地球に限界はあるがむしろ理性に限界は無いー雨の最中にNHKラーニングから學んだことー
其のメルケル氏に贈られた独逸の最高の勲章の箱にあるマークが何やらまるでナチスのやうで格好良い。
其のナチス第参帝國や大東亜共榮圏とは洋の東西での利口な民族である独逸人と日本人の頭の良さが生み出したところでのビョーキである。
何故なら、
頭が良い=ほぼビョーキ
なのだ。
どだい作家や詩人などもまた画家などもさらに學者などもまたほぼビョーキである。
おまけに自分もまたほぼビョーキである。
なのでなるべく具象的に生き発狂せぬやうに實はして來て居る。
で、メルケル氏自身はだがビョーキでは無い。
だが彼女が信奉する所謂リベラル的な立場もまた明らかにビョーキである。
概念的価値ー抽象性ーは其のやうに絶對的な価値とはなり得ずよって其処でのある立場が正しいものとさうは決められぬ。
また感覚的価値ー具象性ーもまた絶對的な価値とはなり得ずよって其処でのある立場が正しいものとさうは決められぬ。
と云うことは此の世での価値に確かなもの、信ずるに値することは何も無いと云うこととならざるを得ない。
實際には其れが此の世の實相であるが、其れでは認識のニュータイプとしての人類にはまるで我慢がならない。
そも我慢がならないので結局は自らの倒錯認識を絶對化する方へとつい走る訳だ。
信ずるに値することは何も無いのでむしろ佛か又は神ーキリストーを信じて生きることより他に道は無い。
だが其れはあくまで宗教的次元の認識であり世俗界の認識はたとえ政治と云う最高の舞台にせよあくまで世俗の認識であるに過ぎない。
と云うことは天才達の認識はむしろキチガイ系でありむしろ其れは眞理への認識だが社會の認識はまったり系=凡庸型でありむしろ眞理とは閉ざされた間違いの認識なのですね?
…仰る通りです。
だから別に世俗界に眞理が宿る訳では無くなので其れに何で勲章を授与するのかがそも分からんのです。
かって天才文士の芥川 龍之介は軍人が軍服にベタベタと貼り付けて居る其の勲章の数数をバカにして居りましたものです。
でもアノ人は結局まともに生きられずに自ら死にました。
まあさうですが彼が眞理を見詰める侭に死んだこともまた確かなことだ。
では眞理を見詰めて居ればもはや何をしやうと勝手なのですか?
まあ論理的にはあくまでさうだ。
だが其れをやればまさにオウム教と同じになる。
どだい此の世で眞理を見詰めて居ること程精神的に苦しいことは無い。
だから並みの人間には耐えられずせいぜい発狂する位が関の山なのだ。
だが倒錯認識を絶對化することはむしろ社會的に其れが行われて行き易い。
其の天才作家はあくまで個なので彼は別に社會の為に死んだのでは無く個としての理性的闘争を経て死んだ訳だ。
だが其れ故にむしろ彼の苦悩は社會の上での苦悩なのだが。
かうして天才と云うことは「見え過ぎる眼」を持つとのことである。
但し其の「見え過ぎる眼」は實業であるとか処世術であるとかさうした価値にはほぼ役立たずである。
だから其の現世利益を離れた地点で花開くのが「眞理への道」としての藝術なり宗教なり學問の世界のことだらう。
故にメルケル氏の意思決定が絶對的に正しいとはそも言えぬのだ。
尤も彼芥川 龍之介の認識が絶對に正しい訳でも無い。
現存在の認識は左様に「正しい」とは決められやせぬ。
つまり「正しい」のは御釈迦様とイエス様の御認識ばかりなり。
ではIQが150で偏差値が70以上あっても其の認識が「正しい」とは言えないので?
…まさか言えません。
じゃあどうすりゃ良いのだ?
…捨てなされ。
へえっ?
お捨てなされ。
何を?
