大河ドラマ『徳川 家康』に嵌まるー+昔家へ屡來て居た美男の「本多の殿様」ー
日本は世界最悪のカルトの吹き溜まり…統一教会がデタラメな教義で大金を巻き上げられた根本理由【2022編集部セレクション】 (msn.com)
其の🗾にカルト教団が多いのはでも確かなことなのやもしれない。
尤も宗教の話はつまるところ社會とも関わり合う問題なので何に問題があるかと言えばむしろ🗾の社會にこそ問題がある可能性が高い。
またつまりは政権与党がカルト教団と癒着することなどは普通あり得ない。
此処からしても🗾の戦後民主制其のものに何かとんでもない矛盾があったであらうことは確實です。
無駄なストレスとなる「他人への不満」を捨てよ…心をラクにする「仏教の教え」 「どうにもならないこと」で消耗しない (msn.com)
其の「自他對立」を根本的に解決せんとしたのがまさに佛法上の要諦の部分でせう。
「自他對立」は最終的に「利己欲」から生ずるが故に其れを滅して行かんとするのがそんな佛法上での要諦の部分でせう。
でも其れはあくまで「本質的」な意味での「迷いの生存」に對する処方箋のことです。
つまりはまさに其のことが出來ぬが故に今ココにわたくし共が居るのである。
何でまたよりにより君はソコに居るのだ?
そんなことを言われましても何時の間にか母の股の間よりポコッと生まれた者は其れはもはや如何ともし難いものだ。
何だ其れがそもイカンとさう仰るので?
…イカン。
だから其の見方其のものが可成にカルトチックだ。
即ち御釈迦様の頭の中はもう滅茶苦茶にカルトチックだ。
故に其れは我我凡夫には理解し難い認識の世界のことなのだ。
だからこそ其れが「解脱」と言われるのである。
なので誰もが「解脱」出來る筈などが無い。
むしろ最初からそんなことは無理筋と言うものだ。
「解脱」出來ないからさうして「他力本願」化して行くのだ。
だが御釈迦様御自身は「やれ」とは説かれず「やるな」とさう述べられた。
ところが「他力救済」のキリスト教から改革派が出て其れが「近代的勞働」との価値を生み出して行く。
するともしや御釈迦様御自身は「近代的勞働」を認めて居られないので?
…おそらくは。
いいかい、御釈迦様御自身の法は「やらない」思想なんだ。
「やる」と「やらない」との選択肢が其処にあればむしろ永遠に「やらない」方を選び続ける。
つまるところある種社會関係の否定的見解であり生存其のものへの否定的見解である。
だが否定其のものでは「解脱」出來ぬので其れ即ち生存としての「弐項對立」をデタッチメントして行くのである。
ところが其の「弐項對立」のデタッチメントは我我凡夫には元元無理なことだ。
何故なら我我凡夫はさうして何時の間にかまた母の股の間よりポコッと生まれし者であるに過ぎぬから。
自分⇔他者ー社會ー
ちっこい自分⇔他者ー自然ー
其のまさにプロテスタンティズムとしての「近代的勞働」をやれば必然的に個は社會的闘争へと駆り出されて行く。
なので國家崇拝者にせよまた共産主義者にせよ須らく其の社會的闘争へと駆り出されて行く。
ところが其処にて「社會的価値観より離れたちっこい自分」をあえて設定すれば逆方面に「自然」が見えて來まさに其れと行き來が出來るやうになる。
結局のところ其の「社會への不満」はでも直しやうが無い訳だ。
故に釈迦は社會を捨てキリストはまさに社會をあの世に築かうとした。
「社會への不満」其れ自體はでも消しやうが無い。
何故なら「社會」は元元ロクなもんで無いのである。
「社會」が元元立派で正しいのであれば此の世に釈迦やキリストなどが要るものか!
「社會」は元元とんでもなく腐ったまさに「肥溜め」の如きもんである。
だからそも何でソコに釈迦とキリストが要るのだ?
宗教家の面面はまずソコから是非考えてみて頂きたい。
其れは要するに「社會が惡い」との其の壱点の部分に帰結する御話なのだ。
でも社會を恨んではよもやイカンのでせう?
