目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな両極を見据えることだらう「デタッチメント」系での認識より學ぶことー和田 秀樹先生の認識論より學ぶー

そんな両極を見据えることだらう「デタッチメント」系での認識より學ぶことー和田 秀樹先生の認識論より學ぶー

 

 

 

 

・二分割思考(敵・味方、善・悪……と白黒でしか考えられず、グレーを認めない)
・パーフェクト思考(100点でなければ0点と同じ、など妥協を許さない)
・これっきり思考(仲間にたった一度、反対されただけで敵と見なす、など)
・決めつける(数人を見て「最近の若者は◯◯」と決めつける、など)
・思い込む(○○さんは私を嫌っている、などと勝手に思い込む)
・ネガティブ(人や自分の欠点ばかり見て、長所は「たいしたことない」と否定)
・縮小視(自分の長所を過小評価して、「取るに足らない」と卑下ひげする)
・悲観(単なる仮説や予測を事実としてとらえ、どうせムリ、などと決め込む)
破局視(好きな人に冷たくされただけで、この世の終わりのように絶望する)
・感情に支配される(その場の気分で「すべてOK」「全部バツバツ」とブレる)
・~すべき思考(~すべき、~ねばならないという使命感が行動の原則)
・レッテル貼り(勝ち組、負け組などわかりやすいラベルを貼って人を判断する)
・自己関連付け(関係ないのに「私のせい」など、すべて自分と関連づけたがる)

和田秀樹「アスペでコミュ障の私が精神科医に」人間関係に悩むすべての人に伝えたいこと 本当に強い人は甘えるのが上手な人 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)より

 

其の弐分割思考とはつまりは近代的思考とのことです。

所謂自然科学や資本主義経済體制なども全ては其の弐分割思考を基に創られて居ます。

 

弐分割思考で無いものとはむしろ近代が捨て去ったところでの前近代的でもって壱元的な思考のことなのだらう。

前近代的でもって壱元的な思考の集まりの方が数的にはあくまで多義的となる筈ですが残念なことに近代に其れを適用することは非常に難しい。

 

むしろ不可能であるとさう見て置いても良いことだらう。

ですが弐分割思考は哲學的にはほぼ間違いです。

 

そんな間違いだからこそそも経済発展したり技術を進歩させたりして逆に地球を壊すのです。

つまるところ近現代社會とはみんなー80億人ーでもってそんな間違いをやりつつ地球を破壊するに至るだらう世紀のことです。

 

 

でもって頭の出來の良い人は元元さうなって仕舞うのです。

ですので頭の出來の良い人はむしろ逆方向を向いた方が良いこととなる。

 

なんですが其れもまたややこしいことに「文明がアカン」のは妄想では無くむしろ事實です。

よって問題は其の「社會的問題」と「個人的課題」を引き離して見詰めむしろ後者の課題を粛粛としてこなす方が「建設的な今」となるとの部分である。

 

要するに「こんな社會に振り回されて居るだけの今」から「自分軸の今=ほんたうの今」へと是非變えなければならぬとのことだ。

其の變化こそがまさに「理性的なデタッチメント」によるもののことである。

 

其れも自分軸で生きられぬと、

 

1.自己肯定感の低さ

2.不安や不信

 

などにまずは苛まれることとなる。

 

でもって何で自分に自信が無いかと言えばそも「社會の価値観に洗脳されて居る」ダケのことなので其処に自信などが出て來る筈がありません。

ですがこんな批判詩人のやうにイチイチ社會の非をあげつらいつまりは「こんな社會はそもダメなんだ!」とさう言い続けて居ますと其処にそも「せいせい」しますのです。

 

 

だからアノ光秀のやうにかの信長公を否定した御陰ですぐに殺されたにせよ少なくとも其処では「せいせい」しつつ死地へ旅立つことが出來る。

「理性」による「批判」とはつまりはさうしたことなのです。

 

「理性」による「批判」とはよもや「眞理」では無く「自分の為の独立戦争」のことである。

だからむしろ「自己肯定感」は其処に高くなり故に「自信満満」となるが尤も其れが「過信」である場合にはまた出る杭は打たれるでもってして社會から報復を受けたりもする。

 

また「不安」や「不信」の面は實際に社會が其れを個に對し強いる部分が特に昨今は強く其れが出て來つつある。

其の「不安」や「不信」はウソでは無く實際に社會の出來が極めて惡いのでさうなって居る可能性が80パーセント程もあらう。

 

ならばどうするのか?

