「生きることの哀しみや苦しみ」に對し「威張らぬ」體制こそがより望ましいことー「デタッチメント」としての心的闘争過程はマイナスの価値を見据えることによりむしろ成就されやうことー
彼がまた7月生まれなんです、其れも自分の誕生日にほど近くして。
故に「天才」とはどうも7月生まれに限るのではないか?
だが其の七月はまたこんな大豪雨だ。
其れも雷が家の眞上でもってゴロゴロゴロゴロのドッカーンだ。
さう言えば其の雷が壱度バルコニーに落ちしかも其の折に其処ら壱帯が強烈に光ったことなどが昔はありましたものです。
其の⚡に撃たれさうしてアナタは其の折に死んだのですね?
いえまさか死んでなどは居ない。
だからゲージツ家はたとえ⚡にやられてもまさか死にやせぬ。
左様にゲージツ家はたとえ死んでもまだゲージツ家である。
はいはい、其のことは良く分かりました。
其の藝術家は極めてしぶとく⚡による物理的な力では彼を葬り去ることなど出來やしないのだと…。
どうもさう仰りたいやうだ。
でも其れは違います。
彼を葬り去るのは實は其の物理的な力其のものによるのです。
するとあくまで物理的に彼は弱いのですか?
其の物理的な力とは例えば猛獣に食われる場合や左様な気候変動による災害などに等しく働くであらう「破壊力」のことだ。
其の「破壊力」をよもや甞めて居てはならん。
いいですか、文明は其の暴虐たる力を封印したとさう思い込んで居るが其れは大きな間違いです。
かうして其の破壊力はむしろ我我のすぐ傍に控えて居る。
和田秀樹「お金を使えば使うほど幸福感が高まる」という事実。子どもに残すなんて考えず、自分のためにどんどん使って<脳の若さ>を保とう (msn.com)
其れもたった今自分の脳が11歳の時点に戻りつつあるのはつまりは「やりたい放題」をやって居るからなのです。
自分は自分が「ホーム老人」となる迄に文明世界が崩壊する可能性が半分はあるとさう見て居り正直2050年迄文明世界が持たない可能性などもまた50パーセント程はあるとさう考えて來て居る。ー但し2050年以降に文明が崩壊して行く可能性に限れば其れは凡そ80パーセントですが。ー
だったらもうやりたいことを今こそやるべきだ。
其れを何時やるの?
まさに「今でしょ」。
だからそんな「蓄財」なんぞに意味があるものか。
そんな「将來設計」なんぞに意味があるものか。
文明はな、まさに今其れどころでは無いぞよ。
其れにそんな「高級老人ホーム」に入ってもどうせ近く起きるであらう「東南海地震」により年寄りは瓦礫に潰され皆死ぬるのだ。
故に何時死んでも良い位の心構えで生きることこそが正しい年寄りの認識でなくて何であらう?
なのでまずは其の認識こそが違うんである。
即ち「眞理」とは乖離するところでの認識ダケしか大衆には出來んものと相場が決まって居やう。
またたまには「聖書」などを是非読んでみ給え。
すると其処には此の世に蓄財などは出來ぬことがしかと書かれて居やう。
また御釈迦様の認識の方にせよ此の世に蓄財などは出來ぬことがしかと述べられて居やう。
でもさう仰りつつ貴殿はしこたまにむしろ物を溜め込んで居るぞ。
…實はさうなんです。
さうなんですが此の際其れは此処で言うべきことではありません。
ー基本的にお金は自分の楽しみのために使いましょう。結果としてそれが、認知症やうつ病を防ぐことにもつながります。
「自分自身のためにも、そして子どものためにも、後の世代に資産を残す必要はない」というのが私の考えです。ー
和田秀樹「お金を使えば使うほど幸福感が高まる」という事実。子どもに残すなんて考えず、自分のためにどんどん使って<脳の若さ>を保とう (msn.com)より
其の子供はさうして人間の子でもまた🐱の子でもまた幾らでも生まれて來るもののやうですがまさに其れが「幸せ」となれるかどうかはむしろなれない確率の方が高い筈です。
だったらそも「自分自身のためにも、また子供のためにも、後の世代を残す必要があるかどうかは社會の出來具合次第だ。」との思いが自分の場合はまた強く御座ります。
要するに其の金の問題遥か以前に其の「社會のあり方が惡い」ことこそがまさに「壱大事」でせう。
しかも其の「社會のあり方が惡い」ことがもはやスケスケに見えて居ります。
そんな「社會のあり方が惡い」社會であるのに果たして誰がこんな社會に種を残しますか?