其の通りでつまるところ其れは「そんな惡い社會を恨んでも益が無い」からなのだ。
ではどーしたら良いのですか?
どーしたら良いも何も「そんな惡い社會を恨んでも益が無い」から必然としてソコから離れるしか無い。
イザ離れると其処に「ちっこい自我」が生じる。
其の「ちっこい自我」は母ちゃんの股の間よりポコッと生まれし「自我」とは違う自我でありあえて言えばまさに其れが「眞我」である。
其の「ちっこい自我」はそも「デカいもん」などまるで見て居ない。
「デカいもん」とは政治経済などのつまりは文明的営為のことだ。
其の文明的営為を幾ら批判するにせよ其れは変わりやうが無い。
何故なら此の世界の成立因其のものが其の「自他對立」其のものだからなのだ。
またつまりは「自他對立」其のものに捉われる要するにそんな社會と云う「肥溜め」の中でもがき続けて居るとまさに「眞我」を失う=「洗脳」される羽目となる。
即ち「自他對立」其のものに基づく世界観の中へと個としての認識其のものが引き摺り込まれて仕舞う。
さすればもはや社會の側はシメタものよ。
そんな「洗脳人間」を八拾億人も此の世に生み出しソコにておおまさに大いなる「全體主義」をやるのである。
…何だかとっても怖い。
さう、怖いんだよ、此の世はさうしてドコまでも怖いトコだぞよ。
だから個としての闘争とは政治上のまた思想上のさらに経済的な意味での闘争には非ず。
個としての闘争とは畢竟認識上の闘争にこそ帰結するのだ。
其の「ちっこい個」はでも無力です。
いや無力なのでは無い。
まさに其れは「雑草」の如くに役立つ力なのだ。
だが「ちっこい個」はバカであってはならん。
兎に角出來得る範囲で「御勉強」して置くのだ。
さうして「御勉強」するから社會による「洗脳」からさうしてようやく解放される。
ところで上のところで「自分への不満」は良いとさうされて居ますが果たして其れで良いのですか?
ズバリ申せば「自分への不満」はむしろ必要無いことである。
「自分への不満」を持つとむしろ社會による「洗脳」からは解放されなくなる。
社會=○、自分=✖。
まずは其の構造こそが「社會の暴走」をのさばらせて行く元凶であらう。
逆に、
自分=○、社會=✖
とさう考えてみやう。
するとアノ🗾共産党の方方のやうに「何でも反對!」になりはしませんか?
いや其の「何でも反對!」しても結局社會は直しやうが無いので無駄に勞力ー理性の力ーを使わず「無視」して置けば其れでもって宜しい。
でも少なくとも「目覚め」て置かんと「洗脳」される侭に死ぬることにもなりかねぬ。
其の「ちっこい自我」はそも何を見詰めて居るのですか?
「ちっこい自我」とは其れ即ち「理性的限定」のことでありつまりは「具象的限定」のことである。
其の「理性的限定」とはカントの「定言命法」のことでありハイデガーの「死の先駆性」のことでありまたショーペンハウアーの「盲目的なる生への意志の断滅」のことなのですね?
さうまさにさう云うのを「ゴタ混ぜ」にしたもののことだ。
現存在の大脳新皮質がそも「理性的非限定」なので「近代社會の暴走」が起きる訳なのだから其れを個的に「限定」するつまりは「制限」するとの御話です。
「理性的に非限定的」な其のバカ近代社會は兎に角危ないものなので其の侭に放置するつまりはやりたい放題にやらせるともうとんでもないことになってまう。
さう言えば此処のところ何か「自然」がブチ壊れて來て居るやうですが其れってもしや其の「近代社會の暴走」なので?
ですから其の「近代社會の暴走」に就きココで六年程もう書いて來たでせう、其の自称の詩人さんが。
ー實際に今震度5以上の地震が其れこそ北海道から九州迄頻発して居る。此処🗾ではもはや何が起きてもオカシクは無い状況にある。ー
「近代社會の暴走」が起きて居るのだとすればもう人類に未來など無いではありませんか!
