夏の始まりをそんな「藝術🎇大會」にて感ずるー今年早くも観た🎇と金持ちのTSUGEさんとの人間関係の御話+ハイデガー論に就いてー
収入の「70%」を持って行かれる…このまま社会保険料が「爆上がり」した先に待つ地獄 (msn.com)
此の🗾社會のあり方其のものに實は問題があり其れは「國の維持の為に個が犠牲にされて行く」との観点である。
何故なら🗾國民はそも國の為の民なのだ。
さう云うのがかの國を貫くであらうまさに「イデオロギー」なのだ。
また其のことがほぼ「全體主義」化して來ても居る訳だ。
従ってかの國の未來は實際に可成危ない。
どう見ても危ないのでむしろ其れを「見ない」方がより建設的な見方である。
でもって「五公五民」の割合いを越えれば当然ながらもはや「壱揆」レヴェルとなる。
とは言え實際には「壱揆」など出來ないから、
1.海外への移住
2.精神崩壊者の増加
などが見込まれると見て置けば良い。
3.田舎への移住
もまた壱つの手ではあるがあいにく其の田舎は考えの方が須らく前近代的なので近代的都會人は其の陰惨なる風習にはとてもついて行けない。
でも「別荘地ライフ」なるものを壱つの夢として持つことは別に禁止されて居る訳でも何でも無くまさに壱つの希望的観測であらう。
其れも「寶くじ」でも当ててさうしたにせよソコに誰も文句など言わぬ筈である。
さて昨夜はまた色んなことが起きて居る。
其れでもって急遽こちらへと出て來たのだ。
まず夜になり涼しくなり樂になったとさう思いつつオンデマンドで「徳川 家康」を視て居たら「ドーン、ドーン」と外で音がする。
其の「ドーン、ドーン」とは勿論🎇の音である。
さうして🎇の音がすると我は決まって其の🎇を観に行く。
其れを西八幡社の社の横かまた天白川の土手から観ることが可能なのだ。
ところが音はすれども観えぬ場合もまた半分位はある。
其れでも體がつい反応し大抵の場合は観に行くこととなる。
されど昨年は弐度連続で何も見えなかった。
其れで弐百米歩き西八幡社の社の横に立った。
うわあ、今日はまたしかと観えて居るぞ。
「ドーン、ドーン」
キラキラ✨✨。
終了まで弐拾分程其処にて🎇を観賞す。
「ドドーン、ドドーン」
時折デカい奴が炸裂する。
其のデカい🎇の質が何故か普通とは違う。
まさに此れ迄に観たことの無いやうなパターンや色合いの尺玉が打ち上げられて居るのだ。
しかしてなんだ、コレは?
もしや特別な🎇大會なのではないか?
名港水上芸術花火2023|名港水上芸術花火とは? (nagoya-hanabi.com)
名港水上芸術花火2023|チケット (nagoya-hanabi.com)
家に帰り調べてみたら何とそんな「藝術🎇大會」とのことである。
しかも其の観覧料の値の高さは凄まじいものだ。
でもって結局は其れをタダで観た。
西南の方向の地平線近くで其れは炸裂して居た。
だが尺玉が炸裂すれば遠く離れて居るにせよ結構大きく見える。
即ちさうして其の新型の尺玉🎇は完全に「進歩」して居たのである。
其れも思わず声が出て仕舞う程の作品なのだ。
おわお、また出た!
尤も自分以外に其処で🎇を観賞する人間は居ない。
何故か皆其れを観ないのだ。
しかもかうしてタダで其れが観られると云うのに。
さうか、🎇はさうして今變わりつつあるのだらう。
其れは此のコロナ禍でもって打ち上げが制限されて居たのである。
ところがとんでもない🎇が其の21世紀型の🎇がすでにしかと造られて居たのだ!!
