対し慣れ過ぎて居り逆に實感に対し不感症になりつつあることだらう。

實感とは具象的に齎される非還元的感覚のことであり謂わば其の侭での剥き出しの感覚のことですがそも其処から乖離して行ったことこそが現代人にとっての不幸の始まりだった訳です。

 

よって幾ら金儲けをしやうとまた幾ら虚勢を張り何でも出来るのだと威張り散らそうと其処にて人間はまるで幸せにはなれず逆に不幸せ其のものとなって行かざるを得ない。

其の不幸せである様をむしろ自分達でつくり込んで行く訳だ。

まさに観念的に其のやうな道を選択して行くと云うことだ。

 

其の観念苦と申しますか価値倒錯のスパイラルパターンにいつしか嵌り込んでもはや🐜地獄か其れとも価値倒錯地獄即ち認識地獄へと何処までも嵌り込んで行く訳だ。

 

其れもあくまで社會的にはさうです。

だとすればむしろ其のスパイラル🐜地獄から逃れるのは個としての認識によるものでしかあり得ません。

 

私が社會的営為が成就させる価値に対し懐疑的なのは其のやうな構造的問題ー構造的欠陥ーを社會的自我に於いて常に認めて居るからなのだ。

よってそちらの方に理性としての軸足を置くべきでは無い。

 

其れはズバリ社會の言いなりとなり無制限に突き進むと早晩文明は崩壊すると云うことを述べて居る訳だ。

 

逆に申せば個としての興味の対象は平和なものがまた多い訳だ。

 

例えば大酒を飲む。

アンタ一人が酒で内臓をやられ死ぬるだけのことなので別に其れも良いのでは。

 

例えば複数の👩に手を出す。

アンタ一人がさうした修羅場に入るだけのことなので別に其れも良いのでは。

 

例えば石が恋人となること。

アンタ一人がそんな変態となるだけの話なので別に其れも良いのでは。

 

 

対して社會がキチガイ化するともうエライこととなりませう。

で實際に現代社會はほぼキチガイ化して来ても居りませう。

 

私はそんな狂った世の中が何より嫌いだ。

だからこそ其れと闘う何処までも。

 

かうして観念的に闘うことだけが我我にとり死の間際迄可能なプロテストなのだ。

つまるところたとえ還暦だらうが八十だらうが人間は観念的に闘うことが可能なのだ。

 

齢とって出来ることとはまさに其の観念的反抗のみである。

第一私なんぞはむしろ今の方がよっぽど過激だぞ。

 

 

何故なら若い頃は知識や知恵を統合する為の経験には欠けるがやがては其れが出来るやうになるのでイザさうなれば観念的にはもはや恐いもの知らずなのだ。

 

其の自然への認識としての親和力、感度の維持の為にさうして私はむしろ好んでフィールドへと出掛ける訳だ。

自然が本来持つ具象性としての打算無き様に癒される為にこそ私は好んで其処を訪れる訳だ。

 

尤もさうした部分はなかなか分かっては貰えぬこととは思うのだがあくまでさうなのだからまるでさうしたことなのである。