目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

そんな怖い料理店に就いてー『森の小さなレストラン』と『注文の多い料理店』の御話ー

そんな怖い料理店に就いてー『森の小さなレストラン』と『注文の多い料理店』の御話ー

 

 

 

 

脳科学者・中野信子が語る「人間の脳」の残念な仕組み。誰にでも平等なもの 『脳の闇』インタビュー後編 (msn.com)

 

かの中野先生が今度は「人類総おバカ説」をかうして述べられて居ますが個人的には其れに大賛成です。

中野先生はIQが140以上ある天才ださうですが其れとはまた別に其の種の「人類」を貶す系での御意見には即飛び付きますのです。

 

ついでに中野先生にも飛び付きたい位ですがすでに既婚者であるさうな。

 

但し人間は畜生道を生きる獣達に比し常に理性の面で天才であるつまりは「ニュータイプ」である。

其の「ニュータイプ」型生命である人間も「天才」や「神佛」から観ればほぼバカの集まりであるに過ぎぬ。

 

其の馬鹿はよりによりデカい檻のやうな文明を何時の間にか此の地球上に築く。

 

人類はそんな檻の中の哀れな動物です。

文明と云う其の檻の中をウロウロと左右の壁に行動を阻まれつつ不老不死と大金持ちと地球破壊だけを目論む惡い奴等のことだ。

 

そんな惡い奴等に効くのは、

 

1.人類の教師の鞭

2.御釈迦様の御説法

3.キリスト様の御説法

 

のいずれかのみです。

 

 

さても其の人類の教師とは誰のことですか?

まさか自称詩人のことではあるまいが…。

 

いえ自分はむしろ半分位は人類の教師にならうとさう努めて來ました。

でも結局人間が出來て居らずヤッパリまだまだ學生をやって居たい。

 

そんな永遠の學生か又は學僧でありたい。

さうか、だから君は何時迄経っても子供なんだ。

 

子供だからさうして毎日石やペンを弄ることに飽きないのだ。

まあ其れも果たして何時迄やって居られることか。

 

どだい現存在は「限定」された「ニュータイプ」ですので元來其処に持続性など無いんです。

つまりは近代以前の段階ですでに限界だった種としての寿命を近代と云う社會的革命により取っ払った訳である。

 

其の取っ払いにより我我は今生きて居られますが問題は其れをやり過ぎたのでたった今地球が物理的に悲鳴を上げて居ることです。

また其のことはあくまで「思想」などには関係の無い具體的具象的悲鳴であるとのことだ。

 

だったらもう話はカンタンであり即ち、

 

やる→やらぬ

 

方へと文明の舵を切れば良いだけのことなのだ。

 

だってみんなが「やる」から「やる」んでせう。

だから其れでは単なる全體主義でせう。

 

さうでは無くみんなが「やる」からむしろオレは「やらん」のです。

でもそんな自己本位ではつまりは「村八分」でせう。

 

まあ基本的にはさうだがでも結構自分は人に助けて貰うんです。

其れも例えばそろばんの先生やTSUGEさんなどに。

 

つまるところ「小」の方での人間関係はむしろ大切にし「大」の方つまりは文明のやりたいやうにはさせぬと云うのが自分流での意思決定の仕方である。

 

 

――誰もが平等に持つ資産として「時間」を挙げることが多いですが、まさか「脳内における快楽の仕組み」も平等だったとは。

高価なレストランでも、安価な大衆食堂でも、おいしいと感じて幸せになる脳の仕組みは変わらない、ということと同じです。賢かろうが愚かだろうがその仕組みは誰でも同じです。むしろ、このことに気づくことができるかどうかこそが、「バカ」な状態を抜け出すための手がかりとして大切なことなのかもしれません。

