NHKのTV番組に就いてー1.「ロシア 衝突の源流」と「怖い絵本」に就いてー
さて本日は総合TVの再放送で此の番組が流されて居て結局視ずには居れぬ内容ですので1時間半位に亘り其れを視た。
其れでもってなかなか便所へも行けぬ位に密度の濃い内容だった。
だが寒いので小便をしたくなり結局壱度だけ行き其の間だけは其の「露西亜史」の部分の内容が分からなんだ。
【そもそも解説】ロシアはなぜ侵攻したのか? ウクライナ危機の背景 [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル (asahi.com)
自分は其の「世界史」を高校時代に選択し定期試験で文系弐クラスでトップの成績だったことなども實はあった。
だけれども別に「世界史」が得意な訳では無く特に西欧や露西亜、また英吉利の辺りでのややこしい戦争やら何やらの所謂國際関係付きでの歴史などはもう全部忘れて仕舞い現在はむしろ苦手である。
またかって社會科を塾で教えては居たが其の社會科なんぞはむしろ嫌いである。
では何が好きかと言えば矢張りと言うべきか文學の方なのではないか。
いや其の文學に限らず繪画や音樂などの所謂藝術の分野の方が今はずっと好きである。
さて此の番組の中で英國の國際政治學の権威であるレボー氏が「戦争」に至る要件として参つのキーワードを挙げて居られる。
ロシア衝突の源流;恐怖威信欲望;ロシア何故ウクライナへの軍事侵攻か? FUJIさんの日記 | 趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ) (smcb.jp)
其のまさに「恐怖」、「威信」、「欲望」とのことである。
其れは其の通りなのであらうが基本的にアナキストである自分は『「恐怖」、「威信」、「欲望」の拡大』こそが其れを引き起こすのだとさう結論付ける。
つまりは「國家」其れ自體が其の「恐怖」、「威信」、「欲望」の拡大装置なのである。
さらに其の拡大現象により「全體主義」がまた其処に生ずる。
故に「國家」其れ自體が實は手に負えぬ程に危険なものである訳だ。
まあさうした反國家主義を標榜される所謂「亞インテリ」の方方がわたくし以外にも此の世にはちらほらと居られることかと思う。
其の反國家主義は所謂共産主義以上に理想論でありつまるところ九割以上實現しない體制のあり方なのですがでも幾ら考えてみてもどうしてもソコへ行かぬと文明の問題は須らく抜本的解決をみないのだ。
さらに言えば「歴史」に於ける問題とは即個に於ける「認識」の問題であり従って其処からはむしろ心理學や哲學の出番となる命題である。
また勿論「宗教」なども其れに絡んで來る。
例えば「恐怖」、「威信」、「欲望」のうちの「恐怖」と「欲望」をどう抑えるかと云うことこそがむしろ宗教としての歴史の課題であらう。
尤も其の「威信」だけは「社會」が絡む話なのでよりタチが惡いが其れも反國家主義ともなればまた「國家の威信」も何も無くなる話である。
より根本的な物言いをすれば「妄想的価値」にしがみ付くことで「価値観の断裂」が生まれて仕舞うのだ。
また其の規模が大きくなればなる程對立はよりデカく酷くなりつまりは紛争や戦争を引き起こす訳だ。
其の意味での紛争や戦争の解決法とはむしろ御釈迦様やキリスト様の教えの内容のものとなるのである。
だから其れは歴史の問題では無く宗教の問題だったのだ。
また全體主義の解決法なども歴史の問題では無く哲學上の命題である。
さて其のウクライナの問題はでもあくまで歴史上の問題であり其処で幾ら哲學したってまた修行したって結局はどちらかが負け且つどちらかが勝つ。
個人的には其の勝ち負けにはむしろ煩わされぬ理性的立場を貫くことがむしろ大事なのではないかとさう考える。
また台湾有事などが勃発するにせよ同様に其の勝ち負けにはむしろ煩わされぬ理性的立場を貫くことがむしろ大事なのではないかとさう考える。
つまりは其れが眞の意味での理性的立場なのではないかとさう思うからなのである。
さう其の眞の意味での理性的立場には「イデオロギー對立」もまた「歴史への従属」も何も無いのである。
理性とはむしろさうしたもので最終的に其れは「妄想的価値」にしがみ付くことを自ら止めることである。
もしや其のことが「社會的洗脳」からの解放とのことで?