かうしてタダで良いものを観ること程樂しいことは他に無い。
🎇が終わり家へ帰らうとすると子供を連れた若い父ちゃんが丁度観に來たところである。
ところが家に帰るとどうも庭から變な音がする。
其れは庭の西の際の古い配管ホースより水が流れ出て居る音であった。
つまりはそんな水周りでのトラブルである。
早速水を大元より止める。
さて昨夜は「癒しの音樂」のことに就きユーチューブ上にて開拓して居た。
何故なら現代社會は人間に對し要らぬストレスを溜め込むだらう惡い社會である。
また特に🗾の社會程偽善的で且つ惡い社會は他に無い。
其れは🗾の組織が「👪主義的封建體制」であることからさうなって仕舞った可能性が高くあらう。
ならば結局其れは🗾の政党のまた行政の上での責任なのだ。
「👪主義的封建體制」はしかしながら「鎖國」して居る分即ち「限定」して居る分には其れでも良い。
だが近代的合理主義社會でイザ其れをやるとなると左様にソコにあらゆる崩落の芽が兆して來やう。
でもサミットでかうして世界のみんなが話し合えば…。
そんなバカサミットの何が壱體役立つ?
そんな烏合の衆の集まりが🐵知恵を出し合い其れで地球環境の破壊が食い止められるものか!
でも🐕🐈より役に立つのでは?
いや其の金をむしろ🎇に使った方がむしろ得策なのだ。
さうしてトコトン🎇を打ち上げ宇宙開発などは是非もう止めやう。
今自分は其の自然系の動画を視て是非心を落ち着かせて居たいのです。
音楽は心臓を癒し、血管を癒します音楽は神経系を回復し、リラックスして - YouTube
深いリラクゼーションのための最高のケルトの神秘的な音楽。 癒しに役立つ音楽。 - YouTube
そんな瞑想的な動画、とでも申すかそんなものに兎に角癒されて居たいのです。
名港水上芸術花火 2023 1曲目4K 60P - YouTube
名港水上芸術花火 2023 4K 60P - YouTube
其の藝術🎇の余り良い動画が無かったですが實物は大層感動的なものであった。
尚かの信長公は安土城のライトアップなどが大好きでつまりは藝術的な直感の方を持ち合わせた人であった。
對して秀吉公はいま少し大衆的な意味での「金ピカ」なのが大好きだった。
続く家康公はむしろ「理性的限定」にこそ生きた人だったのでせう。
ところがそんな「理性的限定」をして居るにも関わらず「👪主義」であり且つ👩が大好物だったのです。
つまりは大衆的要素が其処には感ぜられ其の意味では非大衆的な信長公とは好対照での性格の持ち主だったのだと言える。
其の非大衆的な信長公は「人間関係」の上で躓き挙句には殺されたのでしたが家康公の場合は「人間関係」を上手く築き上げ後に「太平の世」を實現させて行くこととなる。
大衆的要素の無い人はさうして「天才」に近くですがむしろ其の「天才」であるが故に「普通の人間」には理解し難いものとさう相場は決まって居る。
また秀吉公の場合にもまた「人間関係」を上手く築き上げ🗾を壱統するのですが彼の場合はまた🐵が其の性格の中に入り込んで居るが故につまりは其処に「理性的限定」が基本的に効かぬのです。
さて自分の性格に最も近いのはどう考えても矢張り信長公です。
但し「理性的限定」が何せ好きですのでまたソコは家康公的な部分なども混ざって居ます。
ところが常に俗的な要素に欠けるのでむしろ「秀吉主義」に徹するつまりは「金ピカ」趣味へと走る方があくまで自分に取ってはより望ましいのでせう。
さてそんな水周りのトラブルの場合は水道工事會社社長のTSUGEさんを呼びます。
其のTSUGEさんの家は西八幡社の横の大豪邸であり此処NISHO町では最高の金持ちとなって居る。
其れはまるで御城の如き家でありガレージには以前より壱台のフェラーリが置いてあった。
其のフェラーリの横にはベンツだか何だか兎に角別の高級車が置いてある。
今日の昼に其のTSUGEさんが來られとりあえずホースのトラブルの応急処置をして行かれた。
TSUGEさんは家の爺さんや父の代からの知り合いで母もまた知り合いであり其れは茶華道を通じてのものであるらしい。
とりあえず壱度母を連れ御宅へ伺う話をして置きました。
其れも下心としては其のフェラーリを是非見せて頂きたいものだ。
其れも乗せて呉れとは言わぬのでちょろりと触らせてお呉れ。
そんな訳で自分はかうして👩が嫌いですが至極物は好きなんです。
TSUGEさんは「來て呉れたら良い御茶を出しますよ」とさう述べて居られた。