◇一連のお話を伺い、「バカ」とは、気づかないうちに自分以外の誰かに人生を乗っ取られてしまうことだと感じた。人間の脳は周囲の影響を受けやすく、意識しているつもりでも、乗っ取られてしまうことが多々ある。過去、100年の日本を振り返ってみると、関東大震災時のデマの流布、第二次世界大戦に突き進んだ熱狂、オイルショック東日本大震災パンデミック……集団で思考停止にならなければ、別の未来があったのではないかと考える出来事ばかりだ。争いが多い時代、「自分らしく生きる」ためにも、まずは「本を読む」ことはすぐに始めることができるのである。ー脳科学者・中野信子が語る「人間の脳」の残念な仕組み。誰にでも平等なもの 『脳の闇』インタビュー後編 (msn.com)より

 

其の「バカ」とはそも「洗脳」されて居る状態をこそ指して言うのである。

だから別に偏差値やIQの問題では無くさうなのだ。

 

其の「自分」を保つことは過去でも未來でもまた現在でも大變難しいことです。

何故なら人間は常に社會的生物であるのだから。

 

さうして「自分」を保つことは自立的、自律的に「御勉強」することでしか創り得ない立場である。

所謂社會勉強でもって其れは出來ず其れは「社會」を學ぶことにしか繋がらない。

 

「社會勉強」はむしろさうして自立的、自律的な思考を奪い去るものだ。

 

みんなでやらずにさうして独りでやる御勉強は長く辛い「茨の道」だがまた其れに限りキリスト様や御釈迦様の認識へと近づく為の近道である。

人間は出來得ればさうして「理性的」に生きて居たいものである。

 

其の「理性」とは偏差値やIQを上げる為のものには非ず。

「理性」とは「自ら考える」力を身に付けんが為のものだ。

 

さうして「自ら考え」た挙句に文明社會が全體主義化して居ることを観て取ったならばむしろ其れを懐疑的、否定的に扱わねばなるまい。

 

つまり人間が「バカ」だと世の中は良くならずむしろドンドン惡くなるのだ。

其れを「そんな御前等のバカのせいだ」とさうズバリ言って下さる人類の教師級の理性の持ち主はほぼ居ない。

 

だが皆無では無い。

絶産では無くごくたまに其れは生まれる。

 

 

さて贅沢な食であれ簡素な食であれ幸福を感じる脳の仕組みには變わりが無い。

其れはつまるところ贅沢のし放題がむしろ「無意味」であることを何より指し示す事實である。

 

だから左翼系のいやそんなイデオロギーには関係無く「意識、見識の持ち方が高くある」人人はより儲けより有名にならうなどとはまたより全自動の便利な暮らしなどは望まず田舎暮らしか又は壱軒屋暮らしでもって地元産の有機野菜を食い古民家などをリフォームして暮らす訳だ。

 

尤も自分はまた其れも贅沢志向の壱つだとさう考え始めて居り要するに「消し去る方向性」即ち「デタッチメント」することこそが眞の意味での「解脱の方向」だとさう思いまさに其れが出來ぬにせよなるべくさうして行かうと思って居るのです。

 

其れでも猶自分もまた贅沢がしたい訳ですがとりあえずは其の贅沢の範囲を非社會的な部分に「限定」して來て居る。

要するになるべく小さなことに喜びを見出すこととして居る。

 

逆にデカい社會的価値にはむしろ蓋をして置く。

何故なら「肥溜め」には是非蓋が必要なのだから。

 

 

さうして最終的には其の「理性的限定」を自らの脳に課した侭に死んで行ければむしろ其れで御の字でせう。

従ってすでに世間の目標=欲望とは大きく考えが違って來て居る。

 

理性とはさう云うことなのであり其れは偏差値やIQの高さ其のものから齎されることには非ず。

但し「頭の良さ」は此の世のカラクリを見破る為には大いに役立ちます。

 

つまるところ其の「洗脳バカ」ではもはや何ともならず余計に所謂「無明」の度を酷くして行きます。

要は「理性的限定」を行うことでつまらぬものがむしろ輝いて見えて來る。

 

逆に文明が目指すところでのデカい価値での熱狂がアホらしいものにしか見えなくなる。

故に其の長く辛い「御勉強」の目的とはそんな消去法に指し貫かれた「心の状態」へと自らを磨き込むことです。

 

 

さて最近感ぜられたことに就き述べる。

 

森の小さなレストラン | NHK みんなのうた

【NHKみんなのうた/歌詞付】森の小さなレストラン/手嶌葵 - YouTube

 

飯を用意したり食ったりしつつNHKで屡此の曲を聴く。

ところで例えば宮澤 賢治の注文の多い料理店 - Wikipediaグリム童話ヘンゼルとグレーテル - Wikipediaの御話なども其の内容は恐ろしい話である。

 

飯を食うのは人間に取り何よりの樂しみであらうに何故文學の方ではそんな怖い話になるのだらうか?

