そんなグレタ氏がたった今危ない!ー普遍的価値に對するデタッチメント+🍔の話ー
そも何でそんなもんをワザワザ見にいかなイカンのか?
織田信長も“生きづらさ”を抱えていたかも? 世界を変えてきた人たち (msn.com)
其の信長公は典型的な所謂「天才タイプ」の人ですが其れも東大や京大へ入るやうな御利口さんタイプでは無くむしろ藝術家タイプであったことであらう。
またかって独逸の指導者にもそんな意味での天才が居てまさに其れがかのヒトラー閣下だったと云う訳だ。
「天才」にもまた其のやうに幾つかのタイプがありこと自分に限れば純粋な意味での「天才」的知性では無いが其れに近いものもまた常に持ち合わせて居るが故に其の方面でのことも理解が出來るとの御話をつい先日述べさせて頂いたところです。
また必ずしも天才は「世界を變える」ばかりでは無くむしろ世に對し「逃げるダケ」の人人が其れこそ古より居たことでありませう。
例えば古代中國の思想家である「老子」や「荘子」、また我が國🗾に於ける西行法師や鴨 長明、さらに詩人の高村 光太郎なども明らかに其の知的系譜に連なることかと思われる。
左様にさうして「世界を變える」天才が居ると同時に「世界を捨てる」天才のタイプが有ることを此の際しかと述べて置きたい。
即ち「世界を捨てる」天才のタイプは世には出でずどっかの田舎に引き籠り誰に知られることも無く生きさうして死んで行くのでありませう。
其の種の天才には世の無常ー非常ーや人間の持つ罪ー業ーの深さがすでに實感されて居りよって大抵の場合彼等はデズニーランドや野球場、さらにサッカー場だの大スタアの公演だのそんなものとはまさに無縁にて其処でもっておおまさに其のお日様と共に寝起きししかも女にも触らず只只此の世の様を斜に眺めつつしかも時にはゲラゲラと笑いながら飲んで食って💩してもう其れだけでもはや彼の壱日は終わって仕舞う。
つまりはそんな達観詩人としての生の価値を是非見逃さぬやうにして置きたいものです。
グレタさん、ダム決壊「エコサイド」への世界の対応批判 (msn.com)
環境運動から共産主義に"転向"して、COPから追放されたグレタ・トゥンベリ | キヤノングローバル戦略研究所 (cigs.canon)
どうも其のグレタ氏の最近の動向がヤバさうである。
其れも色色とやり過ぎてどうやら逮捕され容疑者にもなって居たものらしい。
其のグレタ氏もまた典型的なアスペルガーだが其のアスペルガーと云うのはむしろ精神的に潔癖な人がなるものとさう相場が決まって居る。
其のグレタ氏は兎に角拾代の頃やり過ぎな程に世の矛盾をつきさうして世間ー現代文明ーを罵倒し続けて來た。
其れを面白く無いとさう思って居る所謂「常識的な大人」の方方などもまた居られるのだらう。
また上での記事にもあるやうに「共産主義」が大嫌いな人などは其のグレタ的に潔癖であり理想論的なことなどまるで認められぬものなのだらう。
尚自分は「共産主義」者では無くむしろ「アナキスト」であるがでも其れは政治的立場に限りあえてイデオロギーとして選ぶのであればさうなるとの御話にて實は日常生活に於いて其の政治思想とはまるで無関係に生きて居る。
但し大學時代にはまさに其の政治思想の分野こそが専攻だったので当然ながら壱般人よりは其れに就き詳しくまた自分は元塾の社會科の講師でもまたある訳でよって其れをやれ、又は述べよとさう言われれば拾時間位は何処迄をも其れを述べて行けるが實はそんなことにはとんと興味が無いと來てる。
結局現存在又は文明の抱える課題は其の政治思想の分野から解決することなどは不可能となる。
さらに戦争を全部止め80億のみんなでもって樂しく暮らしませう、などと云うのもまた如何にも無理筋なのだ。
だが壱つには資本主義を止める方が地球に對しては明らかに役に立つ。
其れも全世界を共産主義社會となす方が地球に對し且つ人類の未來に對しより望ましい選択となる。
でも自分は別に其れを實現したいと常に強く思う訳では無い。
何故なら自分は単なるアホコレクターでありむしろ資本主義でないとそんなモノ集めが難しくなるからなのだ。
但しもしも現行文明が👽にでも諭され此処🗾もまた共産主義社會となったらばなったでいっそのこと例えばJnHaoの専門コレクターとして生きる道筋などがまた出て來やう。
だからそんなことはむしろどうでも宜しいことである。
また其の共同體原理としてのアナキズムもむしろ共産主義以上に理想論としての範疇のものだ。
其のやうに所謂「抽象的理念」はむしろ此の世に於いて決して實現されて行かぬものだ。
