さうして「自然」を理性の側から誠実に見詰められたであらう畑先生のことー文明に對し「自然」を突き付けたとの畑 正憲論ー
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其のやうに「社會の都合」で木を伐ることがまさに文明の滅亡に直結するであらう大命題です。
また其のことをかって梅原 猛先生が繰り返し論じられて居た筈です。
ですから政治上の都合や文明としての體裁としての御話などでは其れは無くつまりは文明の滅亡を呼び込む類での大問題なのです。
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しかしながら其の中川 翔子氏はむしろ結婚した方が良いのではないでせうか?
何せまだ若いんだし。
左様に🐈や🐕は兎に角可愛いものですが其れも畢竟👪にはなり得ぬものでせう。
なんとなれば彼等は所詮人間じゃあ無いのですから。
と言っても自分の場合は其の🐱こそが己の👪なんですが。
また其処は色んな意味での価値観の上での屈折が重なり自然とさうなって居るのです。
動物が好きな人はおそらく心根の部分がピュアーなのだと思われるが現存在は其のピュアーさダケで生きて行ける程甘くは無い世界の住人なのだから。
さてかの畑 正憲氏が亡くなられたさうで心より御悔みを申し上げます。
自分は其の畑 正憲氏の著作を廿代の頃に熱心に読んで居たことがある。
されど所謂「自然」に對する接し方の面で自分の場合畑先生とはまた少し違う立ち位置を持つ。
例えば自分は所謂「動物王國」的なものが好きでは無い。
また現存在を動物や植物とまるで同じ環境に置くことなどもまたどうかと思う。
即ち現存在は動物や植物とはそも違う生き物です。
ですが感覚的にはむしろ同じだと思う方向性を向く方が確かに観念としてのバランスが取れるものとは思う。
故に畑先生のやうに「濃い」動物との交流の仕方が全てダメだとは思いませんが壱面では「やり過ぎ」の面が否めぬことかと思う。
そも自分の場合は所謂「animist」ですのでむしろ動物や植物とは所謂「霊的」に交感するのであり常に物理的に触れ合って居るのでは無いのですし。
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但し其の種の「理屈」抜きに「動物」とは何か?と云うことをまさに文明に對し明示された畑先生の業績をもはや誰も覆すことなどは出来ない。
尤も其の「動物」の世界は人間の「社會生活」とは常に別物である筈。
また「植物」の世界は其れ以上に人間の「社會生活」とは常に別物である筈。
言ってみればまさに其れは「本能」としての自然の摂理が支配する世界のことであり其れをもっと哲學的に申せば「盲目的意志」=不可知としての非理性的領域がほぼ支配する世界のことなのです。
無論のこと現存在にもまた其の「本能」=自然的価値領域がしかとあるが「理性」=観念的価値領域との対比関係ー縁起的相剋関係ーに置いてのみ其の「本能」=自然的価値領域が認識されるより他は無い。
要するに言わば「直接的」に其の「本能」を體感することが人間には出来ぬのです。
其れを無理やりにでも「直接的」體験として認識出來るやうにするには所謂「直感」でありまた最終的には「直観」の方へと認識世界を導いて行きませんとほぼ其の認識が変わることなどは期待出來ない。
つまりは其れが「自然」をあるが儘に認識する為には其の現存在に於ける分裂的価値認識の様を意図的に「統合」して行かねばならぬ訳です。
いや「統合」以前にむしろ其の「本能」の側をやり過ぎな位に見詰めて置かねばなりません。
…だとすると畑 正憲氏のやり方こそがむしろ正解なのでは?
…なんでせうか。
ところで其の「縁起的相剋関係」とのややこしい概念は「自然の摂理」の側にもまた有るものなのですか?
また余計に難しい質問をよりにより仕掛けて來ましたね。
さて其の「縁起的相剋関係」に就きあくまで自分の場合は「認識上の分離の弐段階論」として捉えて來て居ます。
即ち、
自然界=壱次的分離
現存在=壱次的分離+弐次的分離
との考えを其処で取る。
要するに其の弐重の分離こそが現存在に於ける認識上の特徴でせう。
また今日は兎に角話が「哲學的」であり難しい。
まあ哲學詩人さんの虫の居所が多分惡いのでせう、きっと金欠か何かでもって…。
ふーん、でもそんなことで「畑 正憲論」としての骨子が形成されたりもまたするんですね?
ですから「論理」などもまた「感情」とは無関係では無いのです。
特に人文系での「論理」のあり方はまさしくさうであり其れとはまるで無関係なのが例えば「数学」的な数理的解析の方なのでせう。
じゃあもしや其の「数学」の方が世界認識としては正しいのでは?
いや数学はおそらく「片手落ち」での「壱方通行」とならざるを得ぬことだらう。
さうかなあ、どうもエエ加減なやうな気がどうしても致しますのですが、其の君の論理的展開こそが。
だから詩人の認識をもしもエエ加減だと言うのであればアナタの認識上の進歩は即其処で止まるのです。
さうかなあ、どうも騙されて居るやうな気がどうしてもするのですが…。
はい、實はアナタを騙して居り後で受講料を澤山取らうとさうも考えて居ました。
其の受講料とは果たして御幾らなので?