 

手嶌葵 森の小さなレストラン 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)

 

つまりはかうして「死にゆく者の最後の晩餐」のやうな内容の歌詞となって居る。

ですが個人的にまさに其れが「詩人の視点」を盛り込んだ歌詞であるやうに思える。

 

詩だとかまた藝術だとか云うものは元來「マイナス」の部分をも見据えた精神の作用であり表現の形式です。

ですので先に述べた文學作品としての童話の場合もむしろ其の「マイナス」の部分をも見据えた精神の作用であり表現の形式なのです。

 

ところが「洗脳バカ」にはむしろ其のことが理解されないことが多い。

従ってむしろ此の歌の歌詞が胸に響くかどうかで聴衆がどんな人間であるかと云うことが壱目瞭然となる。

 

勿論自分の場合は此の歌がとても好きです。

但し子供向けの歌では無いことだけはまた確かなことです。

 

 

尚文學の本質とは「屈折」にこそある。

だから文學が好きだと云う人の心は概ね「屈折」して居る。

 

其の「屈折」の仕方にもまた色色とあるがこんな死人の為のレストラン迄出て來る程に其れは幅広く且つ正直である。

 

でもそんな幅広く且つ正直な点はむしろ世間に於いて邪魔になるばかりです。

だから詩人や画家や音樂家は世間並みのことにはむしろ疎くなるのだ。

 

要するに奇人、變人化しないと藝術なんぞを論ずることなどは出來ません。

藝術家とは左様に「マイナス」方面への變な拘りがあることなのだから。

 

 

『哲学する心』(梅原 猛):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)

 

翻り「御勉強」の御話をさせて頂く。

自分は今週此の梅原先生の著作を読んで居るが其処から大きくインスパイアーされたので其の部分に就き述べる。

 

梅原先生がかって仰ったことは「近現代文明に對する否定論」である。

其れも生半可な批判では無くズバリ否定論である。

 

でもって自分は梅原先生の御考えに「洗脳」されこんなに近現代文明を貶すやうになった訳では無い。

梅原先生の御考えに接する前から近現代文明に對し否定的見解を強く持ち合わせて居た。

 

自分はまず何でそもそんなに「頑張らねばならぬのか?」と云うことを常に疑問として抱いて居た。

 

「頑張ります」とさう言えば此の世間では〇とされ「やりたくない」とでも言えばもはやソイツは社會不適合者である。

でも兎に角「やりたくない」ダケなのです。

 

そんな「やりたくない」ダケの人は✖の人間なのか?

40年間御勉強をした挙句の其の答えを言えばむしろやりたいばかりのつまりは「頑張ります」人間の方こそが「洗脳人間」なのだった。

 

じゃあ徒競走も全部止めれば良いのか?

君が代」も歌ってはイカンのか?

 

いや別に歌には拘らん。

第壱「君が代」はとっても良い歌だ、サア家の前でもって歌うぞ其の「君が代」を。

 

だが競争主義や其の競争の結果現存在をヒエラルキー化することなどにはズバリ反對だ。

 

つまり其れは日教組だとかさうしたことでは無くわたくし自身がそも「やりたくなく頑張りたくない」人間だったのである。

尤もそんな「やりたくなく頑張りたくない」人間がむしろやりたくて仕方が無いのが社會批判の部分であった。

 

 

梅原先生による近現代文明批判の部分は無論のこと哲學的に良く考え抜かれ練り込まれた「思想」其のものである。

わたくしのものはもう少し「直観的」な判断が其処に加わる。

 

つまりはいかがわしい部分が其処に加わる。

なんとなれば自分は本職の哲學者などでは無くこんな自称の哲學詩人であるに過ぎぬ。

 

