今のわたくしにとっての夏の夢の如き壱日
平野啓一郎氏、新型コロナウイルスについて私見「最近になって、集団免疫を前提とした話になってるのは何なのか」 (msn.com)
平野 啓一郎氏は現行型の文明に對し鋭い批判力をお持ちの地元愛知の芥川賞作家です。
其の平野先生の御発言内容はとりあえずは是非チェックして置くべきでせう。ー其れも明らかに左翼系の御意見をお持ちであるー
實際に今スーパーやコンビニなどへ行きますとマスクをせずにゲホッゲホッと咳き込む輩がたまに居ります。
されどコロナになったら家に居るのが当たり前の話でそんなコロナウイルスを撒き散らして迄アンタの人生を完遂させたいのか?
そんなアンタの人生は其のコロナを直さん限りはもう迷惑千万のもんだぞよ!
尚わたくしは何せ自分に厳しいので實はコロナ禍以前より人前ではマスクをして生活をして居ります。
其れもまずは兎に角様様なウイルスを防御せんが為の壱つの方策として。
医師が警鐘-下流老人-などの言葉に不安を募らせたシニアに広がる-ある病気
現行型の文明社會其れ自體が實は極めて不安定なシステムでありまさに何時どうなるか分からんやうなものである。
またつまりはソコに過度な蓄財をして居やうがどうしやうが今後地球の温暖化はより進みさらに其の如何にも現金な資本主義経済體制が崩壊する可能性すらもがある。
故に余り先先のことを心配などしない方が良い。
自分はそんな螽斯詩人ですので「なるやうにしかならん、レットイットビーでもってケセラセラ」などと思いつつかうして「今」を生きて居ります。
だけれども子孫のある人はまた其れとは違い確かに将来が心配でせう。
でも自分には其れが無い。
だから「レットイットビーでもってケセラセラ」なのです。
つまりは其の「しがらみ」の部分から常にかうして離れて居るので逆に言いたい放題なのだ。
なので屡宇宙空間迄観念が飛んで行って仕舞うのだ。
其れに「パンドーラーの罠」だとかそんな誰も考えんやうなことをクドクドと考えて居たりもまたする。
要するに壱つの鍵の認識として「文明はそも築けぬ場に倒錯の価値を築かうとする」壱種異様な社會システムであるとのことです。
そも其処には価値を築けぬのでありますから其処はまさに御釈迦様やキリスト様がかって大昔に述べられた通りでのことです。
御釈迦様やキリスト様の認識は其のやうに常に正しくあり反面現行型文明での認識はほぼ間違って居る。
間違って居るから色んなことが文明に同時に起き其れもほぼ惡いことばかりが起きる。
でも其れに對し悩むことは我等實存に取りまずは不幸なこととなる。
いや悩むのは理性がある証拠なのですが其れでは其の理性の使い方がまた間違って居ます。
理性とは惡を惡として知り其れに関わらぬやうに生きんが為に佛様とイエス様が我我凡人に對し与えて下されしものである。
さうなんです、其の理性とは「自然」でも無く「アニミズム」なのでも無い。
其れはそんな「救済」としての認識の役割なのだ。
ですが現行文明は自分が「救済」されねばならぬ存在であるとはまさか思っては居ない。
逆に自分は何でも出來最終的には地球が壊れたら火星へでも逃げたいともう其れだけを願って居ます。
でも其の考えは幼稚園児でも分かることですが明らかに「誤り」です。
つまりは✖です。
✖は〇では無く其れ即ち零点だ。
まだしも△ならば五点は貰えるが✖だから零点だ。
現行文明は其の全部がそんな零点なので?
でも其れでは余りにも辛い評価です。
零点なもんは何処まで行っても零点だ。
でもアナタの其の評価其れ自體が✖なのでは?