人類に未來など元元ありゃあせん。
其れも其れを未來があるとさうウソをコキつつ「やるだけやる」のが近代社會の常套手段なのだからして。
そも何で近代社會は「やるだけやる」んですか。
まあ欲望が「デカい」からですね。
でも「ちっこい自我」=「眞我」はそもそんな「デカい」欲の世界なんぞには生きて居ない。
だってそも自分が「雑草」なんで偉くも何とも無くまた金も無く妻も無く子孫すら居ない。
そんな金も無く妻も無く子孫すら居ない人非人の詩人がまた何を目論ん御座るのだ?
いや自分の場合はあくまで「眞理」を見詰め続けると云う旅をかうしてして來て居るのです。
ところで、
自分=○、社會=✖
だとはどんな宗教もさうは述べて居ませんよ。
さうですね、其れも最終的に宗教は逆に自分を責めたがる。
ですが責められるべき罪を持つのはむしろ「社會」の方なんです。
そんな「社會」の出來が惡いものだから「市民革命」や「社會主義革命」がまた勃発するのである。
でも何でいつも「社會」は威張るのですか?
第壱體制に関わり無く「社會」は常に威張りますね。
まあさうですね。
例えば「國王」は威張るし「共産党壱党独裁の指導者」などもまたしこたま威張る。
さらに最近は何故か👩が威張りつつあります。
何で其れ等はさうも威張れるのか?
個<社會
つまりはかうなって居るのです。
つまりは其れが至極簡単な「搾取」であり「洗脳」の原理です。
要するに個は決して社會には逆らえない。
イザ近代社會が「みんなでもって進歩し此の世に理想の社會を築かう」とさう決めたのであればもう誰も逆らえないこととなる。
でも其れこそが「全體主義」の原理其のものなのですが…。
但し個として「理性的に自立、自律化した自我」を組み上げることで其のことをむしろ冷笑しつつ眺めて居ることだけは可能である。
さらに言えば宗教によるまさに「教条主義」的な価値観に對しむしろ冷笑しつつ眺めて居ることなども可能である。
でもそんなもんはかの信長公の如き「独りよがり」での認識に陥らぬのか?
まあさうなったらなったで「本能寺の變」がそんなアナタの身に降りかかるダケのことでせう。
にんげんごじゅうねんーげてんのうちをくらぶればーゆめまぼろしのごとくなりー。
イヤだまだ死にたくは無い。
よって信長公では無くかの家康公の如くに「限定的平和」の世界を是非構築したい。
まあ其の「限定的平和」は信長公+秀吉公+家康公との歴史的な流れが實現せしめたところでのものだ。
要するに其れは嗚呼まさに愛知県人による天下壱統の事業であった。
でも其の後がどうもダメです。
近代化以降東京も大阪も所詮はそんなもんでせう。
ならば例えばアノ「藤井君」を天下人として祀り上げ総理大臣にでも据えたら此処🗾は救われませうか?
「藤井君」は将棋が強いダケの話でまた織田 信成氏はスケートが上手かったダケの御話でせう。
イチロー氏などはかって野球が上手かったが今はもうトシですし。
さても其の「限定的平和」への道とは参英傑による事業だったのですか?
さうです、其の愛知県人としての参英傑こそが此処日本の政治の全てなのです。
別に全てではないとさう思いますのですが…。
いや全てです。
實際後はもう田舎者による政治上の間違いばかりです。
さてもアナタもしや最近また大河ドラマなどに嵌まって居ませんか?