まあ其れでは言葉がキツイですがまさにそんなものでせう。
でも普通は其れこそ「イデオロギー」も「ナショナリズム」もまた大事ですよ。
いや全然大事じゃないです、むしろそんなもんは。
アナタの意見を聴いて居ると余りにも「世捨て人」的な意見でありつまりはどんな「やる気」も失せちゃうんですが…。
だから其の「やる気」こそがそも惡いんです…。
さうかなあ、でもどうも變ですよ。
其れだったら歴史を「御勉強」する必要などは何処にも無いではありませんか。
いや「御勉強」はでも大事でせう。
其れも毎日拾時間程は是非やりませう。
でも君だって日に拾時間も御勉強して居るやうにはとても見えないですね。
ああ、わたくしの場合はかうして家事をやりつつまた🐱の頭を撫でつつ常に何かを考えて居ますので其の時間もまた御勉強のうちなんです。
ではズバリ聞きますが御勉強をすると「全體主義的洗脳」からはスッカリ解放されるのですか?
…スッカリ解放されます。
でも其の代わりにあらゆる「精神的苦悩」が個としてのアナタに降りかかって來る。
もしや其れはアノ藤村 操氏や原口 統三氏的な精神的な苦しみの段階であり要するに所謂「懊悩」なんですか?
まさに其の通りでもはやアナタはそんな自決インテリのややこしい観念世界へとすでに投げ出されて居ます。
其れはでもとても怖い御話です、すると例えばアノ名古屋の受験生のやうに頭が狂い東大の前で人を刺したりもまたするのですか?
いやアノ名古屋の受験生には眞の意味での理性などは無い。
じゃあほんたうの理性とはどんなもんなのか?
まだ分からんのか、まさにこんなもんだらう!
なる程此処を読めば全てが分かるとのそんな独善的論理を今アナタは述べられて居るのですね。
要するに其の「國家間の對立」の問題は最終的に「個に於ける認識」の問題へと還元されて行く訳だ。
其れと「守るべきもの」を多く持つことは少なくとも眞の意味での理性的立場なのでは無い。
逆に「守るべきもの」を最小限度に留めることこそが眞の意味での理性的立場なのだ。
でも観念詩人さん、アナタなどはむしろ「守るべきもの」が多いではないのでせうか?
例えば🐈に万年筆に石などがアナタに取り死守すべきものではないのか?
だがそんなもんはたかが🐈に万年筆に石でせう。
そんなもんは👪でも無いし「イデオロギー」でも無くまた「ナショナリズム」なのでも無い。
あれ、さうか。
すると「ちっこい」ものなら良いとのさうした御話なので?
さう、其れも出來る限りに「守るべきもの」を常に限定して置かねばなりません。
其れも出來得れば生臭なものは努めて避け兎に角「ちっこく」して何かに拘るべきです。
さてついでにNHKの番組に對する御話をさせて下さい。
尚自分は下らぬCMの流れぬNHKの番組が概して好きです。
またNHKの番組からは此れ迄に多くを學んで來て居ます。
但しNHKの組織其れ自體に所謂「體制バカ」的な部分があることを時に感じたりもまたする。
兎に角自分は何であれ基本的に懐疑的な見方をする人間ですのでNHKの番組の全てが良いとはまるで思っては居ない。
ですがNHKの番組が自分に取り所謂「為になる」ことなどもまた事實です。
で、以下は昨日書いて居たものですがあえて後半部にくっつけて置きます。
『怖い絵本』を通じて見るむしろほんたうに怖いものー『怖い絵本』は怖くは無くむしろ原體験を呼び覚まして呉れるものー
宗教的な意味での「恐怖」とはあくまで所謂「無明」であり「無知」となる。
佛への方向性をむしろ自ら閉ざすことこそが「無明」であり神への方向性を自ら閉ざすことこそが「無知」である。
でもってして普通人間は其の侭にして居ると其の「無明」であり「無知」の者となり易い。
何故なら其処でもって所謂「實存的価値」を絶對視して仕舞い易いからなのだらう。
さうは言われても此の「實存的価値」は絶對的なものである。
だけれどもむしろ人間もまた幼き頃はさうは思って居なかったのではないか?