でも其の「不安」や「不信」は君自身が抱えるものには非ず。

 

其れはあくまで「現代社會」が抱える「不安」や「不信」なのであり其れに同調し苦しむ必要がそも「個」の側には無いと來てる。

實際に「不安」や「不信」ダラケの世の中であるのに此の社會は納税や勤労の義務などはしかと課して來る。

 

しかも決して樂はさせて呉れずに其れもドンドコ格差ばかりをデカくしつつまた自然を大搾取しつつまるで悪夢の如くに其れは突き進む。

そもそんな社會を貴殿は御認めなのであらうや?

 

だがわたくしはもう切れたぞ!

もう捨てたるぞそんな社會其のものの価値観を!

 

 

ですので眞面目な話まずは「不安」や「不信」はあっても其れを「抽象化」及び「拡大化」はしないと云うことです。

其れを「具象的」且つ「個人的」な意味での「不安」や「不信」に是非留めるべきである。

 

其の頭の良いことで人間はむしろ酷く困難で窮屈な人生を歩むこととなり易い。

其れは文系、理系の別やまた感度の良い藝術家タイプの人であれ何であれ兎に角其の分苦しんで生きて行かざるを得ないと云うことです。

 

なのでごく簡単に述べれば、

 

「周りはそも自分とは関係無い」

 

とさう思うダケで實は其の悩みの大元の部分が断ち切られるのです。

 

また其れも最終的には、

 

「世の中が滅ぼうがどうしやうが自分はあっけらかんと自分の道を行く」

 

とのこととなる。

 

「世の中が滅ぼうがどうしやうが自分はあっけらかんと自分の道を行く」

 

とさう心を決めたにせよ實際には次から次へと此の世では問題が生じて來る。

此の世は元來さうしたところであり謂わば「問題だらけの困った世界」なのだ。

 

 

まさに其の「問題だらけの困った世界」であるからこそかって佛教やジャイナ教などの解脱思想が生まれまたキリスト教ではイエス様が神の価値観にこそ生きよ!とさう説かれた訳なのです。

 

でも其処でもってよーく考えますと両者とも實は「此の世」に對するデタッチメントとしての精神的な過程である。

只方向性が違うだけのことでありとどのつまり本質的にはまるで同じデタッチメントとしての精神的な過程である。

 

 

 

其れと近代社會とはそも「御節介」な社會である。

其れも個は「國民國家」に例外無く属しおまけに「イデオロギー」にも染め上げられる。

 

ところが「イデオロギー」は抽象的価値なのでもしも其れが對立すると露西亜ウクライナ、また北朝鮮對日米のやうなことにすぐに陥る。

また🗾共産党自由民主党もまた当然ながら仲が惡い。

 

でもそも其の「イデオロギー」なんですが、其れをよーく考えてみますとー實はもう40年程考えて参りましたー其れは個の生活とはほぼ関係の無い政治的な価値のことです。

さうして其の「イデオロギー」に洗脳されると例外無く「正義」が生まれる。

 

より正確には「正義」と「敵」とが生まれる訳だ。

でもって其の両者が對立し其れも最終的には「戦争」を引き起こすこととなる。

 

また此れを言うて良いのかどうかは分からぬが其れに似た構造のものがあり其れは👪主義である。

 

其処に曰く、其は「👪を守らんが為の正義」なり。

だが其れは敵の家族もまた矢張り「👪を守らんが為の正義」に突き動かされ動くのであらう。

 

其の意味での所謂「👪主義」を謳う新興宗教ー結構数が多くあるーは邪教と言っても良いのではなからうか。

 

 

さて和田先生が仰る「弱みを見せ甘える」ことは「自分主義」とは違うことのやうに見えるのやもしれぬがむしろ今自分がやって居ることとは其の「弱みを見せ甘える」ことである。

 

故につい此処でもすぐにパンツ壱丁となりしかも毎回屁をコク、かうしてブリッ。

だが其れは社會を信頼しさうするのでは無く其の社會もまた屁みたいなものだから別に屁をコイても構わぬのだとさう気付きしからなのだ。

 