また良くぞ其れが分かったな。
NHKオンデマンド 大河ドラマ 徳川家康 (nhk-ondemand.jp)
其れがまさにこちらなんですが大河ドラマ故に何せ話が長いんです。
其れも五月壱杯の配信期間となって居るにも関わらず。
さて其のオンデマンドの期間を限定するのは是非止めて頂きたい。
でないと毎日此れを視る羽目にもまた陥る訳だ。
1.人質時代の家康公のことが其れも詳しく語られて居る
2.つまりは此のドラマを視聴することで「本質的」に家康公のことが分かるやうになる
3.どうやら「史實」に基づくドラマの展開となって居る
でもって非常に興味深く今此の大河ドラマを視て居る。
つまりこちらでは「大人語りでの家康公の生涯」なのであり少少劇画チックな「どうする家康」の方が何だか子供っぽくも感ぜられる。
近頃良く思うのですが此の世界にはむしろ過去に「全て」が眠って居るのかもしれない。
其のやうな過去の価値を発掘し今其れと接するとむしろそちらの方の出來こそが良いのである。
4.「天下壱統」もまた「人間関係」によるものだったこと
家康公の生涯は其れも「人質時代」のことはまさに複雑な人間関係に彩られて居りややこしいこと此の上無い。
即ち「天下人」とは其のややこしいこと此の上無い人間関係をこそ潜り抜けた人のことをこそ言うのである。
だから其のややこしいこと此の上無い人間関係が大嫌いな自分にはほぼ対極に位置するであらう世界でのことである。
ところで家康公がかの信長公より大きく影響を受けまた共に理解し合って居たことはまた確かなことだったでせう。
結局さうして尾張と三河は地続きであり謂わば身内でもまたあった訳です。
さて「どうする家康」で三河武士最強の武将として本多 忠勝役を演じて居るのが山田裕貴 - Wikipediaと云う俳優さんです。
本多忠勝 | 登場人物 | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK
此の方は演技の方も素晴らしいのですが實は可成に頭が良い人のやうです。
此処名古屋からは結局良い男優さんが次次と輩出して居ます。
家臣はボクの宝です 徳川家康 組織づくりの極意 | NHKラーニング
以前NHKを視て居たら其の山田 祐貴氏が出て居て自分は「哲學」が好きなのだとさう言われて居て驚きましたものです。
さて其の山田 祐貴氏は元中日ドラゴンズの山田和利 - Wikipedia氏の息子さんです。
山田 祐貴氏はどうも「御勉強」が好きなのださうで其れも自ら進んで學ぶことが好きなやうです。
ですので其の「NHKラーニング」なる御勉強系の番組を紹介するコーナーに出られて居たのだと思われる。
尚NHKはまるで税金の如くにほぼ強制的に視聴料を徴収する訳ですのでまさに其の御勉強することの出來る番組を兎に角増やして行くべきです。
其れも「読書」することと同じ位に學べる番組を兎に角増やして行くべきです。
何故なら現存在は所詮「理性を生きる動物」なのであり「理性無き獣」とは違うのです。
ですが其のことは其の理性の有無が生命としての価値の多寡に繋がるものでは決して無い。
つまるところ生命としての価値の多寡即ち命の重さは理性が有らうが無からうが同等です。
あえてソコにヒエラルキーを築くのはむしろ非理性的な行いであるとさう断じられるべきである。
ですが最終的に人間は「理性をこそ生きる動物」なのである。
ところがその「理性」は「御勉強」を積み重ねることでしか成就されることがない。
故に「御勉強」が好きだと云うことはむしろ「人間的」であることなのだ。
其の「御勉強」こそが好きで酒と👩とギャンブルが大嫌いです、とのそんな眞面目な🗾人はもう神様にも通じて居ます。
いや佛様にも即通じて居る。
さああーでは本日もまた御勉強だー。
サア勉強するぞ、勉強するぞ、勉強するぞ!
果たして此処は何処の塾ですか?
いいえ塾ではありません。
此処はさうして御勉強に縛り付けるそんな壱種の精神的な意味でのタコ部屋のことなのだ。
ちなみにかって区役所時代の父に「本多の殿様」と呼ばれて居る部下が居て其の人が何度も家へ來酒を飲んで騒ぐ訳です。
其の「本多の殿様」はほんたうに三河武士の本田氏の末裔にて観た感じではまさに只者では無い御洒落な人でつまりは身なりをキッチリと決めた美男の方でした。
其の人が応接間で酔っ払いさうして夜遅く迄父と共に管を巻く訳です。
其のやうに實存としての価値にはまた色色とドラマが展開されて居るものです。
其の「本多の殿様」は或は酒の飲み過ぎだったのか父よりも早く亡くなって仕舞いました。
常に声が大きくしかも張りのある其の意味でのまさに豪傑の方でしたが其の意味でも人生とはまるで分からないものです。