さう言えば幼き頃はかう何か「怖いもの」が周りに溢れて居たやうな記憶が幽かに残って居たりもする。
さうなんだ、むしろ其の頃自らに取り世界は曖昧なものでしかも圧倒的に不可知であり其れ自體がまるでお化けのやうなものだった。
其の頃の「感じ」を何故か人は忘れて仕舞う。
其れは其の「實存的価値」すらもがまだ未分化だった頃の「生」其れ自體への實感なのである。
其の「實存的価値」にはやがて堅固なヒエラルキーが形作られ諸価値を絶對化するに及ぶ。
いやでも其の「實存的価値」其のものが惡いのでは無く価値ヒエラルキーを絶對化することこそが惡いのだ。
でも例えばキリスト教社會などは其の絶對的な価値の世界なのだらう?
いいや其れは違い、即ち別にキリスト教は此の失樂の世界に絶對の価値を築かうとして居るのでは断じて無い。
其れはあくまで「神なる世界」に其れを築かんが為のむしろ相對的努力なのだ。
さて其の「恐怖」と云う感情を左様に人間の大人達は決まって忘れがちだ。
何故なら其の「恐怖」があっては所謂近代的な生活が成り立たなくなるからなのだ。
だから社會の全てはむしろ周到に計画され即ち「合理的」にこそ完遂されて行く。
だが其処に壱つ置き去りにされ且つ意図的に忘れ去られるものがある。
まさに其れぞ世界に對する「恐怖」であり生きること其のものへの「畏怖」としての部分なのだ。
故に現代人に取り「恐怖」であり得るものとは其の価値の上での合理化により著しく偏って行く。
だから別に「お化け」や「自然の神秘」などが怖いのでは無く本質的には社會から離れること=所謂「村八分」にされることと金の無いことこそが怖くなるのだ。
つまりはさうして次第次第に価値認識が「現金化」して行くのである。
でもならば自称の詩人は其の「村八分」や「金欠」などが怖くは無いの?
いや其れでも飯が食えなくなると其れでは困る。
だから「お化け」や「自然の神秘」などが怖いのでは無く本質的には「食欠」ダケが怖い。
故にか彼はまた常に「お化け」や「自然の神秘」の側の方にこそ居るのである。ーつまりは怖いものがさうしてより本能化して御座るー
「お化け」や「自然の神秘」⇔文明社會
其の「お化け」や「自然の神秘」の側は何やら仄暗くして其の常に明るい文明社會とはまるで別物である。
其れに其の常に明るい文明社會は何やら「笑顔」を強制する世界のやうで其の「笑顔」には常に翳りが無くつまりはさうしていつもヘラヘラと笑って御座る。
そんなまるで馬鹿みたいな文明社會なんだ。
全く困った奴等ながらもうどんだけ詩人が其れを批判するにせよ奴等は屁でも無く其の絶對的価値構築の世界を邁進して行くんだ。
其れもバカならバカらしく「こんなバカですよー」とさう自覚して居れば良いのに要するに分かんないのだ、もう何を言うても。
NHK Eテレ「怖い絵本season3」 制作チーム、三吉彩花さん、鈴木福さんインタビュー! | 絵本ナビスタイル (ehonnavi.net)
NHK Eテレ「怖い絵本season4」芳根京子さん、飯豊まりえさん、板垣李光人さん インタビュー! | 絵本ナビスタイル (ehonnavi.net)
NHK Eテレ「怖い絵本 season5」3月28日(月)放送! | 絵本ナビスタイル (ehonnavi.net)
NHK Eテレ「怖い絵本 season6」8月22日(月)放送! | 絵本ナビスタイル (ehonnavi.net)
其の「怖さ」には理由がありおそらく其れは現存在の認識の上でのアンビバレントな部分こそが其れを形作る訳だ。
だけれども其れは元來さうなのだからまさにさう感じて置かねばらなぬことなのではないか。
其れをワザワザ弄繰り回し謂わば電飾文明の姿に変えて仕舞うから認識上のバランスが大いに崩れて來る。
なので例えば夜は暗いのが当たり前でまた其の暗がりの中には常に「お化け」や「自然の神秘」が潜むのである。
逆に申せば其の様こそが普通にある實存としての様なのでありつまりは「自然」としての様なのだ。