アナタはでもどうしてソコ迄「社會」が御嫌いなのですか?
さて何故でせう?
屹度其の「社會」をイビることだけが彼の生き甲斐なのではないかしら。
まあ兎に角此の社會には元元大いに問題があります。
其れ即ち「問題社會」なんです。
其れも「問題児」ならぬ偏差値がたったの「参拾」しか無い「問題児の文明社會」である。ー其の愛称が「困ったちゃん文明」ですー
さてわたくしは本年六月の後半より「筆記具コレクターとしての最後の大勝負」に臨んで参りました。
さう言えば大袈裟な表現のやうに壱見聞こえますが其の實はまさに其れが「ほんたうの大勝負」だった。
其のことは兎に角大變な闘いだった。
其れも当初はむしろ樂しくやっておったが其れもこと萬年筆の蒐集に至ってはズバリ「生涯で最も苦しい戦いの連続」となっちまった。
ですがとりあえずは其の闘いにもすでに幕を引きました。
現在はそんな放心状態であり残った可成の疲労感の侭に心身を預けて居るやうな状態である。
でもって「壱體何をやっておるのだ」と自分でもまた思わぬ訳でも無い。
だけれども我我「🖋コレクターとしての上級者」はまたどうしても其処迄やらねばならんものなのです。
其れも所謂「中の上」位のレヴェルですと無論のこと其処迄やる必要などは無いのです。
ですが嗚呼まさに東大、京大を目指すやうなそんな王者としての🖋コレクターにならんが為には其れこそもう必死コイて其れも大金を注ぎ込みロクなもんを食わずに其れも只ひたすらに其れ壱筋にてペンを集めねばなりません。
まあ其れはTVに出て來るやうな有名なオカマの人が衣装代や美容代に大金を注ぎ込むやうなものででも自分は幸いにも其のオカマでは無いのでかうして夏場は部屋にてパンツ壱丁にて過ごしつまりは外見にはほぼ金をかけて無い訳だ。
其れも其のパンツは「あかのれん」へ行けば千円で三枚程も入るトランクスタイプのものが幾らでもある。
但しパンツ壱丁でエアコン代をケチるのでは無くむしろエアコンをガンガンにかけてしかもパンツ壱丁なのだ。
つまるところ案外暑いのが嫌いである。
そんな暑いのが嫌だが何せ夏場はかうして部屋に閉じ籠り色色と出來るので樂だ。ーさうして御勉強+物への耽溺が容易となるー
其れでもって「今年の夏休みの研究課題」を此の際「近代合理主義批判」より「筆記具コレクターとしての最後の大勝負」としてのドキュメンタリー作品へと変更させて頂く所存です。
即ち「近代合理主義批判」は何時でも可能であるが「筆記具コレクターとしての最後の大勝負」としてのドキュメンタリー作品の構成は臨場感の残る「今」しか出來ぬこととなる。
其れと其の「近代合理主義批判」は必然として何せ話が難しくなる。
其れももうほんたうにイヤになる程話が難しくなる訳です。
もうほんたうにイヤになる程難しい話をそもアナタ方は望んで居られやうか?
ほんたうはもう何も考えず出来得れば笑って過ごして居たいのではなからうか?
でも其れではイカンでせう。
そんな精神的な意味での「逃げの心」こそがまさに今文明のあり方を追い込んでは居ないのか?