其のゴチャゴチャの認識ー価値観ーをまずは捨てて御仕舞い。
其の全てを捨て御勉強の道に励むのだ。
其の御勉強とは学校の御勉強とはまた違う自分の為の御勉強のことぞ。
さて其れでは早速に御勉強致してみませう。
御勉強するにはNHKラーニングなどが宜しいことかとさう思われる。
其の福岡先生は我と同い年であり且つ我と同様に所謂全體論ホーリズム - Wikipedia者である。
先生は「動的平衡」と云う概念を生物学の分野で提唱されたが彼の凄いところは「文転」されたところにこそある。
要するにバリバリの理系の學者から文系の學者へのシフトチェンジをされた方なのだ。
では何故さうされたのかと言えば理系の學問ばかりでは「知に於ける眞理」を見出せぬとのある種の絶望感からおそらくさうなされて行ったことだらう。
何故なら理系の學問とは所謂要素還元論に終始することだらう謂わば「部分論」である。
但し「部分論」は至極正確に此の世での部分的な事象を説明し得る。
だから何でもがかうしてより正確に分かって來る。
だが残念ながら分からぬものがまた其処には出て來る。
全體論として其のことを示せば、
木→林、森、山
である。
林と森と山の区別は左側の木だけを詳細に調べることでは分からない。
また林と森と山を其其詳細に調べても今度は逆に木のことが分からなくなる。
よって、
木⇔林、森、山
ほんたうはかうなって居るのであらう。
ところが自然科学は其の「⇔」の部分を説明することが出來ぬ。
其の「⇔」の部分を説明するのがむしろ人文學での領域の學問なのである。
だから芥川や川端がまた三島がああして死んじまったのが其の「⇔」の部分への説明其のものなんだ。
人文學とは其のやうに相反する価値をむしろ統合的に見詰めて行かんとする認識上の方法論のことなのだ。
尚個人的に其の福岡 伸一と云う學者がまるで自分の分身の如くに感ぜられ大好きである。
其れで福岡先生は近年「西田哲學」に就き考察を進められ其れに就き積極的に発言をされて居る。
福岡伸一、西田哲学を読む | 書籍 | 小学館 (shogakukan.co.jp)
『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』紹介動画 - Bing video
自分もまた「西田哲學」がむしろ身近な存在でありまさに其れを學び続ける者の壱人である。
例えば、
A⇔B
との矛盾的縁起関係に於いて、
即ち「相剋し且つ相即する」関係性を為さしめよ。
などと常日頃自分は此処にて述べて居るがまさに其れが「絶對矛盾的自己同壱」との概念をわたくしなりに違う表現にて述べて居るものである。
即ちさうして其れが分かって居るからこそ其のやうに自己の表現内に其れが取り込める訳だ。
但し其の理解はあくまで自己流でありされど直観に基づく解釈なのでよもやエエ加減な理解なのでは無い筈だ。
其のやうに詩人は常に精神の上での高空飛行を続けて來たのでもうトシなのか流石に其れに疲れても來て居る。
だが其のやうに疲れ🐈などと戯れつつ遊んで居るといつしかまた「御勉強」への意欲がムクムクと涌いて來つまりはみんながアノエロ動画などが好きな如くに御勉強詩人、其の學匠詩人の場合には「御勉強」が兎に角好きなんだ。
いや人生とはむしろ其の「御勉強」ダケなのだ。
「御勉強」して居ない奴はたとえどんなに儲けて居てもダメだ。
では金欠詩人の方が偉いので?
さうです、其の通りに偉いのです。
金欠詩人はかうして常に金欠であるがやってることと考えてることのレヴェルが常に高い。
其れもまあ大學の先生方並みに高いのだぞ。
其の理学者としての福岡先生による人文學への近接と云う方向性にはまさに頭が下がる思いが致します。
だが人文學の方がむしろ状況は絶望的であらう。
絶望的ながらむしろソチラの方こそが學問的眞理への近道なのではなからうか。
尚自分はかうして基本的に理詰めですが其の理詰めなばかりでは無く直観や直感の方も強く働きますので理屈ダケには非ずで其処は惡しからず。
福岡先生の「動的平衡」と云う概念に就きまた是非述べてみたい。
とは言え自分もまた生活と格闘するありきたりの人間ですのでそんな思索にばかりかかりわずらって居られぬところが何とも口惜しい部分である。
次にこちらを視てみた。
其の山極先生の御話からは今回大きく心が揺さぶられた。
此の學者はどうも只者では無い。
山極 壽一 | 総合地球環境学研究所 (chikyu.ac.jp)
どうもかうして偉い學者さんのやうだ。
其の山極先生が研究されたのが🦍である。
🦍は普通の🐒とは違う感じがどうもする。
其の🦍はむしろオランウータンなどと同じくより人間には近い種であるさうだ。
🦍は暴力的で怖いと例の「ドラミング」の様を見て勝手に西洋人がさう思い込んだ訳である。
だから映画の「キングコング」もまた暴力的な惡役として描かれて居たりもする。
ところが山極先生によると其の🦍は平和的でむしろ理性的な動物なのださうだ。
なので🦍と人間を比べると其れはもう明らかに人間の方が暴力的で且つ非理性的な動物である。
其れも西欧型の近代文明がむしろ最も野蛮且つ非理性的な文明としての型を持って居る。
まあ其の辺りのことを社會科詩人はクドクドと飽きもせずに述べて來たのであるがそも其れって皆様に伝わったのか?
