仰る通りで、石趣味は自然の多様性に触れる為の数少ない趣味のひとつです。
個人的には其れは厳かな趣味なのでもまたあるのだと思う。
其の意味とは、文明による加工品を相手にするよりは自然による其の侭の産物と戯れた方がより感性や肉体性に対し直接的な体験となるが為でのことです。
文明による加工品を相手にばかりして居るとむしろ其の感度がボケ-鈍り-其ればかりか感覚が壊れても来ませう。
と申しますのも自然物とはあくまで具象的に其処に与えられたものであり文明世界での価値観の如くに抽象度が高く設定されたものでは元々無いからです。
其の自分の中の非抽象性、即ち具象的に齎される価値に関し親和性を有するのが自然物への趣味だと云うことです。
其の自然物への趣味でもって此れ迄で一番面白いと思ったのが例えば流木の蒐集の世界のことです。
其れは今から22年も前のことでしたが寸又峡へ旅行へ行った折に寸又峡の土産物屋の御爺さんが店の前で何故か手招きして居たので我我ー私と👩ーは其処へと引き寄せられて行きました。
店の階段を昇ると其処には様々な書籍があり、特に田中 正造全集には圧倒されいや然し此の爺は只者では無いなと其の折にすぐに気付きました。
弐階に上ると其処には様々な流木やまた石ころのコレクションが所狭しと並べられて居ました。
察するに其の仙人然とした爺さんの風体からしてもまさに此の人は相当なインテリ爺さんで趣味が良いと申しますか所謂見識が高くあるのでついこんなんなって居るのだなとすぐに分かりました。
其れで世界各地から集めたと云う其の訳の分からぬやうな木切れやら石やら何やらを兎に角皆見せて頂きました。
其の中には美しい青い石もありました。
其れは近くの川で拾ったとのことでしたが今でも忘れられぬ程に美しい石で實は本心を言えば出来れば盗んで帰りたかった程でした。
其の石は呉れそうも無かったので代わりに何かを呉れと申しますと姿の良い流木をひとつ呉れたので其れを宿へと持ち帰り飽かずに眺めて居りましたものです。
以降廿年以上が経過しましたが其れを屡家にて眺めある時などは庭に出して枯山水みたくに景色を設定し何度も写真を撮ってなど居たものでした。
まさに其の事は我が生涯でもトップクラスでの不思議な出来事でした。
其の後其の👩とは縁が切れましたがアノ爺さんとも其の時以来縁が切れでもむしろ其の事の方が余計に寂しいと申しますか兎に角アノ青い石だけは何とか手に入らなかったものかと今でも良く其の事を思い返したりも致します。
其の流木が今何処にも見当たりませんがおそらく其れは此処拾年ばかり自分の部屋が汚部屋となって居たからで今年からやって居る掃除さえ進めば必ずやまた其れは出て参りませう。
ー其れも色々と仕事上の責任を持たされたりもし此処拾年程は兎に角精神的な余裕がまるで持てなかったが故に大掃除することが出来なかったー
其の石は天河石だったのか或はアクアマリンのやうなものだったのかが判然としません。
但し記憶によると兎に角綺麗な透明度のある石でしたが所謂靑いオパール -コモンオパール などではありませんでした。
自然の力は時に我我をそんな不可思議でもって非日常的な世界へと誘い込むのです。
何故なら我我文明人にとっての日常とはあくまで文明のことー観念的に構築される価値観に基づく文明ーなのですが自然にはむしろ其れを分断して仕舞う作用がある訳ですから其処にスポッと嵌るともう自然物の全てが不思議でもってたまらなく感じられるのだ。
まさに其の寸又峡の土産物屋の爺さんこそが私にとっての非日常の世界其のものでした。
当時すでに八十を過ぎて居るやうな爺さんでしたのでとっくの昔に死んだことでせうが其の人となりはいまだに私の心の中に生き続けて居ます。
さうして私はまさに其の出来事により石趣味の世界へと埋没して行きました。
確かに昔から石だの貝だの何故か生きては居ない美しいものばかりが好きでしたが本格的に石を蒐集し始めたのがまさに其の頃よりだったのです。