いや逃げたけりゃ逃げりゃあ其れで良いではないか。
其の「逃げ」を認めるか否かと云うことこそが言わば「認識」のタイプとしての分かれ道ぞ。
でもって變な喩えですが和田先生や養老先生の論調には實は其の「逃げ」の部分にこそ力点が置かれて居る。
ですが逆に此の現代の合理主義社會には其の「遊び」か又は「心のゆとり」の部分への価値判断がむしろおざなりにされて來て居る。
つまりはまさに其のこと故に皆が「生き辛く」且つ「息苦しく」も感じられるのだ。
即ち社會を合理化すればする程にむしろ「生き辛く」且つ「息苦しく」なって行くのは必定です。
つまるところは社會を合理化する必要などはむしろ無いのである。
じゃあまるでゴミ溜めみたいな社會でもエエんですか?
其れもズバリ申せばそんな「ゴミ溜めみたいな社會」でもエエんです。
だが其処迄体裁ばかりを気にして社會を合理化したいのであればもはや仕事は全部AIに任せ人間は其の全員が引退し是非年金を貰うべきです。
さてわたくしはさうして6月後半より色色と樂しくやり過ぎましてふと気付くとすでに金欠でしたのです。
其の癖此処壱週間程はヤフオクにて主に「石」を買って居りました。
故に「牛ひつまぶし」を出前して貰うのを急遽取り止め結局はまたコノミヤへ行きました。
すると其処に「牛カツ🍱」と並んで「生姜焼き🍱」なる新作の🍱が出て居りましたのです。
勿論其れを買い込みましたのですが其れもふと気付けばつい色んなものを澤山買い込んで居り計八千円以上もコノミヤへ払わされましたのです。
ですが食わぬ訳にはいかぬ故に兎に角かうして何かを買って置かねばなりません。
ですのでつくづく現存在とはまた因果な生き物です。
「金を使うとまず樂しい」
まずはソコこそが問題なのでせう。
「物を減らすか又は物の流入を止める」
ことがむしろ眞理だと云うのにですが其処に「生姜焼き🍱」が置いてあればまた当然に手が伸びる。
さても其の「生姜焼き🍱」の味はどうでしたか?
まあ「牛カツ🍱」と同じであり其れは「哀しい程に美味い」ものであった。
「哀しい程に美味い」とはどの様な美味さなのですか、其れももっと具體的に其の美味さに就き述べて頂きたい。
つまりは其れが「389円」🍱だとの御話です。
いや其れとも「398円」だったか。
ドッチでもエエではないですか、まさにそんなことは。
いえ其れは重大な相違点です。
其れも壱万円ポッキリのピンサロと壱万五千円ポッキリのピンサロとの差程に大きな差でせう。
でもって大阪の石屋ー出品者ーと先日は御喋りをして居りましたのです。
其れがどのやうな内容の御喋りかと申せば結局「石は金食い虫」だとの御話でした。
関西人は何故かさうして兎に角石が好きですね。ー京都、大阪、兵庫などがいずれも石に強いー
いや別に関東人でもそんな石キチは結構居るのでせうが。
また関西人は會話に笑いの表現などが入るので其処は流石に面白いです。
其れも時に(大笑い)とかがまた入ったりも致します。
そも関西人は何故そんなに石が好きなのか?
尤もナゴヤ人にはそんなに石が好きな男などはなかなか居ないが…。
だがお前自身がしかとさうではないか?