だが別にエエ加減なことは言って居らず其の近現代文明批判の部分に関しては至極眞面目にやっても來た。

 

たった今自分が現代文明に對し述べたいこととは「理性的限定」を行えとのことである。

「理性的限定」の流れはカント→ハイデガーの流れでのものであらう。

 

また東洋的視点からはショーペンハウアーによる「理性的消去」での流れもまた重要な部分である。

何故さうなるのかと言えば例えば地球環境問題に関して文明はいまだ「限定」することを表明して居ない。

 

地球環境問題に関してまず大事なこととはズバリ其の「限定」である。

其れも主に社會的限定こそが最も大事な要件である。

 

「社會的限定」とは資本主義を放逐し何か別の経済體制を築いて行くことだらう。

其れは文明の富の再配分にて實は可能なことなのだ。

 

ところが強欲な資本家や投資家が其の抜本的改革を阻むのである。

彼等は自分の子や孫が将来地球に住めなくならうがどうしやうがそんなことにはお構いなくたった今百億円を其の手に掴みたいのだ。

 

對して自分はアドヴァイス料の方でたったの壱億円を社會に要求するばかりである。

嗚呼何て欲が無く謙虚な文人さんなのだらう!

 

兎に角早う誰か金を持って來い!!

其れも此の死に體の地球を助けんが為に出來るだけ早う。

 

 

さて『哲学する心』の219頁より梅原 猛先生は宮澤 賢治の『注文の多い料理店』に就き論じて居られる。

つまりは其れが「文明批判」としての童話だとさう仰る。

 

言われてみれば確かにさうだ。

西欧近代と云う其の社會制度を「鉄砲を担いだ英國風の紳士弐人」へと擬人化して描いて居る訳だ。

 

其の西欧近代は料理店の方からむしろ様様な注文を突き付けられ仕舞いには山猫の妖怪に食われさうになるがすんでのところで猟犬共に助けられる。

其の様は「無限の注文でもって豊かにされた文明」がまるで何らかの巨大な力により滅ぼされる過程其のものである。

 

また此の童話の不気味さは賢治が西欧近代文明の本質と其れにより抱える危機をすでに其処に見抜いて居るからなのだとさう述べられる。

確かに宮澤 賢治は単なる西欧近代文明の信奉者では無かった。

 

但し西欧の藝術や思想に就き彼が心酔して居たこともまた確かなことだ。

彼はまた近代化を頑なに阻むであらう日本の農村部の土着性、因習の多さの部分におそらくは辟易して居たことだったらう。

 

であるからこそ彼はコスモポリタン的な理想郷を「イーハトーヴ」として其の東北の地に夢見て居たのであった。

 

いずれにせよ彼等「鉄砲を担いだ英國風の紳士弐人」はさんざんな目に遭いつつも東京に帰る。

文明はむしろ其のやうに自然の魔力に食われず逃げおおせた訳なのだった。

 

だが世界の文明の危機とは西欧近代型の文明の危機だと梅原先生は続けてさう述べられて居る。

 

 

其の西欧近代型の文明の危機はまさに今現實化して來て居るのではないか。

いや其ればかりか此処🗾では兎に角地震が多く其れは其の西欧近代型の文明の危機とはまた別の我が國固有の大問題なのだ。

 

尚わたくしの場合🗾の近代化はほぼ失敗だったとさう見て居るのである。

また其れは社會的価値を西欧近代型の文明に置き過ぎたことによる弊害であり失敗である。

 

地震や温暖化のことでもまた然りで此処日本は高床式や竪穴式の蔵や住居が適して居りよってデカいビルディングやデカいタワーやそんな文明が欲しがるやうな物はそも要らんのではなからうか。

 

どだい竪穴式住居にして置けば地震が來てもまたすぐに復興出來やう。

また高床式倉庫は兎に角文物の保存性が良い。

 

さう云うのは大震災で壊れやうがどうしやうがまたすぐに造り直すことが可能なのだ。

其のやうに此処🗾の文明のあり方をむしろ根本より考え直してみるべきところにたった今さしかかって居るのではなからうか。