目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ウドちゃん、心よりどうもありがたうー『旅してゴメン』に於ける眞の意味で「誠實」な行いとは?ー

ウドちゃん、心よりどうもありがたうー『旅してゴメン』に於ける眞の意味で「誠實」な行いとは?ー

 

 

 

 

【精神科医が教える】最高の生き方のたった1つのポイント | 精神科医Tomyが教える 40代を後悔せず生きる言葉 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

最高の生き方=「その日暮らし」

まさに仰る通りです。

 

ところが「世間」ではむしろ「御大層」なことを為し遂げてこそ充實した「今」があるなどと屡言われて居たりもまたする。

されど事の本質とすればそんなもんは近現代社會が決めたところでの勝手な判断です。

 

故にむしろそんな「充實」だの「幸福」だの何だのと違う「ありのままの實存」の姿こそが尊くさらに最高の今日の様である。

故にむしろ何気ない=「何も無い」日常での壱コマこそがなにものにも代え難い眞實であり眞理なのです。

 

また「何かをすることに急かされぬ自由な時間の満喫」こそがまさに此の世での極樂の様なのだ。

要するに自分任せに何でも選んでやれる其の瞬間こそがまさに愉樂の時となる。

 

 

でもそんな「自由な時」を得るのは常になかなかに難しい。

其れと云うのも現代社會はそもさうした「自分軸での自由な時間の選択」を許したがらぬ訳なのだから。

 

現代社會とは其の意味での「時間的な奴隷制度」其のものだ。

またさらに「経済的な奴隷制度」でもあり最終的には社會もろともと沈没して行かんとする壱種の「變質的な同伴喫茶」のやうなものでもある。

 

であるからこそ其の「社會」とは常に自ら線を引いて置くべきです。

何故ならもしも全的に其れと交われば著しく「個」が損なわれることになるからだ。

 

 

でもってさうは言っても誰しもなかなか現代社會とは縁が切れぬことでせうが精神の傾向性として其れー現代社會が奉ずる価値観ーには容易に「馴染まず」且つ「染まらない」とのことこそが肝要である。

 

 

精神科医 Tomy | 著者ページ | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)

 

此の方の御意見は兎に角「少し違う」ので以前より屡引用などさせて頂いて來しが彼は何と名古屋大學医学部の先生でした。

まあ其のナゴヤ人もまた變な奴が多いのか自分の意見なども常に壱種過激と申しますか所謂全國平均的なものでは無くつまりは「癖が強い」ものでせう?

 

尤も實は半分位しか本音を語っては居ませんのですが…。

其れも其の全部を語ると「完全なる異常者」とさう見做されるが故にソコ迄はまさか語れぬ訳ですが。

 

 

【名古屋大学医学部】難易度はどれくらい?偏差値や倍率などの入試情報や大学の特徴について徹底解説! | 医学部専門予備校 京都医塾 (kyotoijuku.com)

医学部偏差値・難易度ランキング(国立・公立・私立大学)|医学部受験マニュアル (med-pass.net)

 

まあ名古屋大學医学部は所謂難関なのでせうがでも偏差値の方がイザ全國で言えば九位なのか。

なら自分でも受ければ入れるんじゃないか?

 

まあ僕が持ってる偏差値は多分五拾位でせうが…。

其れと僕の悩みはまたそんな偏差値でははかれないものばかりなのだ。

 

つまり文明のことや哲學のことやまた詩のことや兎に角そんなもんばかりなので其れへの対応の偏差値が常に八拾をこえて仕舞って居りつまりは事實上東大の医学部以上の大問題ばかりなのである。

ズバリ東大の医学部以上の思考をこそまさに此処にて心掛けて來ても居るぞ。

 

 

其れはさうと其のナゴヤ人はどうも思考が變じゃねえの?

いや變では無くてあくまで個性が強くつまりは赤味噌思考なのだ。

 

赤味噌思考?

もしや其れは「諄い思考」だとのことですね?

 

さうです、まさに諄い赤味噌としての其のドロドロの流れである。

其の赤味噌物こそがこれからの季節には最も合う。

 

だが関東人や関西人は普通其のことを知らぬ。

でもそんな良いことはもう誰にも教えてあげない。

 

 

でもさう、

 

「その日暮らし」

 

とイキナリ言われても普通現代人には其れが何のことやら分からぬことだらう。

 

何故ならまさに其のことこそが「近代的価値を創造せんとして生きる現代社會」にそも認められて居ない価値であるからのことである。

だけれども例えばふらりとソロキャンプなどに出掛け「近代的価値」とはまるで無関係に時間を過ごす場合に感ずるアノ「解放感」とは壱體何なのだらう?