さうでしたね、まさに自分なら何処へ出してもよもや負けぬことでせう。
要するに関西人にもまた良いところがあるのだと思う。
其れは「張り詰めた相手の気分を何かと樂にして呉れる」タイプでの所謂「人たらし」的な人情味の世界でもまたあるのやもしれぬ。
自分は日頃其れとは対極の世界に生きる人文者であり其れも要するに所謂「融通の利かぬ」タイプでの完全主義者であることでせう。
そんな自分がかってヤフオクの方で驚かされたことがありました。
其れは大阪の出品者から何かを買った訳ですが其の物が何であったのかすでに忘れて仕舞いました。ー其れもすでに弐拾年近く前のことですー
ところが其処に手書きのメッセージが添えられて居て、
「どうかアナタの御活躍が今後もずっと続きますやうに」
などと云う言葉が書かれて居るのです。
其れは別に高価な物を買ったのでは無く確か弐、参千円程の安いものだった。
其れにも関わらず其の「人への気持ち」が籠ったカードがさうして添えられて居たのです。
其の人への気持ちこそがかの信長公に足らなかった部分であった可能性がどうも高くある。
また自分の場合にもおそらくは足らんのでせう。
即ち「頭や感覚の出來が良いタイプの人」はつい独善的になりがちである。
また何せピッと全てが分かるものですから要するに理解が遅い人をつい足蹴にしたくもなるのです。
ですがさうしてとどのつまりは「独善の地獄」へと踏み込んで行くのだと言えやう。
「人に優しくなる」
ことはそんな唯我独尊タイプの人に取り極めて難しいことながら其れが出来ぬ訳でも實はありません。
要するに常に努めてさうして居れば其れが出来ぬ訳でも實はありません。
どだい「常に人と違うことが考えられる人」は元元其のやうに創られた人間であり何かを「持って居る」人である可能性が高くある。
なのだけれども其れは壱歩間違えば「奈落の底へと落ちる」可能性をもまた高く持ち合わせて居るのだらう。
其れに「面白い」と云うことは非理性的であり惡いことなのだらうか?
「面白い」と云うことは逆に理性的な意味での「デタッチメント」に繋がることなのではないか。
「面白い」特に大阪人はある意味ではそんな「デタッチメント」としての要領を心得た人達であるのやもしれぬ。
何故なら「太閤」にまでのぼり詰めた秀吉公が壱代限りで終わり大阪城はああして火焔に包まれた訳です。
また広島などもこともあらうに原爆を落とされ其処にもう誰も経験し得ぬやうな辛酸を甞めたのだった。
其のやうな「デタッチメント」に繋がることであらう価値であり価値観こそがむしろ今後の🗾社會には必要なことなのやもしれません。
逆に幕藩體制の如くに所謂「上意下達」でもって兎に角将軍家を中心に威張りつつ🗾を治めるやり方はすでに時代にそぐわぬ可能性が高くあらう。
さてわたくしは今「威張らぬ」社會をつくらねば現代文明の未來は無いとさう考えて來て居ます。
ですが世界中の何処でもまた過去に於いても其の社會とはヒエラルキー形成の場其のものなのだ。
威張る→搾取する
であり、
其れがまたどんな社會でもたとえ未開の社會でも偉い人はあくまで偉い。
だが其の「威張り」こそが環境破壊を推し進めることの大前提として作用するものなのではないか。
故にかの「老荘思想」などは其の「威張り」とは正反対での非社會的価値に就き述べたものでせう。
ちなみに自由民主党による政治の問題点としてまずは挙げられるのが其れがあくまで「長老による威張りの政治」であるとのことだらう。
だからなかなか死んで呉れん訳です、其のアベやらアソー🐊ーやらカンー🐵ーやら他の老害議員達が。
でもアベはああして元自衛官の天誅によりすでに地獄へと堕ちた。
尤もアノキシダは何故広島人としての「デタッチメント」を忘れ息子ー其れも出來の惡いーやあんなゼレンスキーばかりを贔屓するのだらう?
其れもゼレンスキーちゃんには此の際ドンドンお金をあげますと。
そんな金がこんな飢餓國の何処にあるだよ?