だがであるにも関わらず近代ー資本主義なり民主制なりーと云う壱つの「抽象的理念」が何故か全體主義化して居る始末である。
わたくしはむしろ其のことの危うさをこそ説いて來たのだった。
でもって今何が述べたいのかと言えば、
1.拾代に於けるグレタ氏による「世界に對する怒り」は正しいものであったこと
2.だが人間は大人になると同時に其れを忘れるか又は放棄せねばならぬこと
との点に就き述べたい。
3.其処をあえて共産主義者若しくはアナキストとして世界と闘争する
手などがまた無いでは無い。
でもって其の3.をやりますとゴタゴタの人生となることはまず必定である。
つまりは時に逮捕されまた時に投獄され挙句の果てには獄死することなどもまた考えられやう。
まあ其れも壱つの「政治的理想の追求」なんで其れが惡いとは言わぬがでも自分はこんなアホコレクターなんであえて其れをやらぬ訳だ。
つまりは「観念的理想の追求」では無く単に「物としての理想の追求」をして参ったダケのことなのだ。
其れでも我が頭の中身は世の「常識的な大人」の方方の頭の中身のやうに全體主義による「洗脳」を受けてはまるで居らず。
故にむしろ自立的且つ自律的に「観念的理想の追求」を止め即ち具象的に「限定」しかうして「今」をのみ生きる。
但し其の「今」とは刹那的な価値なのでは無くむしろ遠大なる過去と未來とを共に見据えるであらう「今」のことだ。
忘れるか又は放棄する
大衆は普通前者の立場をむしろ非自律的に選択し其処にて生涯を終える。
だが自分の場合に限れば其れとは違い後者をこそ選択する。
其の放棄=デタッチメントこそが文人に於ける選択ではないかとまさに今は思う。
よってそんなアホコレクターであることなどはまさしく枝葉のことで本質的にはまさに其のデタッチメントの成否こそがあらゆる生の場面での鍵を握る認識だらう。
アスペルガー症候群のグレタの現在とは?
ま、其の天才的な人間は学校など行かずとも其れこそ「理性の自立性、自律性」を持って居てもうどんだけでも自分でもって御勉強が出來る。
逆に申せば「理性の自立性、自律性」を持って居ない人に對しどんだけものを言っても其の内容は其処にはまるで伝わらぬ。
よって最終的に其の「洗脳」からの解放こそが現存在に取っての喫緊の課題であると我はさう述べた。
「洗脳」から解放された自我はようやく其処で「自分自身の人生」を生きられるやうになる。
あらゆる所謂しがらみから解放され本質的な価値とは何かと云うことに就き自分なりに深く考察するやうになる。
さうしてそんなしがらみから解放されずにむしろ「事の本質」を問わなくなるか其れとも逆に「本質」を問うて行くが故にあらゆるしがらみより遠ざかるか、つまりは其の弐択の選択としての問題であり其れもこと文人はあえて後者をこそ行く者なのでもまたある。
尚「事の本質」を問わなくなり其の本質的な価値には背を向けむしろ要らぬ価値ばかりに血道を上げつつやっとるのが現行文明の文明としての特徴である。
おまけにイザさうして「事の本質」を問わなくなれば彼等の理性は決まって原始退行して行くであらう可能性が高くある。
要するに其れはまさに幼稚園児以下での心のあり方であり若しくはニセの理性のあり方へと化して行き易いものと言える。
さて環境問題は文明に取り基本的に解決不可能な課題であり問題である。
何故解決不可能なのかと申せば其れは社會的な意味での近代的価値は常に「全體主義」化せざるを得なくなるからなのだ。
其処でイザ「全體主義」化されると其の価値はほぼ壱直線に信奉されることとなる。
要するに「近代的価値」は必然として何処までも徹底し「普遍的」に履行されて行かざるを得ぬ。
其の「近代的価値」を開闢せしめたものはあくまで欧米による近現代史に於ける歴史的事實である。
尤も「近代的価値」の「普遍化」の全てが惡いとは自分に限り考えては居ない。
即ち近代とは欧米型文明の必然である。
但し「近代的価値」の「普遍化」は其れこそ「野蛮」の「普遍化」であらう。
つまりは帝國主義もまた経済成長もさらに技術開発も畢竟其の「野蛮」の「普遍化」である。
要するに其れが眞に理性的な価値の歩みなのでは無くむしろ獣染みた蛮行の徹底=搾取の徹底のことである。
其のやうな非理性的な文明の歩みに對しもしも口があらば自然は「否」とさう叫ぶことであらう。
故に其の環境問題などもまた本質的には其の非理性的な文明のあり方が齎すものである。
では何が理性的な文明の歩みなのかと問えばまさに其れは脱構築されるところでの「デタッチメント」としての価値を歩む者こそが眞の意味で理性的な存在なのである。