流木趣味の世界だのまた鑑賞石の世界だのさらに盆栽の世界だの自然を対象とする所謂爺臭い趣味が御座りますが私の趣味はまた其れとは少し違い要するに小学生の頃の水晶集めの延長の如きキラキラ大好き♡での石趣味の世界のことです。
其のキラキラが大好き♡なのは🚺の方々などもまた多いのですが自分ではまた其れともちょっと違いいや全く違いもっともっと理性的な石趣味である、などとも常に思い其のバカ女共のキラキラ趣味とはまるで違うぞなどと勝手に思い込んで居ますがひょっとすれば其れと大して区別は付かぬのやもしれません。
丁度其の頃杁中の三洋堂書店に鉱物関連の本が沢山並べられて居て其れを片っ端から購入し鉱物採集のことを研究し始めたのでした。
まず其のやうに私の場合は行動では無く其の書籍による下調べこそが大事なのです。
何せかうして全てを計画的に行う人間ですので細部にわたるまで調べ尽くし採集の現場でもって右往左往することの無いやうに採集其れ自体をまずは理論化致します。
其れも理系人間の理詰めでの論理とはまた違いあくまで人文理性の範疇での独自の論理なのです。
さうして石の世界は其の好いた人との別れや父の死などでうちひしがれて居た当時の私の心を救って呉れました。
また元々観念人間である私のややこしい頭の内部をも救って呉れたのだとも思う。
さうです、石はまさに具象的に其処に転がって居るものでした。
人間の其の分裂気味の思考と云うかそんなものとはまるで無関係に其処に只現象し其ればかりか七色の光を放って居て呉れる。
さらに文學苦のやうなものにさえ其の自然が癒しの機会を与えて呉れたのだった。
文學苦と云うか人文苦と云うかそんなものにもまた良く効いても呉れたのです。
だから私は宗教では救われずまさに自然に救われ今があるのだとさう感じても居ります。
さうして私の観念を救うのは社會的活動などでは無く只具象的に自然と戯れることのみなのです。
さて其の「視点論点」でのエッセイの方に話を戻してみます。
まず丸い石がお好きだとのことですが逆に私は角張った石が好きです。
結晶鉱物は其の直線的に構成される結晶面こそが命ですので其処にこそ惹かれて仕舞う訳だ。
其れに全体としては結晶化して居ない翡翠などの岩石や石英の塊などでも何故か角張って居る訳です。
曰く角が立つこと、正論を振りかざし世の中と真っ向からやり合い挙句に顰蹙を受けやられて仕舞うこと。
むしろそちらの方が私の趣味なので兎に角私は其れでもって全て行くのであります。
但し丸い石が嫌いな訳では無く先日も相生山にて丸っこいー楕円形のー良い石を見つけ其れを今握り石にして居ります。
ー角張った石は決して握り石にはならないの?ー
さうでは無く角張った石こそが握って居て至極気持ちの良いものなのです。
故にまあどちらでもイケると云うことですね。
但し私の場合石を風景に見立てたりする趣味は無く其れは逆に一種の擬人化の世界のことなので余り好ましくは思って居ません。
其れでも實際にはまさに山の如き石を例の棚山で幾つか拾い其れは棚山を象徴する石として机の横に飾って居たりも致します。
石はまさに豚の角煮の如き石もあればまるで女体の一部のやうな石さえもがあり其処がまさに変だと言えば変ですが其れを逆に言えばまさに不可思議なところのあるものなのだとも思う。
要するに形態の上での妙と云うことがありさらに其処に色合いの上での多様性があると云う事です。
例えば鉱物學的には同じ化学組成である翡翠にせよ石英にせよ其の色合いはまさに様々に分かれる。
其れも赤、靑、緑、黄、白、黒などと云うやうにまさに色とりどりの変化を見せて呉れる訳で其れを眺めて居るにつけいつまでも見飽きると云うことがありません。
其の原色系での色の変化はコモンオパールの独壇場でよって私が鉱物として集めて来たのはまさに其のコモンオパールなのです。
コモンオパールは所謂💎のノーブルオパールとは金銭的価値の上でまた別物ですが要するに其れもまた鉱物としての組成の上ではまるで同じものです。