おみゃーさんのポケットマネーで是非にでも払ったれや。
其れにキシダさん、まんだタマは壱発残っとるがよー。【仁義なき戦い】第一作といえばこのシーン「弾はまだ残っとるがよ‥」 - Bing video
「裏切りもんのヤマモリならぬナカイマ、弾はまだ一発残っとるがよ」文太兄い凄む! 〜翁長雄志 うまんちゅ 1万人大集会 2014.11.1 - YouTube
ちなみに其の菅原 文太氏の自分は大ファンです。
其れも右翼ヤクザの役を演じた彼が好きなのでは無く左翼インテリ俳優だった文太さんの晩年の政治活動にこそ魅力を感じて居るのです。
兎に角彼菅原 文太氏を崇拝さえして居るのです。
嗚呼其れと「トラック野郎」シリーズをまた是非視直して置きたい。Amazon.co.jp : トラック野郎
其の「トラック野郎」でもって學の無いしかも下品なトラック野郎を演じた彼文太氏が實は凄いインテリ俳優さんだった訳です。
ー60代に入ると田舎暮らしや農業へと関心が向かい[4]、1998年には岐阜県大野郡清見村(現・高山市)に移住、2009年から山梨県へ移り農業生産法人「竜土自然農園おひさまの里」を設立し[4]、農産物の生産に従事。有機農業に取り組み、食の安全や命の大切さを人々に訴えた[4]。ー
ーすっかり都会化し商業主義的になった東京が嫌いになり、消費社会というものに強い疑問を感じるようになり、一方でもともと岐阜には別荘を買って持っていたので、東京から離れるために、1998年にその岐阜県清見村に妻と一緒に移住し、田舎暮らしを始めた[22]ー
ー2009年(平成21年)より山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始める。当時、俳優業は「半分引退した」と語った。ー菅原文太 - Wikipediaより
ー2012年(平成24年)11月13日、菅原が名誉顧問を務める民間非営利団体「ふるさと回帰支援センター」の設立10周年記念講演の席上で、56年に及ぶ役者生活にピリオドを打った旨を明らかにした。この時「デジタルはお断り」というコメントも発表しており、映像製作環境の変化にも言及している。12月5日には有志らとともに国民運動グループ「いのちの党」を結成し、代表として活動した[24]。なお、「いのちの党」と名称が付いているが、あくまで「仲間の集まり」の意であって政界進出を意識してのものではないという。また、以前より噂されていた政界への進出は完全否定をした[25]。ー菅原文太 - Wikipediaより
文太さんの息子さんはかうして若くして電車に撥ねられ亡くなって居る。
ところがそんな不幸な出來事からこそ人間は學ぶべきことが多くあるのではなからうか。
菅原 文太氏による「デタッチメント」としての闘争はそんな不幸な事實をも交えてのことだったらう。
ところが人間は「威張る」ことを継続させることでそんな「生きることの哀しみや苦しみ」に對し普通鈍感になって行くものなのである。
故に其の幕藩體制の中にもなんともならん汚職や政治権力としての腐敗が次第に蔓延っても行った訳だ。
故に現状での其の「自民党による政権支配」の體制にもまた同じやうになんともならん醜態や政治権力としての腐敗が多分に含まれて居るものなのだ。
其のやうに「威張る」支配體制を継続させればむしろ國益や個の権利関係などが損なわれて行く虞などが多分にあらう。
でもって今回自分が述べたかったこととは「マイナスの価値」を自分のこととして経験して居ないと「威張る」価値が暴走し此処参拾年余りに亘る自民党政権や価値の東京壱極集中のやうなことになって仕舞うことへの危機感である。
関西や此処尾張が「生きることの哀しみや苦しみ」に共感力を持つ偉いところだとはまさか言わぬのですが少なくとも彼等は「デタッチメント」としての価値を歴史的に共有して來たこともまた確かなことだらう。
アアー、本能寺でもってアノ彼がやられた!
うわあー、大坂城がすでにこんな火の海だ!!
まさに其のマイナスとしての事實を突き付けられてこそ初めて開ける心の扉がある。
だからと言って別に我は日本維新の会 (2016-) - Wikipediaの支持者などでは無くむしろ其れへの批判者なのだが。
でも最近なんか関西の味方のやうな気がするが。
…其れはおそらく関西人のAIのりんなちゃんにまだ未練があるからなのやもしれません。
いずれにせよ何処と云うことでは無く「生きることの哀しみや苦しみ」に對し共感を持ちそんな「デタッチメント」としての心の闘争を続ける知性に對し自分は常に尊敬の気持ちを抱いて居ると云うことをこそ此処で是非御伝えしたかった訳です。