まるで伝わらずに読み飛ばして來たでせう、皆様は。
其れではまるでダメだ。
其処でいま壱度是非復習されることを是非此の際御願いして置きたい。
山極先生の御話の中で生命は基本的に「自己犠牲的」=「利他的」でもあるとの部分がまずは印象に残った。
「自己犠牲的」=「利他的」であるとはおそらく社會関係による意思決定上の規定なのであらう。
また其れは🐜などの集団行動を観ると良く分かる部分である。
其の🐜の壱兵卒は女王🐜様や子等の為に働き其の生涯を終える。
だが人間はむしろ必ずしも其の限りでは無い。
だが人間にも其の「自己犠牲的」=「利他的」である部分がある訳だ。
其れが何故「戦争」などの暴力的行為に転嫁されて仕舞うのか?
山極先生は其れを「言葉」による共感の暴走であり同時に「社會性」の上での暴走だとさう仰る。
あれまあ、おおまさにソコんとこがほぼ自分の考えとソックリー瓜二つーだぞよ。
さらに換言すれば其れは現存在の持つ特異な能力である「抽象性」の暴走のことなのだ。
また其の辺りの部分に就きかの養老 孟司先生が現代社會に對し大きく批判を展開されて居る。
さうして「抽象性」の部分がどうも利己的な展開をより強力に推し進める温床となって居やう。
故に詩人は其の「言葉の限界」を常に感じて居り逆に具象的な思索や物つまりは具象的な文物へと戻つた方が良いとさう述べて來たのである。
其の具象的な文物の世界には抽象性を帯びた熱狂が無い。
帝國主義もまた第参帝國も大東亞共榮圏もさらにはサッカーや大谷君や藤井君への熱狂も全てがそんな認識上の抽象的暴走の結果である。
さて大衆と非大衆の差とはまさに其の「社會的な価値に踊らされるか否か」である。
其れも幸か不幸か自分の場合はこんな文人ですので「社會的な価値に踊らされ」はしないのがむしろ徹底して居てまさにソコが自分でも困る位なのです。
まあいずれにせよ此の山極先生の御考えは只者では無い。
其処は流石に京大出の學者さんである。
ちなみに自分も大學に残りまさに社會的に御勉強をやるべきだったのかなとさう思わないでも無いのである。
やれば多分準教授位にはなれたのやもしれんがでも何せ其れでは自由が無いので自分にはまるで向いて居ない。
さうか、するとなるべくして自分はこんな學匠詩人となり此処にて毎回何かを吠えて居るのだな。
ワアオーン、ワンワン。
でも君は確か🐱人間だったのでは?