ところが文明は木と云う木を伐り倒し挙句に其の後に歓樂街だの遊園地だのを築き上げおおまさに其の中でこそ酒池肉林の様を繰り広げるから「お化け」や「自然の神秘」の棲み家がもはや何処にも無くなって仕舞う。
其ればかりかソコにあらうことか邪教としての科学技術文明をさうして築き上げる。
其の科学技術文明にばかり洗脳されて居るともう人間としては壊れちゃうからむしろ意図的に其れを遮断して行くべきなのだ。
本当に怖~い絵本-テーマ | 絵本ナビ (ehonnavi.net)
トラウマ必須の怖い絵本7選!いるのいないのと発売禁止になった絵本も紹介!|サブカル雑学総括サイト (dic-sumashbrossp.com)
大人もトラウマ注意!「怪談えほんシリーズ」をまとめて紹介 - ブックオフオンラインコラム (bookoffonline.co.jp)
『怪談えほん』特設サイト (iwasakishoten.co.jp)
其の「怖い」世界は本來ならむしろ此の世に有るものである。
逆に言えば其れを近代以降の文明が「合理化」の名の元に排除して行ったものでもまたある。
故に其の「合理化」には取り返しのつかぬ危険性が確かに含まれて居る。
故にほんたうに怖いのは其の「お化け」や「自然の神秘」の方では無くむしろ現存在の認識其のものであり且つ文明が築き上げる価値観の方なのだ。
此の種の怖く詩的な動画には何故か「子供」や「👩」や「🐈」が屡登場する。
さて果たして其れは何故なのか?
おそらくは本質的に「合理化」出來ないのがむしろ其の「子供」であり「👩」であり「🐈」なのであらう。
「子供」と「🐈」は確かに合理化などは出來ないものだが「👩」などもまた合理化が出來ないことだらう。
其れも少なくとも本質的には。
何せ「子宮思考」をする人間なのであくまで其れは出來ない。
故にかかって「魔女」などもまた居たのである。
だがまさに其の「魔女」の部分を「合理化」すれば其れで良いかと言えば其れはさに非ず。
と此処迄書いたのですが要するに上では「非合理領域としての神秘性」のことに就き考察を進めて居る訳です。
「非合理領域」にはそんな「神秘性」があり其れはむしろ壱つの大きな世界を形作り人間に取り理解不能なものでは無いと云うことをこそ最終的には述べたかった訳です。
どだい其の「子宮」こそが「神秘の揺り籠」なのでもまたある。
其の「子宮」の環境は現代科学を持ってしても再現不可能であるさうだ。
例えば宗教的には大乗佛教の中でも例えば「密教」などは其の神秘性をむしろ認めて行く佛法でせう。
「密教」は所謂合理主義とはむしろ対極の構造をして居りまさに神秘主義としての権化のやうな部分さえもがまた其処にはある。
そんな「神秘主義」が若い頃はむしろ嫌いだったのですが其れも年を重ねると次第にさう惡いものでは無いやうに思えて來た。
「神秘主義」が無いよりは有る方が現存在の認識としてはよりバランスが取れるやうにもまた思われてならない。
さうかと言って「神秘主義」に深入りし過ぎると良くは無いやうにもまた思われてならない。
ですので何処で其の限度を設けるかと云う御話なのでもまたある。
兎に角其の「恐怖」とは明らかに人間に取って魅力が大きくある世界のことです。
人間はさうして「エロ」も「グロ」もまた「恐怖」も案外好きであり其れはむしろそんな「本能領域」への感度を常に持ち合わせて居るからなのだらう。
また其の部分は最終的に「合理化」されずに人間の心の中にしかと残る部分です。
だけれども今日の前半部ではまた「國家が用意する恐怖」に踊らされてはならない旨などもまた御話したつもりです。
要は「本能として感ずる恐怖」と「観念としての恐怖」はまた違うものでもあることでせう。
尚個人的には「本能として感ずる恐怖」はむしろ個に取り至極役立つ「恐怖」なのだとさう思います。
つまりは其れが所謂動物的な恐怖なのであり原體験的な恐怖なのです。
むしろさうした意味での個的な意味での恐怖を感じて居る方が所謂「全體主義」的な恐怖には惑わされずに済むやうな気がどうしても致します。