 

さう、現代と云う時代に於ける本質的な意味での「癒し」とはむしろそんな意味での反近代的な価値の履行によってこそ得られるものとなる。

反近代と云うかまた脱近代と申すか兎に角そんな価値領域に於いてのみ其れが達成されるのである。

 

其れとは勿論「自由」とのことだ。

其れも「精神的な意味での自由」とのことだ。

 

よって最終的には其の「その日暮らし」が多い人こそが「自由」で且つ「幸福」な人となるのだ。

 

権威や権勢其れに大金などに縛られれば縛られる程に其の「幸福」からはむしろ遠ざかる。

要するに人間に取っての「本質的な意味での自由」を其処に奪われることとなるのだ。

 

 

さて個人的に本日夕方に標本を整理して居て暫く振りに「パイロクスマンガン鉱」を観て居たが其れが兎に角赤く美しく光輝いて居た。

其のことは現代社會に取りむしろどうでも良いことながらあくまで自分に取り「重要な美的価値」なのだ。

 

また布団を仕舞う時に観た空の様子が本日は少し個性的で面白かった。

其のこともまた現代社會に取りむしろどうでも良いことながらあくまで自分に取り「重要な美的価値」なのだ。

 

故にまさに其のことを「その日暮らし」と言うのである。

また「その日暮らし」の内容はむしろ何でも良く要するに其れが自分軸で成立して居ることだからこそまさに其処からこそ「癒される」のである。

 

 

さて最近此処にて自分が問いを投げかけて居るのはまさしくさうした意味での「現代社會が奉ずる倒錯的な価値観」からの「解放」のことだ。

現代社會が奉ずる価値観」がそも正しければ元より其れを批判する故など無いが其れが倒錯して居る=間違って居るからこそかうして口を酸っぱくしつつ其れに就き述べて來ても居る。

 

 

旅してゴメン 岐阜・高山市【最終回】:2023年10月1日(日) | これまでの旅 | ウドちゃんの旅してゴメン - 名古屋テレビ 【メ~テレ】 (nagoyatv.com)

ウドちゃんの旅してゴメン - 名古屋テレビ 【メ~テレ】 (nagoyatv.com)

 

先日此の最終回を母と共に視聴したところです。

 

其の飛騨高山は従弟がかって住んで居たところで其の嫁が高山の教育長の娘ー共に斐太高校卒ーですので個人的にも何かと関係があります。

彼等もまたさうして頭が良いのですが此処名古屋での頭の良さとは少し違うやうに思う。

 

何と申しますか余り所謂合理主義ではないのかもしれない。

 

都會人でもって問題なのはまさに其の「合理主義」でせう。

「合理主義」は個に取ってはむしろ大事であるが社會は極力「非合理主義」化した方が文明が長持ちするとのことが自分の思考での壱つの結論です。

 

其れもま、其の文明のことは此の際どうでも良いのです。

 

でもって何を申したいのかと言えばまさに『旅してゴメン』にありがたう、です。

其れも個人的にはまさに此れが民放史上最高の番組だったのだと思う。

 

 

1.ナゴヤ人が地元を細かく知って居るとは言えぬこと

2.さらに三河や静岡や三重や岐阜のことなどを知って居るとはまさか言えぬこと

3.其処にはまさに實存としての「その日暮らし」が描かれて居たこと

 

其の名古屋局ーメーテレー制作のローカル番組であることに関わらず人間は世界各國何処に於いても實存としての「その日暮らし」を続けて來たのです。

まずは其のことをこそ此の番組から教えられた気が其れも強くして居る。

 

また「その日暮らし」には未來のことでは無くまさに「たった今」の人間の暮らし振りが写し出される。

 

逆に申せばどんな「討論番組」もまた「こころの時代」の如き良い宗教番組にせよ描き出せぬ「具象的な意味での現實世界」をこそまさに其れが描き出して居たのだと言える。

即ち社會の営為とはむしろそんな「社會の目的」とは無関係に生ずることだらう實存的な意味での「日日の積み重ね」のことに他ならぬ。

 

其れは「経済成長」だの「宇宙開発」だの「AI崇拝」だのそんなこととはまるで無関係な「其の場」に於ける「具象的現實」の様である。

ならば何故自治體や國家はまさにさうした「人間の生活」にこそ目を向けぬのか?