まあさうであれば良いのですがね。
でも文明は兎に角何処まで行っても「デタッチメント」することが出來やしない。
文明其のものを「デタッチメント」することが出來ずに結果自滅して行かざるを得なくならう。
「デタッチメント」とは消去でありまた切り捨てることだ。
また言わば其れが「限定」である。
ちなみに結局其の螽斯は遊んで暮らした御蔭で滅びますが彼の歌はむしろ永遠に人人の心に刻まれるのだ。アリとキリギリス - Wikipedia
即ち其処にて🐜が偉いとは絶對的に言えない。
螽斯はさうして藝術をやり人人の心に火を灯した。
だが🐜は藝術を小馬鹿にしさうしてセッセと蓄財に励む。
だが🐜は結局働き過ぎ地球環境を壊して仕舞う。
ならばそもドッチが偉いのか?
其れは場合によりけりとのことであらう。
だが現行文明が万事に對しやり過ぎ地球環境を壊したのはまさに其の🐜野郎と瓜弐つでの生き様だ。
しかも「資本の論理」が必要以上の蓄財を投資家や資本家に何処までも許して居る。
だから金持ちはもうクソみたいな大金を握って御座る。
他方では食うや食わずでもって餓死する貧乏人が居る。
そんな社會がそもまともなのか。
そんな社會が何を威張って御座る?
そんな🐜共はもう踏み潰してやれ!
いやでも労働者を踏み潰してはイカンでせう。
労働者では無く是非資本家及び投資家を踏み潰すべきだ。
…仰る通りです。
だから🐜の資本家及び投資家を踏み潰す。
でも結局労働者にもまた「資本の論理」の言いなりとなり株式會社でもってやり過ぎ地球を壊した責任がしかとある。
螽斯詩人さん、では貴方は其の「藝術」と共に滅びるので?
いえ滅びはしません。
何故ならかうして食い気だけは張って居り飢え死になどはしない性分です。
でも貧乏な螽斯は結局「飢え死に」するのでせう?
ー夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはヴァイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう。
一方で、アリが慈悲心(哀れみの心)をもって食べ物を分けてあげるという改変が古くからある。食べ物を分けることを拒否し、キリギリスが飢え死ぬのでは残酷だというので、アリは食べ物を恵み、「私は、夏にせっせと働いていた時、あなたに笑われたアリです。あなたは遊び呆けて何のそなえもしなかったから、こうなったのですよ」とキリギリスに告げ、それを機にキリギリスは心を入れ替えて働くようになるなどという展開に改変される場合もある。ーアリとキリギリス - Wikipediaより
ですから其の「改變」の方の作を良く読んでみて下され。
さうして其処で結局螽斯は🐜から食べ物を恵んで貰うのだ。
しかも其の慈悲の心に感謝し心を入れ替えて働くやうになる。
だが螽斯迄もが24時間働く必要は無いのではないか?
何故なら螽斯は元元藝術家ではなかったか。
ならば彼は兎に角藝術を世に伝えることこそが仕事なんだ。
また同様の理由で哲學者や宗教家が24時間働く必要は無い。
要するにやれることを精壱杯やることこそが常に實存としての価値なのだ。
第壱其の🐜にヴァイオリンはまさか弾けないぞ。
まさに其れは螽斯だから可能な實存としての価値である。
では螽斯には参時間程の勞動がむしろ向いて居るのですね?
…其の通りです。
ですが例えばパトロンが居れば其れも不必要なこととなる。
なる程…。
するとそも価値には必ずや弐面性があるから「絶對的価値」とはならないとの教訓のやうなものなのでせうか?
まあわたくしに限り其のことを是非言いたい訳です。
例えば近代に於けるプロテスタンティズムが「勤勞」を神の思召すところでの価値として行った訳です。
ところが人類が皆會社員となり頑張って勞働をすれば其れ即ち勞働とは「自然の搾取」のことですので必然的に此の地球は壊れませう。
つまるところ文明の結末としての現代はまさに必然としての出來事です。
其の「良かれ」とさう社會的に見做されして参ったことが自己矛盾する、つまりは裏目に出て仕舞うのだ。
まさに其のことを「近代と云う全體主義」であるとわたくしはさう述べる。
では其の「全體主義」と云うか近代社會の暴走と云うかそんなものを阻止せんが為には壱體どーすれば良いので?