「自分主義」=非社會化主義=眞我主義

「自己主義」=社會化した上での「自分主義」=非我主義

 

かって400年以上前にかの信長公がやったのが其の世界の「自己主義」化であったことだったらう。

だがわたくしが目指すのはあくまで「自分主義」であり其れはむしろ此の外の世界と切れて行く「眞我」としてのあり方なのだ。

 

其れも全部と切れるのでは無くデカい領域のものとだけ切れるのだ。

尚「利己主義」とは「自己主義」がむしろ最大限化したものである。

 

此の文明社會がマズいのはむしろ「自己主義」としての「利己主義」を蔓延させて行くからのことである。

 

 

ところで上の記事でもって和田先生が述べられて居る「素の自分」とはまさに其の「自分主義」のことなのだ。

即ち「自分主義」とは「利己主義」では無い「眞我主義」のことである。

 

「眞我主義」は社會関係にそも規定されて居らずよって彼は常に自由である。

さう常に自由でありまさに自分本位に自分に取り樂しいことダケを追求して御座る。

 

尤も其れは無論のこととりあえずは此の世から壱歩退くつまりは「引退」してからでないとよもや出來ぬ。

 

 

ーもちろん、どのようなことで幸せを感じるかは人それぞれですが、わたしが確信しているのは、本人が「わたしは幸せだ」と思っていれば、それが本当の幸せであり、どこかの誰それと比較したり世間の目を意識したり、若いころはこうだったなどといったことはいっさい関係なく、いま、自分は幸せかどうかということだけです。ー

和田秀樹 発達障害の私が出版したりラーメン食べたり好き勝手できているワケ。素の自分と向き合えば好きなこと、楽しいことが見えてくる(2023年7月24日)|BIGLOBEニュースより

 

例え現役世代であれ究極的にはまさに其れが眞理だと云うことです。

但し「社會的成功」は「価値ヒエラルキーの上部構造」を自ら構築するとの所謂社會的名誉欲の成就のことであり其れを「幸せ」の条件とイザ設定して仕舞えばむしろ「幸せ」は遠退くこととならざるを得ない。

 

逆に利口な人に限り可能なのが「幸せ」の条件を自らの理性的な力により思い切り下げてやることです。

 

ところが其のこともまた其れこそ「強靭なる理性の力」がありませんとまずは下げられません。

ところが次第に御迎えが近くなる歳ともなればまたごく自然に「幸せ」の条件が下がっても來る。

 

だが其れも「孫の将來」だの「家の存続」だのさらに「🗾の将來」などと考えれば考える程に「たった今の幸せ」からはむしろ遠退いて行くこととなる。

故に孫は無い、家のことなんぞ知らん、今後🗾がどうならうと知ったことか、位の認識にてようやく彼は「たった今の幸せ」を掴み取ることが出來る。

 

故に「価値」の全てはまさに其の「認識」の問題なのだ。

「認識」が社會の側に寄り過ぎて居ると現存在はむしろほぼ永遠的に「たった今の幸せ」から疎外されて行かざるを得ぬことだらう。

 

 

ーいまあらためて思うのは、あのころの自分の選択は、間違っていなかったということです。

自分が心地よい、幸せだなと思うことを選び続けてきた結果、いまもこうして本を出版したり、映画を撮ったり、好きなワインを飲んだり、ラーメンを食べたりすることができているのです。ー和田秀樹 発達障害の私が出版したりラーメン食べたり好き勝手できているワケ。素の自分と向き合えば好きなこと、楽しいことが見えてくる(2023年7月24日)|BIGLOBEニュースより

 

世間的にはむしろ「社會の為に奉仕する」=「滅私奉公」こそが特に此処🗾社會では美徳とされて來し経緯がある。

だが戦後民主主義はそんな企業戦士の努力により完遂されたのだったか?

 

またそんな高度経済成長は最後迄我我🗾人に眞の意味での幸福を齎したと言い得るのか?

むしろたった今🗾社會に拡がるのが「先行きの見えぬ不安」ともはや政治や行政を其の侭には信じ切れぬ「不信感」ばかりではないか。

 

だったらもう好きなことをやったれ!

但し其処にて「酒と女とギャンブル」ダケは御法度です。

 

だが和田先生、御身の血圧値が200と云うのはそもマズいでせう?