壱講義に就きズバリ百萬円程です。
じゃあ出來れば百円にまけて下され。
はい分かり申した、では百円を頂きます。
ああー此の百円でもって何ぞ美味いインスタント・ラーメンでも食いたいものだ。
何時までもおふざけでないよ!!
其の「自然界」に於ける認識のあり方と「人間界=文明」に於ける認識のあり方の根本での部分がそも異なる訳です。
故に素としての「人間界=文明」に於ける認識のあり方の侭で「自然界」を認識しにかかれば必然として其処には無理が生ずる。
例えば「エエ子だ、エエ子だ」と🐅や🦁などの頭を撫でて居たりすると畑先生の如くに指を食いちぎられたりもまた致しますのです。
さらに無防備にアノ🐘になど近寄って行くと下手をすれば踏み潰され即死致します。
左様にあくまで「理性的交流」のみで自然界と交流することなどは難しい。
されど逆に「感覚的交流」のみで自然界と本質的に交流することなどもまた出來ない。
「感覚的交流」とは其れ即ち「食うか食われるか」の関係でありむしろ畑先生の場合は猛獣達を👪として迎えて居られた訳ですので即其れは「理性的交流」であるに過ぎぬことだらう。
ところで畑先生と左の思想との関係性が現時点でハッキリしませんのですが所謂「左翼的な自然生活」の場合は明らかに自然界との「理性的交流」を目指すものであることでせう。
ところが自分の場合「自然」に對してはあくまで「animist」ですので其処にて「理性的交流」を目指すものでは無くむしろ其の相対的価値認識を離れ「自然」其れ自體と溶け合うが如き境地をこそ目指して來て居ります。
要するに昔の山伏さんとか修験道の方方の如き「自然」への理解にまた近いものがあらうかと思う。
但しまた其のことも「自然」は其の全てが修行の場なのでは無くむしろ遊びの場であり癒しとしての場なのです。
例えば「自然保護」との考えなどもまた理性的に環境を保全するとの考え方であり其れもまた厳密には自分の「自然」理解とは異なる部分があるがとりあえずは其処へ持って行かぬと「自然破壊」がまた何処までも進むものと相場は決まって居ます。
とどのつまりは「自然破壊」を阻止せんが為に我我個としての「自然」への認識の方をこそ変える必要がまたどうしてもある。
其れは現代社會ー文明ーが意思決定するであらう「自然破壊」に對し断固として「否」と言わなければならぬと云うことです。
其の「自然」と云う現象に對しては以上でのやうな深い「思慮」と強い「意志」こそが是非必要となる。
ところで自然派詩人さんは其の「自然」を論ずることこそが壱番得意なのですか?
得意不得意では無くむしろ其れきりしか話せないのです。
だから「文明」を其の根本の部分より批判せんが為にはどうしても「自然」を理解する心的状況がまた必要となる。
其れも観念的にもまた感覚的にも常に其れが分からなくてはならない。
ところで「畑 正憲論」の方はどうなりましたか?
畑 正憲先生は動物学や生物学の方での出身の方ですので其れこそ観念的には良く自然界を理解されて居たことでせう。
其処が哲學的で且つ藝術的な自然界の理解の仕方を主にする自分とは大きく異なるところです。
けれども所謂「動物王國」としての壱つの自然の価値を現代社會へと投影された其の功績は大きく評価されて然るべきものです。
また其の点が流石は「作家さん」なのだとさう思います。
例えば倉本聰 - Wikipedia先生などもまたさうなのですが明らかに「自然のさ中に生きる現存在の価値」に對しまさに光を当てられて居る訳です。
其のやうな離れ業は作家の先生方にして初めて可能なことなのではないか。
其れも例えノーベル賞を取った理学者でさえ其のやうな離れ業は普通出來はしないことなのだから。
でも「詩人さん」もまた負けては居ないのでせう?
まあ負けは致しません。
其れもかの宮澤 賢治にせよ萩原 朔太郎にせよまるで負けはしないです。
尚畑 正憲先生は所謂ギャンブルに凝る部分がおありでまさに其の部分こそが自分とはまるでそぐわぬところです。
でも所謂ヘヴィー・スモーカーだったとのことで其の点では自分に限り良く理解出來る部分です。
ところで以前ネット上で畑 正憲先生が實際に體験された旅行記のやうなものを視て其の余りのドラマチックな様に驚愕した覚えがあります。
其れをまた是非探し出してみたいものですがまた出て來るものかどうかはすでに分かりません。
いずれにせよ畑 正憲先生がかって御書きになった著作を読み返す暇なども無くすでに先生は亡くなられて仕舞いました。
其の畑先生が文明に對し示されたこととは畢竟「自然と向き合う現存在」としての壱つの型でもあったことでせう。
また自分自身にもまた其の型があり出来れば其れをこそ世に對し伝えて行きたいと思う今宵なのです。