だから螽斯は24時間働く必要など無いのです。
プロテスタンティズムだらうがカトリシズムだらうが元來24時間働く必要などは無いのです。
また原始佛法であれ禅宗であれまた密教であれさらに浄土教であれ元來24時間働く必要などは無いのです。
ふーん、そんなものなのかな。
はい、そんなものなのです。
だから24時間働くのは近代的価値によるまさに「洗脳」だよ。
尚個人的に認識上で今わたくしが努めてして居ることとは諸価値を多角的で且つ多元的に捉えて行くことだ。
所謂リベラル思想は多様性を大事にする考え方を標榜する訳ですがむしろ其れよりもより広く価値を捉えて行くものの見方をこそ心掛けて居る積もりです。
其のやうに価値と云うものは「絶對視」することがそも出來ぬ。
故に「勤勞」とは言っても他面では藝術的価値や宗教的な価値に疎くなる面があることもまた否めない。
さらに文明が「社會的に頑張れば頑張る程」に地球環境はむしろ搾取され続けて行くことなどもまた否めない。
まさに其の部分での自己矛盾的論理展開をどのやうに理性的に解決に至らしめるかと云うことに関し常に考え続けて來て居ます。
さて本日は素晴らしい梅雨の晴れ間の日でまさに年に何回も無い類での気候の良い日だった。
其れでもって是非日光浴や鉱物観賞に勤しむ予定でしたが銀行振込をするが為に今度は新瑞橋のUFJ銀行へと出向き其の後山崎川周辺を経てまたコノミヤへ行きましたのです。
コノミヤでは丁度今鯖缶が出て居り其れは単価が138円と安い味噌味や醤油味や水煮のタイプでのものです。
尤も其れは食うと余り美味くは無くよって🐱共のエサ用に澤山買って参る。
さらに「京しぐれ」なる氷菓を壱年振りに弐つ買った。http://www.toyo-syokuhin.co.jp/products/article/9
コノミヤは元元関西のスーパーなのでこんな京都の物もまた置いてあったりする。
ところが此の「京しぐれ」88円は安くてしかも美味いのです。ー各種の味があるが此の練乳入りを食したー
其れもあくまで京都物ですので甘さが抑えられつまりはスッキリして居る。
自分は夏場に多く氷菓を食するが結局のところ壱番美味くてしかも安いのは此の「京しぐれ」なのだと思う。
コノミヤからの帰りに東八幡社へ寄る。
其の東八幡社には楠の大木が五本もある。
其の楠の大木が快晴の空にサワサワと梢を鳴らし其の様を観るにつけ何やら文明に對する憤懣が解消されるかの如き心地がした。
おお何て気持ちの良い季節なのだらう。
尚以前にも自分は書いて居りますが、六月後半より七月前半の晴れ間の拡がる日程爽快な季節もまたありません。
勿論新緑の頃もまた格別ですが其の梅雨の晴れ間の日こそがまさに本物の夏の日なのだ。
即ちまだ殺人的に暑い訳では無くよってまだエアコンを入れずに済む季節である。
さうして此の時期の晴れ間は其れも決まって空の色が澄み渡り美しい。
まあしかしながら其のコノミヤに「ビーフカツ重」は結局無く代わりにコロッケやらなんだやらを買って來た。
また本日は強風も吹きよって夜景が至極綺麗である。
とは言え我が部屋からは其れが僅かしか観えぬので本気にて其れを観に行くのであれば天白川の堤防から其れを観ることとなる。
ですがつい先程はバルコニーより壱番星が美しく輝きつつ見えて居た。
嗚呼まるで夏の夢の如き壱日だった。
さうかうするうちに母がデイサーヴィスより戻り「アノ子のやうに18で弐人も殺す位なら自衛隊なんか入らん方が良い。」とさう言うので其のことに對し「やるよりやらん方がむしろ良い。」とさう述べて置いた。
さうむしろやらん方が良い場合が確かに此の世にはある。
むしろあえてやらん方がかうして今の自分の如くに美しい様様なものと巡り合えるやうな気がどうもしてならぬ。