 

何故自治體や國家は終始所謂「予算」のことばかりでまたおまけに統治者側の利益供与のことばかりでそんな實存としての尊い「人間の生活」のことを観て観ぬ振りをし続けるのか?

 

 

わたくしにはまずは其のことが皆目分からない。

其れも現代社會はGNPだの株価だ何だのとそんな経済的に齎される儲けのことばかりに目を奪われて居るがそも其れってほんたうに大事なことだと言えるのか?

 

そんなもんでは無く何処の街でナントカ餅をつくって居たり🐗の丸焼きを奥三河の山の中でやって居たりまた職人がビードロ細工を拵えたり漁師が川に入りアユを釣ったりさらに畑でもって色んな野菜を作ったりまさにさうしたことこそが人間の基礎であり基本でありつまりは實存としての価値のことだらう。

 

だから株価が上がり投資家が幾ら儲けただのかってかの國が高度経済成長を成し遂げただのそんなもんはむしろどーでもエエやうな数的な意味での還元的価値ばかりである。

さらに自由民主党内での下らねえ権力闘争なんぞそも🐶も食わんやうな話ではないか。

 

だから要するに文明の推進側其れ自體がまるでなっとらん。

まるでアホでもってバカで💩垂れでもってしてしかもすでに肥溜めに落ちとる。

 

其れも百米位の深さの肥溜めにすでに落ちとる。

 

 

みなさまへ | ウドちゃんの旅してゴメン - 名古屋テレビ 【メ~テレ】 (nagoyatv.com)

 

其のウドちゃんは昔グレて居たとの記事をネット上でかって視たことがある。

だがウドちゃんはむしろとても丁寧に此のライフワークとしての番組をやり切ったのだと思う。

 

其の言葉遣いは常に至って丁寧で「死ね!」とか「バカ!」とは決して言わぬところが自分とは違いまさに人間が出來て御座る。

「死ね!」とか「バカ!」がわたくしの場合には兎に角多いので其の部分に就き是非反省させて頂きたいところだ。

 

さうして何よりも嬉しかったのが「生活の場」に縛り付けられなかなか外出することが出來なくなって仕舞った自分に取りまさに精神的な意味での「地元での旅の数数」を其れも廿年間にも亘り視せて下さったことである。

 

思えば丁度廿年前に父が亡くなり以降は母とのたった弐人で此の自宅としての古民家を維持し続けて來た。

そんな中で自分に取り最も「慰め」を与えて呉れたのがむしろ此のウドちゃんの番組である。

 

 

メーテレでは現在でも月~水迄『旅してゴメン』の再放送が午前拾時より放送されて居るが其れもやがては終わりを迎えることとならう。

ちなみにわたくしは其の再放送を此処参年余りずっと視続けて來た。

 

また番組の内容を屡メモしつつ其れを視て來て居る。

 

わたくしに今言えることとは所謂「天下國家の動向」などよりもむしろそちらでの情報の方が眞の意味で「生きた」情報であることなのだ。

即ち所謂抽象性の高い社會的な論議や未來予測の類は人間の實存に取り「眞の意味での今を生きんが為」の情報なのでは無い。

 

さらに言えばスポーツや芸能関係などの場に於ける「熱狂」などもまたあくまで本質的には「眞の意味での生きんが為」の情報には非ず。

まさに其れ等は「虚的な価値ヒエラルキー」にさし貫かれし「虚構的」な価値に壱喜壱憂する様のことなのだ。

 

 

特に現代社會に於いて其の種の「虚構的」な価値が暴走して居るであらうことはほぼ間違い無いことであらう。

其のやうな価値に振り回されること無くまさに實存としての生活の意義を再確認する意味に於いて此の番組が此れ迄果たして來たであらう功績は大きい。

 

まさに其の意味でもまた此の番組が終わることが残念でならない。

だが番組は往往にしてさうして終わりを遂げる。

 

まさに其のことは諸行が非常である此の世に於いて壱つの運命であり且つ宿命なのだ。

であるが故にこそウドちゃん、長い間どうもありがたう。

 

『旅してゴメン』よ、ほんたうにどうもありがたう。

確かに其処にこそ「人間の生活」其のものが描き出されて居ました。

 

故にこそ其れはそんな「人間の生活」を見ずして勝手に文明を進める政治家や官僚やさらに知識人や芸能人とは違い實存に取り眞の意味で「誠實」な行いであったのではなかったか。