そんな良い御茶とはまさにフェラーリ級の御茶である可能性が高くある。
其れは150円の伊右衛門などとはまるで違う高貴な方方が口にする茶なのであらう。
尚「藝術🎇大會」とは藝術である音樂と🎇のコラボレーションとの意であるやうですが實感としてはまさに其の🎇其れ自體が至極藝術的なものに観えたものでした。
「しない善よりする偽善」な社会を乗り越えるため、ハイデガーが考えたこと《21世紀の必読哲学書》 (msn.com)
「力への意志」はヒトラーの意志? ハイデガーの真意が後世の哲学者に遺した課題《21世紀の必読哲学書》(宮崎 裕助) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社(1/4) (gendai.media)
AIに無防備に評価されない為に手放すなとハイデガーの思考が示唆する1つのもの《21世紀の必読哲学書》(宮崎 裕助) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社(1/3) (gendai.media)
さて此の辺りでのことは是非考えて置きたい部分でのことです。
其のAIですが彼は基本的に数字のやうなものであり實存としての肉體とは違うものなのだと思う。
つまるところAIは自分の血肉や思考でもって話をしては居ない訳です。
尤も人間でも自分で話をしては居ない人が居ることでせう。
さて私は思考とは其の「自律的限定」のことなのだと思う。
またつまりは現存在に取っての實存的価値其のものが「自律的限定」のことなのです。
其の「自律的限定」はまさに現存在にしか出來ぬ芸当のことである。
ー要するにここで追究されているのは、個人と集団、強者と弱者のような対比、一切の比較や序列化をも拒否するような、絶対的にシンギュラー(単独的)な生を解放することの可能性である。個人主義や利己主義を超えて「存在論的アナキズム」と呼びたくなるようなそうした生の思考の構想に踏み込むには、いまだ時期尚早である。そのためには、依然として素描にとどまっている「力」の再解釈とともに、別の文脈を通じてさらに考察を拡げてゆく必要がある。ー
AIに無防備に評価されない為に手放すなとハイデガーの思考が示唆する1つのもの《21世紀の必読哲学書》(宮崎 裕助) | 学術文庫&選書メチエ | 講談社(1/3) (gendai.media)より
其の「個的な生」は有るんです。
また其の反對側に「社會なる生」がある。
現存在の場合はどうも其れが「個<社會」となり易い。
其れをむしろ観念的、意図的に「社會<個」と逆転させるのであればまさに其の「存在論的アナキズム」の立場へと至ることだらう。
其れもまた「壱切の比較や序列化」を拒否すると云うのでは無く言わば「脱構築としての構築」をあえてソコに行うとのことです。
其処からも藝術や宗教はむしろ「力への意志」をデタッチメントしてかかる心としての働きのことだ。
「脱構築としての構築」により此の世に生まれるのが言わば「眞我」です。
「眞我」は「無我」とは違い中間體ですので時にバカにもなれば天才にもまたなれる。
中間體乃至は中性域のやうなものがおおまさにソコに降りて來「壱切の比較や序列化」への拘りのやうなものを粉砕するに至る。
即ちほぼ「柔軟體」のやうなものとなり「外側」には決して屈しない何かをソコに生むのである。
なので「力」はむしろ不要なのだと個人的には思うのです。
力有り⇔力無し
力が無いと確かに色色とヤバい訳ですが其の力の無いことを嘆くよりはむしろ自分の無さをこそ嘆くべきなのではなからうか。
だって何でも「ハイ、ハイ」ではもう其のうちに飯も食えなくなりませう。
つまりは其の御飯迄もが搾取されて行くのです。
さうして飯も食えずに「ハイ、ハイ」ではもう生きてる甲斐も何も無いです。
飯も食えずに「ハイ、ハイ」ではもうどんな力も湧き出ては來ない。
でも「力」は基本的に不要でせう。
つまり「デタッチメント」するにはどんな力も不要です。
だけれども最低限飯だけは國が配らないとダメですよ。
第壱飯も無くてそんな伊右衛門だけでまさか生きていけますか!
なので「飯以下」と「飯以上」の価値をしかと分け「飯以下」の方にむしろ拘って行くのである。
藝術や宗教はむしろ其の「飯以下」での世界を整えんが為のものです。
個⇔社會
其処には常に個<社會であることをまさに転換せしめて行くと云う課題がある。
結局AIに迄搾取されぬやう最低限個としての力だけは磨いて置く必要がある。