そんな「デタッチメント」としての価値を歩む者はそも頭が良いのだしまた獣染みた欲望などにも縁が無い。
要するにちゃんと理性的な「自己規定」が其処に常に可能なのであえて下卑た構築主義には与せぬ訳だ。
また其れは要するに現代社會の間違いや現代文明の価値倒錯の部分などにも自律的に関与しないと云うことである。
其のことをあえて下品に表現すれば彼は「文明を馬鹿にし切って居り」まるで相手になどして居ないのである。
環境問題其れ自體を解決することはほぼ不可能ながらさうして文明を批判する立場を貫くことは我我個に取り常に可能である。
例えば其のグレタ氏による文明批判はまさに其の意味での「意識の上での闘い」である。
其れも相変わらず「意識の低い」企業や國家また大衆的認識に對する「捨て身での闘争」であらう。
グレタ氏は今後も結婚などせずさうして女闘士として文明の諸価値と生涯に亘り闘って欲しいと常に個人的に思う。
だから股の間から子などは産まずに現行文明に對し常に鞭をふるって頂きたいものだ。
嗚呼、今日も今日とてまた結構社會に對し手厳しいことをつい述べちゃった。
では早速に其れを止めてどうでも良いやうな下らぬ話をしやう。
本日は雨降りなのに母の携帯が壊れたと云うので其れもイヤイヤ傘をさし🚲にてDOCOMOの店へ行き其れを見て貰う。
結局壊れては居ないさうで要するに電源のボタンを「長押し」すれば良いのださうだ。
だが折角外へ出たので新瑞橋のモス・バーガーへ寄る。
其の昼飯時のモス・バーガーには何故か高齢者が結構來て居り彼等が皆🍔を食って居た。
モス・バーガーは結構値が張るのでさうして金持ちの高齢者の贔屓の店となって居る可能性が高い。
尤も自分はこんな金使いの荒い貧乏人なのでほんたうはモス・バーガーよりも吉野家にでも行くべき人なのだ。
だがテリヤキ・バーガーだけはどうしても食いたくなる。
其れもダブルテリヤキ・バーガーでなくてはならぬ。
其のダブルテリヤキ・バーガーとポテトのSをお持ち帰りしたが八百円以上もした。
八百円と云えばコノミヤでの🍱弐つ分である。
何故ダブルテリヤキ・バーガーを買うのかと云えば肉の部分の半分位は🐱共にとられるからである。
尚つい壱週間程前にはグリーン・バーガーと云う新メニューのものを食ったがジンジャーエール及びポテトSとのセットで千円以上もして居た。
其のグリーン・バーガーはテリヤキ・バーガーよりも不味い。
だが此れ迄に食べたことの無い🍔で壱言で言えば「未來風バーガー」である。
また食べ応えなども無くつまりは其のダブルテリヤキ・バーガーの半分位しか腹が満たされぬ。
さらに味の方が不思議な風味のする薄味のものでさう言えばバンズの方も緑色をして御座る。
其の折に未來の食い物は皆こんな風になるのだらうなとさう思えてならなかった。
未來とはさうして何やら人間に取り常に厳しいものよ。
故にどうも人間は過去を見詰め生きて行く方が樂だ。
雨がまだ降らずに居た午前中に庭に出て五月の採集物である不思議な石ー赤と靑の色が付いた石ーを確かめたところ傍らに壱輪だけ露草が咲いて居る。
先日庭の草刈りをしたのでもはや無い筈であるのにさうして植物とは生存本能が意外と旺盛なものでもあるらしい。
MOS PLANT-BASED GREEN BURGER TERIYAKI グリーンバーガー<テリヤキ> | モスバーガー公式サイト
なる程、かうして極めて「意識が高い」バーガーだったんだ。
だが自分はもう要らない。
自分は観念的な意味での意識はむしろ滅茶苦茶に高いが行動の意識と云うかそんな意味での即物的な意識の方は逆に物凄く低いと來てる。
また其の大豆肉のパティなどももう要らない。
其れも出來得れば獣のやうに肉其のものに喰らい付きたい。
ロースカツバーガー | ハンバーガー | モスバーガー公式サイト (mos.jp)
例えば今度などは是非此れを食いたい!
兎に角弐つの其れを。
また本日母が御用達の「世田谷自然食品」から本格洋食が毎月送られて來ることとなりしかも其れが自分のクレジットカード払いとされて仕舞った。
本格洋食|【公式】株式会社 世田谷自然食品 (shizensyokuhin.jp)
其れも何やら何処か怪しいがこんな素敵な冷凍洋食セットだ。
黑酢酢豚|【公式】株式会社 世田谷自然食品 (shizensyokuhin.jp)
何と黑酢酢豚とな!
其の黑酢酢豚はイオンの中華料理店で是非食わねばならぬ。
そんな訳で最近自分の人生の半分はむしろ「食う」ことと化しておる。
なんとなれば「食う」ことでこそ「考え抜く」ことなどもまた出來る。
即ち「食う」ことこそが其のややこしい「観念」の母胎であらう。