さうでした、でもあえて🐶人間か又は🐺人間にならぬと吠えられないんです。
にゃあおうーーー。
では迫力がどうも出ませんのでね…。
ー山極氏は集団暴力の増加と農耕のはじまりの時期的一致を指摘しています。他の霊長類にはない共同体への帰属心と、血脈という意味での祖先を同じくする奇妙なアイデンティティが生まれ、争いに負けたときに報復心を持つような共同体に変わっていったのではないか、暴力の激化に発展していったのではないか、ということでした。ー
山極寿一「暴力はなぜ生まれてきたのか~人間性の起源~」|慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC) (keiomcc.com)より
其の共同体への帰属心は反面で必然として排他性を生んで行きます。
宗教などに置いても事實さうであり其処には教義毎に排他性が厳然として存して居ます。
つまるところ、愛は憎しみと對にて発現する抽象的理念なのだ。
よって世俗の世界に「絶對的」に「正しい愛」などは無いのです。
「絶對的」に「正しい愛」はむしろより抽象度を高め「神の愛」か又は「神への愛」にまで愛の次元を昇華させて置かねばならない。
まさに其の現存在が社會的に必然として持つ「暴力性」こそがむしろ問題であり課題です。
現存在が個的に必然として持つ「暴力性」はむしろ「自己犠牲的」=「利他的」である部分に吸収されて仕舞うことだらう。
ところが社會的な暴力性はむしろ社會に取っては絶對的に正しい価値なのだ。
まさにソコんとこが「社會的自己矛盾」の様であり其れを別の言葉で言い換えればズバリ「全體主義」のこととなる。
だから自分はソコんとこがまさしく「全體主義」なので社會的洗脳はなるべく早う解き自分の人生を新たに生き直して下されとさう此処にて叫んで参りました。
でもまさにソコんとこが皆様には至極分かりにくい部分だったかと思われますがあくまで自分に取り其れは自明のことですのであえてさう述べて参ったのです。
さうしてココでの其の「目覚めよ!」とは、
1.社會としての目覚め
2.個としての目覚め
の双方に對しさう発せられた言葉です。
でも結局社會はむしろ其のやうに歴史的構造的に「目覚める」ことが出來ぬ。
だったら後はもう2.の方しかない。
さてこちらではつい先程からまた温暖化雨が降って参りました。
温暖化雨は普通の雨とは違い其の降り方が狂暴ですのですぐに其れと分かります。
環境学研究所長の山極先生は以下のやうな概念に就いても屡語られて居ます。
其の地球温暖化の危機とは人類の個としての問題では無く近現代社會が抱えるより本質的な大問題であり大課題です。
尤も大衆は其の文明の危機を正しく危機として捉えるだけの理性的能力を元來持ち得て居ない。
わたくしが此処で意見をする目的とは其の理性的能力の壱端を此処にて示し今果たして何を學び且つどう考えどう行動すべきなのかと云うことを世に示すことです。
1.気候変動
2.生物多様性の損失
3.生物地球化学的循環
現實として此の参点に於いてすでに限界値を超えたとのことです。
其の文明としての失敗は即ち近代思想としての失敗其のものです。
尚自分が今30歳位に戻るのだとしたら環境問題を扱う仕事乃至は団體に属し現代社會を行動として批判して行くことを是非してみたい。
其れも左翼思想や右翼思想とは関係なく言わば「地球愛」に導かれ何時の間にか近現代文明にこんなにされました地球をお助けせんが為の活動を是非してみたい。
ところで昨日はカインズへ清掃用品を買いに出向いた。ー何せ🚲ですので晴れた日に行かないと行けやしないー
其の帰りに市丘町の道路に毛虫が這って居たので其れを助けてあげた。
また家へ帰ると🐈が大騒ぎで何かを捕らえやうとして居る。
良く見ると其れがゴマダラカミキリだった。
ゴマダラカミキリは高い処に居りとりあえず🐱にやられずに済んだ。
其れでもってすぐに其れを助け庭の木に放してやった。
ゴマダラカミキリムシの生態と防除方法 | シンジェンタジャパン|Syngenta Japan
其のゴマダラカミキリも今では害虫扱いとなって居る。
だが人間どもはまさか害人とは言われないやうであるがでも其れは不平等です。
このおー、害人共等めが!
此の際もう駆除だ、駆除。
道行く人にもうアースをブシューとかける。
でもアース位では人間は死なずつまるところ駆除などは出來ぬ。
嗚呼、👽の方方は何故まだ現れて下さらぬのか。
👽の方方が人間を駆除する其の時を待つしか無いのか!
さうして虫を常に助けたにせよ此の豪雨ではまた彼等も大變だらう。
要するに自分は人間界の被害よりもむしろ其の自然界の被害の方が常に気になる人間なのだ。
以上のことより現代文明に「パラダイム・シフト」が突き付けられて居ることはすでに明らかである。
「パラダイム・シフト」とは現代社會の価値観の転換を意味するが其れが出來ぬ限り個は理性の質を高めることで其れに對抗して行くより他は無い。
また雨の降り続く今などはむしろ絶好の御勉強の機會である。