其のノーブルオパールと云うのは要するにアノ屡指輪になって居る七色の煌めきを放つ貴蛋白石のことです。
ノーブルオパールは元より非常に美しい💎ですが、コモンオパールの地色の美しさもまた格別なものなのでまさに私はソコにこそハマった訳です。
最近は赤色のコモンオパールの蒐集に力を入れほとんど其れが完成の域に達しつつもあります。
まずは棚山産の赤色のコモンオパールを幾つかヤフオクで求め其れを自己採集の標本と一緒にして小さな一瓶を作りましたが難しいのは大きな赤色のコモンオパールの方の瓶を充實させることでした。
ですが其れも赤瀬産の大きな赤色のコモンオパールを此の度幾つか得、其れをかって得たデカい棚山産の赤色のコモンオパール標本と共に瓶に入れようやく完成させることが出来たと云うところです。
さらに今年の三月には棚山へと久し振りに採集に出向きました。
其処で得られたのが何と其の赤色のコモンオパール標本三つでした。
何故そんなものがよりにより今年採れたのか其れがまさに不思議な訳ですが結局は其れも運命とでも申しますかまさにさうなるべくしてさうなったことなのでせう。
で、其れにより小瓶の方の赤色のコモンオパール標本の方も完成させることが出来た訳だ。
ですがデカい瓶の方もまた小瓶の方も棚山と赤瀬の赤オパールの石がさうしてごちゃ混ぜになって居る訳だ。
ごちゃ混ぜですと時折どちらがどちらの石だったのか分からなくもなりませう?
でも棚山産と赤瀬産のコモンオパール標本は微妙に異なるが故に其れをよーく観察してみれば必ずや其の違いが分からう筈です。
何でさうしてごちゃ混ぜになって居るのかと申しますと其の赤色のコモンオパール標本其れ自体が稀産であるからなのです。
稀産だと云うことはまず採れないと云うことです。
どうでせうか。
以前は十回程棚山へ通って一箇採れたか採れなかったか程のものでした。
でもね、三月の終わりに水の中の其の赤色のコモンオパールが何故か私にはハッキリ見えたのです!
其れも涸れ澤にて二箇も見つけて舞い上がった思いをしつつ最後に行った堰堤の下流でもって其れが何故か私にはハッキリ見えたのですぞ。
かうして石を見る私の目はもはや一種の仙境へと達しつつあります。
しかも其れは誇張では無く實際に其の尋常では無いー異常なー眼力をすでに獲得して仕舞って居るのです。
いや、其れはやっと石仙人になれたとさう云うことなのだらうな。
其れも石っこ賢さんならぬ石っこ自称詩人となったのだな。
だから其れは人には見えぬものが今まさに見えて仕舞うと云うことなんです。
でも逆に申せば人にとっての大事な価値が皆ゴミみたいなものに見えて仕方が無いのですがもしや其れって異常なのですかね?
「美しい石は普通に拾える」
石趣味の究極とはまさに其処にこそあるのではないでせうか。
棚山だのかっての田口鉱山跡だの鉱物の有名産地へ出向かずとも普通に其処に転がって居る石の美しさに気付いたのは15年程前のことでした。
其の15年程前のある時私が通うゴルフ練習場の裏手にある森をトレッキングして居たところ美しい石英がところどころに落ちて居ることにはたと気付いた。
ちなみに私は決して自然にはダメージを与えぬ人なのですが一度だけ其処を五センチ程掘ってみた。
すると其処からはまさに💎のやうな石が出て来ました。
其の相生山へは其れこそ幼き頃より屡通って居ましたがまさか💎級の石が出るとは其の時までまるで知りませんでした。
正直申して腐ったやうな石しか無いところだと云う認識に凝り固まって居たのであります。
以降相生山だの其れと地続きの東山にて石拾いをして来た訳だが現代は厳しい時代と化して居り其れも大っぴらにデカい石でも盗んで来ようものならヤバいですから其れだけは是非止めて下され。
昔は其れこそ有力者などに頼んで交通違反などももみ消して貰えた訳ですが今は特に動植物などの採取などはご法度な筈ですので。
但し岩石や土の採取禁止とは相生山の案内板には書いてありませんのですがね。