まあ自分も此処半年程其れを計って居ない故に大きなことは言えませんのですが。

 

ーつまり、他人と比較せず、自分が心地いいこと、楽しいことをすればするほど、老年期を幸せに過ごすことができるというわけです。ー

わたしが強く思うのは、発達障害のあるなしにかかわらず、定年退職後にしがらみから解放されたら、無理せずにありのままの自分に戻っていいということです。素の自分と向き合えば好きなこと、楽しいと思えることがきっと見えてくるはずです。和田秀樹 発達障害の私が出版したりラーメン食べたり好き勝手できているワケ。素の自分と向き合えば好きなこと、楽しいことが見えてくる(2023年7月24日)|BIGLOBEニュースより

 

「むしろ他と徹底的に比較しつつ勝手に幸福へのヒエラルキー構築をする」

 

まさに其れが資本主義社會での価値構築の基本原則です。

さらに言えば其処にて勝ちと負けとを決め勝った人間は永遠に偉く負けた人間は永遠に価値が無いとさう決め付ける訳だ。

 

全く御話にならないことだらう非理性的な體制です。

アホとちゃうか、おみゃーらまーさかみんなそんなアホなんきゃあ?

 

さて其の「素の自分」はあくまで自分の側にあり社會の側には無い。

なんとなれば社會とは「しがらみ」であり「しがらみ」とは最終的に「全體主義」化するものです。

 

其の「全體主義」とは「良かれと思い人間の社會がすること」が裏目に出る=自己矛盾することで「破壊」を生じることである。

わたくしー哲學詩人ーはまさに其の「破壊」から人類を救い出さんが為にかうして此処にて闘って來し積もりである。

 

だけれども其の闘いの土俵はすでに「イデオロギー」の場を離れ「認識論」としての段階へと移って來し訳だ。

 

尤も其の「素の自分」を其の侭に見通せる人はなかなか居ないことでせう。

また年寄りの中にむしろ壱番多いのが👪関係に於ける「しがらみ」の部分に強く強く縛り付けられて居るタイプでせう。

 

即ち「孫」とかの。

そんな孫なんぞもしも自分にあればすでに名古屋大學位は軽く行かせてますね。

 

名古屋大學はでも数学とかが出来んと受かりゃあせんて。

さうか、そも数学が7点では無理か。

 

アンタでもそも何でそんなに数学が苦手なのだ?

其れも中学生に因数分解を教えたことなどもかってあったと云うのに。

 

さて何ででせう?

因数分解だけでは無く簡単な化学反応式を教えたこともまたありましたのですが。

 

其れもこれも数学と化学の教師が無能で分かるやうに彼等に教えなんだからだな。

兎に角中学生はいつも「分からん」、「分からん」とさう言って居りでも先生の教え方は「分かり易い」と良くさう言われたものでした。

 

 

さて話の最後に其のことが何でさうなったのかと云うことをそも考えてみやうではありませんか。

 

其れはズバリわたくしに数学と化学が分からんかったからなのです。

ですので教師用の指導書を手に入れまずは自分から勉強してみました。

 

すると数学と化学が間違いなのでは無く其れを教える教師の教え方の側に大きな問題のあることがすぐに分かった。

ーかうしてマイナスの側にこそむしろ眞相か又は眞理が隠されて居るものだー

 

 

1+1=2

ところで果たして此の命題は正しいのでせうか?

 

かの養老先生の場合は其れは「自然界には通用せぬ人間の脳内の同壱化の原理であり原則だ」位のことを述べられて居ます。

 

どだい其の「+」と云う記号が如何にも曲者のやうにさう思われる。

其れもあえて詩的に表現すれば「自然界は何も足さずしかも何も引かない」訳です。

 

さうして「自然界は何も足さずしかも何も引かない」のにあえてわたくし達人間は「足しまくり且つ引きまくりおまけに掛けたり割ったりもする」であらう實に厄介な存在です。

また同時に問題は其のことを「厄介だ」とさう思う人が人間界にはまず居ないと云うことでせう。

 

ですが自分にはまさに其のことが「厄介其のもの」でのことと見えて仕方がありません。

兎に角其の和田 秀樹先生の認識論こそはまさに「デタッチメント」系でのものであり謂わば両極を見据えることだらうまことに優れるものでせう。